今宵は耳を傾けて




 そう言えば「バスで駅に行くのは時間がかかる」と啓太が言っていた。
 つり革につかまって揺られながら、中嶋はそんなことを思い出した。あれはまだ伊藤の家に出入りしていた頃だから、1年以上前のことになる。

『ねえ。この特集組まれてるケーキ屋さんって、中嶋さんのマンションの近くなんでしょ?』
『どれ? ……えーっと、コンビニの向こうあたりかなぁ。今度探してみようか』
『いいなあ。あんないいところ、朋子も住みた〜い』
『いいところ、ってなあ。駅に出るのにバスで何分かかると思ってんだよ。街ん中、ぐるぐる回ってくんだぞ』
『ふーん。じゃあ何が何でも中嶋さんと同じ大学に入って、クルマに乗せてもらわなきゃいけないね』
『いや……。それより前に、同じ大学に入れないと追い出される約束だから』
『がんばって、お兄ちゃん! 朋子のケーキのために!』
 
 啓太と妹のそんな会話を聞きながら自分が何をしていたのか、その記憶はまるでない。おそらく啓太の父親か母親と、およそどうでもいいような会話をしていたのに違いない。ただそのとき、自分は姉とあんなふうな会話をしたことがないと思ったことだけは、今でも鮮明に覚えている。
 丹羽や篠宮が聞けば「それを『羨ましい』と言うんだ」とでも言うだろう己の感情に、中嶋はまるで気づいていないのであるが。

 バスは「ぐるぐる」と回っているのではない。これは「うろうろ」だ。それが2ヵ月と少しの間、バスで通勤した中嶋の結論だった。中嶋が使っているこの路線は、2つの駅の間にある3つの学校と2つのショッピングセンター、そして大きな団地をつなぐために、西へ行って南に下りて少し東に行ってからまた西へ向かったあとで北へ行く。中嶋は今まで路線バスというものをほとんど利用したことがなかったが、住宅地を走るバスはおそらくどこも似たようなものだろう。
 バスが面倒なのは目的地に直行してくれないからだ。本音を言えば車で通勤したかったのだが、司法修習生の分まで駐車スペースがないと言われれば仕方がない。これも経験だと思考を切り替えた中嶋は、こうして毎日、中途半端に高くなった視点から窓の外を眺めている。
 夏休みで啓太がこっちにいた頃はできるだけ早く帰宅していたし、日の高い時期でもあったために、窓の外はまだ明るかった。地理を覚えるのに外を見ていて啓太の喜びそうな店を見つけたりもしたものだ。が、9月も半ばになった今ではすっかり暗くなってしまって、新しい発見などできそうもない。窓のガラスは鏡のように、疲れきった人間どもの姿を写しだしているだけだ。そしてその中心では、憮然とした顔の中嶋が、己の顔を見返していた。
 うんざりするような光景だが、今日は日の入りが早くなったから暗いのではなかった。単純に帰るのが遅くなっただけだ。
 家庭裁判所での実務の修習もあとわずかとなり、内容も濃く深いものになっている。その関係で今日は少し遅くなり、親しくしてもらっている古株の書記官から軽く1杯おごってもらっていたのだ。中嶋は無愛想な男だし、裁判官に任官しようとも思っていない。ましてや家庭裁判所など、端から眼中にない。だがこんな、生きた話を聞けるチャンスを逃す男でもなかった。小さくて無駄なことのように思えても、教科書から学べないものは本当にたくさんあるのだ。前期試験の最中で啓太がマンションに戻っていることもあり、今日は誘いに応じたというわけだ。書記官から「独り者」だと聞かされて中嶋の食生活を心配した小料理屋のおばちゃんに、ごちゃごちゃと料理を出されたのには閉口したが。
 ま、2時間分の元は取ったさ。
 そうでも思わないとやっていられないくらいの疲労感に襲われながら、中嶋は降車を知らせるボタンを押した。

 虫の声がしている。路地の両側に建つ家の庭から、周囲を包み込むように鳴き声がわきあがっている。それが中嶋が近くにくると鳴りをひそめ、通り過ぎるとまた鳴きはじめる。8月の半ばにはじめて虫の声を聞いて以来、啓太はいちいち「あ、鈴虫だ」とか「カンタンだ」とか名前をあげていたが、子供の頃から虫に興味のなかった中嶋にはどの声が何という虫なのか区別がつかない。今も啓太がいれば、まるではじめてこの場所を通るかのように名前をあげていったことだろう。バス停前のコンビニで買ったミネラルウォーターの入った袋をぶら下げた中嶋は、声の種類を数えながら帰路をたどった。
 いつまでも暑い日が続いているが、さすがに日が落ちればそれもやわらぐようになった。しかも大きな一戸建ての並ぶ住宅街ならなおさらだ。ここは中嶋の実家のような高級住宅地ではないが、古くからある落ち着いた佇まいの和風建築は、そこにあるだけで暑さの感じ方がやわらかくなるのだ。土壁でできた家が多く、また、広い土の庭に植え込まれたさまざまな植木たちが、ヒートアイランドを些かなりとも防いでいるからだろう。マンションやビルの立ち並ぶ一画では、エアコンの室外機が熱風を吐き出すばかりでこうはいかない。
 中嶋が赴任先の宿舎として借りているのは、中嶋が栃木の家裁に研修に行くと聞いた同期生の祖父母の家だった。バス停からもさらに20分ばかり歩いたところにある大きな民家で、そこの離れが空家になっていたのだ。もとはこの家の親族が住んでいたというそれは、築すでに30年。8畳と7畳半の和室に風呂と台所のついた小さな平屋である。司法修習生は国家公務員に準ずる身分であり、地方に出る研修は出張という扱いになるのにもかかわらず、何故か公務員の官舎は利用できないのだ。
 去年、大学を卒業したという孫が点字サークルの合宿に使ったときに畳は変えていたし、同時にエアコンも付け替えられていた。ふとんはレンタルだが、好みさえ言わなければ家具も食器もついている。以前に泊まった誰かが引いたらしいので、ケーブルとパソコンさえ持ち込めばネット利用も可能。放っておくと傷んでしまうので住んで欲しいだけだから、3ヵ月分の家賃はわずか10万円。それも光熱費込みで、だ。ただし1日に1度でいいから庭に水をやるのが条件となっている。
 いつもの中嶋なら煩わしくて断っただろうこの家を借りることにしたのは、啓太が喜びそうな気がしたからだった。網戸を通して風が運んでくる土の匂いや草いきれ、虫の声など、集合住宅にいては得られない生活がここにはある。つらい思いをして実家との縁を断ち切ってきた啓太に、少しでも癒しの時間が作ってやれるかもしれないと思ったのだ。朝晩の布団の上げ下ろしや座卓での食事も新鮮で、いい気分転換になるに違いない、と。それが裏目に出て少々問題がもちあがったりもしたが、夏休みの後半はすっかり馴染んでここでの生活を楽しんでいた。あと数週間でここでの生活も終わりになるが、さぞかし寂しがることだろう。啓太も。そして大家も。

 中嶋は大家の家の屋根のついた木の門をくぐり、庭先をぐるりと回って離れに向かった。啓太は直行できる裏口を使うことが多いが中嶋は違う。たとえ間借りの身であっても、こそこそ裏から出入りするのは中嶋の性には合わなかった。だからいつも堂々と表から出入りをしている。
 この門には大きな木でできた表札がかかっていて、啓太は通るたびに見上げていた。太い筆で書かれた 『藤堂正義 ・はま子』 の字が風雨にさらされて薄くなり、それがふたりが寄り添ってきた時間の長さを思わせるかららしい。啓太がそれを羨ましがったとき。たかが表札ではないかと言った中嶋だった。ふとそれを思い出して足を止め、振り仰ぐように見上げてみる。そして。「やはり、ただの表札だ」と思い直した。
 庭に入ると下からわきあがってくる土の匂いがいつもと違っていた。啓太がマンションに戻ってしまって以降、中嶋が帰宅後に水遣りをしていたのだが、今日はいつもより土の匂いが濃いのだ。水をやったあとの土の匂いである。帰宅が遅かったので、待っていられなかった大家が水をやってしまったのかもしれない。大家夫婦は70も後半の年寄りで、陽が落ちてなお暑いこの時季の水遣りはさぞ大変だったことだろう。悪いことをしたなと思いながら離れの鍵を開けた中嶋は、「ただいま」と声に出して中に入った。啓太の「お帰りなさい」という声が、今夜も聞こえた気がした。
 玄関を入ってすぐ左手の7畳半を中嶋は寝室に使っていた。そこに入って部屋着に着替えてから、テレビの置いてある8畳に入る。電気をつけると食事用兼啓太の勉強用の座卓に、茶碗や箸などの食器がセットされていた。もちろん中嶋が準備して出たものではない。眉をひそめかけて、中嶋はその向こうにある紙に目をとめた。長身をかがめて手にとろうとしてそれが啓太の筆跡であることに気づき、さらに眉間のシワが深くなる。啓太は今、前期試験の真っ最中だ。確か来週の初めまで続くはずで、こんなところに何をしに来たというのか。食器の前にきちんと置かれていた座布団に腰をおろし、落ち着いてから紙を取り上げる。プリンタの用紙だ、と、中嶋は思った。

『中嶋さん おかえりなさい。お仕事おつかれさまでした。』
「ふん。疲れるという漢字も書けんのか。あの馬鹿は」

『今日は1、2時間目を使って英語Cのテストだったんですが、
 なんとこれが英語での口頭試問でした。
 知らされてなかったので、もーみんなパニックです!』
「その程度でパニくるな。それだけで何点かマイナスになるぞ」

『しかも俺は伊藤だから、最初に呼ばれた5人のうちに入っちゃって。
 心の準備もできません』
「5人ずつ、か。なるほど。それで2時間目までか」

『でもそのおかげで、試験開始後15分でおしまいです。
 9時半には駅に着いてたので、何か思いついてこっちに来ちゃいました』
「来ちゃいました、って……。軽く2時間はかかるのにか」

 何かを確かめるかのように「来ちゃいました、か」ともう一度つぶやくと、中嶋は買ってきたミネラル・ウォーターを一口飲んだ。啓太は時々こういうことをする。試験中ということなど、啓太には何の足かせにもならないのだろう。中嶋にはとてもできない行動だった。啓太に生命の危険が迫ってでもいるのなら、もちろん中嶋だってすべてを放り出して駆けつける。それで何を失っても悔いはない。だが今回は違う。中嶋はこれ以上ないくらいピンピンしているし、研修も順調だ。自分で何もできない子供でもない。なのに何故。
 中嶋はここで思考を断ち切った。啓太の行動を考えるとしばしば思考の迷路に入り込んでしまうのが分かっていたからである。ぶっ飛んでしまった啓太の発想など、中嶋ごときにトレースできるはずもないのだ。できないとわかっているものにかける時間はただの無駄でしかない。
 あっさりと諦めた中嶋は、ひと呼吸おくために啓太の置手紙から部屋の中へと目を走らせた。テレビ以外の調度は古いものだが、それも骨董品というわけではなく、せいぜいが高度成長時代に作られた量産品である。だが長い年月をかけて丁寧に磨かれたそれらには使い込まれた美しさがあった。しかも最低限のものに限られているため、余人が見れば殺風景な部屋でも、中嶋の目には好ましく映る。そもそもこの家には古い家ならどこかにたまってしまうホコリというものがまるで残っていないのだ。建屋がどんなに古かろうと、設備が行き届いてなかろうと、清潔感あふれる家は思った以上に居心地がよかった。
 その一角。壁を外に張り出させて作ったスペースに、今はもう骨董価値さえあるのではないかと思われる黒電話に並んで、1枚の写真が立てられていた。母屋の主である老夫婦と白無垢の衣装を身につけた花嫁のスナップ写真である。日付を見ると今年の4月に撮られたものらしい。他人の写真など片付けておこうとした中嶋を止めたのは啓太だった。「だってこんな幸せそうな写真って見たことないですもん」というのがその理由である。「中嶋さんは見たことあります?」とたたみこまれ、ついそのままにしてしまっていた。3人とも本当にいい顔で笑っていて、それは中嶋にも否定できなかったからだ。誰もが全開の。否。はじけとぶほどの笑顔で笑っている。しかも誰が描き加えたのか、あたり中に鶴やら亀やらが飛び交っているのだ。眼にした者までがつられて笑ってしまうようなその写真には、「結婚式」ということばに含まれるはずの一抹の寂しささえ感じ取れなかった。啓太はこの花嫁が、ここを合宿所に使っていた孫じゃないかと言っているが真相はわからない。ただ、啓太も中嶋もいつの間にか、気分にワンクッションをおきたいときにこの写真を視界の端に入れるようになっていた。長い人生の中のわずか3ヵ月である。そんな写真が1枚くらいあってもいい。

『クリーニングの預り証がボードに留めてあったので、もらって来ておきました。
 今はさんであるのは今日もっていった分なので、
 間違えてもらいに行ったりしないでください』
「ほお? つまりあの馬鹿は、このまだ暑い中をここまで歩いてきて、いちばん暑い時間にまた出かけていって戻ってきたというのか。無駄に体力を使ってどうする。だから馬鹿だと言われるのがわからんのか」

『庭の水はまいておきました。
 トマトに水をあげていたら大家さんが少しくれました。
 トマトももうすぐ終わりですね。
 冷蔵庫に入れておきましたから、明日の朝食にしてください』
「ああ……。水をまいたのはおまえだったのか。年寄りじゃなかったんだな。まあ、馬鹿は馬鹿なりに役に立ったということだ」

『今夜の夕食はカレイを煮付けてみました。
 前にはま子さんに教えてもらったやり方で作ったんですけど……。
 うまくできてますように……! 
 お味噌汁や小鉢なんかと一緒に冷蔵庫に入れてあるので、
 出してチンしてください。
 半分もって帰って、俺の夕食も同じものです。
 ご飯は6時にスイッチが入るようにしてます。
 炊けるまでに帰ってきたら、ちょっとだけ待ってくださいね』
「何が『うまくできてますように』だ。おまえがはま子さんの味に近づこうなど、逆立ちしても今世紀中には無理だろうが」

『じゃあ俺はこれで帰ります。土曜は試験がないから金曜の帰りにこっちにきます。
 月曜の試験は3時間目だけなので、ちょっとゆっくりできそうです。
 お仕事がんばってください。
                                              啓太』
「がんばらなきゃならんのはおまえの方だろう。成績落ちたら日本に棄てていくからな。そうなってから泣いても知らんぞ」

 手紙を食卓に投げ出して、中嶋は掃き出しになっている窓を開けた。いつもなら帰ってきて真っ先に空気の入れ替えをする。それを忘れていたというのは、やはり啓太が日中ここにいたからなのだろう。馬鹿はここでも役に立ったかと、中嶋はひとりごちた。締め切っているとこもってしまう熱気を多少なりとも飛ばしてくれていたのだから。
 開けてみると網戸から外の空気とともに虫の声が入ってきた。外で聞いていたのとは違い、鳴いているのはおそらく1匹だ。そこには自分しかいないのも知らずに、相手を求めて鳴き続けている。それは中嶋を思う啓太のようであり、啓太を思う中嶋のようでもあった。中嶋は虫が好きではないという以前に興味がない。だがこんなふうに静かに鳴く声に耳を傾けてみるとそう悪いものでもないと思う。少なくとも啓太の好きなものだと思えば、受け入れる余地はある。啓太が中嶋の好きなものを理解しようとし、優先してくれているほどではないにしても。
 相手の好みを知ろうとするところまでは中嶋も啓太と変わらない。見るもの。聞くもの。食べるもの。着るもの。読むもの。相手の行動にほんの少し神経を振り向けるだけで、少なくとも表面的なことは知れる。中嶋はそれを単なるデータとして覚えた。年号や英単語を覚えるのとさほど変わるものではない。だが啓太は違った。状況が許す限り手に取ろうとするのだ。書斎にある本は読もうとするし、置いてあるCDは必ず聞いた。スーツやジャケットなどはデザインだけでなく布の厚みや感触、織り方を覚え、袖を通して着心地を知ろうとする。そうして、何故中嶋がそれを好むのかを理解しようとするのだった。
 食べ物の好みもそうだった。多くの少年がそうであるように、啓太は肉の方が好きだ。出されればもちろん食べるが、学園ではよほどのことがなければ魚を取ろうとはしなかった。それが休みのたびに一緒に暮らすようになってからというもの、魚料理を作るようになっている。魚が好きでもなければ料理が得意でもない啓太が魚料理を作るのは、中嶋が魚の方を好んでいる、ただそれだけの理由でである。
 焼いたりするのは比較的簡単だ。一所懸命なわりになかなか料理が上手くならない啓太でも、それなりの出来上がりにはなる。だが煮付けはそう簡単ではない。ネットで調べたレシピの通りに調味料を入れたとしても、その日の魚の鮮度によって味が変わる。煮立て方でも味が変わるし、煮付けている時間のわずかな違いでも味は変わる。そのあたりの見極めは、啓太にはまだまだ無理だ。どんなにがんばっても「不味くはない」程度の出来にしかならないのだ。にもかかわらず、どうやら今日もまた作ってみたらしい。
「何度でもめげずにチャレンジする根性は認めてもいいがな」
 シャワーを浴びてきたら今夜は音楽をつけずに、しばらく虫の声に耳を傾けていようかと思う。そしてそれを聞きながら、夜食代わりに啓太がトライしてみたというカレイの煮付けを食べてみるのもいいかもしれない。啓太は自分の夕食もこれだと書いていた。であれば啓太と同じ時間が共有できるはずだ。マンションの部屋にまで虫の声が届いていたかどうかの記憶はないが。
「それに。食べてみないと『不味い』と文句も言えないしな」
 中嶋のくちびるの端がつりあがる。今夜はいつもより啓太が近くにいるような気がした。






いずみんから一言。

意識が地震の方に向いてしまっていて、更新をすっかり忘れていました。
季節感がむちゃくちゃですが、まあ半年もたてばどうもないでしょう。
これの前の話があるのですが、それはまた今度ということで。
大家の藤堂正義さんとはま子さんは、220000打を踏んだSさまから
お名前を頂戴しました。有難うございました。
お礼と言っちゃなんですが(汗)、鶴やら亀やらが飛び交った写真は
伊住からの伊住からのお祝いというか、差し上げモノです。
お受取りいただけましたら幸いです。
今回は黒背景で作るつもりだったのですが、日本全国が暗くなっている
こと、そして鶴と亀が出てきたことも考え合わせて白背景にしました。
びみょーにぼやけてる感がしないでもないけど、それはきっと作者の
力量のなさでしょう。とほ。


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