095 たったひとりの君だから




 モニタの中で伊藤くんがうろうろしている。防犯カメラの映像ではクローズアップしても粒子が乱れるばっかりで、細かい表情までは読み取れないけれど。でも困っているのは手にとるように分かる。植込みをはさんで行ったり来たり。フレームアウトしては戻り、フレームアウトしては戻る。それはまるで迷子になったことを認めたくない豆柴のようで、可愛らしさに心が和んだ。
 そんなところで待っていても駄目ですよ。年齢詐称の理事長は今頃、本社の役員室で丁々発止の真っ最中です。どれだけ待っても出てきてなんかくれません。
 まあ……、だからこそ「理事長に」って言ったのだけれど。


 寮の玄関で郁の乗った車を見送っていたら、目の端に茶色い癖毛が入ってきた。思わず浮かび上がってきた微笑のまま振り向くと、伊藤くんは大きな目をさらに大きくして驚いてくれた。
「すごい! うしろに眼があるみたいです」
 心からの賞賛はとてもうれしいけれど、でもちょっと心外でもあった。だってそうでしょう? たとえ髪の一部と言っても、愛しい伊藤くんを僕が見間違えるはずがない。
「西園寺さんはどこかにお出かけなんですか?」
「夜会ですよ。この時季には多いですね」
「へーっ。夜会なんて本の中だけの世界かと思ってました」
「遅くなるので、今夜はお父上とホテルで一泊するそうです」
 そう。郁は今夜、戻らない。伊藤くんがどんなに声をあげても、どんな声でおねだりしてくれても、それを耳にするのは僕だけ ―― 。
「伊藤くん?」
「はい?」
 伊藤くんと並んで歩くのは楽しい。声をかけると勢いよく見上げてくれて、髪の先がぷるんと震える。ベッドの中ではそんなふうに震えないから、物珍しくてちょっと見惚れた。
「今夜、僕の部屋で……」
 伊藤くんの足が止まる。こくんと頷いた耳が赤く染まっていた。

 思わず抱きしめたくなるほどの愛しさが募った。それなのに。ああ……。どうしましょう。沸きあがってきた悪戯心を抑えることができなくなってしまっていた。
「じゃあ今夜は伊藤くんが外泊届を出してきてくださいね」
「……へっ?」
「外泊届ですよ。だって部屋にいないでしょう?」
「い、い、いない、たって……」
「今までずっと、僕が出してきましたからね。今回は伊藤くんにお願いしましょう」
「…………あう?」
「篠宮さんに出しにくかったら、理事長にサインをもらうといいですよ?」
「………………はい……」


 そうして素直な伊藤くんは、15分も前からモニタの向うにいる。外泊届らしい紙を、両手でしっかり握りしめて。
 悪戯しちゃってごめんなさい。だけど君が悪いんですよ? 君を認識した僕の眼を驚いたりなんかするから。あんな当然のことを驚かれて、僕はすっかり傷ついてしまったんです。伊藤くんは僕の大事な、たったひとりの君だから。つまらないことでさえ裏切りに思えてしまうんですよ。
 でも。まあ篠宮さんのところに行かれてもうるさくなるだけだし、そろそろ迎えに行ってあげましょうか。ちゃんと悪戯だと告白しますから、そうしたら今度は、怒ってむくれた顔を見せて下さいね♪
 うふふ。





いずみんから一言。

お気づきかもしれませんが。
七条クン「100のお題」に初登場です(笑)。
このネタはお題をはじめてすぐに思いついていたものです。
でも「イタズラ」というお題があると思い込んでのネタだったのです。
そんなものがないと気づいてからは、いつもの長さにしてみようとしてみたり
別のお題をあててみようとしたりしてました。

この背景は中啓用・その他用と一緒に七啓用として用意していたもので。
つまり、約5年ぶりにようやく日の目を見たことになります(苦笑)。


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