034 KISS




 最後にもうひとつ、大きな息を吐いた中嶋さんはゆっくりと俺の中から抜け出ていき、すぐ隣で仰向けに寝転んだ。真っ白になっていた俺のアタマの中にも色が戻ってきはじめ、それがやがて形になって、中嶋英明という名を持つ男の姿になる。
 満ち足りているのに物憂げな時間。
 俺はまだ重たい身体を動かして、中嶋さんの顔を見つめた。知的で端正な横顔。こんな素敵な人がどうして何のとりえもない俺なんかを選んでくれたんだろう。今はその心を信じて、ついていくだけで精一杯の毎日なんだけど。
 幸せすぎて不安になる瞬間ってのもあるんだよ。中嶋さん。貴方には理解できないかもしれないけどね。こうしてふたりで暮していると、幸せと不安が交互に現れるんだ。そう。今だって。
「うん? どうした」
 じっと見ていたら気づかれてしまった。気づいてくれるって、でもすごくうれしいことなんだって、中嶋さんとこうなって初めて知った。気づいてくれるっていうのは、ちゃんと見てくれてるっていうことなんだから。すごく幸せな気分になって、俺はうんと甘えておねだりをした。
「あの……。キス、してください」
「嫌だ」
 思いがけなく返ってきた拒絶のことばに、俺は心臓がぎゅっと掴まれたみたいな気がした。ほら。もう不安がやってくる。中嶋さんは左手で頬杖をつくと俺を見下ろした。俺を見下ろす中嶋さんの顔は、なんだかものすごく楽しげで、それが「嫌だ」と結びつかない。戸惑ってしまった俺の前で、中嶋さんがくちびるの端を吊り上げた。
「キスが欲しかったら自分からしてこい。いちいち俺にねだるな。おまえから上手にキスができたら、俺もそれに応えてやる」
「……いいん、ですか?」
「駄目だと言ったことがあったか?」
「……」
「いいえ」と言ったはずなのに、掠れてしまって声にならない。かわりに俺は身体を起こすと、中嶋さんにくちびるを押し当ててみた。
「下手だな」
「修行します」
「ふうん……。誰とだ?」
「もちろん、中嶋さんと、です」
「俺は実験台か?」
 笑いを形作った中嶋さんのくちびるは、誘うように開かれていた。だから俺はもう一度、自分のくちびるで押し包んだ。とても幸せな気分の中で。





いずみんから一言。

これ……。郁ちゃんが廊下ですれ違いざまに啓太からキスを盗むという話だったはずなのに。
 新婚さんシリーズ「マンション紹介編」と平行して書いていたら、こうなってしまった……。
 何故???




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