die Altweibersommer
〜 老婦人の夏 〜 





 少し強めの風が吹いたらしい。落ちていた枯葉が突然巻きあげられ、道路を横断するように飛んできた葉のいくつかが中嶋の車のフロントガラスに当たり、そして落ちていった。
―― 空が高くなったな。
 久しぶりの自宅へと車を走らせながら、中嶋はそう思った。7月に栃木の家庭裁判所に司法修習に出て以来、はじめての帰宅となる。栃木にいた間はちょうど夏休みと重なった啓太がほぼ丸々滞在していたし、そこから直接、現在の茨城に引っ越したため、今まで戻る機会がなかったのだ。茨城の弁護士会に落ち着いてからは週末ごとに啓太が来ていたのだが、今週は片付けたい用事もあり、中嶋の方が時間を作って戻ることにしたのだった。
 司法修習生となって実務の研修をはじめてからというもの、中嶋は今までの人生の中で、初めてといっていいくらいの充実感にひたっていた。
 勉強は嫌いではないし自分でも努力家であるとは思う。だが高校でも大学でも、一般教養という名の、興味のかけらもないものを学ばねばならなかった。できるだけ将来に役立つようなものを選びはしたが、「西洋音楽史1」だの「ラテンアメリカの文学概説」などが楽しいはずもない。それらの成績がほかのAAに比べてただのAだったのが、中嶋にとっての「やる気がない」表明のようなものだった。
 ところが今は違う。すべてに無駄がないのだ。週日をめいっぱい実務の習得に費やし、週末は訪ねてきた啓太と過ごす。土曜の夜、啓太が夕食を作って待っている宿舎に戻るのは、中嶋の最大の楽しみとなっていた。もっとも、本人にその自覚はないのだが。
 中嶋の人生に、もし啓太がいなかったとしても、今とまったく同じように司法修習生としての生活を送っていただろう。だがそれは今とはまったく違っているもののはずだ。自分のやりたかったものを学ぶ喜びはあるだろうが、今ほどの充実感があるとも思えなかった。ただ、その中嶋はそれを「充実感」だと思っているのに違いない。知らないというのは不幸であり、そして幸せでもあるのだ。
 啓太という存在があるというだけで、どうしてこれほどの違いが生じるのか中嶋には分からなかった。ただ、空気を乱されるのが何より嫌いだったはずなのに、啓太がいるとほっとしていた。今日は家に啓太がいると思っただけで仕事に熱が入った。
 生まれてはじめて、中嶋は失いたくないものを見つけたのだった。

 その啓太には、今日、戻ることを話していなかった。茨城に向かった啓太と入れ違いになる恐れはないからだ。啓太は明日も講義がある。
早い段階でのアメリカ留学を視野に入れているので、中嶋は土曜もしっかりと講義を入れるように言ってあった。出発までに全部の単位が取れないことくらい分かっているが、取れるものならひとつでも多く取らせておきたかった。自分は司法修習生となった時点で国家公務員に準ずる扱いとなり、大学を退学せざるを得なかったが、法学を選ばなかった啓太は違う。中嶋は啓太を帰国後に復学させるつもりでいたのだった。
 明日の午後。講義を終えたその足で茨城に来るつもりをしている啓太は、突然帰ってきた中嶋に驚くだろう。驚いて、そして喜びに変わる。その顔が見たい。もしかしたら中嶋は、その顔が見たくて用事を作ったのかもしれなかった。

 早めに宿舎を出てきた中嶋だったが、秋の日は意外なくらい早く暮れる。青空に刷いた白い雲を見ながら車を走らせていたはずだったのに、いつの間にかオレンジ色の光がまぶしくてサンバイザーを下ろし、マンションへ続く坂道を上がる頃には、日はとっぷりと暮れてしまっていた。
 秋が深まりつつあるとは言ってもまだ寒いわけではない。それどころか日中は上着を脱いでいてさえ暑く感じることが多い。それなのに、この暗さは明るさを欲しがらせるらしい。車を降りた中嶋は何かに追い立てられたかのように足早にエレベーターに乗り込んだ。
 19階で降りて右へ向かう。そのいちばん向こうにある玄関のドアに鍵がかかっているのは想定済みだった。ただでさえ嫌な犯罪が多い昨今である。それでなくても去年の9月。姿を消した啓太を追ったあの、恐怖さえ感じる余裕のなかった日々を、中嶋はまだ忘れられずにいる。だから啓太には「オートロックを信じてはいけない」「絶対に無施錠でいるな」ときつく言い聞かせてあるのだ。
 だが鍵を開けて中に入った中嶋は、想定していなかった事象に直面した。啓太の姿がなかったのだ。
 
 玄関に靴が出ていなかったのは気にならなかった。ここはマンションとはいえ玄関ドアがふたつある。前の持ち主が2軒ぶち抜きで買ったときに、玄関をふたつとも残してあったからだ。食料品を買い込んで荷物のあるとき、啓太はエレベーターに近い裏口から家に入っていた。入ればそこがキッチンなので、わざわざ遠回りする必要もない。だから今日もそうしたとして、何も不思議はなかった。
 だがリビングに通じるドアを開けると、そこに電気はついておらず、啓太の姿はなかった。荷物を置きにそのままベッドルーム側から書斎に抜けたが、そこにもいない。さらに手を洗ってうがいをした中嶋は啓太の部屋をノックしてみたが、やはり返事がなかった。
 明るく温かい、啓太の待つ部屋に帰ってきたつもりの中嶋は、この事態に苛つきはじめていた。
 確かに今日帰るとは言っていなかった。だが授業はとっくに終わっているし、誰かと会ってくるとも聞いていない。中嶋英明を落胆させた罪は大きい。部屋で眠り込んでいるなら、そのままお仕置きしてやらねばならない。返事を待たずに、中嶋はドアを開けた。
「啓太?」
 部屋は暗い。そしてひんやりとしていた。電気をつけるとここにも啓太の姿はなく、カーテンが風に揺れているだけだ。空気を入れ替えようとしたのか。それとも閉め忘れただけか。窓が網戸になっているのだ。下から吹き上げてくる風が強かったらしく、床の上にいろんなものが飛び散っていた。
 何のため息か自分でも分からないため息をつきながら、中嶋はしゃがみこんであたりを見回した。
 赤鉛筆。DVDレンタルショップの会員カード。何かの文献のコピー。ミニカー。等々。
ひっくり返ったミニカーには見覚えがあった。オマケについているこれが欲しいといって、コンビニに行っては缶コーヒーのコーナーをごそごそしていたのだ。何度探してもお目当ての車種が見つからなかったのを、中嶋が見つけて買っておいてやったものだった。あのときの啓太は本当にうれしそうな顔をしていた。
そのときの啓太の顔を思い出し、くちびるの端に薄い笑いを乗せた中嶋が最後に目を止めたのが、1枚の絵葉書だった。

     『啓太君
      この間はどうもありがとう。
      とても楽しかったです。
      啓太君といると時間を忘れてしまいます。
      今度はぜひ、家のほうにも遊びにきてください。
                             霧矢鷹子』

 今風のかわいらしい文字で書かれたそれには、大学から歩いて10分ほどの住所が書かれていた。霧矢鷹子の名前に聞き覚えはない。眼鏡の奥で、中嶋の目はすっと細くなっていた。

 啓太の部屋を出た中嶋は、とりあえずコーヒーでも淹れようとキッチンに入った。冷凍庫から豆を出して挽き、コーヒーメーカーをセットする。ふんわりと立ち上ってくる香りを楽しむ余裕のない自分を自覚しはじめた頃。裏口の鍵がガチャガチャと鳴って、手にスーパーの袋を持った啓太が帰ってきた。
「えっ? 中嶋さん?」
 突然の中嶋の姿に目を丸くした啓太は、次の瞬間、荷物をその場に落とすと中嶋に飛びついてきた。
「お帰りなさい、中嶋さん……!」
「……ただいまの間違いだろう?」
「……うん……。うん。……ただいま……」
「ああ……。お帰り」
 思いがけず中嶋に会えた喜びを全身で表す啓太を抱きとめる。演技のできない啓太は嘘をつくとすぐに分かる。浮気をしてきて、こんなふうに中嶋の腕の中に飛びこんで来れる啓太ではない。どういう人間なのかは知らないが、あの霧矢鷹子とやらは、かわいそうだが片思いに終わるのだ。それも近いうちに。昏い喜びに満足しつつ啓太のくちびるを貪りはじめた中嶋は、だが気がついてしまった。
 啓太の身体から、女物の香水の香りがしている。

 中嶋の腕にしがみつくように眠っている啓太を見ながら、中嶋は煙を吐いていた。
 あのあと。移り香を許せなくて、有無を言わせず啓太をベッドルームに連れ込んだ。「何の匂いをさせている」とことばに出して聞けなかった分、身体に酷くあたってしまった。いけないと思いながら執拗に責めたてる自分に、啓太はよくついてきてくれたと思う。中嶋の手で追い上げられ翻弄されながらも、何度も中嶋にくちびるを押し当てては「うれしい」と言いつづけてくれた。
 やはり香水は単にバスの中ででも移ったものだったに違いない。そう思う半面で、どうしても「霧矢鷹子」から来た葉書が頭から離れてくれなかった。今のこの嬌態は、あれを誤魔化すつもりなのではないかと思ってしまうのだ。
 さらに、ストレートに聞けなかった自分が気に入らず、すべてを啓太にぶつけてしまった。……気を失ってなお、啓太は自分にしがみついてくれているというのに。
 サイドテーブルに置いた灰皿に煙草を押しつけた中嶋は、そっと啓太の腕をはずすとベッドから抜け出した。あれだけ啼けば喉も渇いただろう。先刻、シャワーを浴びさせたときには目を覚まさなかった啓太だったが、水を含ませてやれば飲むことを、中嶋は知っていた。
 ミネラルウォーターを取りにキッチンに入ると、コーヒーが煮詰まって黒くなってしまっていた。すっかり忘れていたコーヒーメーカーのスイッチを切る。シンクに流しながらどろどろになったコーヒーを見ていると、あらためて、啓太をいたぶった時間の長さを思う。自分が嫌になりそうだった。
 その夜のことを、啓太は「お仕置き」だと思わなかったようだ。久しぶりの我が家で、つい激しくなった。そんな受け止め方をして笑っていた。表面上は穏やかにしながらも、依然としてわだかまりをくすぶらせつづけている中嶋とは大きな違いだった。
 疚しいところがないからこそそんなふうに笑っていられる。そう信じられるだけの理由を探そうとしていたはずなのに。中嶋の見つけたものはまるで違っていた。
 
 翌週のことだった。
 指導を受けている茨城の弁護士会の用事で、都内の法務局に中嶋が書類を取りに来ることになった。ところが事務方の不手際ですぐに書類を受け取れず、3時間もの空き時間ができてしまったのだ。1度戻るほどの時間もなく、翌日出直せるほどの余裕もなかったため、そのまま待つことになったのだった。時計を見るとちょうど昼前である。啓太と会って昼食をとるのにいい時間だ。まだ授業中の啓太に向けてメールを送った中嶋は、車を首都高速に乗り入れた。
 だが思ったより道路が混んでいて、大学前で啓太を拾ったときには予定時間を大きく回ってしまっていた。午後の講義もある。気に入りの店に行くどころか、これではゆっくり食事をすることもできないだろう。
「悪かったな。待たせてしまった」
「待ってませんよ。2日も早いんだから」
 ミスしてくれた事務の人にお礼言わなきゃ。そう言って笑った啓太は、運転席の中嶋に抱きついてきた。
「……なんか、ご褒美がもらえたみたいだ……」
 中嶋でさえ、独りでいると広さをもてあましていた部屋である。中嶋の心だけを頼りに両親と訣別してきた啓太には、あの部屋はさぞかし広く、独りでいる不安をかきたてられていることだろう。普段の啓太は中嶋に心配をかけないよう平気な顔を作っているが、時折こうして本音を漏らすのだ。そしてそれは中嶋が啓太への愛しさを募らせる瞬間でもあった。
 抱きついてくる啓太の髪にキスを落としてやれば、それだけで啓太は安心したような表情を見せる。その顔を見るのが中嶋はとても好きだった。自分だけが作り出せる顔だからだ。なのに今日の中嶋は、啓太をそっと押し返していた。
「……中嶋さん?」
「餓死で心中するつもりか?」
「あっ。……えへへへへ」
「抱きつくのはいいが、時間のあるときにしろ」
「……そうします」
 座りなおしてシートベルトをつける啓太を横目で見ながら車を発進させる。車が動いて、そして自分が余計なことをしないであろう情況を作ってから、中嶋はおもむろにそれを告げた。
「……襟に口紅がついてるぞ」
「えっ? 口紅?」
「ああ。くっきりとな」
「ホントにぃ? どこだろう……?」
「ここだ」
 襟を引っ張って探そうとする啓太に、中嶋は自分の襟をつまんでみせた。そこは右の首の前あたりで、電車の中などで女性客の口紅がついたとは考えにくい場所だった。そう。抱きつきでもしない限り、そんな場所にはつかないはずだ。
 サンバイザーをおろして鏡をのぞきこみながら、啓太は何やらぶつぶつと文句をたれている。文句を言いたいのはこっちの方だと、中嶋は思った。

 それでも啓太ばかりを責めるわけにはいかなかった。親を捨ててきた啓太と一緒にいてやれなかった自分が悪いことくらい、中嶋にもよく分かっている。それでなくても啓太は人懐っこいのだ。浮気の自覚はなくても、親切にしてくれる人がいたら甘えたくもなるだろう。
 司法修習生としてのスタートである和光はどうすることもできないが、それ以降の研修先の希望はある程度なら聞いてもらえる。啓太を独りにするのが分かっていて、それを『神奈川県内』とせず『関東一円』としたのには中嶋なりの理由があった。
 啓太の失踪事件で中嶋が身にしみて感じたのが人脈の持つ力だった。和希や西園寺の持つ人脈の華やかさには勝てないが、丹羽には警視正の父親がいるし、岩井には画商という裏にも表にも通じる人脈を持っていた。そして海外に売り飛ばされたはずの啓太がまだ日本にいると分かったのもまた、自分の持っていた人脈のおかげだった。
 いずれは海外に拠点を移したい中嶋にとって、司法修習の期間は国内での人脈を広げるまたとないチャンスであった。地元である県内にはこれからも機会を見つけることができるだろう。だが栃木だの茨城だのとなると、今を逃せばもう『中嶋英明』の名前は覚えてもらえないのに違いない。
 だから研修先を県内としなかったことに後悔はない。だがその一方で、もう少し啓太といる時間を増やしてやればよかった、とも思った。甘ったるい香りのするカフェモカのカップを両手で持った啓太は、先刻の「ご褒美をもらったみたいだ」の言葉どおり、幸せそのものの顔をしている。目が合えばはにかんだような笑みを返してくる啓太に、中嶋は思わず「午後の講義は何だ?」と聞いていた。
「午後ですか? えーっと。英語TBと、経営学概説、かな」
「それはノートを借りれば何とかなるのか」
「なると思いますけど……」
 じゃあ決まりだ。そう言うと中嶋は伝票を手に取った。
「午後はサボりだ。事務所でコピー取りを手伝え」
 よほど意外だったのか、啓太は「ほえ?」などという間の抜けた声を出したきり、ぽかんとした顔をしている。すぐにうんと言わなかった啓太と、向かい合えば嫌でも目に入る襟の口紅に、中嶋の機嫌は急激に下降しはじめた。
「嫌なのか?」
「ぜんっぜん嫌なんかじゃないです。今日は洗濯も干してないし、窓の鍵も閉めてきました!」
「なら何をしている。行くぞ」
「ちょっ、ちょっとだけ待ってください。サボるって電話を……」
「後にしろ」
 慌てて立ち上がる啓太を目の端で見ながら、伝票を取った中嶋は先に席を立った。

 中嶋が直接指導を受けている及川雅之弁護士は、もうすぐ60になろうかというのに、飴の手放せない男である。本人の言うところによると、それは中学高校大学とダンスに明け暮れた反動なのらしい。何故ダンスの反動が飴になるのかは中嶋にはわからない。啓太に聞いてみたらやはり首をひねったので、中嶋の中でそれは「不用意にさわってはいけないカテゴリ」に分類され、以降は棚上げにしてしまった。
 それでもさすがに普通の飴ではまずいという気分が及川弁護士にもあるのか、事務所のデスクに置いてあるキャニスターに入っているのは何種類もののど飴だ。カロリーオフでなければ意味がないと思うのは、きっと中嶋だけなのだろう。糖分は禿げるとよく言うが彼には当てはまらなかったようで、年の割りにたっぷりある黒髪が、中嶋の肩のあたりでてかてかに光っている。男としてはかなり背が低い部類に入るが、その程度の背の高さでさえシークレット・ブーツを履いているという噂がまことしやかに囁かれていた。「もちろん噂よ」と付け加えた事務のアルバイトは、何やら意味ありげな顔をして見せてはいたが。
 だが背が低いからといって、及川弁護士はけっして小男ではなかった。まず、身長を補っている訳でもないのだろうが、やたらと横幅がある。きっちりと筋肉のついた中嶋は、じつは見た目ほど細くないのだが、及川の腹回りはおそらくその倍以上はあるに違いない。ぷちぷちにはちきった太り方と、作り物かと思わせるほどの顔色とつやのよさから、中嶋の第一印象は「キューピー」だった。つぶらな瞳で美味そうに飴を口に入れる姿は、まさにキューピーそのものである。だが見た目通りの人間でないと中嶋が知るのに、さほどの時間はかからなかった。
 それは指導を受けはじめて間もない頃のこと。裁判所へ向かうのに中嶋が運転手を務めたことがあった。そのとき、まるで雑談のように話してくれた内容に、中嶋はカルチャーショックとでも言えるほどの衝撃を受けたのだった。今までにもそれなりに勉強してきたつもりだった中嶋は、そのときにはじめて法律というものの奥深さに触れたのだ。及川弁護士が小男に見えないのは、あふれかえるほどの知性と自信が、一回りも二回りも大きく見せているからに他ならなかった。こんな田舎に埋もれているのが不思議なほどの人間だった。中央に出れば金でも名声でも欲しいままにできたに違いない。それをせずにあえて地元に戻ったこういう人が、弁護士という一般になじみのない世界の下支えをしているのだ。こんな人に指導を受けられる自分の幸運は啓太の運のおこぼれかもしれない。中嶋は半ば本気でそう思った。
 それ以降、中嶋は事情が許す限り、及川弁護士の運転手を務めるようにしていた。今日もそうだ。損害賠償請求を出したい依頼人のところへ疎明資料を取りに行くだけの仕事に、わざわざついてきたのだ。事務所のほかの弁護士に行かせず、及川弁護士本人が足を運ぶと聞いて、これは何かあると思ったからだ。その思惑は見事に的中し、中嶋は事務所にいては知りえなかったことをたっぷりと学べたのだった。
「しかしあれは予想外の分量だったねえ」
 後部座席にちらりと目をやりながら、及川弁護士が言った。そこにはトランクだけでは積みきれなかったダンボールの箱がいくつも載せられていた。
「それだけ依頼人も真剣だということでしょう。ごく普通の主婦があれだけの資料を集めるのは、並大抵の苦労じゃなかったはずです」
「それはそうだけど……。あれはコピーをとるだけでも大変だ」
「また事務の由里さんがうるさいですね」
「そうだね。今回はこの間みたいに伊藤くん……、だったかな。お手伝いしてくれる子がいないから」
 突然出てきた名前に、思わず中嶋が助手席を見遣った。ランチに呼び出した啓太を連れて帰ったとき、そのまま事務所で手伝わせたのだが、どうやらその日のことを言っているらしい。及川弁護士はそ知らぬ顔でポケットから出した飴を口に入れた。
「あの子はいい子だねえ。素直だし手際はいいし。突然の手伝いにも嫌な顔ひとつしない。みんなで感心してたんだよ。君の後輩なんだって?」
「はい。2年下になります。俺が副会長をしていた学生会に入ってきました」
「学生会か。さぞ君に鍛えられたんだろう」
 そう言って笑う及川弁護士につられるように苦笑しながら、中嶋は「今日も手伝わせましょうか」と言った。
「呼んだら喜んで飛んできますよ」
 だが及川はとんでもないといったふうに両手を振った。
「だめだめ、そんなことしちゃ。ドタキャン続きじゃ今度こそカノジョにふられてしまうよ」
『カノジョ』という単語に中嶋のセンサーが反応した。
そんな女はいない。啓太に『彼女』などという存在はいない。
 頭の中に響きわたる己の声を口にしなかったのは、自分のずるさだった。と、ずっとあとになってから中嶋は思った。そのときはただ、及川がなぜそんなことを思ったのか。何を知っているのか。それを知りたくて口をつぐんでいたのだった。
「タカコさん……。だったかな。伊藤くんの恋人だったらさぞかし可愛い子なんだろうね」
「いや……。俺はよく知らないんですよ」
「そうなのかい? 事務所で『今日はいけなくなった』って電話してただろう?」
「全然、気にもしていませんでした」
 及川弁護士によると、啓太はタカコとやらの自宅に電話をしたらしい。そして電話を取った親らしき相手に「急用ができたので今日は行けなくなりました。来週はお伺いできると思いますので、タカコさんによろしくお伝えください」と言ったそうだ。
「そうだ。あれを聞いて、小難しい由里さんまでが感心したんだった。今時の若い子はみんな、携帯で直接本人と話をするだろう? 家に電話をして親と話をするなんて、なかなかできることじゃないよ。相手の親御さんからも、さぞかし信頼されてるんだろうね」
 それに何といって応えたのか、情けないことに記憶がない。不審がられなかったところをみると適当に何かを返していたのだろうが。このときの中嶋は関節が白くなるほどハンドルを握りしめた自分の手と、そして及川弁護士が口の中で転がす飴の音だけを、かろうじて認識しているにすぎなかった。

 自分がいつからこんな臆病者になったのかわからない。週末に訪れてきた啓太に何も聞けない自分が、中嶋は腹立たしかった。今日こそは問い質そうと思っても、中嶋を見上げてくる啓太の曇りのない眼を見てしまうと、どうしても聞けなくなってしまうのだ。そこには疚しさのかけらも見出すことができなかったからだ。
 そんな啓太を見ているうちに、家庭教師のアルバイトでもしているのかと考えるようになった。赴任先に呼び寄せることもあり、啓太には単発以外のアルバイトはしないように言ってある。それもできるだけ和希に紹介してもらうようにさせている。同世代である女子大生のいる場所へ近づけないようにしたのと、和希がバイト代をはずめばアルバイトに出て行く回数が減ると思ったからである。啓太にしても留学準備の勉強もあるため、そのいいつけは忠実に守られてきた。
 だが基本的に人のいい啓太である。同じマンションの奥様連中あたりに頼まれれば、不定期になる可能性を示したうえで家庭教師を引き受けることは十分に考えられた。事務所からしていたと言うドタキャンの電話も、彼女にしていたというよりは家庭教師先にしていたと考える方が自然なのだ。及川弁護士の言葉ではないが、そんな電話を家にかけるなどまずありえないではないか。
 その可能性をみごとなまでに打ち砕いたのが、啓太の部屋で目にした例の絵葉書だった。あの文面はどう見ても、生徒や親が家庭教師に宛てたものではなかった。
 啓太が知っている女を自分が知らないのが気に入らない。さらに言えばそんなことごときで不機嫌になっていると気づかれるのはもっと気に入らない。苛立ちは募るものの、口に出して言えない分、啓太にはうまく伝わらなかったようだ。
「中嶋さん、なんだか様子がおかしい気がするけど……。勉強とお仕事が一緒くたになってるんだもんな。疲れても当然だよ」
 といった具合である。どうやら啓太の頭の中には、中嶋の不穏さを自動的に平穏さに書き換える回路ができあがっているらしい。おかげで中嶋は啓太を泣かせてしまうという、最悪の自己嫌悪に陥ることだけは免れていた。直接問い質せない自分の弱さに対する自己嫌悪は依然として解消されずに残ってはいるのだが。
『霧矢鷹子とは何者だ』
 かなで書けばたった13文字の質問の答えは、だがまったく意外な展開から得られることになる。

 啓太が夕食のあとかたづけをしているときだった。ビルトインタイプの食器洗い機がある自宅と違い、ほんの少しグレードが高いだけのウィークリーマンションではスポンジで手洗いするしかない。楽しそうに洗い物をする啓太のところに中嶋が食器の残りを運んでやっていると、コートに入れっぱなしにしていたらしい携帯電話が鳴った。
「おい。携帯が鳴ってるぞ」
「え? あ、ホントだ」
 ぬれた手をキッチンタオルで拭きながら出てきた啓太が電話を取る。
「は〜い。啓太です」
その軽い声に、思わず聞き耳を立てていた中嶋の肩から力が抜けた。あれでは霧矢鷹子ではないだろう。友人がコンパの穴埋めでも探しているのに違いない。ところがその口調は、たった一瞬で一転した。
「えっ! 鷹子さんが……!」
 引き戻されるように啓太を見る。電話を両手で握りしめた啓太は真剣な顔で話をしていて、中嶋の射るような視線にも気がつかない。「はい。はい」と短く返事をしていた啓太は電話をたたむと、そのままの表情で中嶋の方に向き直った。
 どうやら腹をくくるときが来たらしい。と、中嶋は頭の隅でそう思った。それはいつも突然やってくるのだ。啓太の母親にふたりの関係を悟られたときもそうだった。自分が答えを先延ばししているときに限ってやってくる。
まるで他人事のようにそんなことを考える中嶋の目の前で、啓太はぴょこんと頭を下げた。
「中嶋さん。すみません! 俺を大学の近くまで送ってください。急ぐんです! お願いします……!」
「……何をそんなに急ぐ」
「だって早くしないと……」
 今にも走り出しそうな啓太のもとに歩み寄った中嶋は、大きな手でまだ柔らかさの残る頬を包みこんだ。手荒くならないよう意識しながら顔をあげさせ、視線を合わせる。気が焦っているのか苛ついた様子はあるものの、啓太は視線をそらそうとはしなかった。
「どんなに急いでも向こうにつく時間はそれほど変わらない。だからちゃんと説明するんだ。今の電話は誰からで、何を急いでいるのか。何故おまえが行かないといけないのか。運転手をしろと言われてるんだ。そのくらいは聞かせてもらう権利はあると思うがな」
「鷹子さんがいなくなったからです。探すのはひとりでも多い方がいいに決まってます」
「話を端折るな。それではわからん。そもそも、その『鷹子さん』は誰で、おまえとどういう関係なんだ」
「理学部裏のデイサービスに通ってるおばあちゃんですよ! 車椅子でしか動けないのに、同居してる娘さんが迎えに行ったらいなかったって。もう80超えてるんです! 早くしないと風邪ひいて死んじゃいます!」

 鷹子さんと出会ったのは夏休みが終わってすぐでした。たまたま1台早い電車で行ったときに、車から車椅子に移るのに苦労してるおばあちゃんを見かけたんです。それが鷹子さん。ずっと送ってきてた娘さんのご主人が福岡に転勤しちゃって、それで困ってたんですね。それから手伝うようになったんです。朝と、バイトとか入ってないときは夕方も。みんなからはボランティアって言われてるけどそんなんじゃなくて、一緒にいると、なんだかほわっとしてくるんです。なんていうかその……。小春日和が人間になったみたいな感じ。って、分かります?
 鷹子さんを名前で呼ぶのはそう言われたから。「わたしを『おばあちゃん』って呼んでいいのは、孫たちだけよ」って。「もしあなたが自分のことを『坊や』って呼ばれたくなかったら、わたしのことも名前で呼んで頂戴」って。
 朝はデイの前で待ってるだけだけど、夕方は娘さんが迎えにくるまでおしゃべりするんです。いろんな話をしてくれましたよ。娘さんのことやお孫さんのこととか。でもいちばん多いのが戦死したご主人のことかな。医学生だったし一人っ子だったしで徴兵猶予されてたのが、戦局が怪しくなったからって、それで慌てて結婚したんだそうです。話があってから結婚するまで1週間だった、って笑ってました。びっくりしたらまた笑われちゃいました。その頃ではよくある話だったんだ、って。
 一緒に暮らせたのが2ヵ月くらいで……。娘さんが生まれた次の日に、最後になった面会日を知らせる電報がついたんですって。でも当然って言うか、鷹子さんは行けませんよね。代わりに行ったお姑さんも、そのまま帰ってこなかったそうです。向こうで姿を見た人がいるらしいから行くのは行けたみたいだけど、帰りの列車が空襲にあったんじゃないかなって。それだけでも大変なのに、終戦後に疎開先から帰ってみたら、家はもう跡形もなかったそうです。ご主人の思い出が残った家だったのに……。
 その娘さんのご主人ってのが不採算ホテルの再生屋さんなんですけど、今度請け負ったのが福岡の老舗ホテルなんだそうです。そういうのはほかより時間がかかるとかで、最低でも3年。たぶん5年くらいは帰れないそうで、年明けには娘さんも行くことになってるんです。だから鷹子さんは老人ホームに入るか、一緒に福岡に行くかを選ばなくちゃいけないんです。でもどっちにしても、住み慣れた場所から離れないといけないんですよね……。

 ぽつりぽつりと語る啓太の話が終わる頃、中嶋は都内を流れる川に向かって車を走らせていた。夜の川は暗く、ぽっかりと口をあけた異世界への入り口のようにも見えた。
 霧矢鷹子はデイサービスの職員に「今日は迎えが来ないからタクシーを呼んで欲しい」と言ってどこかへ出かけてしまったらしい。タクシーの運転手が下ろしたという場所を探したが見つからず、電話で話していた娘が、今は弟が住んでいる鷹子の実家に向かったと聞いて、啓太は別のところを探すことにしたのだ。
「この川……。鷹子さんが結婚した次の日。ご主人とふたりで河原を歩いたそうなんです。そんなことできない雰囲気になってたのに、ご主人が手をつないでくれたって、何度も何度も話してました。そのたった1回が、最初で最後のデートだったなんて、聞いてる俺の方が悲しくなっちゃって。俺なんか、中嶋さんとたった5日離れてるだけで寂しくてしかたないのに……」
 不安を押し隠すように話し続ける啓太を、中嶋は土手沿いを少し走ったところで降ろした。
「おまえはそこから下流へ向かって探すんだ」
「中嶋さんは?」
「俺は対岸を上流へ探していく。とりあえずはあの橋と向こうの橋の間を探そう」
 川は長いがだらだらと全部を見ていくわけにもいかない。どこかで区切る必要があった。基点となるエリアを決めて、あとはそれを広げていけばいいのだ。啓太は固い表情で頷いた。
「わかりました。……って、鷹子さんがわかるんですか?」
「こんな場所にばあさんがぞろぞろいてたまるか。ほら。さっさと行け」
 啓太の開けたドアから、夜になって冷たさを増した風が入り、車内の温度を一気に引き下げた。こんな時間に河原にいれば、年寄りどころか啓太の方が風邪をひいてしまう。ここ数週間つまらないことで胸を騒がせてくれた顔も知らない人間よりも、啓太の身体のために、霧矢鷹子を早く見つけなければいけないと中嶋は思った。
 啓太が土手から滑るように下りたのを見届けた中嶋は、500メートルほど下流の橋を渡ったところで車を止めた。ちょうど階段になっているところがあったのでそこから河原に下りる。実際にそこに立ってみると、上で見ていたよりもさらに暗くて寒く、枯れた葦の背は高かった。しかもこんな季節の夜に河原だ。まともな人間ならこんな場所にいるはずもない。啓太の気がすめばそれでいい。ベッドの上以外で中嶋に何かをねだることなどほとんどない啓太が頭を下げて頼んだのだから、ほんのちょっと付き合ってやるだけだ。4月以降、啓太をほったらかしていた罪滅ぼしの思いもある。だがその反面で、啓太の『運』を忘れることはできなかった。中嶋にまで及川弁護士と出会わせてくれたほどの運を持っているのだ。啓太の選んだこの場所でなら、霧矢鷹子が見つかるかもしれない。であれば絶対に見落としをするわけにもいかず、中嶋は行きつ戻りつしながら河原を探して歩いた。対岸では啓太が振っているらしい懐中電灯の明かりが、葦の陰から時おり光って見えた。

 それは見つけたというよりは、むしろ引き寄せられたという方が近い。まるでスポットライトがあたっているかのように目に飛び込んできたのだ。光源などどこにもないのに、その姿はぼんやりと浮かび上がっていた。
 この足場の悪い河原の道をどうやって車椅子で進んできたのかはわからない。冷たい風が容赦なく吹き付けているというのに寒そうな顔もせず、ただうっとりと川面を眺めている。ロングのスカートからのぞく足先がこんなところでもきちんと揃えられ、時代の荒波に翻弄されてなお失われることのなかった育ちのよさを物語っていた。
 枯れ枝のように細くて小さい姿は確かに80を越えた高齢を思わせる。にもかかわらず老人のもつある種の醜さや汚さのようなものを微塵も感じさせていなかった。その自然でありながらも凛とした姿に、中嶋は思わず足を止めた。
「……もしかして、中嶋さん……。かしら?」
 かすかな気配に気づいたのか、ゆっくりと中嶋の方にむけられた顔は穏やかな微笑みに彩られていた。本当に小春日和の庭を楽しんでいるかのような表情(かお)だった。
「啓太くんから聞いていたとおりの人ね」
「……貴女がこんな無茶な方とは、俺は聞いていません」
 鷹子の問いかけに間接的に答えた中嶋はほっとした息を吐き出しながら、着ていたジャケットを着せかけた。触れてみると細い肩は見えているよりさらに細く、そして華奢だった。これでよく生きていられるものだと妙な感心さえしてしまうくらいに。子供の頃に読んだ絵本に出てきた妖精を思わせたが、抱き上げるとその感はさらに強くなった。握力が弱いのか中嶋を掴もうとせず、上半身を中嶋の胸に寄せて体重を預けてきた身体は、まるで紙人形のように軽かった。
 どうやら風邪はひかずにすんだようだ。啓太も中嶋も。もちろん、鷹子も。そしてそう思った自分に、中嶋は少なからず驚いた。

 年が明けた。暦の上でさえ春には遠いというのに太平洋岸がぽかぽか陽気に包まれた、明るい日曜の午後。中嶋は啓太とふたり、鷹子を乗せた飛行機が飛び立つのを見送った。ただ見送りに来たのではなく、鷹子を家からここまで送ってきたのだ。それは中嶋からの提案で、鷹子と啓太は束の間の『デート』を楽しんだのだった。
『人間には誰でも、これがあるから頑張れる、っていうのがあると思うの』
 あの日。鷹子を車に乗せ、啓太を回収するために対岸に向かっていたとき。ガラスの向こうの黒い川を見遣りながら鷹子が口を開いた。
『子供の顔を見ることだったり好きなもののためだったり……。それはもう人それぞれなんでしょうけど……』
 わたしにとってそれは、この川だったの……。ため息のように続けたそれは、この川に対する思いの深さを伺わせた。
 中嶋にだって日々の原動力のようなものはある。それは言うまでもなく啓太であり、啓太のいない世界に生きる意味がないことを、今の中嶋は知っている。だが鷹子が生きてきたのは、たとえ金があったとしても食料や医薬品が手に入らなかった時代だった。そんな時代に今の啓太と変わらない年頃の女が戦死した夫の後を追うことも許されず、必死になって忘れ形見を育てあげてきたのだ。ただ一度、共に歩いたこの川を心の拠り所として。それは『苦労』などという生易しいものであるはずがなく、平和な時代に何不自由ない生活をしてきた中嶋に、上っ面だけの薄っぺらい相づちをうつことさえ躊躇わせた。
 しかしそう思うことさえ本当は失礼だった。霧矢鷹子というこの女性は吹き付ける時代の嵐にまっすぐ顔を向け、それどころか微笑さえ浮かべて、すべてを受け入れてきたのに違いないのだから。運命に立ち向かい、抗うばかりが強さではない。何もかもを包み込んでしまえる大きさとしなやかさの裏側には、強靭な芯が隠されているのだ。
 そして今また新しい運命を受け入れた鷹子は、見知らぬ土地へと旅立っていった。その後ろ姿の見事さに、中嶋は心の中で賛辞を贈らずにいられなかった。
「…………行っちゃいましたね……」
 一気に小さくなっていく機影を見遣りながら啓太が言った。
「ま、あのばあさんなら、どこでだってやっていけるさ」
 気休めではなく、それは中嶋の本心からの言葉だった。たとえそこが知らない土地であったとしても、心の中であの川は流れつづけているのだから。
「そうかな……。そうだといいけど……。でも全然知らないとこなのに……」
「大丈夫だ。俺を信じろ」
「…………はい……」
 さあ。帰るぞ。そう言って中嶋は、いつまでも送迎デッキから離れようとしない啓太の肩を抱き寄せた。ぐずるかと思った啓太は意外にもおとなしく中嶋の胸に納まり……。次の瞬間、ぐいっとばかりに中嶋を押しやっていた。
「啓太?」
「……香水の匂いがする……」
「……?」
「ワイシャツに口紅もついてるし」
「それは仕方ないだろう。車椅子が使えないところは全部俺が抱いて歩いたんだ。移り香もするだろうし口紅だってつく」
「わかってますよっ。俺にだってそれくらい。……でも、何か嫌なんです!」
 それはお互い様だと思いながら、中嶋はそしらぬ顔でくちびるの端を吊り上げてみせた。
「ま、確かに。おまえの言うことも一理あるな」
「……俺の?」
「あのばあさんは、俺が真剣に浮気をしてもおかしくないくらいいい女だった。そうだろう?」
 驚いたように中嶋を見た啓太の表情は、ゆっくりと笑みに変わっていった。中嶋のことばをどう解釈すればそうなるのか理解不能だが、数え切れないほど啓太の顔を見てきた中嶋をして、いい笑顔だと思わせる表情だった。
「そう……。そうです。すごく素敵なひとなんです」
 だから福岡に行ってもきっと大丈夫なんです。自分に言い聞かせるように呟く啓太をあらためて抱き寄せる。今度は啓太も抗うことなく、中嶋とともに送迎デッキを後にした。彼方の空ではすでに見えなくなっていた翼が陽を浴びて、最後にひとつ、きらりと光った。





いずみんから一言

あ〜。やっと書きあがった。長かった。
本当は一昨年の11月にUPしたかったんだよ(汗)。
中嶋氏の浮気疑惑を書いていたときだったから、もう2年くらい前になるだろうか。
逆バージョンで啓太くんの浮気疑惑はどうなんだろう、と思った。
けいたんのことだから相手は3歳児かおばあちゃんなんだろうけど。
そうするうちに鷹子さまからお名前がお借りでき、霧矢鷹子という女性の一生が
出来上がっていた。
タイトルの「die Altweibersommer」は、ドイツ語で小春日和の意なのだそうだ。
大好きな坂田靖子さんの「老婦人の夏」を読んで以来、ずっとどこかで使いたい
と思っていたものだ。
本文中で入れようと思っていたのにどうしても入らなかったのが残念だ。

最後になりましたが、鷹子様と、そして及川弁護士・事務の由里さんの名前を
つけてくださったSNOWさまに、心からのお礼を申し上げます。
由里さんは本当は鈴木由里さんだったのが、鈴木さんが既出だったので
由里さんだけになってしまいました。悪しからず(汗)。
どのキャラもみんな、もし違う名前になっていたら、全然違うキャラになっていた
と思います。
本当に有難うございました。

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