今夜はブルー・ムーン |
白かったり、黄色っぽかったり、赤みがかかってたり。 月って見るたびに色が違うけど。 でも青く見えることってめったにない。 だから「Blue Moon」はありえないくらい稀なことの例え。 そう。俺と中嶋さんが出会ったことくらいに ―― それが啓太の眼に止まったのはまさに偶然。運命の女神の気まぐれでさえなかっただろう。 気温はそう低くないのに風がとても冷たく感じられたその日。啓太は和希とふたりで街に遊びに出ていた。中嶋は目をかけてもらっていた空手の兄弟子が結婚するとかで帰省中。そのタイミングを見逃すはずのない丹羽は、朝からすでに姿がない。今頃はどこかをバイクでかっ飛んでいることだろう。和希は顧客との打合せで昨夜から留守だ。西園寺と七条は茶事があるといっていたし、成瀬はメルボルンで試合。篠宮は岩井の展覧会の準備についていってしまっている。 何もかもが重なってひとり取り残された啓太は、この機会に日頃の睡眠不足を解消しようとしていたところを、先方の都合で急にスケジュールの空いた和希に叩き起こされたのだった。 クリスマスはまだ来月だというのに、街はもうすっかりそれらしく飾り付けられ、いやがうえにも啓太の眼を惹いた。切れ目なく聞こえてくるクリスマス・ソングのリズムに、知らないうちに心も弾んでくるようだ。そうだ。クリスマスは来月だとはいえ、すでに残り1ヵ月を切っているのだ。 ついこの間、中嶋の誕生日が過ぎたばかりなのに、もうクリスマスプレゼントに頭を悩まさなくてはならない時季になっていた。中嶋本人は何も欲しがったりはしないだろうが、それでも啓太は何かを贈りたかった。中嶋のために何かを選ぶ。それはとても難しくて悩んだり困ったりしてしまうのだけれど、啓太にとっては同じくらい、幸せを感じられる時間でもあった。 日曜の昼間はやはり人が多い。確かに渋谷や原宿といった街とは比べものにはならないが、それでも普段、人の少ない学園島にいる啓太には十分すぎるくらいの混雑に思えた。誰も彼もがコートの前を掻きあわせて、足早に啓太たちの横をすり抜けるようにして歩いていく。きっとその人たちは街中の風景に麻痺してしまって、クリスマスならではの街を愉しむよりも冷たい風から一刻も早く逃れる方が大切なのだろう。綺麗に飾りつけられたウインドウを眺めながら、何気なく手に息を吹きかけた啓太をみた和希は、わざと寒そうに首をすくめて「少しあったまろうか」と声をかけた。 「え? 和希、寒いの?」 「っていうかさ、この少し先にちょっといい雰囲気の穴場的喫茶店があったのを思い出したんだ」 もともと、何か目的があって街にでてきたわけではなかった。和希はただ、ゲーセンに行ったり本屋でコミックをのぞいたりといった、何ていうことのない時間を啓太と過ごしたかっただけなのだ。だから場所なんかどこでもいい。啓太が寒そうにしているなら、暖かい場所で暖かい飲み物をとればいい。 「へえ?」 「コーヒーも美味いことは美味いんだけど、レモンパイがとびきりなんだよな。最初はちょっと酸っぱく感じるんだけど、そのおかげで後口がすごくさっぱりするんだ。……どう? 行ってみる?」 そこは正確には「穴場」ではなく、所謂「いちげんさんお断り」の店だった。 裏通りではあるもののおしゃれな店が建ち並ぶその一画に、とりわけ眼を惹くたたずまいのフランス料理店があった。くすんだ色の赤レンガでできた外壁を緑の蔦が被っている。今は枯れてしまっているはずの時季なのに緑色を保っているのは、何種類かの蔦を使用して緑色の葉が途切れないようにしているからだろう。 その建物の脇に作られた英国の廃園風の庭に入り、レストランの壁に沿って地下への階段を下りる。するとそこは斜面になった土地を利用して作られた、地下でありながら陽の光のあふれるティールームだった。これではいちげんさんお断りでなくても一般の客は入って来られないのに違いない。 和希がそこの枝折戸のような仕切りの扉を開けると、蝶ネクタイを結び小さなエプロンをかけたウエイターが彼らを出迎えていた。 「いらっしゃいませ。今日は可愛らしい方とご一緒で」 「ああ。彼は伊藤啓太っていうんだ。美味いレモンパイを食べさせてくれたら、また誰かと来るかもしれない」 「それはそれは……。ではアッサム・ティーとセットしてお出ししましょう。ストレートで合わせて頂くとよろしいかと存じます」 「頼むよ」 店内は一面ガラス張りの、思ったより広い空間が広がっていた。客の入りは半数以上で、「穴場」というには少し多いんじゃないかと啓太は思った。テーブルとテーブルの間が広く、よほど集中して聞かないかぎり、他の客の会話は聞き取れないに違いない。その所為か誰も彼もがゆったりと椅子に落ち着き、相手との談笑を愉しんでいた。 啓太と和希が窓際の席に着くと、ウェイターは「少々お待ちくださいませ」と言ったきり戻ってこなかった。案内されていた間の会話がどうやら「注文」にあたるらしかった。窓の方に向けて置かれた椅子に座っていると、庭のつくりの見事さがよく分かる。花の少ないこの時季に、それでも花を咲かせる木や草、緑を保ちつづける木々を集めた庭は美しかった。多すぎず少なすぎず緑の間から程よく顔を出している花に、冬特有の灰色の空から、それでも陽光はこぼれ落ちている。朽ちたように作ったレンガ壁に左右を遮られた空間はまるで別世界のようだった。 しばらくの間、見惚れるように庭を眺めていた啓太は、やがてほうっと息をつくと、隣に座っている和希に視線を戻した。 「どう? ここの庭は。すごい穴場だろ?」 「うん。こういう意味だなんて思わなかったよ」 「ふふん。庭だけだと思うなよ。パイも紅茶もホントに絶品なんだから」 和希がお子様メニューやジャンクフードを好んで食べるのは、普段がとても美食家だからだ。 だからこそ寮にいる間はそんなものが食べたいのだということを知っている啓太は、ほかにどんなメニューがあるのか見ようとした。良さそうだったら今度、中嶋を連れて来ようと思ったのだ。 ところがテーブルの上にメニューはなかった。砂糖や紙ナプキンの類さえ置いていないテーブルには、二つ折りにしたA5サイズの紙が立っているだけである。開いてみてその紙がメニューじゃないのを知った啓太は、和希に聞いた。 「なあ和希。ここってメニューないのか? ほかにどんなのがあるか見たかったんだけど」 「ないな。ここでは客が食べたいもの、飲みたいものを注文すればいいんだ。たとえ作るのに 1時間かかろうと、客さえ待てるなら作ってくれるんだぜ」 「へーえ。ホントに何でもいいの?」 「まあこんな店だからさ。天ぷら食べたいとか餃子2人前とか言ったりしないだろ?」 「そうだね」 よほど「天ぷら」や「餃子」がツボにはまったのか啓太はくすくす笑いつづけた。無意識なのだろうが、手にしたままだった紙を小さく折りたたみながら笑っている。見ているだけで周囲の者を幸せにしてしまう笑顔に、和希はこの場にいない男への嫉妬を感じずにいられなかった。 駄目だ、と思う。こんなことをしているといずれは啓太に悟られる。悟られれば啓太を悲しませるだけだ。啓太の心はもうすでにあの男のもとにあるのだから。和希は、それがまるでその男そのものであるかのように、折ったり広げたりしている紙を啓太の手から取り上げた。 「こら〜。何たたんでんだよ」 「えっ? あっ。やばっ」 「あーあ。こんなに小さくしちまって」 軽口で自分の心を宥めながら紙を広げてみると、それはジャズ・コンサートの案内だった。場所はここから車で1時間くらいの場所にある、規模としては小さいものの、良質の音楽を提供することで知られたホールである。そこに和希の見知った名前があった。 「へえ。パトリック・Pが来日するんだ」 「誰それ? 有名な人?」 「うーん。有名って言われるとちょっと困るかな。若手のジャズピアニストの中ではピカイチだと思うけど。日本ではほとんど知られてないんじゃないかなあ」 「でも和希は知ってるんだ」 「ああ。アメリカでね。彼がバイトでピアノ弾いてるレストランに行ったこともあるし」 そして何かを考えるように一度ことばを切った和希は、答えを見つけたのか小さく頷きながら 「そうか……」とつぶやいた。 「オーナーが同じなんだよ。こことそのレストランと」 「へえ?」 「そうか。そこで聞いたんだ、彼のピアノ。名前だけは知ってたけど、聞いたのはあれがはじめてだったな。あんまりジャズのCDとか買わないし」 「それで? どうだった?」 「どうって。……そうだな、なるほどと思ったよ。ジャズなのにクラシック弾いてるみたいな顔してるのが笑えたけどね。ファンにはそのアンバランスさもいいんじゃないのかな」 「そっか」 どこかうれしそうにそう言うと、啓太は和希からその案内を受け取ってポケットに突っ込んだ。 「折っちゃったからさ。証拠隠滅しとくよ」 うしろを気にしながら悪戯っぽく笑う啓太の視線を追うと、焼きたてのメレンゲに飾られたレモンパイをトレイにのせたウエイターが歩み寄ってくるところだった。 その日は期末試験の真っ最中で、しかも中嶋は大学の受験も控えている。そんなときにわざわざ島の外へ行く予定もないだろう。そう思った啓太はきれいにラッピングしてもらった封筒を、学生会室の中嶋の机の上に置いた。 あのあと寮に戻った啓太は早速、電話でチケットの申し込みをした。いくら日本では無名に近いといっても、ただ一度きりの日本公演チケットは、すでに半分以上が売れてしまっていた。当然、S席などはすでになく、啓太は残っていた中でいちばんいい席を2枚押えたのだった。 ―― 中嶋さん いつも有難うございます。 少し早いけど、これは俺からのクリスマス・プレゼントです。試験中だけど良かったら 一緒に行って下さい。4時半に寮のロビーで待っています。 啓太 ―― とはいうものの、島の外へ行く予定がないと思った理由は、そのまま啓太と一緒に出かけない理由にもなった。この大事な時期にそんな名もないピアニストのコンサートに付き合えるか。そう言われることも覚悟していた。だが啓太がロビーに足を踏み入れるなり「遅い!」という声が飛んできた。見ると新調したらしいブルーのジャケットと縞のワイシャツに身を包んだ中嶋が、玄関脇の壁に背中を預けて立っていた。 「遅いぞ。おまえから誘ったんだろう」 「すみませんっ」 どこかからかうような中嶋の口調に、ぱっと表情を明るくした啓太は、いそいそと中嶋のもとに駆け寄った。玄関の向こうに中嶋のBMWが停まっているのが見えた。バスではなく車まで出してくれるらしい。かなり機嫌のいい証拠だった。 「来てくれたんですね」 助手席に納まった啓太が、シートベルトを締めながら聞いた。 「試験中だから駄目かもしれないって思ってたんです」 「ほかならぬパトリック・Pの日本公演だ。あの見事なピアノを聞き逃す手はないさ」 思わず「あっ」と言いそうになって、啓太はあわてて口を押えた。中嶋はちゃんとパトリック・Pの名前を知ってくれていたのだ。それも名前だけじゃなく、彼の実力まで。中嶋が喜んでくれているのを知って、啓太はほっとしたようにシートに身体を沈めた。 少し離れた所に車を置いて、軽い食事をとったふたりは、クリスマス風に飾りつけられた街並を見ながら会場までの道をのんびりと歩いた。風がない所為かもうすっかり日が落ちているというのに、あまり寒さを感じなかった。もうちょっと寒かったら。中嶋の斜めうしろを歩きながら、啓太は端正な横顔を見上げた。そうしたらもっとくっついて歩けるのに。まだ中嶋との距離が掴めない啓太には、どこまで甘えていいのかわからなかったのだ。触れ合うくらい近くを歩いても、中嶋の腕に自分の手をかけても、中嶋は拒否をしたりはしなかっただろう。だが今の啓太ではその程度のことさえ分からずに、ただ中嶋の横顔を見ながら会場までの道程を歩いていた。 ロビーに入ったところで中嶋が「悪いが先に席に行っててくれないか」と言った。 「ジャズ仲間が来てるみたいなんだ。ちょっと挨拶してくる」 中嶋の視線を追うと、開演前の行き交う人が邪魔になってよくは見えないのだが、向こうのソファに座っている男性が軽く手を上げていた。ジャズ仲間といっても啓太の父親よりも年上のようである。いつもの中嶋さんなら連れて行ってくれるのに。不満というより不思議に思った啓太だったが、邪魔をしてはいけないと思いなおして素直に頷いた。 「はい」 「いい子で待ってたらお土産をもらってきてやろう」 「もうっ、中嶋さんったら。俺、そこまで子供じゃないと思いますけど?」 頬をふくらませてくちびるを尖らせた啓太に、それのどこが子供じゃないんだと言いながら頭をくしゃっと一撫でした中嶋は、背を向けてから軽く片手を挙げた。それは今から歩み寄っていくジャズ仲間に向けたものではなく、自分に向けられたものだと啓太は思った。 「中嶋くん。すまなかったね」 中嶋が近づいてくるのを見た男が、隣に座っていた夫人と思しき女性を促して立ち上がった。 「ご無沙汰しております。佐野さんも奥様もお元気そうで何よりです」 「ご無沙汰も何も、それはお互いさまだよ。転勤で神戸に戻って以来、どうも海外出張が増えてね」 「中嶋さん、言葉どおりに取らないで下さいね。この人のはただの面倒くさがりなんですから」 「いえ。佐野さんのお忙しいのは今にはじまったことじゃないですから」 あきれた口調で言う夫人に、中嶋がとりなすように言った。横で佐野がうんうんと頷いた。 「いやいや。だけど今回ばかりは本当だよ。やっとロスから帰れたと思ったら、間をおかずに3週間も中東だろう? 帰ってきたらパトリック・Pの日本公演の案内が来てるじゃないか。驚くし慌てるし……」 「チケットが売り切れてたって分かったときは、本当にしょんぼりしてたんですよ」 「おいおい」 「あら。本当でしょ? 中嶋さん、中嶋さんからお電話を頂戴するまで、この人ったら青菜の塩漬けみたいになってたんですのよ」 ころころと笑う夫人に中嶋も目元を緩めた。ふたりに笑われて、佐野は拗ねた表情を作った。 「仕方がないだろう。パトリック・Pの日本公演だよ? 諦めろと言われてはいそうですかとは言えないよ。だから中嶋くんから連絡もらったときは、地獄に仏とはこのことかと思ったね」 「こちらこそ助かりましたよ。連れて来ようと思っていた相手も今日のチケットを買っていたんです。マイナーなピアニストですから誰にでも、って訳にもいかないでしょう。佐野さんなら誰かにさばいてくれるかもしれないと」 そう。啓太とのことを隠すつもりなどこれっぽっちもない中嶋が、今日に限って先に行かせたのは、まさにこれが理由だった。啓太のことだからクリスマスのプレゼントを選ぶのに、さぞかし頭を悩ませたのに違いない。それなのに同じチケットを中嶋も買っていたと知ったらきっとがっかりするだろう。中嶋は啓太にそんな顔はさせたくなかったし、また、絶対に見たくもなかったのだった。 「へえ? さっき一緒にいた子だろう? 君より少し下のように思ったけど、なかなかのジャズ通なんだね」 「残念ながらそうじゃないんです。たぶん『 Get Smoke in Your Eyes 』さえタイトルを知らないでしょう。曲くらいは耳にしていると思いますけどね」 おやおや、信じられない。そう言って、佐野は首を横に振った。 「ビギナーズラックというやつかな」 「そうかもしれません。とにかく運のいいやつなので」 中嶋は啓太にさえ見せたことのない自慢げな笑顔を、惜しみなく佐野に向けた。 ちゃんと来てくれると分っていても、やはりはじめての場所で待たされるのは落ち着かなかった。見るつもりはなくても、気がつくと眼が通路の方を向いている。不安を紛らわせるのに和希へのメールでも書こうと携帯電話を出してきた啓太だったが、結局は手に持っただけで、眼はあいかわらず通路の方に向いたままだった。 あと10分ではじまるんだけどな……。 携帯に眼を落として時間を見た啓太はそう思った。まだ会場に来ていないのならともかく、ロビーにいる中嶋には「まだ10分もある」と思っているに違いないのだが。そうして何度目かのため息をつきかけて、啓太は慌てて飲みこんだ。先刻見かけた男性たちと一緒に中嶋が通路に入ってきたのだ。中嶋は別れるまではなかった紙袋を手に下げていて、あれがお土産なのかなと啓太は思った。 チケットを見ながら歩いていた中嶋は啓太の姿を見つけると、「ここです」とでも言ったようだった。ところがおどろいたことに、通路で押し問答がはじまってしまったのだった。さすがに声を荒げることはないので、啓太の耳には何を言っているのかわからない。だがそれも、中嶋が強引に座席の方に入ってきたことで終わりを告げた。何を言い合っていたのか心配していた啓太だったが、隣に座った中嶋がとても楽しそうな笑みを浮かべているので少し安心した。 「何を言ってたんですか?」 中嶋からパンフレットを受け取りながら啓太が聞いた。 「うん? まあ、ちょっとな」 「でもあの人たち、まだこっちを見てますよ?」 中嶋が眼を向けると、佐野夫妻はまだ少し困ったような表情で通路に立っていた。それはそうだろう。自分たちが譲られたものよりはるかに悪い座席に中嶋が座ったのだ。困惑し、席を替わろうとしたのもあたりまえだった。だが中嶋がそ知らぬ顔で会釈をすると、諦めたのか彼らも一礼して通路をずっと前の方まで進んでいった。前すぎもせずうしろすぎもしない、程よい列の中央が彼らの座席だった。 「あの人たちはいい席なんですね」 「きっと、発売初日くらいに買ったんだろうさ」 「いいなあ。俺が電話をかけたときは、もうS席なんか1枚もなくて」 「別に演劇を見るわけじゃない。音楽なんてどこで聴いても同じだ」 おまえが自分で考えて買ってくれた座席の方が俺には意味がある ―― そんな中嶋の胸のうちは分るはずもないが、本心からそう言ってくれているのが感じられたので、啓太はほっとしながら手にしていたパンフレットを開いた。見開きにはパトリック・Pの写真と共に『 Blue Moon 』とタイトルが入っていた。演目のいちばん最初に記載されている曲と同じものだった。中嶋が横から、啓太の手元をのぞきこんだ。 「Blue Moon か。うまいタイトルをつけたものだ」 「どういう意味なんですか?」 「きわめて稀な、とか、まあそんなくらいの意味だな。1ヵ月に2回、満月があるってことらしいから」 「へーえ?」 「パトリック・Pの日本公演なんて、それくらいありえない」 そこまで言って、中嶋は意地の悪い笑みを浮かべた。 「おい……。その程度の単語も覚えてなくて、大学に合格するつもりか」 「え? えーっと、えへへ……」 「笑って誤魔化すな。今日の礼だ。帰ったら徹夜で明日の試験の科目を見てやる。隠すなよ。英語と漢文なのは分ってるんだ」 「え……?」 「夜食のサンドイッチも貰ってきてやったぞ。神戸の美味い店のスモークサーモンとソーセージが挟んである。これとコーヒーがあれば朝までくらい楽勝だろう」 啓太が肩を落として息を吐いたのとほぼ同時に場内が暗くなり、舞台にライトが当てられた。 舞台の袖に人影が見えたとたんに割れるような拍手が場内を包んだ。啓太もこのあとに待っているハードな夜を忘れて、痛いくらいに手を叩いていた。 せっかくの「きわめて稀な夜」なんだから、楽しまなければもったいない。 最初の曲。『 Blue Moon 』の演奏がはじまる ―― 心に夢などなかった。 弁護士になるのは単なる目標であって、 努力すれば手に入るものなど、夢とは言わない。 日々は退屈だったが現実とはそんなものだ。 期待もなければ不満もない。 死ぬまでそんな日がつづくと思っていた。 だが今は違う。 同じ音楽を聞かせたいと思い、この腕に抱いて眠りたいと思う相手がいる。 数ヶ月前の自分が見れば、それこそ「ありえない」と思うに違いない。 そう。今は違うのだ。ここに啓太がいるから ―― Blue Moon, you saw me standing alone Without a dream in my heart Without a lose of my own Blue Moon, you knew just what I was there for You heard me saying a prayer for Someone I really could care for Without a love of my own Without a love of my own Blue Moon Without a love of my own |
いずみんから一言 |
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