誰かが待っているということ |
啓太が来ているときは聞かなくてもわかる。ヒデの野郎が、講義の終わるのを待ちかねたようにして帰っていくからだ。もともと人付き合いのいい方じゃないから、講義が終わってからぐずぐず教室に残ったりしていた訳ではないのだが。 だからそれは、実際にはほんのわずかの時間差でしかない。でもそれで十分なんだよ。付き合いも5年目に入ると、それは数時間分くらいの時間差がついているようにさえ見えてしまうものなんだ。だから今日も、民法の教授と同時にテキストを閉じたヒデを見て、啓太が来てるのが分かったって訳だ。 今朝はとにかくひどい雨で、しかもみぞれまじりと来てはバイクを断念せざるをえなかったのだ。風はむちゃくちゃ冷たいし、本音を言えば朝からヒデの車で来たかった。けど俺とヒデとでは好みというか方向性がびみょーに違うもんだから、あいつは今日は2講目からだったんだよ。俺のがあとなら合わせもするが、逆だとそうもいかないだろ? ってか、俺はそこまでチャレンジャーじゃない。 でまあ雨と風は昼過ぎには嘘みたいにあがり、日差しも暖かくなってきたけど、またちんたら電車とバスを乗りついで帰るのもうざったかったものだから、中嶋の動きに気をつけていたのだった。 途中ちょっと呼び止められはしたものの、俺はなんとかエンジンがかかるまえに助手席にすべりこむのに成功した。左ハンドルで助かった。逆だと回りこまなきゃならなかったから、乗れたかどうかは限りなくびみょーだった。 「おい。ずうずうしいな」 「まあいいじゃねえかよ。雨がひどくてバイクで来れなかったんだ」 奴はこっちをじろりと見やがったが、フンと鼻を鳴らしただけで、別に下りろとも言わずに車を発進させた。そうそう。そんなつまんねーことで時間取らずによ、とっとと愛妻の待つスイートホームへ帰ればいいんだ。 「へっへっへ。助かったぜ。行きも帰りも歩くのはたるくてよ」 「そのかわりスーパーに寄らせてもらうぞ」 「便乗させてもらうんだ。贅沢は言わねえ」 そのことば通り、中嶋はマンションから30分くらいのところにあるスーパーの駐車場に車を停めた。ここは高級食材が揃っていることで有名なスーパーで、家からはちょっと遠いのとビンボー人には値段が高すぎるのとで、俺はほとんど利用したことがない。 けどまあせっかくなんで。他所では手に入らない輸入ビールでも買おうかと、中嶋に続いて車を下りた。 啓太がいる間、出かけなくていいようにしてるつもりなのか、中嶋はカートに次々と食料品を放りこんでいた。そりゃそうだよな。啓太がいないときのこいつの冷蔵庫ときたら、うすら寒いくらい空っぽだったりするのだ。いくら無駄が嫌いだっつったって、ホテルの冷蔵庫じゃない。そこで生活してるんだ。1枚残ったハムとか、半分しか使わないうちにしなびちまったニンジンとか、あるだろ? フツー。それがまったくないのは異常だぜ。 それはさておき。中嶋について店内を回っていると乳製品のコーナーに来た。中嶋のところでつまみに出てくるチーズが美味かったのを思い出して、俺もついでに買って帰ることにした。あれは今日買おうとしてるビールとよく合うんだ。それにいくら高級がウリのスーパーでも、チーズ1パックくらい、そうたいした値段でもないだろうしな。 「おい、あのチーズってどれだ」 「あのと言われても困る。もう少し特定できるように言ってくれ」 ったく。何だってこいつはこうかわいげがないのかねえ。もっとも、俺の方だってこいつにかわいげなんて求めちゃいねえが。 「おまえがビール飲むときだけ出してくるやつだよ。ちょっと柔らか目の」 「それならこれだ」 中嶋は自分のカートに入れていたのと同じものを取ってよこした。 「へへへ。サンキュ」 そう言って何気に中嶋の方を向いた俺は、思わず固まってしまっていた。何の見間違いかと目をこすってみたりする。だが見間違いでも幻でもなく、中嶋はそこにいた。……そう。チーズコーナーのすぐ隣。何種類ものプリンの前に。 「……おい、何やってんだ?」 「見れば分かるだろう。デザートを選んでいる」 「いっいや。そんなことは分かってるんだけどよ」 「分かっているなら聞くな」 自分でも不本意なのだろう。それは思いっきり不機嫌な態度に現れていた。思わず噴きそうになったのをすんでのところで押しとどめる。……危なかった。噴出してたら帰りは歩かなけりゃならんところだった。 「おっと。マヨネーズ切れてるの思い出した。ちょっと取ってくらあ」 「ああ」 そうして乳製品コーナーを離れた俺は、隣の通路に駆け込むなり爆笑した。といっても声は出してないがな。だから俺はチャレンジャーじゃないんだよ。 チャレンジャー。あるいは勇者。この称号は啓太にこそ相応しい。だって考えても見ろよ。あの中嶋が、だぞ。超高級ケーキ屋ならともかく、スーパーでプリンを選んでるんだぞ? それもフツーのプリンじゃねえぞ? モンブランみたいに栗を絞ったプリンがいいか、フルーツを飾って生クリームを絞ったプリンがいいか迷ってるんだぞ? それが中嶋の好みでないのが明確な以上、プリンは啓太のおやつ以外のなにものでもない。あの中嶋をしておやつのプリンを用意させてしまう啓太。どれを買って帰ったら啓太が喜ぶか、真剣なまでに中嶋に考えさせている啓太。この瞬間、俺はあの仔犬みたいな後輩に対する認識を改めた。そうとも。あいつは仔犬じゃない。猛獣使いだ。超一流の調教師だ。 深呼吸しながら何回か自分の頬っぺたをひっぱたき、へらへら笑いが出なくなってるのを確認した俺は、いりもしないマヨネーズをカートに入れて中嶋と再合流した。ちらっと横目で見てみると、奴のカートには、いかにも啓太の好きそうないちごののったプリン。そして餡やら白玉やら訳のわからんピンク色の何かを絞った「期間限定さくらプリンぱふぇ」なるものが鎮座ましましていた。なるほど。どうやら啓太は2泊するらしい。 実を言えば、今日は俺が支払ってもいいかな、とか思ってたんだよ。鈴菱本社でやらせてもらってるバイトのギャラが入ったとこだったし。長期で啓太が来てるときには、しょっちゅうメシをごちそうになってるしな。 けど、やめた。こんな馬鹿ップルのお惚気を見せつけられたんだ。誰が払ってなんかやるもんか! で、まあ、それぞれに金を払い、俺たちはまた車に乗り込んだ。ここからマンションまでは30分程度。タイヤが1回転するたびにその距離が縮まっていっている。 なんでそんなことを思ったかっていうと、1秒ごとに中嶋の機嫌が上昇しているからだ。しかもそれがあからさまに分かるくらいに楽しそうな顔をしてやがるんだ。啓太が待ってるっていうのは、きっとすごいことなんだろう。甘くって幸せで、俺に見られながらでさえプリンを買って帰らずにいられないくらいなんだよ。きっと。俺はまだ、誰かに出迎えてもらったことがないから、想像するだけなんだがよ。ドア開けたら 『 中嶋さん、お帰りなさい! 』 とかって飛びついてきて、お帰りなさいのちゅー……。 くーっ。うらやましい。羨ましすぎるぞ、中嶋っ!! 「……運転中に隣で百面相するな。眼に入ったら事故る」 「うるさいな。ドア開けたとたんに啓太が飛びついてきて、お帰りなさいのちゅーしてもらえるようなヤツに、俺の可愛い男心が分かってたまるか」 「なんだ? それは」 言葉どおりの意味だよ。眉間にシワ寄せてこっち見るようなことか? 「俺にまで隠すなよ。帰ったら啓太が、お帰りなさいのちゅーしてくれんだろ?」 言うだけ言うと、俺は窓の外に視線を転じた。アタマでは分かっていても、やっぱり惚気られると腹が立つからな。でもこれは俺だけじゃなくて、転校してきた啓太をほんのちょっとでも可愛いと思ったことのある人間、すべてに共通する思いだと思う。啓太の笑顔は、花がほころぶとか雲間から太陽が出るとか、そういうレベルは超えちまってるくらい可愛かったのだ。それを今、俺の隣に座ってクルマを転がしてるこいつが独り占めしやがったんだ。 ところが返ってきた中嶋の答えは意外なものだった。 「いや……。しないが」 「ああ、そう。なんだ、しないのか……って! えええええっっっ!?!」 「うるさい」 「う、うるさくて申し訳ない。申し訳ないついでに手間をかけるが、もう一回、言ってみちゃくれねえか。どうも聞き違えたみたいでよ」 「だから啓太がお帰りなさいのキスで出迎えることはないと言ってるんだ」 マジかい、それっ! あーんな可愛い啓太が迎えてくれるのにだぞ、お帰りなさいのちゅーがないだとっ? な、なんちゅーもったいない……。 「それがどうかしたか?」 「いっ、いや。おまえんちだからよ。てっきり、おはよう、おやすみに始まって、行ってらっしゃいだのお帰りなさいだの、キスのオンパレードかと思ってたもんでよ」 いやしかし。我に返ってみると、そう驚くほどのこともないのかもしれない。なにしろ相手はこの中嶋だ。たとえプリンに悩む男に変わり果てていようとも、性格の基本は元のままなんだろう。おそらくははじめて啓太がおかえりなさいのちゅーをしようとしたときに、「なんだそれは」とかって不機嫌なツラでもして見せたんだろうよ。それで啓太がびびったのに違いねえ。へへっ。啓太も苦労す…… 「ほかのはしてるがな」 「……へっ?」 「だから言ったろう。啓太がお帰りなさいのキスをすることはない」 ってことはつまり……。 「おまえがすることはある、ってことか? 啓太が帰ってきたときに?」 「そうだな」 「おはようとおやすみと行ってらっしゃいは……」 「してるな」 はああ〜っ。なんだ。しっかりやってんじゃねえかよ。いきなり 『 しない 』 なんて言うからガラにもなく狼狽えちまったぜ。驚かすんじゃねえよ、ったく。 「けどよ。なんで啓太はお帰りなさいをしねえんだ?」 「あいつは馬鹿のくせに風邪をひくんだ」 「は!?」 「この間も学園に戻ってから、何日かくしゃみが止まらなかったそうだ。おかげで遠藤の小言を聞かされた」 「……」 「自慢じゃないがベッドルームは温度も湿度も管理している。あそこで風邪をひくなど、まず考えられない」 「…………」 「だから俺が外から帰ったときは、手を洗ってうがいをするまでキスはお預け……」 「……ぶわっはっはっはっは」 悪いと思いつつ、もう耐えられなかった。笑えて笑えて笑えて、どうしようもない。クルマから蹴り出されてもいい。頼む。もうしばらく笑わせてくれ……! 考えてもみてくれ。中嶋がドアを開けるだろ? 啓太が待ってて鞄とか受け取ってくれるわな。「お帰りなさい」くらいは言うだろ。で。抱き寄せてちゅーっといきたいところをぐぐっとがまんして、だな。中嶋は洗面所へ行ってうがいするんだ。手は甲やら指の間やら洗うんだろうな。そうそう。時計はずして手首まで。……だめだ。やっぱおかしい。おかしすぎる。 他の誰でもない。自分以外の人間のことなど、きれいさっぱり無関心のはずの中嶋が、誰かの健康を護るために、家に帰るなりうがいと手洗いをしてるんだ。自分のためでさえやらねえぜ。中嶋英明って男はよ。 笑いすぎたら涙が出てきてしまった。それを拭きながら隣を伺うと、相変わらず中嶋は憮然とした顔つきでハンドルを握っていた。ちっとばかり笑いすぎたかと、こそっと反省してみる。だってよ。クルマから蹴り出されるのはなまわないが、中嶋家出入り差し止めになったらえらいことだ。そんなことにでもなったら啓太の癒し系笑顔にも、技術の未熟さを気持ちでカバーしてる手料理にも会えなくなっちまう。ヒデとはこれから先、たとえ会えなくなってしまったとしても、つまらないだけで困りはしないと思う。けど啓太に会えなくなってしまったら、それは人生最大の損失だ。 「そっ、そりゃあ災難だったな。啓太が絡むと遠藤の嫌味もグレードアップするからな」 「グレードアップというより、あれはすでに人格が変わってるぞ。ったく、あれでよく企業を経営できているものだ」 啓太がからむと人格が変わる人間の筆頭のような中嶋は、自分のことは棚に上げてそんなふうに言った。けど、遠藤に意識がいったおかげで、俺が笑っていた理由をすりかえたことにも気がつかなかったようだ。 「今度、遠藤に言ってやれ。おまえがつまらんことを言うから、啓太にお帰りなさいのちゅーをしてもらえなくなった、ってな」 「あいつを喜ばせるだけだろう」 「横から出てきて啓太をかっさらって行ったんだ。それくらいきいてやれよ」 それが勝者の余裕ってもんだろうが。 そんなことを考えていた俺は、自分でも無意識のうちに「あーあ。やめた、やめた!」と口走っていた。 「何だ? 藪から棒に」 じつはこのあと、中嶋の家にべったりついて行ってやるつもりだったんだよ。買い物ったって、あわてて冷蔵庫に入れなきゃならんようなのは買ってないんだ。チーズくらいなら中嶋んちの冷蔵庫に入れといたっていいだろ? ビールだってこいつの部屋で飲むことの方が多いんだし。そして久しぶりの ―― ったって1週間かそこらだけどよ ―― 再会の邪魔をしてやるつもりだったんだ。啓太が「邪魔されてる」って思うんなら、俺だってそんなことしねえ。けどあの可愛い後輩は、俺の顔を見ると満面の笑みを浮かべて「いらっしゃい! 王様」とか言いながら迎え入れてくれるんだ。あの笑顔が見られて、ついでに中嶋への嫌がらせもできるんなら、これは一挙両得。一石二鳥ってやつだと思わないか? だけどよう。お帰りなさいのちゅーを後回しにしてまで啓太の健康を守ろうとしてるヒデを見てるとさ。なんかこう……。ああ。上手く言えねえなあ。まあその、健気さ? みたいなモンを感じちまったんだよ。自分自身でも薄ら寒いんだけどよ。 でももし俺が啓太と住んでるとして。同じことを遠藤に言われても、きっと右から左に抜けちまってる。啓太が風邪ひこうがインフルエンザにかかろうが、うがいや手洗いなんかせずにお帰りなさいのちゅーをしてるに違いないんだ。そう考えたらさ。ああ。中嶋はこいつなりに精一杯、啓太を大事に思ってるんだ、ってな。 そんなふうに思っちまってみろ。邪魔なんてできねえよ。 「今日はおまえんちに行くのをやめた、っつったんだ。有難く思えよ?」 「なんだ、それは」 「武士の情けだよ。今日は邪魔しないでやる」 言外に「明日は行くぞ!」と宣言した俺に、ヤツは片頬だけで笑いながら「ふん」と鼻を鳴らしただけだった。だがその顔はみょーに満足そうで、幸せそうで。啓太のいないところではじめて、中嶋のそんな顔を見た所為だろうか。なんだか俺まで満足してしまったのだった。 |
いずみんから一言。 何を思ったのか、これのデータを入れていたFDに「啓太は勇者」と直書きしていました(笑)。 いつもどこに入れたか分からなくなる伊住には珍しいことです。 これとは別に、携帯電話で書いていたときのタイトルは「改造人間・ナカジマ」(笑)。 そしてパソ子で手を入れながら思っていたのが「勇者ケイターン」(笑)。 どれをとってもさすがにまずい(笑)と思ったので変えました。 啓太くんが「桜味が好きだ」と、中嶋氏が知ったのは前年の4月のこと。 ちゃーんと覚えてたんですねえ。やっぱり健気な中嶋氏です(笑)。 |
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