永遠の2番手 |
6月に入って間もないある夜のこと。そろそろ寝ようとした我らが中嶋氏がパジャマに着替えていると、すでにベッドに入っていた啓太くんがためらいがちに「中嶋さん?」と声をかけてきました。 「なんだ」 「今週ってお仕事忙しいですか?」 「珍しいな。どうした」 啓太くんは基本的に中嶋さんの予定を優先させる子です。ましてや仕事の都合を聞いてくるなんて、本当に珍しいのです。 「じつは来週、和希の誕生日なんですけどプレゼントが決まらなくて……。中嶋さんならセンスのいいもの知ってるから、一緒に探してもらえるかなあ、って」 男心はフクザツです。啓太くんがお世辞ではなく本心からそう言ってくれているのはうれしいのですが、和希の、つまりはほかの男への誕生日プレゼントというのが気に入らなくて、中嶋氏は「ふん」とだけ返しました。啓太くん痛恨のミスショットです。このままだとお仕置きになだれこんでしまって、プレゼントはご近所のパティスリーにオーダーして焼いてもらった3枚500円のアイシングクッキーになってしまいそうです。青いくまちゃんのアイシングクッキーは、確かに美味しそうではあるんですけどね。 「それで中嶋さんと久しぶりにデートして、ついでに選んでもらおうかな、って思ったんです」 おお!さすがは啓太くん。 「買い物ついでにデート」ではなく「デートついでに買い物」と来ましたか! 早速リカバリーとはさすがです。しかも狙ってやってるんじゃないあたり、天性のエリートキラーは健在のようです(笑)。多分に乗せられている気がしないではなかったものの啓太に弱い中嶋氏です。ため息を吐きつつも「だったらちゃんとおねだりしてみせろ」と言ったのでした。 「それで? 遠藤の誕生日はいつなんだ」 ベッドの中で啓太の髪を弄びながら中嶋氏が言いました。どうやら啓太くんはおねだりに成功したようです。 「9日です。来週の火曜日」 「6月9日?ふうん、あいつらしいな」 「和希らしい……?」 「いや。それなら、そうだな。木曜の夜ネズミーランドでどうだ」 「ネズミーですか!」 「ああ、たまにはいいだろう」 思いもかけなかったネズミーの夜デートに、啓太くんはとてもうれしそうでした。啓太くんのアタマの中では早くも、あのレストランで食事して……とか、夜ならあのアトラクションに乗って……とか、シミュレーションがはじまっているようです。それはそうでしょう。中嶋氏とネズミーに行けるなんて今までにほんの数回しかなかったことです。しかもいつも啓太くんからのおねだりで、こんなふうに中嶋氏から言い出してくれたのははじめてでした。それが夜デートとは……!! 確かに朝から行くほどの時間はありませんが、ロマンチック度は昼間の比ではありません。あそこを歩いて、あの店で夕食。お茶をここで……等々。啓太くんにはもう夜デートのことしか考えられなくなっていました。ちゃんと和希さんのお誕生日プレゼントを覚えていられるのか、ちょっと心配になってしまいますね(苦笑)。 ![]() 「おい見たか、鈴菱所長の」 「ああ。新しいネクタイだろう。ぱっと見じゃ葉っぱ柄にしか見えないのに、よく見たらアヒル・ダックが隠れてるやつ」 「遊び心がお洒落だよな。できる男だけに許される、っていうか」 「昭和の天皇がネズミー・マウスの腕時計してたみたいな感じ?」 「見つけた時の女子どもの騒ぎようったらよ」 「アヒル・ダックのバースデーイベント期間中だけネズミーで、しかもたった1か所のショップでしか扱わなかった超レアものだってさ」 「もともとダントツだ、ってのに、あれでさらに株が上がったんだ」 「俺らがあんなの締めてたら『ふざけてる』と小言を頂戴するか、『おちゃらけ者』のレッテルを貼られるかのどっちかなのにな」 「なー」 ![]() 今週は1泊以上の出張はない。ちょこちょことは動くが、遠くても新幹線で行ってその日のうちに帰って来れる程度だ。立て続けて海外出張が入る場合だってある和希だが、株主総会が迫ってくるとあまり遠くへは行かなくなるのだ。だからといってスケジュールが簡単になる訳もないらしい。今夜も和希は石塚が要領よく簡潔に、でもトータルするとそれなりの時間になる明日の予定に耳を傾けている。聞きながらさわるともなくネクタイを弄っていると、それが目に入ったか、石塚が手にしている書類を下げた。スマホもタブレットも人並み以上に使いこなす石塚だが、和希のスケジュール関係は必ず紙に落としたものを使う。万が一にもデータが飛んだりして、関係各方面に迷惑のかからないようにしてあるのだ。そんな気配りのできる石塚が、ネクタイを弄る和希に気づかないはずがない。「そのネクタイ、今、女性社員を中心に話題になっていますね」と言った。 「どなたかからのプレゼントですか?」 「これか? ああ、啓太にもらったんだ。よくプレゼントだとわかったな」 「和希さまのお好みとは違うように見受けられましたので」 石塚の言葉は、じつは正確ではない。普段の和希は選び抜かれた高級品を身につけているのだ。啓太にすればそれなりの値段のものを買ったのだろうが、その違いは一目瞭然だった。比べるまでもない。だがもちろん、有能な秘書の石塚は、そんなことはおくびにも見せなかった。 「わたしの誕生日がアヒル・ダックと一緒だというので、わざわざネズミーランドに行って買ってきてくれたらしい」 「それはそれは。洒落ていますね。今年はサファリテイストが流行だとかで、そのような感じの葉っぱ柄もよく出ているようでございますよ」 「へえ? そう言われればサファリ風だな」 「上着をお召しにならないクールビズの時季には、そういうものもよろしいかもしれませんね」 スーツの上着を着なければならない場合にはそんな安物は使うなと言外に含ませて、石塚は再度、スケジュールの紙を取り上げた。 ![]() 啓太がきらきらさせた目で中嶋を見上げてくる。何の疑いも持たず全幅の信頼を寄せてくれる啓太の目だ。和希の誕生日のプレゼントを買うというのでネズミーランドに連れて行ってやっただけで、うれしそうで楽しそうで、自分より幸せな人間はいないんだとでもいうような顔をしている。時間を作るのに少々面倒な思いもしたが、こんな顔が何日も見られているのだから安いものだった。 啓太はアヒル・ダックの誕生日まで把握している中嶋に驚いていたようだったが、これにはちょっとしたカラクリがある。今の事務所の経理担当者の机の上に、はちみつグマのカレンダーが立っているのだ。先日、経費の処理伝票を持っていった際、担当者がそれに6月分のスケジュールを書き込んでいるところだった。彼女が中嶋の伝票のチェックをしている間、見るともなく見ていたそのカレンダーの9日の欄には、アヒル・ダックの誕生日と印刷されていた。 中嶋は最初、そんなものにまで誕生日を設定してあることに驚き、次いで需要があるから設定されたのだろうと思い至った。そんな架空のアヒルの誕生日を知りたいと思う人間がいるなどとは、今この瞬間まで考えもしなかった中嶋である。普段なら5秒もすればきれいさっぱり忘れ去ってしまうようなデータを覚えていたくらい、それは印象的な出来事だったという訳だ。つまりその担当者がいなければネズミーランド行きもなかったし、ましてやアヒル・ダックのネクタイなどには行きつかなかったということになる。なければないで他の品物になっただけの話だが、それでここまでの啓太の反応が得られたかどうかはわからなかった。万事にそつのない中嶋である。ネズミーでははちみつグマの缶入りせんべいを書い求め、その担当者に手渡したのは言うまでもない。 しかし啓太から和希の誕生日が6月9日と聞かされた時には、思わず笑ってしまうところだった。中嶋が如何に無関心とはいえアヒル・ダックくらいは知っている。ネズミー・マウスに負けて、永遠の2番手キャラクターであることも。中嶋にはそれが和希のキャラクターと重なって見えたのだ。ビジネスではまだ『鈴菱の御曹司』という立場から脱却できていないし、学園関係者からは啓太とニコイチでしか覚えてもらっていない。もう少しでトップになれそうなのになかなか手が届かない。実力も人気もあり顔も悪くないだけに、中嶋の眼には和希が『残念なキャラクター』と映った。アヒル・ダックと同じように。 「和希が言ってましたよ。あのネクタイ、すごく評判がいいそうなんです。お洒落で遊び心があって、しかも今年の流行で。やっぱり中嶋さんに相談して良かったです! 俺なんていくらアタマ絞っても、アヒル・ダックどころかネズミーさえ思いつかなかったに違いないですもん」 「そうか。そんなに気に入っていたか」 「はい!」 中嶋はネズミーに連れて行っただけ。アヒル・ダックのバースデー期間だったのはともかく、そこでたった1軒のショップでしか扱っていないネクタイに行きついたのは、啓太の運の良さである。だがそんなこと、わざわざ言ってやる必要を微塵も感じない中嶋は、「良かったな」とだけ言って、目の端をほんの少し緩ませたのだった。 ![]() 「あの……、中嶋さん?」 ベッドに入ってきた中嶋さんに啓太くんが遠慮がちに話かけました。 「明日はお仕事忙しいですか」 「なんだ。珍しいな」 啓太くんは基本的に中嶋さんを優先させる子です。お仕事の妨げになるようなことはまずしません。ましてや和希の誕生日プレゼントを買うのにネズミーランドへ行ってからまだ間もないというのに。立て続けにこんなことを言い出すなんて本当に珍しいのです。これはよほどのことがあったのに違いありません。「どうかしたのか」と問い返す声に、これまた中嶋さんには珍しく、かすかな緊張の色が混じっていました。 「あのね、この間、和希のために素敵なプレゼントも見つけてもらったし、何よりネズミーに連れて行ってもらって、俺もう本当に嬉しかったから」 「ああ。それで?」 「だからその……、」 ひとつ息をついて視線を少し逃がした啓太くんは、それから一気に「お礼をさせてください」と続けました。さすがの中嶋さんも、これはちょっと意外だったようです。でも驚いたような顔をしたのも一瞬のこと。くちびるの端をにやりと吊り上げると、啓太くんのあごの先をつまんで自分の方を向かせました。 「ほお? つまりそれは、明日の業務に差し支えるほど楽しませてくれる、ということか」 「あ? えっと、その」 「俺が疲れるまでとは百年ばかり早いと思うが、何、遠慮はしなくていい。有休だって余っているんだ。たまには休んだ方が総務が喜ぶだろうよ。さあ。俺の腰が立たなくなるまで、存分にやってくれ」 どうやら啓太くんは中嶋さんの『ヤル気スイッチ』を押してしまったようです。しまったと思っても時すでに遅し。中嶋さんは意地の悪そうな笑みを浮かべながら啓太くんの顔をのぞきこんでいます。覚悟をきめた啓太くんは腕を伸ばして中嶋さんの首に抱きつくと、くちびるを押しあてたのでした。 日付も変わり、もう夜も遅い時間です。でも中嶋家の夜は、まだまだこれからのようですね。 |
いずみんから一言 |
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