093 おいしい |
梅雨独特の湿気を多分に含んだ空気の中。夜も遅くなりかけているというのに、駅へ向かう人波はまだとても多い。それを縫うように追い抜いていた足を止めたのは、さて、どちらが先だったか。申し合わせていた訳ではなく、看板が目に入ったら自然に足が止まったのだ。 目の前にあるのは老舗の和菓子店である。以前は格の高い席で使われる生菓子を主に扱っていたが、数年前に格はそのまま、若い世代にも手を出しやすいあんみつなどの水菓子を作り、ネットの口コミで一気に売上げを倍増させたことで有名になった。今も入り口には酔い覚ましの客を狙ってでもいるのか『氷抹茶あります』の文字が踊っているが、もちろん目的はそれではなかった。 企業戦略がテーマの雑誌にたびたび取り上げられるこの店に入ったのはどちらもはじめてだった。名前は知っていても場所までは知らない。たいていの男はそんなものだろう。今日だって研究室で世話になった先輩に誘われなければ。そして先輩のバイトする飲み屋がこの向こうになければ。おそらく知らないままだったに違いない。 暖簾をくぐった中は古民家の土間を思わせる造りになっていて、古くはあるが古くささはまったく感じさせない。それが内装にかけた時間と金を思わせた。ただ古いだけではこうはならないからだ。多くの老舗がただ「古い」ことを良しとし、結果的に規模の縮小や廃業に追い込まれていることを考えると、こういう点にこそ企業戦略を見出すべきなのかもしれない。 正面の細い露地を思わせる通路のむこうは、これも戦略の一環なのだろうか、和風喫茶になっているようだ。左手に広がる販売コーナーに進むと、奥にあるショーケースでは生菓子はすでに売り切れているらしく、見本があったと覚しき場所に値札のようなものがいくつも伏せられていた。買うつもりは端からないが、純粋な興味として、値段を見てみたかった気がした。 「え……っと、これか?」 「そのようだ」 今やこの店の名を聞いたほとんどの人間がまず思い浮かべると言われるあんみつは、真ん中あたりの目立つ場所に置いてあった。トレイが置いてあるのは自分で選べということか。さすがは。と言いたくなるような上品な焼き物の器に入っているが、発送用は中が真空パックになっている。それが妙な説得力をもっていて、誰にともなく頷いてしまっていた。 「あんみつの地方発送をお願いしたいんですが」 「有難うございます。それではあちらのテーブルに荷札がありますので、先にご記入いただけますか」 住所を書くのにふたりもいらない。時間つぶしともの珍しさとで店内をうろついていたら、白玉に目鼻をつけたようなオバサンが冷茶をもってきてくれた。ほかに客がいなかった所為かちょっと待遇がいい。どうも、とか言って受け取ったそれを何気に飲み干し、そして美味いと思った。緑茶のもつ甘味と渋味と爽やかさが見事なまでにとけあっている。 「ご馳走様です。美味しいお茶ですね」 「恐れ入ります。こちらのお茶ですのよ。1リットルのお水に1パック浸けておくだけの、お手軽冷茶です」 ふと思いついて、その冷茶パックをひとつ買った。ジュースだのイオン飲料だのと夏の飲み物はいろいろあるが、こんな冷やした緑茶も悪くはないはずだ。それを隣で選んでいたあんみつのトレイにのせた。抹茶がふたつとプレーンがよっつ、選んだ人間の性格そのまま、トレイの上に理路整然と並んでいる。余計なことを、と言われるかと思ったが、ヤツの口から出たのは「同梱で送れますか」だった。 「明後日には届くな」 「ああ」 「喜ぶだろうな、あいつ」 「ああ」 言っている端から喜ぶ満面の笑顔が浮かんできて、自分たちまで嬉しくなってくる。きっと「おいしい」とか言いながら、友人たちと食べるんだろう。おざなりではない、本当によろこんでいるのが伝わってくるから、つい何かをしてやりたくなってしまうのだ。一足先に卒業してしまったが、今でもまだこうして、喜ぶことをしてやれるのがうれしい。 「ったく。高2にもなって。いつまでこんなものを喜ぶんだか」 「おまえが言うな。頼まれもしてないのに買ってるくせに」 ことさらのように作る渋面は照れ隠し。あんみつを喜ぶ高2男子がいて、買ってやって喜ぶ大学生がいる。こんな平和な風景を、俺は嫌いじゃない。 外へ出ると、相変わらず湿気は多く人も多い。だが先刻より、何故か爽やかな気がした。 |
いずみんから一言。 キャラを特定しないように書きました。 思ったより難しかったです(苦笑)。 買った人間はかなり限定されますが、相方は七条クンと海野ちゃん 以外はいけるんじゃないでしょうか。 伊住的には中嶋と篠宮氏という感じでしたが、中嶋と西園寺さんという 組み合わせもいいかもしれません。 |