Extra Bitter |
何度も店の前を往復したけど、結局俺はドアを開けることができなかった。この間から何度もチャレンジしてて、今日こそは、って意気込んで寮を出てきたのに、またもや玉砕。 はああ〜。俺ってどうしてこうかなあ。我ながらやってられないよ。 自分自身にがっかりしながら学園に戻るバスに乗ると、島を出たときと同じ運転手さんだった。えっ!? と思って時計を見たら寮を出てから3時間が過ぎていた。休憩を終えた運転手さんがまた勤務についていても不思議じゃない時間だ。その間俺は、ただあの店の前を無駄に往復していたことになる。そういえば身体もすっかり冷え切ってしまっていた。 この寒空の下に3時間もうろうろしていたら冷えるのも当たり前。うーん……。俺ってただの馬鹿? 部屋に戻ってベッドに仰向けに倒れこむと、正面に貼ってあるカレンダーが嫌でも目に入った。何気なく残りの日数を数えて、俺は思わず跳ね起きた。駄目だ。これじゃいけない。マジで間にあわなくなってしまう。焦った俺は起きた勢いで携帯電話を取り出した。切られてるかと思ったけど、幸いにも電話は相手につながった。 「もしもし? ごめん、和希。今いいかな?」 「啓太? どうかしたのか?」 「うん。時間があったら買い物につきあってもらえないかな、って思ったんだけど」 「1時間くらいあとでもよかったらかまわないけど。遅い?」 「ううんっ。全然オッケー。助かるよぉ」 「じゃあ1時間くらいしたら部屋まで迎えに行くよ。俺も着替えたいしね。岡田が帰るから乗せていってもらおうぜ。バスだと時間が半端だろ?」 「うん、分った。じゃあ待ってるから」 切った電話を放り出して、俺はまたベッドに倒れこんだ。よかった。これで間にあう。ほっとしたものだから、いつの間にかうとうととしてしまったようだ。呼びにきた和希に起こされるまで、俺は幸せな夢の中にいた。 和希の秘書はふたりいて、どっちとも顔見知りにはなったけど、岡田さんはちょっと苦手だ。和希が俺とこうやって遊びに出かけたりするのが気に入らないらしくて、俺を見る眼が怖い気がするからだ。そんな時間があるんだったら仕事しろよ、ってことなんだろう。だから今日も岡田さんの車っていうのがちょっと嫌だったんだけど、そんな贅沢は言ってられないくらい、俺は切羽詰っていた。 それでもやっぱり怖いものは怖いわけで……。駅の近くでおろしてもらったときには、正直いって生き返った気分だった。思わず「疲れた〜」なんて言いながら首をぐるぐる回していると、隣で和希が笑った。 「おまえ、ほんっとに岡田が苦手だな」 「うん。なんかにらまれてるみたいでさ。怖くって」 「まあそう言ってやるなよ。あいつは俺に仕事をさせるのが仕事なんだ。そういう点では、実に有能な男だよ」 「そりゃそうだろう? 天下の鈴菱の次期秘書室長なんだもん。有能でなくちゃ困るよ」 「それ言ってやれよ、喜ぶぞ。あいつ」 そう言う和希はとてもうれしそうだ。和希は秘書たちを本当に信頼している。自分が高校生なんてしていなかったら、彼らはもっと楽に仕事ができたはずだからだ。タイトなスケジュールで和希がすべての仕事をこなすために、岡田さんも石塚さんも普通の秘書以上の能力が求められていた。 「言うのは嫌だけど。……そうだなあ。和希にも付き合ってもらったことだし、岡田さんと石塚さんのも買おうかな」 「そう、それだよ。どこに行きたかったんだ?」 「あれ? 言わなかったっけ。この向こうのマリアンヌっていう店なんだけど」 「チョコレート・ショップの?」 「知ってるの?」 「ああ。何度か手土産用に買っていったことはあるよ」 「よかったあ。なんだか敷居が高くって……」 「そうだな。高校生には入りにくいかもな」 マリアンヌは知る人ぞ知る大人のチョコレートショップだ。「本当に美味しいものがわかる人だけに買ってもらいたい」が企業理念で、マスコミ関係の取材は一切お断り。ホームページさえもっていない。銀座の本店に続いて2号店がこの街にできたのは去年のことで、オーナーの奥さんの実家がこの近くだかららしい。 なんで俺がそんなことを知ってるかと言うと、ここのチョコレートがときどき会計室に置いてあるからだ。西園寺さんがパーティなんかでお土産にもらったりするらしく、そんなときに俺もお相伴に預かっていたのだ。 「大人のチョコレート」というだけあって、極力甘味とミルクを抑えてあるから、チョコレートそのものの味がわかるという訳だ。砂糖でごまかさない味は俺にはちょっと苦すぎるけど、でも中嶋さんもこれだったら食べてくれるかもしれない。バレンタインが近づいてきたとき、俺は迷わずここのチョコレートを買うことにしたのだった。 「でもさあ。この店、一粒でも買えるんだよな。ちゃんと一粒用の箱ってのがあって、結構きれいに包んでくれるぜ?」 「へえ? そうなんだ」 俺が開けられなかったマリアンヌのドアを、和希は無造作に開けた。これが大人と高校生の違い。セレブとパンピーの違いなのかもしれない。「遠藤和希」の向こうに、普段は感じない「鈴菱和希」が透けて見える瞬間だった。 この店は外からだと中が全く見えない。それどころかドアに小さく「marianne」と書いてあるだけだから、知っている人しかここがチョコレート・ショップだとはわからない。知っている俺が中に入れなかったのは、この1枚板で作られた重厚なドアに、拒絶されているみたいに感じてしまったからだった。ブリュッセルのチョコレートショップだって敷居は高かったけど、こんな感じはしなかった。それはドアとファサードがガラス張りで明るい店内がよく見えたことばかりでなく、俺が見ている前で次々とお客が出たり入ったりしていたからだろう。少なくともマリアンヌで俺は、お客が出入りしたところを見たことがない。 でも和希につづいて中に入るとブリュッセルの店と同じ。俺を包むこの空気は、チョコレートにしか出せない甘い香りに満ちていた。そしてショーケースに並べられた宝石のようなチョコレートも同じだった。 「どれにする? 中嶋さんだろ? ブランデーとか使ってるのもあるけど」 「うーん。少なくともナッツとかキャラメルとか別の味のクリームが入ってるのとかはバツ」 「シンプル・イズ・ザ・ベストか。あの人らしいな」 「……うん」 そうして俺は店のお姉さんや和希とも相談して、ごくごくシンプルなチョコレートを選び出した。形は綺麗なオパールで、飾りらしい飾りもついていないし、ココアパウダーなんかもかかっていない。そして何よりも『エクストラ・ビターチョコ』という名前が、ただ甘いだけではいられない俺たちの関係を表しているように思えて、とても気持ちを惹かれたからだ。これ以上、中嶋さんに相応しいチョコレートは、俺には見つけられそうになかった。 それを3粒。チョコレート代よりも高い値段の箱に入れてもらい、こげ茶色のリボンをかけてもらった。なんだか肩の荷を下ろしたような気がした。 次の土曜日。俺は授業が終わるのを待ちかねたようにして中嶋さんの車に乗りこんだ。もちろんチョコレートの包みも一緒だ。 「どうした? ご機嫌だな」 「えへへへへ。そうですか?」 「ふ……っ。おかしなやつだ」 早く渡したくて気持ちはうずうずしていた。でもレストランや車の中では渡すのは嫌だった。ほかのことに気を取られない場所で渡したかったのだ。あんなに苦労して買ったのだから、ちらっと見ただけでポケットに突っ込まれたら悲しすぎる。ということで渡せたときにはもう日曜日になっていた。あれから近くで食事をしてマンションに帰り、今日の課題が終わると日付が変わっていたわけだ。週末のマンション通いも1年近くになるから、このあたりはもちろん想定の範囲内だ。 課題が全部終わって風呂に入った俺がリビングに入ると、一足先に風呂から出た中嶋さんがソファで夕刊を読んでいた。土曜日はまずここまで移動してきて、そして宿題を済ませてからいつもの課題をこなすから、場合によってはつきっきりになってしまう中嶋さんは、こんな時間まで夕刊を読む暇さえないのだ。 自分の部屋に行ってチョコレートの箱をとってきた俺は、定位置である中嶋さんの足元に座りこんだ。カーテンを閉めていないガラス窓が鏡のようになっていて、新聞を読む中嶋さんを映し出している。床に座っている俺は、背が低くなっている所為でテーブルに邪魔をされ、ガラスには頭のてっぺんくらいしか映っていない。俺はこの時間がとても好きだ。窓ガラスに映ったものとはいえ、中嶋さんを好きなだけ眺めていられるからだ。 暖かい部屋の中。ガラスの中の中嶋さんもすっかりくつろいで新聞を読んでいる。興味深い記事があったのか、真剣な顔をして読み進めたかと思うと、今度はくちびるの端がつり上がっている。読まずに次へ飛ばしたのは、きっと今夜のテレビとか芸能人のインタビューとかが載っているページに違いない。無造作に新聞を繰るしぐさまでが憎たらしいくらいにかっこよかった。 眼に入るのは中嶋さんだけ。俺だけが中嶋さんを独り占めしている。中嶋さんはとても素敵すぎて、たとえ一緒にベッドにいたとしても独り占めしているようには思えない。でもガラスに映る中嶋さんは俺だけのものだ。だからこうしている時間は俺にとってとても大切で、そして幸せな時間なのだった。 やがて新聞を読み終えた中嶋さんが、簡単にたたんで俺に「読むか?」と聞いてきた。読むつもりはなかったけど、中嶋さんの隣に座りなおした俺は新聞を受け取り、そしてかわりにチョコレートの箱を差し出した。 「これ……。ちょっと早いんですけど、バレンタインのチョコレートです」 「ふうん?」 「うれしそう」というよりはむしろ「おもしろそう」に、中嶋さんはチョコレートを受け取ってくれた。 「マリアンヌか。銀座にあるな」 「あ、去年の秋に橋向こうにもできたんです」 「へえ? 支店を作るとは思わなかった」 中嶋さんの長い指が箱に結んであったリボンを解いた。ふたを開けると、クローバーの葉のようにチョコレートが並べられている。中嶋さんはそのうちのひとつを摘み上げて口の中に放りこんだ。 息をつめて見守る俺の目の前で、チョコレートを噛み砕く小さなカリッという音がした。そしてあっと思う間もなく、俺はくちびるをふさがれていた。中嶋さんの舌は不意をつかれて驚く俺のくちびるを割り、歯をこじ開けるようにして入りこんでくる。そして気がつくと俺の口の中にチョコレートがあった。 「おまえのことだから自分用は買わなかったんだろう。少しくらい味をみておけ」 そう言うと中嶋さんは俺に見せるように口を動かした。何が起こったのかアタマがついていかなかった俺だけど、悪戯っぽそうな表情を見て、ようやく口の中のチョコレートが少なすぎることに気がついた。つまり中嶋さんは俺と……。チョコレートをはんぶんこしたんだ……。 口の中にあるチョコレートのかけらは、少し溶けてきたのか角が丸くなってきている。それにつれてチョコレートの味がじわっと広がってきた。マリアンヌのエクストラ・ビターチョコ。俺にはとても苦いはずなのに、なんだかとても甘かった。 「……えへへ」 「どうした?」 「はんぶんこ、ってなんかうれしくて……」 「じゃあ残りもそうするか」 「え……!?」 何気なく続けた中嶋さんのことばに、耳までが一気に赤くなったのが自分でも分った。 「……いらないのか?」 「……ううん。欲しい、です」 「何が?」 「中嶋さんが……」 噛んで半分にしてくれたチョコレートが、とは続けられなかった。俺のくちびるはもっともっと甘いものでふさがれてしまったからだ。中嶋さんのキスはいつも甘いけど、今日はそんなものじゃない。中嶋さんのくちびるが触れたところから、俺の身体がチョコレートになっていくかのようだった。 「来月の今頃は期末試験だな」 「……はい……」 「だったらホワイトデーの分は今日のうちに返しておこう」 そう言うと中嶋さんは俺をきつく抱き寄せてくれた。広い胸に身体を預けると中嶋さんの体温が直接伝わってくる。チョコレートになった俺の身体は、早くもとろけ始めていた。 |
いずみんから一言。 ……すみません。撃沈いたしました……(泣)。 ええ。理由はわかっておりますとも。こういうの苦手なくせに手を出した自分が悪いんです〃 平行して書いていた七啓の書きやすかったこと(笑)。 本文中には入れられなかったのですが、啓太はちゃんと岡田さんと石塚さんにもチョコを 買いました。ホワイト・デーには石塚さんからはアーモンドのドラジェが。岡田さんからは 英文法の問題集が届いたようです。 |
作品リストへはウインドウを閉じてお戻りください。 |