クマは都会に出没する |
クルマが動かなくなって10分が経った。 あぁ、いや。こういう言い方は正確じゃないな。渋滞にはまってしまって二進も三進も進まなくなってしまったのだ。対向車線はすいすい走ってくるというのに、こっちときたら前も後ろもびっしりだ。特に後ろなんて何処まで続いているのか見当もつかない状態で、振り向いてみて少々うんざりした。あと5〜6分で着くというのに、なんて運のない。 こんな時、肩書の馬鹿らしさを思う。ここにいるのは世界に展開する企業、鈴菱グループの会長と子会社の社長をしている御曹司です。声を限りにそう叫んでみたとしても状況は何も変わらない。誰も先に行かせてなんかくれないし、警官が飛んできて道を開けてくれるわけでもない。ただじっと動き出すのを待つしかないのが現実だ。大企業と言われる会社で役員をして。自分が偉くなったと思うのは大間違いだ。こんな道路ひとつ、先に行かせろと言える権限さえないのだから。自分のちっぽけさを思い知らされる瞬間だ。 幹線道路からはずれて官庁街のど真ん中に入ったこの道は、クルマの影さえ見えなくなることはあっても、こんなふうに渋滞したりすることはまずない。災害時用に幅を広くゆったりととった歩道を行く人の数の方が多いくらいの場所なのだ。そんな普段の交通量を知ってるだけに、腹がたつとか呆れるとかを通りこして、何故こういう事態に陥ったのかと、そっちの方がいっそ興味深かった。このあとで少々面倒な交渉事 ―― 子会社の社長がグループの会長を引っ張り出さなければならないほどの ―― が待ってなければこの状況を楽しむこともできたかもしれないが、隣で会長が書類を繰っている現在、それは到底無理な話だった。 今日の相手は天下って関係団体の理事におさまった元厚労省事務次官で、海千山千狐狸狢ひしめくビジネス界でも腹黒さは一二を争うヒゲオヤジだ。それだけなら逆にあしらいやすかったりもするのだが、そこはあの国家公務員上級試験をくぐり抜け、同期のトップにのしあがった男と言おうか。腹黒さを隠すどころかむしろ前面に押し出すことによって、こちらにはつけいる隙の片鱗さえ見せてくれないのだ。そんな男と腹のさぐりあいをしに行こうという時にこんな渋滞に巻き込まれるなんて! 時間が過ぎていくごとに、相手に有利なポイントを進呈しているようなものではないか。 この道を通ったことを運転手はしきりに恐縮しているが、この状況は不可抗力であって誰の責任でもなかった。鈴菱本社からここまでは合理的で無理のないルートだし、会社を出た時間も至極適当だった。俺は運転手を責めるつもりもないし、会長も苛立ちの素振りさえ見せていない。ただゆったりと構えて、これからの交渉の要点を再確認するかのように資料に目を落としている。だから書類をめくる人差し指の動きに苛立ちを見てとれるのは俺だけだった。あと会長秘書歴が14年目に突入した田中がこの場にいればわかっていたかもしれない。会長は今、不機嫌である。それもものすごく。 クルマなんて密封された空間だ。運転手はいないのと同じ。こんな状態の会長とふたりでそんな場所に、わずか50センチの隙間をおいただけで座っていなければならないのは居心地が悪かった。これは修行か? それとも何かの罰ゲームか? 親子はいえ仕事中はただの会長と子会社の社長にすぎない。ベル研の所長をしていた時の責任と重圧はかなりのものだと思っていたが、こうして1社を任されてみて、はじめてそれが全然たいしたものじゃなかったことを知った。これがグループすべてを統一する会長だったらどうなのだろう。しかも名目だけ、いわゆる『お飾り』の役職ではなく、代表権をもつ企業のトップだとしたら。その差は関東平野からISS国際宇宙ステーションを見上げているようなものなのだ。つけなかったため息が ―― 俺は会長の隣でため息がつけるほど大物じゃないんだ。失望させたら申し訳ないが、これが現実ってものだ ―― 身体の中に澱のように沈んでいく。ああ、まずいな。と、客観的というよりはむしろ他人事のように思いはじめた頃、様子を見に行っていた岡田が戻ってきた。 開けられたドアからひんやりとした空気が入ってきて、それでほっと一息がつけた。ただそれが、新しい酸素によるものなのか膠着状態を打ち破ってくれる第三者の出現によるものなのかまではわからなかった。でも彼が救世主に思えたことに間違いはない。 「ダメですね」 開口一番、岡田はそう言った。助手席から身を乗り出すように振り向いて話冷た岡田は、背後を指差すかわりに、リアウインドウの向こうに視線を流した。 「ちょうどこの向こうになりますが、S銀行の本店営業部があります」 「ああ」 もちろん知っているとも。メインバンクという訳ではないがうちの社も口座を持っている。普通と当座で5千万程度、定期預金が2億円。借入れ残高は、確か先月末で8千5百万だ。どこの会社にもある、所謂「お付き合い口座」である。 「そこに強盗が入りました」 「わぁお」 思わず、ビジネスマンらしからぬ声をもらしてしまった。だが本当に「わぁお」だ。ほかにどう言いようがある? 「強盗か。今時、というほどでもないのか」 「たまにあるようです」 会長と岡田のやりとりを聞きながらスマホを出してみる。探すまでもなくトップに出ていた。というかそればかりだ。会社からの連絡も何通か届いていた。会長同行だからと遮断していたのが裏目に出たかたちだ。まあ……、着信時間からすると実際の役にはたたなかったとは思うけれど。 「周辺一帯検問だらけのようです。とりあえずぼつぼつとは動いているのですが、この1本北側の道が封鎖されていて、すべての車輌をこの道に合流させているんです。1時間弱で抜けられるとは思いますが」 目的地まで、ここから歩いて行けるなら簡単だ。クルマを乗り捨てればいい。だがクルマで5〜6分ほど。たった5〜6分は近いように思えても歩くと驚くくらい遠いものだ。学園にいた頃、啓太に付き合って俊介のデリバの手伝いを何度かしたが、あれは本当に遠かった。なまじっかクルマでの移動時間を身体が覚えているものだから、余計にそう感じたものかもしれないが。自転車でさえうんざりするほどだった。もしあれを歩いたとしたら? ついでに言えば公共交通機関も×だ。いちばん便利なバスは同じ状況だし、中途半端な場所で止まってしまった所為で、地下鉄ならそっち行き路線の駅まで駅まで徒歩20分だ。歩けない程ではないが、その後にかかる時間も考えればあまり現実的ではない。 「どう致しましょう。今日はもうキャンセルになさいますか。一応、状況と遅れる旨の連絡は秘書の方にいれてありますが」 「時間が読めないならそうするしかあるまい。私が直接断りを入れる。電話をこっちに回してくれ」 「かしこまりました」 こういう時、子会社の社長に発言権はない。だから耳だけは会長の声に向けておいて、目はスマホに落とす。手の中ではだんだんと情報が詳しくなっていく。 S銀行本店営業部に3人組の強盗が押し入ったのは今から30分ほど前のこと。OL風女性客を人質に8200万を強奪。逃亡する際に銃を乱射し、警備員や駆け付けた警官6名が負傷した。重傷者は何人かいるものの、いずれも生命に別状はない模様。逃走車輌は意外なところから見つかった。銀行のあるブロックをくるりとまわりこんだところにあるコインパーキングに停めてあったのだ。中には犯行に使用された拳銃3丁と犯人グループが着ていたスポーツウェア上下が残されていた。 犯人はすぐにそれと分かる品物すべてを置いていった。それはきっと、検問がむちゃくちゃ厳しいってことなんだろう。分かりやすい目印がなくなったのだ。あとはしらみつぶしに全部を見なければならない。今日たまたま小切手や手形を現金化した人がいたとしたら気の毒なことだ。無関係が証明できるまで、さぞや時間がかかることだろう。 「……この分だとなかなか進みそうにないですよ」 「そうでもあるまい。わずかではあるが動いている」 確かに。この渋滞に捕まってしまってからクルマ2台分は動いた。停まったときに前のプリウスの鼻先にあったポストが、今はこのクルマのうしろにあるから良く分かる。だがこんなもの、動いているうちには入らないと思う。カメの方がよほど早いぞ。 「それよりどうなさいますか? 戻られるのなら地下鉄の駅まで歩かれますか? ここからならそれほど遠くないと思いますが」 ただし、本社までは乗り換え1回。最寄り駅から歩いて約10分だ。乗車時間に待ち時間もコミで小1時間はかかるだろう。しかも駅に警官が張っていないという保証はまったくない。岡田がこの情報を伝えなかったのは、故意か単なる失念か。暇つぶしに考えようとしたら意外なほど大きな会長の「ううむ」という声に遮られた。会長が唸りながら腕時計に目を落とす。その何気ない姿に俺は、この人が新幹線以外の電車に乗ったのはいつ以来だろうと考えた。20年ほど前にTGVでジュネーブからパリまで行ったと聞いた。もしかするとそれ以来になるのかもしれない。 パターンA。電車に乗るのを面白がってクルマを下りる。 パターンB。車移動に慣れた身には公共交通機関は億劫で、このまま座り続ける。 「いや。今からクルマを捨てて、変に勘繰られても不愉快だ。先方も2時間くらいなら待つと言ってくれているし、このまま待とう」 パターンB変形バージョンか。ま、妥当なセンだな。 続報。人質と思われていたOL風制服姿の女は、どうやら一味だったらしい。お見事。OLの制服なんてこの界隈ではまるで保護色だ。リーマンショックやらデフレスパイラルやらで経費節減の折柄、1着10万近くかかる制服を廃止する企業が相次いでいる。が、その一方で女性社員に制服を着せたがる企業もまだまだ多いのだ。チャコールグレーのベストにスカートの女なんて、何百人とすれ違おうが誰の印象にも残らなかったに違いない。 この情報が出た頃、クルマは1ブロック分進んでいた。数をこなせば車内の捜索も手際が良くなるらしい。あるいは応援が到着して増員したか。相変わらずのろのろではあるが、カメより遅くはなくなった。 少しずつでも進みはじめたら現金なもので、情報を追うのも面倒になってきた。最初のうち会長とやっていたミニ会議みたいなものも、どちらからともなく声が途切れがちになり、そのままになっている。なので時間つぶしに秘書に転送してもらった書類を読もうとした時、目の端で何かが動いた。 前のプリウスから男が降りて、左手正面のビルに向かっている。このプリウスは個性的と言おうか、何とも言えない紫色をしている。いちばん近い表現では葡萄の色だ。メタリックな色合いがつやつやした食べごろの葡萄を思わせるのだ。売れると思って生産ラインにのせたのだろうが、寡聞にして俺はこんな色のプリウスをみたのははじめてだった。 そんな車だからちょっと興味があったのだが、乗っている人間までは個性的ではなかったようだ。少なくとも助手席のドアを開けて出てきたのは、ごくごく普通の背広姿の男だった。彼が向かったビルの1階にはカフェが入っているらしく、歩道にまで広がった座席には数組の客が座っていた。気温はまだ寒いが陽の光はまぶしいほどで、同じ時間つぶしをするなら向こうの方がどんなにか気持ちいいに違いない。まあじっと座っていれば寒いだろうし、飲み物なんかもあっという間に冷めてしまうんだろうけれど。 プリウスの男はコーヒーをテイクアウトしに行ったのか、あるいはトイレを借りにでも行ったのか。まだ10台くらいの猶予があるから、どちらにせよ余裕で済ませてこれるだろう。自分にはできないこと ―― しかも、やろうと思えばできるのに自分で勝手に歯止めをかけてしまっていること ―― を実行に移したその男が妬ましく、見るともなしに目が背中を追う。と。ここから2〜3メートル先。いちばん手前の席で何か書き物をしていた大学生風の子が、不意に顔をあげた。心臓がどくんと音をたてる。今はボストンにいるはずの……。 啓太だった。 明るい茶色のローファーと色目をそろえたのか、ざっくりと編んだもう少し赤みの強い茶色のセーターを着込んでいる。重ねた白っぽいハーフのコートがとても春らしい。スリムのブルージーンズは啓太の選んだものだろうが、ほかは中嶋の見立てかもしれない。とても洒落ていて、そして啓太に良く似合っていた。相変わらず細っこいが、少年と青年が混ざりあっているような華奢さはもう、どこにも見られない。肩幅も少し広くなったか。何よりも顔つきが大人っぽくなった。分からないものだな。電話では時々話してるし、メールのやりとりもある。たまには写真の添付だってしてくれているのに、こんなに変わっているなんて気づきもしなかった。 ほんの2〜3メートルとはいえ斜め後方になるからだろうか。俺に見られてるなんて思いもしない啓太は、少し考えてはペンを走らせ、辞書らしき本を繰り、カップの飲み物を口に含む。そのひとつひとつ、少し襟足を短くした髪型や足の組み方までががとても大人びて。あか抜けているとまではまだ言えないものの、『男』の階段を着実に上がっているのが手に取るように分かる。それは俺の知っている啓太と、どこか何かが違っていた。俺にまとわりついてきて『なんのごほんよんでるの?』と聞いてきた小さな啓太とも。退学勧告のショックから立ちあがり、闘うことを決意した啓太とも。躊躇いもなく中嶋のもとへ走っていった啓太とも。 ついさっきまで手をつないでいたはずの子供を見失ったような唐突な焦燥感にかられて、俺は無意識のうちに電話を取り上げていた。会長に一言断りを入れるのももどかしく、画面に触れる。数瞬の間をおいて目の前の啓太がテーブルに置いてあった電話に目を落とすと、そこだけは変わらない大きな目を、さらに大きく見開いた。そしてその目元から、ふわっと笑みが広がっていく。それはとても温かく気持ちのいい笑みで、俺は啓太の本質がこれっぽっちも変わっていないと知ったのだった。 ほっとしたら、慌てて電話をした自分に赤面する思いがした。……そんなかわいらしさなんてすでになくしてしまっていた俺は、実際には赤面なんてしたくてもできなかったのだが。 「もしもし和希?」 「ああ。啓太。今どこ?」 「東京。今ちょっとだけ日本に帰ってるんだよ。中嶋さんが仕事で帰るっていうから、ついて来ちゃった」 「そうなんだ」 「ほんの4〜5日だから、ホテル住まいなのがちょっと不便だけどね」 それは『不便』じゃなくて『不満』なのだろう。啓太はあの家を本当に愛しているからだ。俺は啓太と中嶋が暮らす、森林公園を見下ろすマンションを思った。はじめて訪れたのは啓太が誘拐されたときだった。壁紙も家具も、置かれている時計ひとつとっても、それがこだわりをもって選び抜かれたものだとすぐにわかった。まるで中嶋英明という男をそのまま家に変化させたようなあの部屋は、機能的で都会的で。冷たいまでに整然としていた。他人のことは言えないが、インテリア雑誌のグラビアページを見ているように思えたものだ。だがしばらくいると、ちらほらと散らばる『色』に気がつく。冷蔵庫には黄色いヒヨコの形をしたキッチンタイマーが張り付いているし、高級な洋酒が美しく並んだサイドボードには、何故かミニカーも何台か並んでいるのだ。これが缶コーヒーのオマケだと聞いた時にはずいぶんと驚いた。あんなもののオマケにミニカーがつくということもさることながら、それを許した中嶋に驚いたのだ。 だがそれだけではない。世界的に評価の高い国産手吹きグラスの手前にあったのは、ジャングルにひそむ極彩色の鳥や動物を描いたマグカップだった。これは友人たち用なのだと、啓太は真顔で答えたものだ。もちろん俺もそのカップでコーヒーをご馳走になった。どれもこれもあの部屋には異質で、一見するとちぐはぐな感じはするが、目に入った瞬間、そこでふわりと息が抜けるのがわかる。それはたぶん、そこが人の住む『家』だとわかるからだと思う。雑誌のグラビア用に作られたモデルルームなどではなく。家具を入れただけにすぎない空間を『家庭』に変貌させたのは、まさしく啓太の存在なのだった。 「へぇ? 中嶋さんは相変わらず元気そうだな」 「うん。元気も元気。ばりばり仕事しまくってるよ」 「だろうな」 それはそうだろう。あの中嶋がオマケのミニカーを黙認するほど、大事な大事な存在が毎日家で待っていてくれるのだから。 「節分にさ、豆をまいたんだよ。西園寺さんが送ってくれたやつ。どうせ付き合ってくれないのはわかってたから、留守の間にやっちゃえって」 「うん」 「部屋ん中からずーっとまいて行って、玄関で『鬼は外ーっ!』ってやったら、そのとたんにドアが開いた」 「あ〜あ。モロやっちまったか」 「口では『怒ってない』とか言ったくせに、あの夜はさんざんだった」 「あはは。お疲れさま」 笑ったところで一瞬、間があいた。笑ったあとに必ずと言っていいくらい訪れる、この不思議な『間』。埋めてきたのは啓太の方だった。 「で、どうかした?」 「どうかって?」 「和希が電話してくる時って理由があったりするから。どうかしたかなって思った」 「理由か」 鋭いなと思う反面、そうでもないかとも思う。出張土産のやりとりやランチの約束ならメールですませてしまうのがいつものやり方だからだ。お互いの居場所が国境をまたいでいる以上、メールなら時差を考えずにすむ。こうして電話をかける時は、確かになにがしかの理由があった。多くは疲れた時、癒しが欲しくてかけていたような気がする。無意識だったから自分でも気がついていなかった。突き詰めて言えば今日もそうなのかも。 「う〜ん。じつは渋滞にはまっちゃってさ」 「え〜っ? 俺の目の前もすごい渋滞だよ」 「どっかのバカが都会の真ん中で銀行強盗なんかしてくれたんだよ。検問はられてるから、たぶんあちこちでとばっちりが出まくってる」 「わちゃ〜。中嶋さんもかも」 「かもな。でもおまえは運がいいから大丈夫なんじゃないか?」 「あは」 「で、俺が電話した理由もじつはそれ。おまえの運のおこぼれでクルマが動き出さないか、ってな」 とっさに出たわりにはうまく言えたと思う。だって顔を見て衝動的にした電話で、かける理由なんてなかったんだから。 「わかった。動け〜って電波飛ばしとくよ」 「サンキュ」 相変わらず可愛いな、啓太は。あの中嶋と長く暮らして、よくも素直さを失わないでいられるものだ。ほんの数分の会話で身体から余分な力が抜けた。なんだかすごくすっきりして、爆睡したあとみたいな爽快感さえある。気分としては降りて行って、啓太の髪をくしゃくしゃっと撫でてやりたいところだ。一瞬。ホントにやってしまおうかと思った。そしてほんのちょっと迷った。そのほんのちょっとの時間が終わる直前。身体に軽い振動が伝わってきた。 「あ、動く」 「早っ!」 「ってか啓太ぁ。おまえの電波ききすぎ」 「うん。ちょっと驚いたけど、こっちも動きはじめたみたい」 まるで冗談のようだった。あんなに動かなくてうんざりしていたというのに、啓太に話した途端、いきなりこれかよ。 「でもなんか一斉に動きはじめたみたいだよ?」 「検問解除したとか?」 「ああ。そうそう。そんな感じ」 対向車も一気に増えた。啓太の言う通り、どうやら今までみたいな1台分の前進ではなさそうだ。プリウスのブレーキランプが消えるのを見て、俺は窓を下げるスイッチを押した。 「啓太?」 「何?」 「これで電話切るけど、ちょっと顔あげてみて。葡萄色したプリウスのうしろ」 怪訝そうな表情をしながら、それでも啓太が顔をあげる。窓がちょうど下がりきり、小さく手をあげた俺と、すれ違いざまのほんのわずかな時間、視線が絡みあった。こっちを向いたまま電話を下におろしてしまったのは、きっとすごく驚いたからに違いない。してやったり。窓を戻しながら思わず口元が緩んだ。 「あれが伊藤くんか?」 「ええ。相変わらず、無駄に運がいいようです。電話して数分で検問解除になるとは」 別に啓太がいなくても検問は解除になった。たまたまタイミングが合っただけのことだ。でもやっぱり啓太のおかげと思うのはオニイチャンの身贔屓だろうか。 「彼は今、何を?」 「ハーバードで経営やってますよ。中嶋くんが個人の事務所を開いたら弁護士活動に専念してもらいたいから。だそうです」 「ハーバードか。それは頼もしい」 「あいつ運だけはいいですから、MBAまで一気に行くんじゃないですか」 「なるほど」 まだゆっくりではあるが、クルマは止まらず進んでいく。そして。ほとんど『待ちわびた』と言っていい大通りへと左折したとき。何かを決断したときのようなきっぱりとした口調で会長が口を開いた。「よし。このままヒゲタヌキに会いに行くぞ」 「やめにしたんじゃないんですか?」 「ああ。向こうはそう思ってるだろうな。だが2時間くらいなら待つと言ったのはあっちだ。まだ1時間も経っとらん」 相手の不意をつくのは勝利への第一歩だ。スポーツ然り、ケンカ然り。もちろんビジネスもそうで、車内の空気が一気に戦闘モードへ切り替わっていく。ぞくりとするような緊張感が背中を駆け上がった。 「伊藤くんの運がいいように見えるのは、彼がいつも前を向いて、チャンスを逃さずに掴んでいるからだろう。伊藤くんにできることを我々大人がサボっては顔向けができん」 「そうですね」 「今日の交渉。絶対、向こうの譲歩を勝ち取るぞ!」 「はいっ!」 大通りに入ってクルマは一気に加速する。そして俺は不意に、啓太のアタマを撫でそびれたことに気がついたのだった。 。 |
いずみんから一言。 あー。なんか長くかかってしまいました(汗)。 なんでかって、それは「長く書いた」からです。 書いた分量としてはたぶん、A4で10枚以上になると思います。 書いてる途中で気がついて削り、続きを書いてるうちにまた長くなって削り……。 こんな一瞬のすれ違い話を長々と書いてどうするんだ、って(汗)。 なんであれ、出来上がってよかったです。 |
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