クマに未来はあるか?




  啓太が元気だ。
基本的に元気印の啓太だが、このところやたら張り切っていて、そして忙しそうにしている。ネットと電話帳とで作り上げたリストを手に、どこかへ出かけていくこともしばしばある。日々、寒さを増している風などおかまいなしだ。そしてもらってきたパンフレットをみては、また別のリストを作っているのだ。今のところそのパンフレットは誰にも見せておらず、西園寺は「犬が骨をためこんでいくみたいだ」と言って笑った。
 
 ことの発端はひと月ほど前。七条と一緒に会計室を訪れたところからはじまっている。それまでも会計室にはよく遊びにきていた啓太だったが、晴れて七条と恋人同士になってからは、ほぼ毎日のように訪れている。そしてその都度、何かできることはないかと尋ねるのだ。学生会と違って計画的に仕事をこなしていく会計部でも。否。計画的にこなしている会計部だからこそ、毎日仕事はある。手伝ってもらえるものならいくらでも手伝ってもらいたい。ただ、そうするには会計の仕事は人を選びすぎた。啓太が手伝いたいと思い、西園寺や七条が仕事を任せたくても、基礎知識のまるでない啓太にはできることの方が少ないのだ。資料のコピーやスクラップなどの雑多な作業なら啓太にもできるが、毎日ある仕事でもない。だからその日も、各部から回ってきた書類の検算という仕事しかさせてもらえていなかった。
誤解のないように言えば、啓太本人はそれを不満に思っている訳ではない。とても大事な仕事をさせてもらっていると思っている。だがその日、啓太を探してたまたまやってきた和希の目には、ほかにさせられる仕事がなかったというのが明白に映ってしまったのだった。何故ならそんなところで検算をしなくても、パソコンに入力すればミスなどすぐに見つかるからだ。作業に慣れた七条なら、添付されたバーチャー類とチェックしながらの入力でも、啓太が計算機をたたくより早く処理してしまうに違いない。だから啓太のしていることは無駄とまでは言わないものの、しなくても困らない作業でもあった。
それが分かってしまって黙っていられる和希ではない。有体に言えば、そんな仕事をさせられる啓太が不憫だった。かと言って何でもやらせていい訳でもないのも分かっている。ではどうするか。答えは簡単。啓太にもできる仕事を作ればいい。そうして和希と西園寺が秘密裡に会って決めたのが、『クリスマスパーティーで使うケーキを選定する』という仕事だった。
「パーティーのケーキは我らが理事長どのがどこかで焼かせていたのだが、一昨年など高級すぎて口に合わないとかオヤジくさいとか、まあ批判もいろいろ出ていたんだ」
「なるほど。僕たちには良かったですけど、そう思った人も多かったかもしれませんね。あの滝くんが一切れ食べただけでやめてしまったくらいですから」
「へ〜え?」
 啓太にとってみれば高級なケーキ = 美味しいんじゃないかと思うのだが、高級すぎて良く分からない味というのもなんとなく分かる気がした。西園寺のところでお相伴させてもらうケーキはもちろん美味しいが、コンビニで買ってくる300円程度のケーキの方が美味しいと思えることだってあるからだ。
「じゃあ去年はどうだったんですか?」
「えっ……?」
「去年、だと?」
「ええ。去年のです。一昨年が高級すぎたんなら、去年のはどうだったのかな〜って」
 ほんの一瞬だが、不思議な間があいた。七条と西園寺が視線を絡ませあった時間である。啓太が気づくより前にそれをはずした西園寺は、そのままそっぽを向いて「あれはケーキじゃない。ただの悪趣味だ」と言い放った。
「はい?」
 啓太が聞き返したのも無理はない。啓太が聞いたのはクリスマスケーキの種類なのだ。いちごがたくさん載ったのだとかブッシュドノエルだったとか、驚くくらい大きかったとか。聞くだけでも楽しい気分になれる、そういう答が返ってくるはずだったのに。それが「悪趣味」とは……。いや。それ以前に、クリスマスケーキと悪趣味を、どうすれば同じ土俵に引っ張り上げられるというのだろう?
「チョコレートケーキの中にラズベリーソースを入れたものでしたよ」
 啓太が何かを言うより先に七条がそう答えたのは、誤魔化したというよりは彼なりの優しさだったかもしれない。西園寺は「悪趣味」と表現したが、七条にとってあのケーキは「悪夢」だったからだ。せっかくのケーキに対するあの仕打ちは、味が最上級だったからこそよけいに許せるものではなかったが、だからといってわざわざそんなものを教えて、啓太まで不快になる必要はどこにもない。だが、どこか困ったような彼の表情が、せっかくの心遣いを裏切っていた。
「まあちょっと……。皆の思っていたものと理事長殿が思ったものとの間に深刻な温度差があった、ということですよ」
「……ふ〜ん……?」
 納得はしていないようだったが、啓太はそれ以上の追求はしなかった。西園寺はともかく七条がこんな微妙な表情を見せるほどのシロモノと思えば、想像はできなくてもどれほどひどいものだったかの予測はついた。もっとも、怖いもの見たさでどんなものだったか知ってみたい気持ちはあったが、啓太はそこまでチャレンジャーではなかった。
「そこで反省したらしい理事長から、今年のケーキは会計部に一任されたというわけだが……」
 西園寺がデスクに置いてあった封筒を取り上げた。薄い青の封筒は理事長専用のものだった。
「啓太。おまえに任せるから、好きなのを選んでこい」
「えっ!俺……?」
「そうだ。わたしが選べば一昨年のケーキととあまり変わらない選択になってしまいそうだし、臣に任せると何を買ってくるか分かったものじゃないからな」
「戦隊ものキャラクターケーキはお気に召さなかったですか?」
「ケーキの上に何故あんな人形が必要なのか、理解できなかっただけだ」
「サンタやトナカイの人形は良くて戦隊ヒーローだと駄目な理由も理解できません」
 ……よく分からないが、どうやら啓太の知らないいつかのクリスマスに、七条が戦隊ものキャラクターケーキを用意したことがあったようだ。やけににこにこしている七条を見ていると、それを目にしたときの西園寺の表情が見える気がした。
「おやおや。郁は遊び心が分からないようですね。サンタやトナカイでは当たり前すぎて面白くないでしょうに」
 大仰に肩をすくめてみせる七条に、西園寺は軽く鼻を鳴らしていなした。こんな仕草でも西園寺は嫌味にならず品がいい。憧れのたっぷりこもった息を吐きながら、啓太は西園寺の差し出した封筒を受け取った。封筒の中身は数枚の紙で、理事長主催クリスマスパーティーで使うケーキの手配を会計部に委嘱すること。予算は総額で5万円迄であること。店舗の選択、サイズ及び個数は会計部に一任すること等が、会場の配置図と共に記されていた。これによると丸テーブルを中心に長テーブル5つが配置され、この長テーブル用ケーキをこちらで用意するということらしい。
「中央の丸テーブルには、理事長手配のケーキが載るらしい」
「やっぱりくまのケーキですかね? あの方もお好きだから」
「さあな。それだけは願い下げたいが。啓太」
「は? はいっ」
 真剣に書類を読んでいた啓太があわてて顔をあげた。
「金にあかした理事長のケーキより、学生みんなが群がるようなケーキを用意しろ」
「はいっ! わかりましたっ!」
 クリスマスケーキ大作戦(仮称)のはじまりだった。

こうして会計部の『お客さま』から1歩抜け出した啓太だったが、最初にしたのは和希をつかまえることだった。この時季、和希は身体がいくつあっても足りないくらい忙しいらしく、学校で話をするのが難しくなっていた。というより、姿を見つけるのが難しいのだ。1時間目にいたからといって、2時間目にもいるという保証はどこにもない。休み時間に話をしようとするのは、まさに至難の技だといえた。逆にずっといなかったのが、昼休みに出てくるのか中途半端に5時間目だけ出席していたりする。そのあたりは今までの出席数と関係しているらしく、啓太には予測のつけようもなかった。だが啓太だって伊達に『親友』やっている訳ではない。夜のうちに寮へ戻れたら、和希は必ず朝食を取りにくることに、ちゃんと気がついていた。たとえ出席したすべての授業で爆睡していたとしても、朝食だけはしっかりと取るのだ。だから毎朝食堂で待っていれば、忙しい和希の時間を邪魔せずに話す時間は取れるはずだ。そうして待ち続けた金曜日の朝。思惑通り啓太は食堂で、フリカケごはんに焼魚、だし巻き玉子と味噌汁という、絵に描いたような朝食を取っている和希に遭遇することができたのだった。自分のトレイを返した啓太は、おかわりを注いだポタージュスープのカップを手に、和希の前の席に座った。
「おはよ、和希」
「うん。おはよう。啓太」
「朝から和食って珍しいね。いつもはパンだろ?」
「疲れてくると和食が欲しくなるんだよ。昼や夜がうまく食べられない恐れがあるときは余計にね」
ビジネスマンは大変だと、和希を見るたびに啓太はそう思った。この分では和希は今日も、学校には寝に出かけるのだろう。啓太に和希の仕事は手伝えないが、せめてノートくらいしっかり取って学校での役には立ちたかった。そうすればこのところ七条との恋愛気分にどっぷりとつかっていて和希に心配をかけている、せめてもの罪ほろぼしになるかもしれない。
「で?」
「で?」
「俺に何か用なんだろ? 何か話したいって、そんな顔してる」
だし巻き玉子に大根おろしをのせながら和希が言った。和希は確かに童顔で、クラスの中でも違和感などはまるで感じないが、こういうときにぽろっと出る行動で、努力を裏切ってしまうことが時々ある。内心でオヤジくさいなと思いながらもあえてコメントを避けた啓太は、ただ「うん」とだけ続けた。
「あのさ。クリスマスパーティーのケーキなんだけど」
大根おろしをたっぷりのせただし巻きをちゃんと口に運べたのは、和希が今までに積み上げてきたビジネスキャリアが無意識にさせてくれたものだ。言い換えればそれほど和希は驚いていたことになる。啓太に仕事をさせてやるために今回の件を画策したのが、バレてしまったかと思ったのだ。だが啓太は和希と西園寺との密約に気づいた様子もなく、ただその件に対する礼を述べただけだった。
「会計部に依頼してくれて有難うな。あれ、俺が任されたんだ」
「あ。そうなんだ」
「うん。何かいろいろ理由は言ってたけど、でもやっぱり信頼してくれてるからだと思うんだ。だからがんばってケーキ選ぶよ。みんなが美味しいって食べてくれるようなやつをね」
それが任せてくれた西園寺さんや和希にできる恩返しだと思うから。そう言ってはにかんだように笑う啓太に、和希は造りものでない笑顔を返した。啓太のこんな笑顔が見られるのなら、もっと早くに仕事を見つけてやればよかったと、ほっとする一方で和希はほんの少しだけ後悔した。
「こちらこそ、そんなに喜んでくれて有難うな。学生会に発注しなくてよかったよ」
「えっ? 学生会に出すはずだったの?」
「そうだよ。っていうか、基本は学生会だろ? 発注書類についてた会場配置図とか作ったの学生会だし」
「そうだったんだ……」
「だけど王様にケーキなあ……、とか思っちゃってさ。かと言って中嶋さんが選ぶのも。なあ?」
「あはは〜」
どっちもあまり想像したくないと思いながら啓太が頷いた。丹羽が選ぶとバケツで焼いたみたいな豪快なケーキが出てきそうだし、中嶋が選べば逆にスタイリッシュすぎてナイフを入れるのを躊躇ってしまいそうだ。どちらにしても、あまり美味しそうではない。
「その点、会計部だったら七条さんがいるしな。学生会よりはいい選択をしてくれそうだったからさ」
「うん。和希のケーキより美味しそうなの探してくるからな」
「ふーん……?」
 味噌汁の残りを一気飲みしながら和希が唸った。汁椀の内側に張り付いたワカメを箸の先で丁寧にはがして口に入れる。そして。空になった汁椀をおもむろにトレイに戻した和希がにやりと笑った。
「よし。俺のケーキと勝負だ!」
「勝負?」
「啓太のケーキが俺のより人気があったら、ホテルの最高級スイート1泊プレゼントする。今からだと年内の宿泊は無理かもしれないけど、年明けなら好きな日に泊まれるようにしておくから」
「和希が勝ったら?」
「その時は……。う〜ん。理事長室の掃除1カ月とか?」
 理事長室の掃除1カ月というのは考えただけでもうんざりしそうだったが、最高級スイート1泊ご招待は魅力がありすぎた。こっちには七条・西園寺ペアという最高の顧問が控えているのだ。心を決めるまでもなかった。
「うん。やるよ。受けて立つ!」
『クリスマスケーキ大作戦(仮称)』は、どうやら『クリスマスケーキ・ガチバトル(仮称)』に変わったようだった。

 こうしてはじまったクリスマスケーキ・ガチバトル(仮称)だったが、啓太にとって有難いことに、七条とのつきあいに何の影響も及ぼさなかった。これが中嶋や岩井が相手ならそうもいかなかったろうが、七条も甘いものが大好きだったからである。だから七条に会計部の仕事がないときには、ケーキ屋にパンフレットをもらいに行くのが、そのままデートになるのだった。やがて暗黙のルールが出来上がり、橋向こうの街のケーキ屋は啓太ひとりで。それより遠い店にはふたりで出かけるようになった。
「インターネットに情報が出てないからといって、無視したりしてはいけませんよ?」
 柔らかく微笑みながら七条が言ったのは、絶品としか言いようのないキャラメルムースを口に運んでいたときだった。そこは電話帳にこそ名前があったものの、ネット上ではブログや口コミにさえ上がってきておらず、啓太がパスしようとしていた店だったのだ。大半が営業をやめてしまった商店街の終わり近くにあるその店は、もはや改装する余裕もないのか古ぼけていて、あちこちでペンキがはげかかっていたりもする。前まで行ったものの、中に入らず引き返そうとした啓太を責められないくらいのみすぼらしさだった。だが「せっかく来たんだから入ってみましょうよ」と七条に促され、狭い店の隅に無理やり押し込まれたテーブルについたくらいから、その印象が変わりはじめる。そして。運ばれてきたケーキとコーヒーを口にした瞬間、パスしなくてよかったと、心の底から思ったのだった。喫茶店ではないので飲み物がコーヒーしかなかったが、それがまた、紅茶党の七条までが手放しで絶賛するくらい、ケーキに良く合っていた。
「こちらのご主人は、ケーキというものを良く分かってらっしゃるようですね」
「俺、どこがどう美味しいのか良くわかんないんですけど、でも、いくつでも食べたくなる美味しさですっ」
「それはきっと、バランスがいいからでしょうね。材料のそれぞれが主張しすぎず、お互いを引き立てあっているんです」
 ここまで寂れてしまった商店街にありながら今までつぶれずに営業できているのには、相応の理由があるということだ。西園寺への土産にと買った『毎日は作らない大人のプチシュークリーム』も『ミルフィーユみたいに見えるけど実はタルト・タタン』も好評で、啓太はこの店を隠し球に使うことに決めた。うまく使えれば和希に対する有力な対抗馬になってくれるに違いない。

 これ以降も、啓太はあらゆるケーキ屋に足を運んではクリスマスケーキのカタログをもらってきた。今はスーパーやコンビニといえども侮れない品揃えをしていたりして、カタログだけでも十分すぎるくらい楽しめる。それをベッドの上に並べてはあれがいいとかこっちにしようとか、これはボツとか言って順番を変えていくのだ。だがその行程は完全に極秘で、西園寺や七条にさえ見せていなかった。いちばん最初に西園寺から「わたしたちにも中身は教えるなよ。むろん、相談も駄目だ」と言い渡されていたからである。会計部のふたりも驚かせられなくて和希に勝てるはずがない、という訳だ。意図をきちんと理解した啓太は、選ぶポイントを「和希に勝てるもの」ではなく
「みんなが喜んでくれるもの」に絞った。みんなが喜ぶ顔を思い浮かべながら選べば、きっといいケーキを見つけることができる。そうすれば和希との勝負にもいい結果がついてくるだろう。
 20冊を超えるカタログを並べ、隅から隅までなめるように眺めていると、いろんなものが見えてくる。最初はきれいだと思っていた金のトナカイも、まったく同じ飾りがあちこちで使われているのを見れば営業して回った業者がいたからだと分かるし、同じ店の同じケーキでも本店よりデパートの特別販売の方が飾りが少ないのは、値段を変えられないので出店料の分だけ飾りを減らしたからに違いないのだ。そういう『何か』を見つけるたび、啓太は「へぇ〜?」とか「そっかぁ」とか言いながら、次に七条に会ったとき ―― と言っても、翌日の朝食か昼食なのだが ―― の話題をためこんでいった。それは啓太にとって仕事を任せてもらえた以上に楽しいことのようだった。なにしろ恋人同士になったとはいえ、啓太と七条は出会ってまだほんの数か月。ふたりでいる時間は楽しくてあっという間に過ぎて行ってしまうものの、何かの折りに話題が途切れてしまうと、間がもたなくて居心地が悪くなってしまうのだ。七条はどうあれ啓太の方は、まだ沈黙の向こうに流れる温かさを感じとれる程にはなっていなかった。だから軽い話題のネタはいくらでも欲しかったのだった。「犬が骨を埋めるみたいだ」と言ったのは西園寺だったが、寝る前にためこむ様子はむしろ、冬眠前のクマを思わせた。
 
 さて。そうこうするうちにどんどん日は過ぎ、パーティー当日がやってきた。この少し前に出たパーティーで大失敗をやらかしてしまった啓太は、少々しょんぼり気味にこの日を迎えることになった。原因を作ったパーティーがケーキの発注よりあとだったのは、誰にとっても幸いであった。少なくとも細かいところまで気の回らない状態で選んだケーキではないのだから。迎えにきた七条とともに啓太が設営中の会場に入ったとき。中央のテーブルのど真ん中。和希が手配したケーキがあるとおぼしき場所はぴっちりと覆われてしまっていて、中を覗けないようになっていた。
「おやおや。あの方もずいぶん大人気ないようですね」
「よほど自信があるか、まったくないかのどっちかだな」
 呆れ気味の七条に応じたのは、彼らと同じく設営にきた丹羽だった。理事長とのクリスマスケーキ・ガチバトル(仮称)がもれたのかと焦りかけた啓太だったが、どうやらそういうことではなかったようだ。彼らが話しているのは、純粋に去年のケーキからの連想らしい。
「まさかまたクマじゃねえだろうな」
「まさか。それはないだろう」
 料理の配置の指示をしていた中嶋が、書類から顔もあげずにそう応じた。
「あれほどひどいケーキが2年も続けばトラウマになる」
「夜中にうなされたりしてな」
 思わずといった感じで笑いが上がったところで、がまんしきれなくなった啓太が、それはどんなケーキだったのかと問いかけた。聞かなくてもいいかと思ってはいても、こうして皆が笑っている中に入れないのはやはり寂しいものがあるのだ。それに何も秘密にされていたわけではない。西園寺も七条も自分からの言及は避けたとはいえ、啓太が問えばちゃんと教えてくれただろう。敢えて聞かなかったのは啓太の方だ。すごく美味しくてきれいだったケーキならともかく、西園寺が「悪趣味」と切って棄てたようなケーキなのだから、と。
「なんか噂に聞くばっかりで、どんなケーキだったのかしらないんです」
「何。単なるチョコレートのケーキだ。中にラズベリーのソースが入っている」
「それは俺も聞いてます。でもそれのどこがトラウマだったり悪趣味だったりするんですか? ラズベリーとチョコレートってよく合うと思うのに」
「ええ。その組み合わせなら僕も好きですよ? でも……」
 七条はふうっとため息に乗せて、「普通の丸いケーキだったら良かったんですけどねぇ……」と言った。
「要するにな。形が15センチほどのクマだったんだよ」
「クマ型で焼かれたブラウニーに、青の食用色素で色をつけた生クリームが塗られていたな。目や口はチョコレートだったか」
「……青のクリーム……」
 それは美味しくなさそうだと思いかけて、啓太は問題がそこではないのに気がついた。何度も繰り返されているのは「チョコレートケーキにラズベリーソース」ではないか。それがクマ型と結びつくと……。
「もしかして。それって……」
「皿の上にだな、クマが1匹のってるわけよ。それを食うのに、まず足とか手とかアタマとかをフォークで切断しなきゃならねえだろ? そして切り離すと、中から赤いソースが流れ出るんだ」
「うあ……」
 片手を挙げてそれ以上の描写を拒否しながら、啓太はもう片方の手で顔をおおった。聞いてしまったことを思いっきり後悔してしまう。なぜなら相手は血の色のソースを流すクマちゃんケーキなのだ。西園寺が悪趣味と言ったのも頷けた。そして微妙に話をずらしてくれた七条の心遣いがとてもよくわかる。もし自分がそれを食べていたら、中嶋じゃないがトラウマとなって夜中に夢に見たかもしれなかった。
「まあ、さすがにクマは恥ずかしくなったんじゃねえか?」
「恥ずかしいのなら、あんなオーナメントは使わないと思いますが?」
「へっ。違いない」
 ステージ脇に立てられた大きなクリスマスツリーを飾るのは、大小色とりどりのクマたちだけ。知っている者が見れば一目で和希の手作りと分かるオーナメントだった。
「すみませーん。ケーキお届けに来たんですけどー」
「あっ、はい。こっちにお願いします」
 しょんぼり気分はクマちゃんケーキの衝撃で吹っ飛んでいたが、いつまでもそのインパクトを引きずってもいられなかった。七条の隣でちょっと呆然としていた啓太は、まるで魔法が解けたように動きはじめた。クリスマスケーキ・ガチバトル(仮称)はまだ始まっていないのだ。

 理事長からの発注書には、テーブルの配置図はあったが、すべてのテーブルにケーキを置かなければならないとはどこにも書いていなかった。何度も読み返して腹を決めた啓太は、ケーキの数を3つにした。ひとつは今、届いたばかりのチョコレートケーキだ。つややかなグラサージュショコラに金のトナカイはシンプルなだけに美しく、ある意味、クリスマスケーキの定番と言えた。
「美味しそうですね」
「中は洋梨とキャラメルとピスタチオの3層ムースなんです」
「WOW! では僕はこのケーキを是非頂くことにしましょう。誰かに先を越されたりしたら、夢にみてしまいそうです」
 そう言った七条に、啓太は「大丈夫」と返した。
「このあとのふたつはもっとすごいですから、先を越されても平気です」
 啓太にとって、ここから先が大勝負なのだ。七条には言っていないが、このクリスマスケーキ・ガチバトル(仮称)にはホテルの最高級スイートがかかっていた。それどころか負ければ1ヵ月も理事長室の掃除が待っている。そんなつまらないことで七条との時間が減るのは願い下げだ。こんな定番のケーキなどジャブにもならない。和希は自分のケーキ1個に対して、啓太には5個まで選ばせてくれている。つまりハンデをくれたつもりなのだろう。ならばこそ真っ向勝負を挑みたいと思う。本命はこのあとの2個だ。自分でも気づかないうちに啓太は両手をグーに握りしめていた。勝負の開始まであと15分。

『さあ、みんな! 楽しい楽しいクリスマスパーティーのはじまりだよ〜。今年1年、みんなよくがんばったよね? クマちゃんも、くーっ! 嬉しいぞー! 今日はみんな、自分にご褒美のつもりで楽しんでね〜っ♪』
 例によって例によるクマちゃんの挨拶のあと、当事者以外には誰も知らない(笑)クリスマスケーキ・ガチバトル(仮称)の幕が切って落とされた。
 会場内に足を踏み入れた学生がまず目にしたのは、クマちゃんに飾られた大きなクリスマスツリーではなく、シュークリームでできたテーブル上のクリスマスツリーだった。高さは1メートルほどで、上から生クリームの雪をまとっている。
「へぇ? プロフィットロールでツリーか。うまく考えたね」
 誰もが思った感想に単語がついてきたのは、今のところ成瀬だけだった。女の子を口説いてまわるには、スイーツの基礎知識も大事なのだろう。普通のプロフィットロールはシュークリームを円錐形に積み上げたものであるが、何度も何度も打ち合わせに足を運ぶ啓太をすっかり気に入ってしまったパティシエが、シューを抹茶チョコでコーティングしてくれた特別製だった。それを自分で届けにきて、会場内に設置してから、上からの生クリームをかけて仕上げたのだった。接着剤代わりのキャラメルが枝のようにのぞいているのも、ひとつの風情のように見えた。
「中のクリームは何種類かあるはずなんです。どれも西園寺さんお墨付きの美味しさですから、いろいろ食べてみてください」
「それは美味しそうだね。全種類制覇をめざしてみるよ」
 どんな風にできているのかと学生たちが次々に集まってくる様子に、啓太はほっとした息を吐いた。何とか目を惹くことには成功したようだ。やれやれと思いながら会場を見回してみると、最後のケーキにも学生が集まってきていた。これは60センチ四方の大きなもので、真っ白に絞られた生クリームの中に、クリスマスのベルとベル・リバティをひっかけた絵柄がフルーツで彩られている。一見シンプルに見えるそれは、だが5センチ角ほどのケーキの集まりでできていた。せっかくの絵柄なのにナイフを入れて汚く崩れるのを残念に思った啓太が、パティシエに相談してできたケーキだった。これだとケーキサーバーですくっていけば絵柄を崩さずに取っていける。中は8種類のケーキをランダムに並べたもので、クリームで飾ってしまった今となっては、作った本人にもどのケーキが皿に乗るかはわからないのだ。プロフィットロールと同様ギャンブル性のようなものがウケたのか、あるいはおもちゃ箱のようないろいろ感がよかったのか、学生には結構好評だった。
「さあ! 余興だ、余興。1年生は歌って踊れよ!」
 丹羽の声に促されて、最初のグループが手品をはじめた。クリスマスの余興は1年生の担当というのが学園の伝統なのらしい。トップバッターの意外なくらい達者な芸に、おざなりでない拍手が上がりはじめた頃、出番の準備をしていた啓太のところに和希が合流してきた。
「啓太のケーキ、好評そうだな」
「おかげさまでね」
「ふふん。俺のも負けちゃいないけどな。今年のはすごいぞ〜。なにしろ高さ50センチだからな」
「へえ? だけどそれっていつ出るんだ? もうとっくにはじまってるのにさ」
「もうすぐなんじゃないか? 今日はぎりぎりまで研究所にいたから、クマちゃんは岡田に一任してるんだ。どっかでタイミングを見てるんだと思うよ」
「え? じゃあさっきの挨拶も……」
「そう。岡田だよ」
「うそ。マジ? それ」
 和希の秘書はふたりいて、若い方が岡田だ。実際どうかは別として、啓太の印象としてはくそまじめでガチガチの石頭で融通がきかず、いつも不機嫌で厳しい表情をしている。啓太が和希と一緒のところを見られでもしたら、にらみつけてくる視線が痛いほどだ。その男がさっきのクマちゃんの挨拶をしたとは、言われてすぐに信じられるものではなかった。
「あの人に何やらせてんだよ。そのうちパワハラで訴えられても知らないぞ」
「何を言う。あのくらいの芸当ができなくて、海千山千のタヌキを相手にできるかよ」
 涼しい顔で和希がそう言ったところで彼らの出番となり、啓太はそれ以上のことを言いそびれてしまった。もっとも、それほど気のきいたことも言えそうになかったから、言えなかったからといって残念ではない。

「さあー。みんな待たせたね〜。本日のメインイベーント! クマちゃんからのプレゼント。特製のケーキをオープンするよー!」
 パワハラかどうかは別にして、岡田はとても職務に忠実だったようだ。ネタバレしてから聞いてもクマちゃんにしか聞こえないなりきりようだ。一流企業の役員秘書などという人も羨む仕事に「クマちゃん語で喋る」などという項目があるなんて、恐らく誰も知らないのに違いない。和希や岡田を見ていると、社会人には高校生にはわからない苦労があるんだなと、啓太はいつも思ってしまうのだ。それでも嫌う気になれないのは、こういう苦労を見てきているからかもしれなかった。
「カウントダウンいいかなー? 5! 4! 3! 2! 1! ケーキ、オープーン!」
 皆の目が集中したところで丹羽がケーキの覆いに手をかける。啓太がそっと伺ってみると、和希は自身満々な顔をしていた。それは遠藤和希というよりは鈴菱和希の表情に近い。かなりの自身が感じられ、啓太の胃はつかまれたように重苦しくなってきた。はたしてどんなケーキが出てくるのか。七条と最高級のスィートルームに泊まれるのか。はたまた理事長室の掃除に通わなければならなくなるのか。祈るような想いの啓太の耳に、周囲からのどよめきが届く。
 テーブルの上に鎮座ましましていたのは、ピンク色のクリームにおおわれた高さ50センチほどの「等身大クマちゃんの妹・3Dケーキ」だった……。

「それにしても、何だってあの方はまたクマのケーキにされたんでしょうね」
 豪華な調度にはほとんど目もくれず、部屋に案内された数分後にはベッドに飛び込んでいた七条が、思い出したようにそんなことを言った。
 あれから2週間あまりが過ぎた今日。啓太と七条は冬休みの最後を利用して、理事長から勝ちとった高級スィートルームでの甘い時間を楽しんでいた。
 用意されていた部屋は本当に贅沢なものだった。まず広い。その広い部屋に入って目に飛び込んでくるのが、壁一面に大きく取られた窓に広がる風景だ。あいにく空は冬特有の灰色をしていたが、時折雲の隙間からさしこむ陽の光が、雲のふちを金色に染めて見せる。春なら春の、夏なら夏ならではの風景が、この窓から眺められることだろう。そして窓際に立てば、遮るもののない街の風景が視界一杯の広がりを見せるのだ。夜になれば見事な夜景に心を奪われるに違いない。これが神の手による演出であれば、この部屋はまさしく特等席であった。
 であれば、それに相応しい部屋を作り上げねばならない。インテリアデザインを担当したのはヨーロッパの王室関係者の部屋を多く手がけたデザイナーである。彼はたっぷりとした空間に優雅なアールのついた家具を配置し、そこにセーブル焼きの大花瓶に生けた洋花で彩りを添えていた。単独で見れば派手になりかねない花が、淡い青でまとめた周囲の印象を引き締める効果を見せている。これだけ華やかにしていながらうるさくならず、ゆっくりくつろげる空間は、最高級の名に恥じないものだった。
 ところが。西園寺ほどではないにしろ、七条ならただ佇むだけで一幅の絵画のように見えるはずのこのリビングを、七条も啓太も見事にスルーしていたのだ。すばらしい風景を見せる窓際に立つこともなければ、座りごこちのよさそうなソファに腰をおろすこともなく。和希が聞けば「……ったく。ベッドだけありゃあいいのかよ」と絶句したことだろう。最終的な目的はそこでも、周囲にも目くらいむけろと言いたかったのに。だが元気盛りの高校生にそんな理屈が通じるはずもない。部屋の説明をしたベルボーイがドアを閉じたとたんにリビングを抜け、ベッドに飛び込んでいた。いちゃいちゃべたべた上等! といったところである。
「ああ。えっとぉ……。和希は和希なりに去年の不評を分析したらしいんです。それがどういう訳か『切り分けられないから不評だった』と『やっぱり青いクリームは食欲をそそらない』のふたつが原因だって思っちゃったんですねぇ」
「確かにそれも理由の一端でしたよ? しかしあくまで枝葉末節にすぎません。的確に失敗の分析ができないとは……。それでは経営者失格です。クマに未来はありません」
「ホントに。俺もそう思います。切り分けるにしたって、なんでクマなんだろう、って」
「ええ。皆の悲鳴でクマの解体ショーが阻止できたのは、不幸中の幸いでした」
 そう。和希が自信満々で出してきたピンクのクマちゃんの妹ケーキは、誰かがナイフを手にするごとにBGMをかき消してしまうほどの悲鳴に阻まれ、ついに切り分けられることはなかった。つまり学生たちは幸いにもクマの解体ショーを見ずにすんだのだった。
「あのピンクのクリームはとよのか苺のソースを混ぜて作ったそうなので、クリームの味だけならみてみたかった気もしますけどね」
「ケーキそのものは研究所にもっていって夜食に出したらしいですよ。見た目はどうあれ味だけは良かったんで、10分ほどできれいになくなっちゃったらしいです」
 ふうん……。と言いながら七条は啓太を身体の下にひきこんだ。こんなピロートークのネタにしてはいるが、和希がクマちゃんに拘ってくれたからこそ、今ここでこんな時間をもてているのだ。最高級の部屋のベッドは、程よいやわらかさでふたり分の体重を受けとめている。
「では伊藤くん」
「はい?」
「クリスマスケーキの勝者に敬意を表して……。最高級の時間を楽しみましょうね」
 クマちゃんの変わりに、啓太の全身がピンクに染まった。





いずみんから一言。

ピンクのクマちゃんはクリームの部分を切り分けたあと
中のスポンジはチョコレートファウンテンになる予定でした。
しかしそれをやると「クマの解体ショー」になるなと思って……(汗)。
解体ショーのことばだけ本文中で使ったのでした(滝汗)。



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