悪 夢
「ねえ。中嶋さん」
「うん?」
 リビングで英文の業界誌を読んでいると、頭上から啓太の声が降ってきた。何気なく上げた顔の、目の前で揺れる啓太のそれ――。ついでに言えば全裸でもあった。
 驚かなかった、と言えば嘘になる。もちろん態度に出したりはしていないが。
 何と言ってきかせようと、どれだけの夜を過ごそうと、けっして慣れようとしない啓太。教えたことを少しずつ覚えてはいるものの、初々しさをなくさない、娼婦でありながら無垢な聖女でもある啓太。自分から誘いたいときには俺の膝に乗り、眼鏡をとる以外に伝える方法を知らなかったはずなのに。それが突然のこの大胆さはいったいどうしたというのだろう。
「どうした。なんだこれは」
 驚いたのが半分。そして読書を邪魔されたのが半分で、不機嫌な表情を作った俺は、目の前のものを指先で弾いた。
「いった〜い」
「だろうな。そんな敏感な部分を弾いたんだから」
「んも〜。俺はただ、中嶋さんとえっちがしたかっただけなのに」
「ふうん?」
「ねぇ、……しよう?」
 まあ珍しいこともあるものだ。こいつがそのつもりなら付き合ってやらないでもない。趣向としては悪くない。しかも、いつもの「して」ではなく「しよう」ときた。だが手にしていた雑誌では、あと10行足らずで第2章が終わるところだった。
「端まで読んだらな」
 右手だけでそれを握り、親指の腹でやわらかく先端を撫でてやりながら、もう一度、雑誌に目を落とす。だがほんの数語、目で追っただけで、雑誌は取り上げられてしまった。思わず見上げた俺の目が細くなったのに気づいていないはずがない。それが何であれ、俺は邪魔をされるのが何より嫌いだ。誰よりも知っているはずの啓太の行為に、身体の内からじわりと何かがこみあげてくる。半ば凶暴な気持ちで俺は、未だ手にしたままだったそれを引いた。
「うわっ」
 そんなものを引っ張られるとは思っても見なかったのだろう。拍子抜けするくらいにあっさりと啓太は腕の中に落ちてきた。いけない子にはお仕置きが必要だ。いたぶって泣かせて。そして「許してください」と懇願させてやろう。俺に火をつけたおまえが悪いのだ。
 だがこちらが口を開く前に啓太が腕を伸ばしてきた。誰が抱きつかせてなどやるものか。目の前に伸びた腕を軽く払い、両の手首をまとめて掴みしめる。
 あと少しで二十歳だというのに、未だ少年っぽさを残す体躯を組敷き、膝で体重をかけて押さえつける。さぞや怯えているだろうと思ったのに。顔を見ると笑っていた。楽しそうに。そして嬉しそうに。
「早くはじめてよ。ね?」
 見慣れた顔に浮かぶ見慣れた艶。ほんのりと桜色に染まった全身までが見慣れたものなのに。何故かはじめて見るような気がした。
 ―― なんだ。これは。
 その見知らぬモノは思わずゆるめてしまった手から腕を抜き、俺の頭を引き寄せた。
「なめて」
 自分のペースに持ち込み、俺を操ろうとするくちびるは常より赤く、引きずり込むような眼は妖しい光に満ちていた。
「誰だ。おまえは」
「啓太だよ?」
「それを信じろと言うのか?」
 俺の答えに、啓太であって啓太でない、啓太の姿をした何者かがくすくすと笑った。
「俺はね、 『啓太の夢』 なんだよ。願望かな。もしくは深層心理」
「ほお?」
「啓太はね、いつも貴方に応えたいと思ってるんだ。貴方の言ったこと。貴方の望むこと。すべてにね」
「当然だ。あれは俺のものだからな」
「このあいだだって言ったでしょう?」
 このあいだだと? ……なるほど。確かにそう言った。デパートでもらってきたカタログを見ている啓太に、 『チョコレートなどいらんから、一度全裸で俺を誘ってみろ』 と。頬を桜の色に染めた啓太は、困ったような顔でむこうを向いた。あの顔にそそられた俺は、膝に乗せて思いきり鳴かせてやったのだ。顔を眺めてやりながら。
 それで思い出した。今日は2月14日だった。今年は土曜で「義理チョコ」などとほざく面倒な女どももいなかったし、啓太が何も言わないからすっかり忘れていた。クリスマスや正月はもちろんのこと、やれ七夕だの月見だのといったイベントごとは、啓太がいなければ認識することもない。業界主導の馬鹿騒ぎにすぎないバレンタインなど、その最たるものだ。
「言ったらどうだと言うんだ」
「だから、それに 『応えなくちゃいけない』 って思っちゃったんだよ。啓太にとって貴方の言うことは絶対だから。でも……」
「できなかった。つまりはそういうことか」
「さすがだね。啓太のことをよくわかってる」
 抑圧された願望は内へ内へと凝っていき、ついには化学変化をおこすに至ったのだろう。炭素の塊にすぎない石ころが、地球の圧力でやがてはダイヤモンドになるように。だがそこまでの変化をおこすには圧力が足りなかったようだ。啓太のいつものためらいが、無意識にブレーキをかけたのかもしれない。目の前にいるこの啓太の姿をしたものはダイヤモンドにはなりえず、ましてや啓太ではありえなかった。そうだ。紛いものなのだ、こいつは。……いくら啓太の皮を被っていたとしても。
 だがこの赤いくちびるの、なんと蠱惑的であることか。引き込まれそうになる一方で、たまらない嫌悪感もわきあがってくる。俺の啓太はこんなではない。こんな禍々しい瞳をして男を誘ったりなどはしないのだ。
「なるほど」
「ふふっ。納得してくれた?」
「ああ。おまえが啓太でないことはな」
 小さく首を傾げてみせる仕草はこんなに啓太そのものなのに。何故こんなに啓太と違うのだろうか。これが啓太なら、今この瞬間にでも抱き寄せ、歓喜の涙にまみれさせてやるものを。この時、俺は、心底こいつが憎いと思った。
「それに俺はお前が嫌いだ。願望だか何か知らないが、俺の啓太はお前ではない。とっとと消えて、俺の啓太を返せ」
 その時のそいつの顔を、俺は生涯忘れることはないだろう。そいつは破顔(わら)ったのだ。啓太の顔で。たまらなく幸せそうに。先刻までとはまったく違う、この世の幸せを一身に集めたような笑みだった。そして俺は悟ったのだ。これはやはり啓太であるのだと。こんな笑い方をするのはこの世の中でただひとり、啓太をおいてほかにない。
「ああ。それ。啓太に言ってやってよ。貴方がそんなふうに言ってくれるのを知っていたら。啓太の思いは俺なんかを産み出さずにすんだんだ」
「……」
「心配しなくても俺は消えるよ? ……貴方が満足してくれたのが啓太に伝わったらね」
「……じゃあ満足させてもらおうか」
「……うん」
 抱きつかせてやった体は、いつもより少し冷たい気がした。

 つまらない。
 そう思うのに、いくらの時間もかからなかった。
 何をしようと何をさせようと、 『啓太』 は嬉々としてそれに従い、悦びに震えて声を上げる。もしここでこいつを縛りあげ、いちばんやわらかい部分めがけて鞭をふるったとしても、もっととねだってみせるだけに違いない。
 ならばとばかり 『啓太』 の好きにさせてみたが答えは同じだった。恥ずかしがってできなかったことをいとも容易くやってのけている。殺しもせずに声をあげ、乱れた自分の姿を十分に見せつけつつ俺のあらゆる部分を食んでいく様子は、まるで今までできなかったことの履歴事項一覧を見ているかのようだ。
 すべてに覚えがあった。上澄みを使った芯への愛戯も、ふくらみを揉みながら舌を這わせてはくちびるで食むやり方も。どれもこれもが俺が教え、啓太がついにできなかったことばかりだった。手を伸ばしてはためらい、顔を近づけてはまたためらう。それを何度繰り返しても、できないものはどうしようもないのだ。目の端を赤く染め、申し訳なさそうに首を振る啓太の姿は、だがなんと可愛らしく、そして魅力的であったことか。こんな簡単にコトを進める相手がいいのなら、何も啓太である必要はない。名前も顔もない行きずりの誰かで十分なのだ。そんな単純なことが、何故、啓太には分からないのだろう? 夜毎夜毎にあれほどの時間をかけて教えてやっているというのに。
 そしてこれが啓太の「夢」というのなら、まさしくこれは悪夢であった。
 その想いは時間を追うごとに強くなり、俺から離れた 『啓太』 の恥態を目にするに至って明確なかたちをとった。立てた膝を大きく開き、腰を浮かせて自らの深奥に指を挿し入れる姿は、俺が求めているものではありえない。確かにやってみろとは言ったが、うれしそうにやってみせる顔など見たくはない。演技が入っていない分、出来の悪いアダルトビデオを見ているようなものだ。これでは満足どころか楽しむことさえできうるはずもなく、 『啓太』 が乱れれば乱れるほど醒めていく自分がここにいる。
 そして 『啓太』 が指を2本に増やしたところで、俺は「やめろ」と言っていた。自分でも冷たい声だと思った。だがそれ以上に、『啓太』 を見下ろす眼は冷たかったはずだ。気づいた 『啓太』は動きを止め、不思議そうな目でこちらを見返していた。
「……中嶋、さん……?」
「それのどこが啓太だというんだ」
「全部だよ? なにもかも」
「違う。おまえは単に啓太の皮を被っただけだ。紛い物などいらない。俺を本当に満足させたいのなら、さっさと啓太を返せ!」
「どうして? どこが悪いの? 何がいけないの? 俺はちゃんとやってるのに。全部やってるのに。……貴方がやれって言った通りに」
 傷ついた表情にも心は痛まなかった。俺の求めているものも分からず夢魔を作り出したおまえが悪い。そして俺は尚もすがりついてくる瞳に向かって、最後通諜を突きつけた。
「失せろ」
『啓太』 のすべてを絶望という名のベールが覆っていくのがわかる。やがてそれが精神(こころ)に及んだのだろう。操っていた見えない糸がふっつりと切れたかのように、 『啓太』 は崩れ落ちた。

 しばらくは何をする気も起きなかった。この啓太は本物の啓太なのか。俺の啓太は戻ってきたのか。確かめるすべもなく、腕の中の啓太をただ見つめていた。だがいつまでもそうしているわけにもいかない。小さく息をついた俺は啓太をきれいにしてやり、下着とパジャマを着せた。いつもなら裸のままで放っておくのだが、今日はそうも言っていられなかった。とにかくこの部屋から、あれのいた形跡を拭いさりたかったのだ。同じ理由でシーツも取り替えた。啓太はおそらく自分のしたことなど覚えていまい。だったらそれでいい。思い出す必要など何処にもないのだ。
 それなのに。気がつくと啓太が泣いていた。入れてやったベッドの中で。俺にしがみついてもこずに。
「……あれ? 中嶋さん………?」
 頬を叩いて起こしてみれば、啓太は不思議そうな顔でこっちを見返してきた。同じ顔なのに先刻までとは全然違う。どうやら 『啓太』 は啓太に戻ったらしかった。思わずわきあがってきた安堵の息を、俺は啓太に気づかれないよう、そっと吐いていた。
「器用なのは分かったが、寝るのか泣くのかどっちかにしろ」
「え? 俺……?」
 猫を思わせる仕草で顔を撫でた手が、涙でびっしょりと濡れていた。驚いたように起き上がった啓太はぺたんと座りこみ、シーツでもう一度顔を撫でた。
「……許せんな」
「……?」
「おまえを泣かせていいのは俺だけだ。夢の中とはいえ、勝手に泣くのは許さん」
 啓太は最初、困ったような顔をしたものの、すぐに考えこんでしまった。
「……勝手じゃない気がするんですけど」
「……どういうことだ」
「……う〜ん……?」
 覚えているはずがない。そう思いつつ問い返してやると、しばらく首をひねっていた啓太が顔をあげた。
「夢の中で、俺、中嶋さんとえっちしてたんです。夢の中の俺は何でもできて……。今まで恥ずかしくてできなかったこととかも何でもできちゃって、中嶋さんに喜んでもらおうとしてるんです。それなのに……」
「つまらんから止めろ。とでも言ったか」
「ええ、そう。ちょっとニュアンスは違いますけど……。って。え? ええーっ!」
「うるさい」
「だって。だって……。どうして分かっちゃうんですかぁっ。夢なのに」
「夢とは言え、おまえの相手は俺だったんだろう? ならそう言うさ」
「だけど、中嶋さんがやれって言ったことばかりなんですよ? それなのにどうしてつまらないんですか」
「……おまえは本当に頭が悪いな」
 わざとらしくため息をついてみた。
「テクニックだけが欲しいのなら、クラブにおまえを預けている。たった1週間でも見違えるほどになっているだろう」
「クラ……」
 真っ赤な顔で啓太が絶句した。
「だがな、俺が欲しいのはそれじゃないんだ」
「……」
「なあ啓太。ここは俺のマンションで、家具も配置も俺の好みだ。本当ならもっと無機質な空間ができているはずなのに、そうじゃなくなってるのは何故だ。うん?」
 みんなの分だと言って買ってきた動物柄のマグカップ。ひよこの形のキッチンタイマー。丹羽にもらった熱帯魚のモニタ。ハーブの鉢は気がつくと増えているので、階段式の棚を買って整理をさせた。その下に置いてある少々クラシカルなジョウロは岩井の手土産だ。形が洒落ているのでフランスあたりの土産かもしれない。洗濯物など乾燥機に放り込めばいいと言ったのに外に干したがるから、バルコニーの隅には物干し用のロープのセットと洗濯ばさみまでが鎮座ましましている。
 どれもが「俺の」ものではありえないのに、いつの間にか「我が家」を構成するエレメントとなりおおせている。不本意ではあるが、居心地はけっして悪くない、この不思議な空間 ―― 。それはまるで、啓太の存在そのもののようだった。
「それはつまり 『ふたりで作っているから』 じゃないか? おまえひとりでも俺ひとりでもこんな部屋は出来上がらない」
「……はい」
「だが同じこの部屋でも、いきなり入れられたらどうだ? それは誰か別の人間の部屋であって、うちではないはずだ。俺たちが作ってきた部屋じゃないんだからな」
 啓太の眼の奥で何かが揺らいだ。わからなかったものが分かりかけてきた、何かがかたちになりかけてきた、そんな時に見せる表情だった。
「俺たちは違い過ぎている。性格も、これまでの家庭環境も。だから少しずつ譲り合って、努力しあって、新しいものを作り出そうとしているんだろう?」
「…………はい」
「結果を急ぐ必要はない。途中経過だって楽しんでいけばいいんだ」
「……じゃあ俺…………。今はまだ下手でもいいのかな……」
「というより、急に上手くなったりしたら、どこでレッスンを受けてきたのか問いたださないといけないだろうな」
 冗談めかして言ってやると、啓太は一瞬ぽかんとして、それから焦りはじめた。覚えの悪い頭でも、「レッスン」の意味が分かったのだろう。顔を真っ赤にして、そんなものは受けていないのだと、あれやこれやを並べたてていく。一生懸命な割にはしどろもどろの様子がおかしくて、俺は思わず笑っていた。そうだ。啓太はいつもこうなのだ。何事にも一生懸命で。つまらないことにまで気を遣う。……遣いすぎてあんなモノまで造りだしてしまったほどに。
「もういい。分かったから寝ろ」
 怒るのを承知で言ってみた。俺が司法修習で家を留守にしてからというもの、少しでも子供扱いするとすぐに怒るのだ。案の定、啓太は頬をぷっと膨らませて怒ってみせた。ころころと変わる表情は何度見ても飽きず、見ているうちに心の奥に溜まった澱のようなものが洗い流されていくのが感じ取れる。これこそが啓太のもつ最大の能力。誰にも真似のできない癒しの力だ。こんな唯一無二といえる力を持っていて、これ以上、何を欲しがっているのか。
「いつまでもそんな格好で座ってたら風邪を引くぞ」
 怒った顔は作っているものの、問答無用にベッドに引き戻してやると、啓太は存外素直に身体を預けてきた。この重みもぬくもりも、はねた髪の感触までが、いつの間にか半身に馴染んでしまっている。この身体を抱いて眠りにつくひと時ほど満ち足りた時間を、俺はほかに知らない。今夜もまた至福の時間を味わうためにベッドサイドのスタンドを消し、啓太を抱きなおそうとした。甘えたようなしぐさで、啓太が俺の首に腕を回してくる。
 
 そして。



 耳元で囁いた。










「……貴方を満足させるのって、意外と簡単だったんだね」










 闇がじんわりと凍りついていく。







 どこか遠くのほうで






 何かが






 くすくすと笑った気がした。











いずみんより一言

書きはじめたときはこんなのじゃなかった。……はず(汗)。
中嶋氏が顔をあげたら目の前で啓太のが揺れていた。
な〜んてね。面白いだろうなと思ったわけ。
それがそのまま書きだしになって、思いついたときに思いついただけを
ケータイで書いていたら、いつの間にかこんなものが出来上がっていた。
こういう系統のものはあんまり、というかほとんど書いたことがなかったので、
ぼちぼち送信していたものをひとつにまとめたとき、どこにどう手を入れたら
いいのか分からなかった。
思ったより時間がかかったのも、このあたりに理由がある。
毛色の少し違ったものも、おつまみにはいいかもしれない。と、思いつつ。

ああ、そうそう。
本文中にもありますが、これは啓太くん大学1回生のときのバレンタインです。
迷った末にシーケンシャル・リストでは「番外」に入れたけど。念のため。




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