アニバーサリー




 10月だ。
 ベッドから飛び起きた啓太は、真っ先に窓から外を見た。上々の天気だ。
 啓太が転校してきて、今日でちょうど1年たったことになる。あの日もこんなふうに日差しの眩しい日だった。1年前の今日、期待と不安を赤いジャケットに包みこんで、学園島へつづくあの橋を越えたのだ。バスの中から眺めた海の、波頭がきらきらと光っていたことを、啓太は今でも鮮明に覚えていた。
 途中でバスがひっくり返って、気がついたら目の前に王様と西園寺さんがいたんだ……。
 あの日あの時。バスがひっくり返らなければ、啓太の運命はどう変っていただろう? 遠藤との絡みもあるので、いずれ西園寺は啓太に接触してきたはずだ。だがそれはおそらく、ずいぶん違ったものになっていただろう。そうすれば当然、七条との出会いも違ったものになっていたはずで……。
 ここまで考えて、啓太はふるふると頭を振った。七条のいない人生など考えたくもなかったのだ。今となっては橋を上げる要因を作ったすべてのものに感謝したいくらいだった。
 今日は七条さんと出会えた記念日だから一緒に過ごせたらいいな。
 そんなことを思いながら、啓太は4カ月ぶりのジャケットに袖を通した。

 天敵・中嶋英明が卒業してからというもの、七条は学園で一番忙しい存在だといえるかもしれなかった。授業が終われば会計部の仕事が待っているし、それが早くきりあがる時は、たいてい、西園寺のお供で出かけるときなのだ。ふたりのことを認めている西園寺が、最近はひとりで出かける機会を増やしてくれてはいるのだが、海野先生の手伝いをすることもあるし、大学の講義に顔を出すことだってある。プログラムに没頭しているときなど、そこにいるのがわかっていても、声をかけられる雰囲気ではなかったりするのだ。同じ寮に住んでいながら好きな人と自由に会えないもどかしさを、啓太は何度も感じていた。
 早めに七条さんをつかまえて、今夜は一緒にいてくれるようにお願いしないと。西園寺さんの予約が入っちゃったらキャンセルできないもんな。
 ところが寮の食堂でも学校でも七条の姿は見えなかった。休み時間に3年生の教室に走っていっても、すでにどこかへいってしまっている。携帯の電源は切られてしまっているし、メールも返事が来ない。昼休みに食事もとらずに探し回ったあげくに見つけられなかった啓太は、空腹も感じないくらいの失望で泣きそうになっていた。
「どうした啓太。元気ないぞ。さっきの実験だって危なっかしくってさ」
「うん……」
 化学実験室から帰る途中、和希から声をかけられた啓太は、ため息とともに「七条さんがいないんだ……」と吐き出した。
「七条さんがいないって?」
「うん……」
「でもあれは? 違うのかな」
弾かれたように顔をあげた啓太が、和希の指した指の先をたどる。植えこみの向こうに銀の髪が見えた。後姿がちらっと見えただけだったが啓太が見間違えるはずもない。啓太は慌てて手にしていた勉強道具の一切を和希に押しつけた。
「悪い和希。これ持って先に帰ってて」
「おい、啓太!?」
「頼んだよ!!」
「啓太ってば……!!」
 驚いた和希の呼び止める声がした。が、気にせず啓太は七条の後を追った。それなのに植えこみを回りこんでみると、七条の姿はもうどこにもなかった。啓太はほんの数秒そこに立ち止まったあと、七条が向かったと思しい方角へ走っていった。
 
 中庭を抜けようとして始業のベルを聞いた。6時間目は怒ると男より怖い早川先生の古典だ。遅刻とサボりとどっちの罪が重いか走りながら考えた啓太だったが、怒鳴られるのは同じだと思うことにした。和希が誤魔化してくれる万にひとつの可能性に賭けることにしたのだ。啓太は七条に会いたい一心で走りつづけた。走って走って。もう走れないと思うくらい走って、そして足を止めたときには、目に涙がにじんでいた。
 こんなに探してるのに。どこへ行っちゃったんだよ……。
 拳で目を拭って、啓太はとぼとぼときた道を引き返した。七条は授業に出ているかもしれないのだ。こんな時間にやみくもに走り回っても見つけられる確率は低い。ではどこでつかまえるか。思いつくところはひとつしかなかった。

 会計室には誰もいなかった。鍵がかかっているし、ノックをしても返事がなかった。かすかな失望を感じた啓太だったが、誰もいないのは予想の範疇だった。長期戦を覚悟して、啓太は会計室につづく階段で待つことにした。段の中程に座りこんでいれば、授業をサボっているのも目立たないに違いない。
 大丈夫。ここでなら会計室に上がる前に七条さんを捕まえられる。そのとき西園寺さんが一緒かもしれないけど、一緒じゃない確率だって半分あるんだ。俺は運がいいんだから絶対、七条さんは独りで現れる……。
 啓太の願いは聞き入れられたようだ。座ってからいくらもしないうちに、西園寺だけが会計室にやってきたのだ。西園寺は彼に似合わず、分厚い本を何冊も手にしていた。啓太は慌てて立ち上がると、西園寺の手から本を受け取った。横文字のタイトルがついた本は、腕にずしりと重かった。
「そんなところで何をしていた?」
「俺、七条さんを探してて……」
「授業をサボってまでか?」
 西園寺の口調には啓太を咎めるようなニュアンスはなかった。というよりはむしろ、そこまでして七条を探す啓太を、おもしろがって見ているようでさえあった。しかし下を向いてしまった啓太はそれに気づかず、西園寺のうしろからとぼとぼと会計室に入っていった。
「本、ここに置いていいですか」
「すまなかったな。助かった」
「じゃあ俺、これで失礼します」
「啓太」
 本を置くなり会計室を出て行こうとした啓太を西園寺が呼び止めた。
「本を運んでくれた礼にいいことを教えてやろう」
「何ですか?」
「臣なら今日、ここへはこない」
「えっ……!?」
 啓太は固まってしまっていた。なんとか先に七条をつかまえて西園寺の用事を聞かないようにお願いするつもりだったのに、それが自分勝手な思いこみだったなんて……。そんな啓太に気づいたのか気づいていないのか。西園寺は言葉をつづけた。
「臣がこんなふうに姿をくらませたときは、わたしでも居場所を突き止められない。魔方陣でも書けば煙とともに現れるかもしれないと、半ば真剣に思っているくらい、きれいに痕跡を消してしまう」
「そう、だったんですか……」
 西園寺が仕事を言いつけたのではないことがわかって、啓太はちょっとほっとした。
 でも西園寺さんでもわからないなんて。七条さんはいったいどこに行ってしまったんだろう。俺には大切な日だったけど、七条さんにはどうでもいい日だったのかな……。
「今、臣がどこに潜んでいるのかわからないが、それが誰にも見つからない場所であることだけは確かだ」
 誰にも見つけられない場所。そのことばに啓太の中の何かが反応した。それが昨日や明日ならわからないが、七条が姿をくらませたのは「今日」なのだ。それってもしかして、そういうこと……?。
「だから今日は諦めろ。明日になれば何事もなかったような顔をして……」
「有難うございます、西園寺さん!! わかりましたっ。俺、行きますねっ!!」
「啓太……!?」
 西園寺の話を途中で遮ってしまった。いけないと思ったけれど、啓太には止められなかった。啓太の思うとおりなら、七条のいる場所はあそこしかなかった。この考えが当たっているなら、七条は啓太が来るのを待ちわびているに違いない。啓太は会計室を飛び出した。

 全力疾走で寮に戻ってきた啓太は、息をつぐ暇もなく階段を駆け上がった。そしてその勢いのまま、自室のドアをノックした。
「七条さん。そこにいますよね? 開けてください。啓太です」
 返事はなかった。だが両膝に手をついて呼吸を整えようとした、その啓太の目の前で、音もなくドアが開いた。啓太は思いっきり伸び上がって、背の高い想い人に抱きついた。
「七条さん。……やっと見つけたぁ」
「おやおや伊藤くん。ずいぶん早いですね。授業はどうしたんですか?」
 啓太はそれには応えず、七条の頭を引き寄せ、キスをねだった。七条は足先で探ってドアを閉めた。
「鍵もかけてください……」
 啓太が耳元で囁いた。

 キスとキスの合間に、啓太は今日どんなに七条を探し回ったのかを話した。
「ごめんなさい、伊藤くん。ちゃんと言っておけばよかったですね。僕は今日、伊藤くんと一緒にいたかったから、郁の前から姿を消していたんです。電話もメールもオフにしていたのはそのせいなんですよ」
「そう、だったんですか……。よかった」
「授業も最低限必要なものだけにして、後はここにこもっていたんです。昼休みに僕を見かけたっていうのは、ここで整理していたデータを海野先生に届けにいったときですね。ほんのちょっと後ろを振り向いていたら、伊藤くんに気づいてあげられたのに……」
 申し訳なさそうに言う七条に、啓太が黙って首を振った。
「どうして七条さんがいなくなっていたのかわかったから、もういいです」
「伊藤くんと出会えた日は、僕にとってものすごく意味のあるアニバーサリィなんですよ」
「それは俺も……です」
「どうですか? ここはとてもいい隠れ場所だったでしょう?」
「ええ。最高ですね」
 そしてふたりは、今日だけでももう何度目になるかわからないキスをした。ゆっくりと口の中を探る七条の舌に誘われるまま、啓太はついていった。屋上で初めて七条にキスされたとき。啓太はただされるままになっていた。七条の部屋で抱かれたときには、七条の舌に自分の舌を委ねるだけで精一杯だった。そうしてふたりで作った思い出の数だけ、啓太のキスは上手くなっていた。
「……ごめんなさい。夜まで待つつもりだったんですが……」
「駄目です。待ったりなんかしたら……」
 ベッドに倒れこんだふたりは、奪いあうようにお互いの制服を剥ぎ取った。充分すぎる陽の光の中。1年分成長した啓太の身体を、七条が眼と耳と、指と舌とで確かめていく。ひとつずつどこも余さずに。恥ずかしさが身体中をピンク色に染めていた。それでも今日の啓太はけっして「いや」とは言わなかった。七条がどんな姿をとらせても、恥ずかしさよりうれしい気分の方が勝っていたのだ。もっともっと、七条に自分を確かめてもらいたかった。だから七条の舌が自分の内部に入りこんできたときも、枕を抱きしめて、ひときわ甘いあえぎを洩らしただけだった。
「……今日は嫌って言わないんですね」
「だって……。もうすぐ臣さんが入ってきてくれる、っていうことだから……」
「そのとおりですよ。でももう少しだけ、我慢して」
 話しかける声そのものが熱い吐息となって、啓太のそこに吹きかけられていた。気を抜いたらそれだけでもイってしまいそうだ。啓太はもう待てないことを全身で訴えた。
「臣……、臣さ……。もう……」
「このままだとまだ痛いかもしれませんよ」
「いいっ。いいから、早く……来て……!!」
 七条は埋めていた顔を離すと、啓太の腰を引き寄せた。
「お望みのままに」
 啓太の悲鳴は、合わせられていた七条のくちびるに吸い取られた。

 気がつくと外は暗くなっていた。かすかに声が聞こえてくるので、それほど遅い時間ではないのだろう。啓太はまだ重い身体をゆっくりと起こした。隣ではむこうを向いた七条が、軽い寝息を立てていた。
 夜目にも白い七条の広い背中。それはいつもなら啓太に安心感を与えてくれるのに、何故か今日は違っていた。向けられた背中に無意識の拒絶を感じ取ってしまったのだ。5時間目の休み時間に見た七条の後姿が目に浮かんでくる。あの時も七条は背を向けてどこかへいってしまった。
どうしようもない不安にさらされた啓太は、途方にくれた子供のようにベッドにへたりこんだ。
 どうしてこの人は背を向けているのだろう。起きているときはあんなにやさしい言葉をかけてくれるのに。腕の中に包みこんで、絶対に離さないといってくれるのに。こんなふうに背を向けて寝てるなんて。こんなのは嫌だ ―― !!
 次の瞬間、不安を怒りに変えた怒りに啓太は、七条を揺り起こしていた。
「臣さん、起きて……。起きてください」
「う……ん。どうかしましたか……」
「そっち向いちゃやだ……!! ねえ。嫌なんです、ってば」
 仰向けになった七条が眠そうな眼を開いた。それでもまだ二、三度瞬きを繰り返していた七条だったが、啓太の表情に気づいて、気遣わしげな眼を向けた。
「どうしたんですか啓太くん。そんなに泣いたりして」
「俺、泣いたりなんかしてません」
「そう?」
 七条はゆっくりと手をあげ、長い指で啓太の涙を拭った。
「ほら。啓太くんの顔はこんなに涙でいっぱいです」
「だったらそれは臣さんがいけないんです」
「僕が? どうして?」
「……だって。臣さんてば向こう向いてるんだもの。俺に背中なんて向けてるんだもの。そんなの俺……、嫌、なんです……」
 七条は啓太の腰のあたりを抱くと、ゆっくりと引きこむように横にならせた。啓太の身体はすっぽりと七条に包まれた。啓太は抗いもせず、七条のするに任せていた。
「ごめんなさい。僕は左を下にして眠る癖があるみたいです。でもそれで啓太くんを不安にさせてしまうなんて、いけないことですね……」
「……」
「とりあえず、今夜は僕が壁際で寝ましょう。そうしたら一晩中啓太くんを抱いていてあげられる」
「うん……」
「そのかわり、ベッドから出るたびに啓太くんを起こしてしまうかもしれませんよ」
「うん。それでもいい……」

 土曜の放課後。七条の提案で、啓太と七条は啓太の部屋の模様替えを行った。ベッドの向きも変えられ、啓太が壁際で寝ても、七条が背中を向けることはなくなった。そのかわりに以前より寝る時間が少なくなってしまったことは、今はふたりだけの秘密である。





いずみんから一言

西園寺さんが地下室の床に魔法陣を書きます。
ゆらりと立ち上った煙がやがて大きくなり……、七条クンが現れます。
翼も尻尾もあんな小さいものでなく、きっとフルサイズで出てくるに違いありません。
どうしよう。似合いすぎて怖い……(汗)

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