084 気まぐれ




「ごめんね伊藤くん。せっかく外泊届け出してきてもらったのに……」
「そんな。先生が悪いんじゃないですから」
 困ったような顔で俯く海野先生に、俺はそんなことしかいえなかった。誰かほかの人――たとえば七条さんとか成瀬さんとか――なら、もっと気のきいたことばをかけられるだろうに。俺は想いばかりがからまわりして、ろくにモノもいえないただのガキだった。
 ことの起こりは今日、土曜日。俺が外泊許可をとって海野先生のマンションを訪れたところから始まる。
 ちょっと早めの夕食に、ふたりで作ったスパゲティを食べたところまではよかったのだが……。いざコトに及ぼうとしたとたん、ベッドの上にトノサマが居座ってしまったのだ。しかたなく抱き下ろそうとしたら、今度は爪を立ててきた。危なくて、海野先生でさえさわれなかった。
それから一時間以上。海野先生がなんといおうと、トノサマはそこから離れようとしなかった。
「しかたないですよ。この前来たとき、寝室から追い出しちゃったから。トノサマはいつもの寝場所を取り上げられたのを覚えてるんですよ」
「うん……。でも僕、トノサマの見ているところではできないから……」
「そうですね」
 俺は理性と忍耐を総動員して海野先生に笑いかけた。
 だって先生はこの気まぐれな猫をかわいがっているんだから。
 俺はそんな先生が好きになってしまったんだから。
 だから先生につらい思いをさせないように、今のうちに寮に帰ろうと思った。
「俺やっぱり今日は帰ります。まだ充分バスもある時間だし。今度来るときまでに、トノサマの信頼を回復しておきますよ」
 俺はトノサマの頭をひとなですると、じゃあなと声をかけた。トノサマも今度は爪を立てたりせず、ぶにゃあと鳴いて、そしてにやっと笑った。
 エレベーターホールでエレベーターを待っていると、海野先生が駆け寄ってきた。
「先生?」
「ごめん。伊藤くん。車で送ってくよ」
「でもまだバスありますし」
「うん。でも待たなきゃいけないから」
 車の中で、なぜか俺たちは黙っていた。ここから学園までは、それほど離れているわけではない。ほんの数分走って島が見えてきた頃、海野先生は車を海岸の松林の中に入れた。
「先生――?」
 先生は向こうを向いて窓の外を見ていた。髪の端からのぞく耳が、赤く染まっていた。俺はシートベルトをはずすと、サイドブレーキの上に置いたままになっている先生の手に、自分の手を重ねた。
「……やっぱり外泊になっちゃうかな」
「でも予定通り、ですよね」
 車のガラスが白く曇った。





いずみんから一言。

「きまぐれ」っていうと猫しか思いつかなかったんです、はい。
海野ちゃんってあの天然具合が、とっても気に入ってます(笑)。
でも彼は8歳年上なんですよね。海野ちゃん。それって犯罪だって……。

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