ありがとうの日




「中嶋さん。誕生日、おめでとうございます。生まれてきてくれて……。本当に有難う……」
 日付が変わるのを待ってそう言った啓太は、本当に幸せそうな顔を見せ、そして自分のすべてを明け渡した。

 今日は俺の誕生日なんだが。
 そんなことを思いながら中嶋は小さく息を吐いた。夜明けの遅い今の時季では、空は白々とさえ明けていないが、闇に慣れた目にならベッドの上の状態くらいは分かる。傍らでぐったりと伸びきっているのは、ほんの数分前まで中嶋を楽しませていた啓太である。
 あの月の夜に中嶋が自分のものにして以来、ひとつ、またひとつと夜を重ねてきた。最初はただしがみついていることしかできなかった啓太も、中嶋の教えることを少しずつ覚え、今では前ほど手がかからなくなっている。それでもあの頃の初々しさをなくさない啓太は、本当に貴重な存在だと思う。俗に言う『昼は聖女で夜は娼婦』とまではいかないにしろ、手がかからなくなった分、純粋に楽しむ時間が増えたのは確かだ。
 そう。楽しんだのだ。一晩たっぷり。声を楽しみ、表情を楽しみ、快楽を楽しんだ。啓太の見せるほんの小さな反応までが中嶋の男をそそり、溺れていく自分を自覚しつつも自制することはできなかった。否。しようと思いさえしなかった。啓太相手に何を遠慮する必要があるというのだ? 啓太で楽しむ権利は、正しく自分のみにあるのだから。だから楽しんだ。心ゆくまで。
 だが……。と、中嶋は思う。楽しませてはもらったが、中嶋が楽しんだ以上に啓太の悦びの方が強いのではないか。こうして何度目かの絶頂を迎えるなり意識を飛ばす啓太を見ていると、自分が奉仕しただけのような気分にさえなってしまうのだ。まあ……。損をしているとまでは思わないが。
 ついでに言えば今日は誕生日なのだから、ちょっとしたオプションくらいつけてもらってもいいのではないかとも思う。一緒に風呂に入って身体を洗ってもらうくらい、無理無体な要求ではないはずだ。ベッドとはまた違う行為に恥ずかしそうに頬を染めながら石鹸の泡を塗りたくってくる啓太は、さぞかしいとおしく感じられることだろう。そのままそこで第……いくつだ? 第4か第5か、とにかく新しいラウンドに入るのだって悪くないではないか。中嶋はもちろんソープランドなど利用したことはないが、啓太に奉仕してもらえるなら、見慣れた家の風呂場でも楽しいに違いない。
 とはいうものの、甘くもなければ薔薇色でもないのが現実というものだ。らしくもない夢想をしてしまった自分を恥じつつベッドを降りた中嶋は、よいしょとばかりに啓太を抱えあげた。どうやら啓太には洗ってもらうより先に、自分で風呂に入ることを教えなければいけないようだ。こちらから無理やり奪ったのではない。啓太が自分から差し出してきたのだ。「お誕生日スペシャルです」というのなら、最後に自分で風呂に入るくらいの気構えを見せて欲しいものだ。よく言うではないか。『家に帰るまでが遠足』なのだ。
 抱えあげても啓太は目を覚まそうとはしなかった。安心しきっているのだろう。出会った頃はまだ華奢で抱き上げやすかったが、背が伸びて筋肉もついてきた今では、シャワーを浴びさせるのも時間がかかってしまう。面倒なことだと思いつつ、その面倒をすでに数え切れないくらい繰り返してきた自分もどうかと思う。
 十分すぎるくらい自覚のある中嶋は、そうして自分を誤魔化すために、自分に向かって言い訳をする。
 シーツも身体もべとべとで、このままでは眠れない。啓太を放っておくと自分まで気持ちよく寝られないなら仕方がない。ならば一緒にシャワーを浴びさせるしかないではないか、と。
「こら。目くらい覚ませ」
 泡立てた石鹸で鼻の下をくすぐってみても、啓太はほやんと笑っただけだった。

 今日は俺の誕生日なんだが。
 バスタオルを巻いた啓太をソファに転がした中嶋は、ベッドのシーツをはがしながら、小さく息を吐いた。キングサイズのベッドは大人の男がふたりで寝ても狭くはないが、シーツを変えたり布団を干したりするときには大変だ。高校時代の寮のベッドと比べると、シーツの面積は3倍近くあるだろう。中嶋が洗濯機を買うときの基準は、じつはこのシーツが洗えるか否かにある。誰が何を洗ったかわからないコインランドリーで、直接肌に触れるシーツなど洗えるはずもないからだ。それに、頻繁に換えることを思えば、その都度コインランドリーに足を運ぶのも面倒だった。
 とにかく啓太は遠慮も何もなくあたり中に撒き散らしてくれる ―― しかも何度も、だ ―― ので、多いときには週に何度も交換が必要になる。男所帯ではおよそ考えられないほどのシーツ交換を、中嶋家では、もとい中嶋はおこなっているのだった。
 そうだ。中嶋と啓太は、啓太が少年から青年へと姿を変えるだけの時間を共に過ごしているが、その間で啓太がシーツを変えたのはほんの数えるほどだ。それも日中に行うことばかりだ。中嶋のようにたっぷりと体力を使った事後の交換など皆無である。……そう、たとえそれが中嶋の誕生日であったとしても、だ。
 誕生日くらい、事後のシーツ換えを手伝って欲しいと思うのは贅沢だろうか。ひとりで換えろとは言わない。ただもう一方の端くらい持っていて欲しい気がするのだ。
 これは愚痴だと思いながら、中嶋はシーツを取り換えた。ふたりで楽しんだのだから、ふたりで後始末をする。そろそろそういう関係になってもいいのではないだろうか。シワなくぴしりとシーツを巻き込むには、ひとりよりふたりでやった方がはるかに早く仕上がると思うのに。丹羽あたりが聞けば「一緒にシーツを換えて欲しいって? おまえもそろそろトシか?」と笑い飛ばすに違いない。
 シーツを換えて啓太を転がした。ほんの少し身じろいだものの、すぐに規則正しい寝息が聞こえてくる。どうやら啓太は、シーツを換えた本人より先に寝るらしい。もはや呆れる気力さえ見つけられず、換えたシーツをランドリーボックスに突っ込んでから中嶋もベッドに入る。裸のままでは肌寒いのか、啓太がもぞもぞとすり寄ってきた。自分の甘さを痛感しながら、中嶋は啓太を抱き寄せた。

 誕生日くらい起こしてもらってもいいんじゃないだろうか。
 腹のあたりで丸くなってしがみついている啓太をそっと引き剥がしながら、中嶋はそんなことを思った。別に三流ドラマのごときいちゃいちゃべたべたした関係を望んでいるわけではないが、年に1度くらい、新聞と朝食が食卓に用意されてから起きてみたいと思ってもバチはあたるまい。
 が。実際には啓太はまだまだ起きてこないし、冷たいミネラルウォーターで目覚ましをした中嶋が新聞を読みながら、自分でコーヒーを淹れている。もともと朝食は各自が好きなものを作るようにしているから仕方ないといえば仕方ないが、自分でトーストを焼くのも玉子料理を作るのも、誕生日だと思うとちょっと虚しい。啓太が起きてくるのは早くて中嶋が2杯目のコーヒーを飲んでいる頃。遅ければ ―― たぶん今朝も ―― 中嶋が出かける時間になってもベッドの中だ。
 中嶋は別に誕生日だからといって特別な気持ちを持ってはいないし、誕生日だからどうしろという積極性も持っていない。だが、日付が変わったとたんにラブラブモード全開で、普段の啓太からは想像もできないくらいの積極性で迫ってくるくらいなら、朝食でもばーんと用意しててみろと思うくらいは許されるはずだ。
 コーヒーメーカーのたてるぼこぼこという音が大きくなった。あと少しでコーヒーが出来上がるだろう。簡単に新聞をたたんで立ち上がった中嶋はトースターにパンを放り込み、冷蔵庫を開けた。
 中嶋家にはいくつか家訓がある。夜遊びしたときほど翌日は早く起きろとか、食べた皿を見苦しくするなとかである。その中でいちばん厳しく言われたのが、朝食はしっかりとること、だった。時間がないのは言い訳にならない。遅刻してでも朝食はとれ。遅刻が嫌なら早く起きろ。物心のつく前から言われつづけたその教えはいつしか中嶋の血や肉となり、今日もこうして中嶋をキッチンに立たせている。
 玉子を掴み、夜のうちに啓太が用意しておいた野菜を出そうと、冷蔵庫の奥に目を向ける。きれいに整頓された庫内にはラップがかかった皿があり、そこに『こっち 中嶋さんのです』とメモが載っていた。野菜などどっちがどっちでも同じで、現に昨日までそんなメモなどついていなかった。
 何をいったい……?
 訝りながら皿を取り出し、目を落とした瞬間。中嶋のくちびるから吐息が漏れた。ラップのかかった皿には野菜と共にビアソーセージが何枚か敷いてあり、その上にチーズで作った『HAPPY BIRTHDAY』の文字が並んでいた。が、それは並んでいるから判断できるまでのこと。Bはまるで日のようだし、Dは口。Rに至っては月の横棒が1本足りないものにしか見えないありさまだ。そのあまりのたどたどしさに、啓太の悪銭苦闘ぶりが伺われた。切っては失敗し、切っては失敗しを何度も繰り返したのだろう。中嶋の、誕生日のために。中嶋のくちびるから漏れた吐息は、いつしか低い笑いに変わっていた。

 痛む身体をかばいながら啓太がよろよろとベッドから這い出したのは、中嶋が出かけてかなり経ってからのことだった。それでもまだ起きられるようになっただけ、進歩したのだと思いたい。……中嶋が手加減してくれたのではなく。だがこの奥底に感じる疼きがあるからこそ余計に甘さが感じられるのもまた事実だった。餡をたくときにひとつまみの塩を入れるようなものかもしれない。
「それにしても、中嶋さんって元気だよなあ……」
 10代の頃ならともかく、責任ある仕事をハードにこなす毎日だというのに。あんなに何度も啓太を抱いておいて、どうやらいつもどおりに仕事に出かけたらしいのだ。それだけではない。おそらく今夜は昨夜のつづき。第2幕が待っているに違いない。
「信じらんないよ。まったく」
 たとえへっぴり腰であろうとも、壁伝いでなく歩けた自分に満足しながら、啓太は冷蔵庫のドアをあけた。このところオレンジジュースがひそかなマイ・ブームで、いろいろとオレンジジュースを飲み比べるのが朝の日課となっている。数日おきに違うメーカーのオレンジジュースを買う啓太を呆れ気味に眺めていた中嶋だったが、「どれが自分の好みに合ってるか探してるんです」と言ってからは何も言わなくなっている。自分に合うコーヒー豆を探すようなものだと理解したらしかった。
 身体の痛みをおしてまでキッチンにやってきたというのに、そのオレンジジュースを啓太は飲むことができなかった。あまりに驚きすぎて。目にしたものが信じられなさすぎて。ほかのものが目に入らなくなってしまったのだ。
―― うそ……
 中嶋が聞けばフルコースのお仕置きに突入しかねない単語をくちびるのかたちだけでつぶやきながら、啓太は冷蔵庫の中の皿を取り出した。その手が見てわかるほどに震えているのは、冷気が寒いからではもちろんない。昨夜。中嶋のものと一緒に用意した朝食用の野菜の皿。レタスと玉ねぎとキャベツと人参とプチトマトのほかには、数枚のビアソーセージが盛りつけてあるだけだったその皿に、今はチーズで作られた『THANK YOU』の文字が並んでいる。ナイフが思うように動かなくて歪になった部分が残っているので、中嶋が自分の皿にあったもので作ったのだとわかる。NやKなどのなかった文字は適当にあるものを加工したらしい。
 中嶋のことだ。こんなチーズの文字を見ても鼻で笑って終わり。良くてにやりと笑う程度に違いない。そう思っていたのに……。礼を言ってもらえるどころか啓太のこんな遊びにまで付き合ってくれるとは思ってもいなかった。
 かすかな期待どころかみじんも予想していなかった事態に、啓太の奥の奥に温かいものが、ほんわりとしたかたちをつくる。そしてそれはどんどん大きくなっていき、啓太をすっぽりと包み込んでいった。
 うれしいのに気を抜いたら涙がこぼれてしまいそうで。意識して引き結んだ口元が、いつの間にかまた幸せそうなかたちにゆるんでいる。そうして冷蔵庫の前にへたりこんだ啓太は、いつまでもいつまでもラップの上から文字を撫でつづけていたのだった。






いずみんから一言。

や。この「ありがとうチーズ」。
きっとケータイで写真に撮って、しばらく待ち受けになっていそうです。
それで和希に見せたりしてるんだよ。きっと(苦笑)。



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