豚のしっぽは巻いている ∂ |
大変な状況だ、って分かってても、ピンと来ないことってあるよね? 他人事とは言わないまでも、遠い世界のことって言うか、現実味がないっていうか。 たとえば、ほら。世界のどこかで起きている旱魃や大洪水、内戦なんかのニュースを見ても、チャンネル変えたらそれでおしまい、みたいなことってあるだろ? そんな感覚。見てるときには「ああ、大変だ」とか「なんとかしなきゃ」とか思うんだけど。思ってるその手にコーラ持ってたりとか、さ。 これもまあ、そんな類の話。俺と七条さんがお気楽〜に楽しんじゃったっていう、ただそれだけのオハナシです。 発端は4月25日。新学期の緊張も薄れはじめたうえに、目前に迫ったゴールデンウィークに意識がいっちゃって、思いっきりたるみきった日の午後の最初の授業。つまり数学の授業の真っ最中のことだった。 ただでさえ眠い時間なのに、昨夜なのか今朝なのか限りなくびみょ〜な時間まで七条さんと……。えへへへへ、まあそんな状態だったものだから、目を開けていられるのが不思議な状態に俺はいた。ぎりぎりで踏みとどまってたのは授業を聞くためなんかじゃない。「わからない」って言って七条さんに教えてもらうためだ。どう分からないのか言わなきゃ教えてくれないから、一応は聞いておかないといけないわけ。自分でも「馬鹿じゃね?」って思ってるからツッコミはナシ! これは本筋でもなんでもないしね。 そんな俺の眼を覚ましてくれたのは突然のノックだった。授業中のドアを誰かがノックし、先生を呼び出したのだ。一度廊下に出た先生は、ほんの数分で戻ってきてこう言った。 「遠藤」 「はい」 「お父さんから連絡だ。至急、家に帰りなさい」 突然の展開に、一気に教室中がざわめいた。それまでは俺と似たり寄ったりの状態だった和希は、慌てたのかがたがたと音をさせて立ち上がった。 「何か」 「いや。理由は仰らなかったそうだ。とにかく急ぎなさい。今、担任の先生がタクシーの手配をしてくれている。旅費の心配もしなくていいから。早く」 「はいっ」 慌しく机の上を片付けようとする和希を俺は止めた。仕事で何かあったのか、本当に家で何かあったのか。そんなことは俺は知らない。でも授業中に呼び出すほどの緊急事態なんだ。 1秒だって早い方がいいに決まってる。 「片付けとくよ。こんなのもってかないだろ?」 「悪い」 「いいから。早く行って」 「うん。ありがとな。すみません、先生。失礼します」 「気をつけて行きなさい」 「はいっ」 それまでだってほとんど授業を聞いてなかったけど、それ以降はそれ以上に耳に入らなかった。 和希が呼び戻された理由は夕方にわかった。っていうか、テレビのニュースがそればっかりだった。『新型インフルエンザ発生』と。 タネが分かってしまえば手品と同じで、なんてことのない話だった。新型の病気が世界的に流行の兆しが見えているのだ。世界に展開する製薬会社の研究所長である和希が呼び出されるのはあたりまえ。っていうか、ここにいたらニセモノでしょ? どっちかっていうと、そういう状況にありながら授業に出てた和希の方を疑うよな。 「ふん。新型インフルエンザは時間の問題だと思っていたが……。メキシコの豚からとはフェイントだったな。まあ、底値のときにマスク製造会社の株を買っておいたのは正解だった」 「遠藤くんは5時間目からいなくなったんですね? さて。明日の今頃はジュネーブでしょうか。それともニューヨークでしょうか」 「どっちにしても、当分は帰れませんよね」 食堂の中はどのテーブルでも同じ話題でもちきりだった。テレビやネットのニュースばかりじゃなく、掲示板に『遠征及び旅行での海外渡航禁止』なーんて貼り出されたこともある。GWとかに予定してる家族旅行をとりやめてキャンセル・フィーが発生したら、学園が全額負担してくれるらしい。俊介なんかちょうど世界大会が2週間後だったから吼えるかと思ってたら、「そんなん命あってのものだねや。薬もあらへん病気になんか罹りとうもないわ」と、じつにあっさりしたものだった。このときはまだタミフルやリレンザが有効とかって分かってなかったんだよな。 「和希は大丈夫かなあ」 「大丈夫だ。とは言ってやれないな」 「これだけ交通が発達してしまったら、聖域なんてどこにもありませんからね。遠藤くんより僕たちの方が安全とは限りませんよ?」 「はい……」 「遠藤は今、少しでも被害が広がらないように努力しているんだ。せめてわたしたちは極力、島の外へ出ないようにして、安易な感染をしないようにしなくてはな」 「はい……」 ちょっとしんみりっぽく和希の心配をしたのは本心からだった。なのに30分もしないうちにどっかに吹っ飛んじゃったんだよなあ。だってほら。すぐにゴールデンウィークだし。七条さんと出会ってはじめての俺の誕生日がくるんだ。新型インフルエンザは気になるけど、七条さんの横浜のマンションの方がその何倍も気になるんだもの。なんてったって、あそこには俺の欲しいものがあるんだから。 で、まあ、そんな感じで突入したゴールデンウィークも最高の締めくくり方で終わり、俺たちに日常が帰ってきた。帰ってこなかったのは和希だけだ。 部屋にいる限りニュースは見るようにしているし、新聞の記事もちゃんと読んではいる。でもそれで分かるのは、せいぜいが患者数くらいのものだ。思ったより症状は重くないとか、アメリカではマスクが有効じゃないと思われている ―― 目が防護されてない以上、感染のリスクは変わらないんだってさ ―― とか、そんなことを知ったって、それがどのくらい重要なのか分からない情報ばかりだ。でもぽつんと空いた和希の席は、状況の厳しさを俺に教えてくれていた。俺が七条さんと甘い時間を過ごしていた間も、和希は世界の人を救うために闘っていたのだと思うと、ほんの少しだけどうしろめたい気がした。 だからという訳でもないんだけど、夕食の後、七条さんたちと別れて部屋に戻った俺は、和希が留守にしている間のノートをルーズリーフに清書しはじめた。俺では「鈴菱和希」の力にはなれない。だったらせめて「遠藤和希」の力にくらいなろうとしたんだ。いくら和希の本当の成績がよくたって、苦手なとこだってあるだろうし、忘れちゃってるとこかもしれないから。その作業がほとんど終わりかけたとき。放り出していたベッドの上で携帯が鳴った。和希だった。 「和希? いいのか、電話なんてしてきて」 「んもー缶詰状態さ。インフルエンザより先に過労死しそうだよ」 「気をつけないと駄目だぞ? 和希ってすぐ無理するんだから」 電話の向こうで気の抜けたような笑い声がした。頬っぺたをぽりぽりやってる和希の顔が目に浮かんだ。 「まあ適当に休むさ。それより頼みたいことがあるんだけど」 「うん。何? ノートならちゃんととってるよ」 「サンキュ。でもとっても大事なことなんだよ。メールや電話じゃ盗聴される恐れがあるから、石塚そっちに行かせてるんだ。悪いけど今すぐ理事長室に行ってくれる? 七条さんと、それから西園寺さんも一緒に」 「って、何それ。もうこっちに来てるのか?」 「ああ。さっき着いたって知らせがあったから電話してんだよ」 「わかった。何だかよく分かんないけど、すぐ行くよ」 早い方がいいと思った。文字通りの意味で寝食忘れてるはずの和希が、わざわざ電話をかけてきてまで俺に頼もうとしてるのだから。切ったその手で携帯をポケットにねじこんで、俺は部屋を飛び出した。エレベーターを待つのがもどかしくて、階段を一気に駆け上がる。このあたり、寮長が成瀬さんでよかったと思う。篠宮さんだったら目敏く見つかってるところだった。 「和希がすぐに来て欲しいんだそうです。でも理事長室で待ってるのは石塚さんみたいです」 「クーリエか。ま、当然だな」 「電話やネットは危ないですからね」 慌ててた所為もあってうまく説明ができなかったのに、七条さんも西園寺さんも驚いた様子もなく、一緒に理事長室に行ってくれた。サーバー棟への道すがら、歩きながら教えてもらったところによると、古今東西を問わず、大事なものや他人に知られてはいけない情報は、人の手で運ぶのがいちばんいいのだそうだ。俗に言う『密使』ってやつだ。今日みたいな日に和希が俺たちを呼び出すのはインフルエンザがらみ以外の何物でもなく、だとすると石塚さんが足を運んできているのは不思議でもなんでもないらしい。 でもそんな七条さんや西園寺さんでも驚いたことがあった。理事長室で待っていたのは石塚さんではなく ―― 石塚さんもいたからウソではない ―― 和希本人だった。 「あれ〜。伊藤くんだー。西園寺くんに七条くんも〜」 何で和希が? と言おうとしたら、うしろから声をかけてきた海野先生に先を越されてしまった。どうやら先生も呼ばれていたらしい。 「みんなも呼ばれてたんだねー」 「先生もでしたか」 「うん。ついさっき、電話でね〜」 何がなんだかよくわからないまま、?マークばっかりが増えていくけど、ドアを開けたところで立ち止まってても仕方がない。和希に促されるままぞろぞろ理事長室に入った俺たちは、今度は石塚さんに促されて隣接する会議室に通された。 「和希」 「うん?」 「いつ帰ってたんだよ。心配してたんだぞ、ずっと」 みんなの後ろについて歩いていきながら、俺はいちばん聞きたかったことを和希に聞いた。和希はちょっと目を泳がせながら、綺麗に爪の切られた指先で頬っぺたをぽりぽりと掻いた。 「ずっとここにいたんだよ」 「ここに!」 「ここっていうか、まあ研究所の方だけど」 授業中に呼び戻された和希は理事長の車を使うわけにもいかず、先生の手配したタクシーに乗って駅前で降りた。そのまま指定されたホテルの部屋で鈴菱会長と打ち合わせをし、研究所に戻ってきた、というわけだ。 「絶対に誰にも見られるわけにいかないだろ? 橋の上から研究所のエントランスまで、石塚の足元でずっと伏せてたんだぜ?」 「もしかして今日も?」 「そ」 そう言って和希はちょっと肩をすくめて見せたけど、そういう仕草はやっぱり七条さんの方がかっこいい。贔屓目じゃなくて。うん。 そうして、和希の依頼を受けた俺たちが国内某所にある鈴菱の 『第2研究所』 にやってきてから3日が経った。本当を言うとここは鈴菱の保養所で、そこらのリゾートホテルも真っ青な施設だ。和希はここの電話線やネットを第2研究所の名前で新たに契約しなおし、でっち上げに信憑性をもたせたというわけだ。そして。俺たちがここに集まったのもそれ。ひとりといえども戦力を削げない研究所員に代わって、データのでっち上げをすることにあった。 あの日。集まった俺たちに和希はこう切り出した。 「現在、鈴菱の総力をあげて抗・新型インフルエンザ薬を開発中なのは、たぶんもう分かってると思います。ところが、何物かがそこに探りをいれてきた」 「しかしある程度はオープンにしているのではないのですか? すでにもう、ひとつの企業云々というレベルではなくなっていると思いますが」 「それでも、です。もし世界で最初に開発できたら、名誉も収益も思いのままだ」 「ふん。どこかの国の考えそうなことだ」 「そういうことです」 そこで和希は考えた。探りたいなら探らせればいい。ただし、偽の情報を。だけどそのために作ったウソはいけない。天下のベル製薬がそんなセコイことはしちゃいけない。意味ありげに垣間見せて、食いつかせて、すべての目をこっちに引きつけさせる。でも彼らが追っているのは、じつは全然違うものだった。勝手にのぞいて勝手に勘違いしたのはあんたの方。ってね。そんな筋書きを作るのに選ばれたのが海野先生なのだった。 海野先生の専門は動物の遺伝子のナントカ ―― 説明は聞いたけどチンプンカンプンだった ―― で、ウイルスのそれではないらしい。和希はブラフとして使わせてもらうために、海野先生の未発表の研究の中からいちばんどうでもいい研究を選んだ。―― まっすぐで長いしっぽの豚をつくるための遺伝子の操作、ってやつを。どう? 笑えるだろ? なんでそんなものを研究したかっていうと、2重螺旋が豚のしっぽに見えてきたから、だってさ。 これが西園寺さんの命名による「百年の孤独作戦」のはじまりだった。 「だけどびっくりするでしょうね」 「ええ。本当に」 西園寺さんと海野先生が膨大な量のデータから使えそうな部分をピックアップしている間、俺と七条さんは保養所、もとい第2研究所の周りを散歩する。すでにそれは日課となりつつある習慣だった。すでに出来上がってるものを、いかにも 『たった今できました!』 みたいに作らなきゃいけないし、小出しするにも理路整然と並べちゃうと不自然だ。かといって前後させすぎるのもおかしい。十分に考え抜かないといけないそれは、西園寺さんほどの人でも、1日分を仕上げるのにはかなりの時間を要するのだった。 俺たちはまだ少し肌寒い空気の中を歩いては、自分たちの作業をくすくす笑いあった。和希にはいくつか「絶対に守って欲しいこと」ってのを言われていて、その中のひとつに「何の研究か、書いたり声に出したりしない」っていうのがあった。壁に耳あり障子に目あり、ってやつだ。シュレッダーにかけられたメモでさえ回収されたら再現できちゃうっていうんだから。平凡な高校生には驚きの世界だ。しかも今回はわざとらしく研究機材を運び込んでみたり、奥のリクリェーションルームを「実験室」に改装したりと、目と耳を引きつけさせる手筈は十分に整えられている。何をやっているのか分からないまま、どこかの国とやらもすでに注目はしているはずだ。そんなところで「豚のしっぽが」なんて言えないよな。向こうだってシロートじゃないんだ。そんなキィワードがあったらすぐにバレてしまうに違いない。 海野先生と西園寺さんとが作り出した断片を、七条さんが暗号化して和希のところに送る。すぐには解読できないように。だからといって解読できないのも困る。このあたりのさじ加減も難しいところで、そして七条さんの腕の見せ所でもある。 電話にもスクランブルがかかっている。もちろん「適度な」ものが。その作業が俺の担当だった。西園寺さんに作ってもらったシナリオを、あらかじめ決められている時間に学園島の研究所に待機している研究員に流すわけだ。それは本当に今回の研究をしている部署の電話番号で、俺がかける相手も本当にいる人なんだけど、じつは電話は所長室にかかっていて、話す相手も石塚さんなんだ。もちろん逆もあり。ついでに言えば俺たち4人にも研究所の人たちの名前がついている。その人たちは今、ごく一握りのVIPしか知らない地下の研究室に泊り込んで、誰にも知られないように研究を続けている。名前だけしか見ていなければ、彼らが第2研究所に来ていると思うに違いない。 ところが星野主任こと西園寺さんがみょーに楽しんじゃって、最初にした電話はなんと「子猫が盗んだ干物はアジだった」だった。それに対して「アジですか? カワハギじゃなくて?」とソッコー返してきた石塚さんも相当のものだと思う。だってそんな打ち合わせなんてこれっぽっちもしていなかったのだから。以降、「猫が云々」というのが会話の中心となった。「1歳メスのアメリカンショートヘアは、黄色いネコジャラシで遊ぶのが好きらしい」とか「子猫がミルクを飲まなくなった。与えるのはキャットフードか、それとも刺身か」とか。元演劇部の俺が、一応ちゃんと演技プランを作って演ったこの会話。盗聴した誰かが、ちゃんと「暗号」だと思ってくれたらいいんだけど。 少しばかりそんな楽しみ方をしていたとしても、実際にはほとんど気を抜ける時間はなかった。うっかり本名を言っちゃったりしないようにしなければならないのだって大変なんだ。だからこうして七条さんと散歩に出て、松井さんと兼本くんじゃなくなる時間は、本当にほっとできるひと時だった。 ここが何処だとは言えないけど、3000メートル級の山の中ほどよりは少し上で温泉も出る。程よく暖房のきいた部屋の中から外に出ると高山特有の爽やかな空気が俺たちを包みこみ、青々とした葉の香りはむっとするくらい濃いものだった。だけど何故かすごく落ち着く香りだ。この中を俺は七条さんに腰を抱いてもらいながら、ゆっくりと足を進めるのだった。 歩くたびに何かを見つけた。葉と葉の間からつぼみをのぞかせる白い花だったり、何処からともなく聞こえてくる、名前も知らない鳥の声だったり。霧なのか靄なのかわからない、朝にわきあがる白いヴェールを通して見える葉の緑色には、正直言って感動した。俺ひとりなら見逃してしまいそうなそれを、いつも気づかせてくれるのが七条さんだった。だから「ああ……。ちょうどいい木がありましたね」と言われたときも、深く考えずに「どれですか?」と答えていた。 それは俺ひとりでは抱えきれないくらいの太さのある木で、七条さんによるとクヌギの木だろうということだった。今が秋なら、どんぐりを食べに来たリスが見られるのかもしれない。でも今は初夏な訳で。青い実さえまだついていない。どうしてこんな木を探してたんだろう。と、思う間もなく、俺は幹と七条さんの腕との間に閉じ込められていた。 「ほら。やっぱりちょうどいい」 「あ……、と。その……。何、に、です……、か。ん……っ」 「こうやって、君を食べちゃうのに、ですよ」 首筋に顔をうずめられ、熱いくちびるを押しあてられた。次の瞬間にはその密着感が、触れているのかいないのか分からないくらいのもどかしさに代わる。そのままそっと上に向かってなぞられると、甘い期待に何もかもを手放してしまいたくなった。ここに来て3日。すぐそこに七条さんがいるのに、触れ合えなかった不満や寂しさが一気に吹き上げてくる気がする。七条さんの力強い手が欲しかった。こんな生きた檻となって俺を閉じこめる手じゃなくて、服の下から入りこみ、直接肌に触れて、俺を快感の渦に放りこんで欲しい……! だけど和希との約束が俺をぎりぎりで踏みとどまらせていた。 「だめ……っ」 「何が?」 「だ……って、俺。かず、き、と……。約束……」 和希から言われていた「絶対に守って欲しいこと」のひとつに、「第2研究所ではえっちをしてはいけない」っていうのがあったからだ。 『えー? なんで駄目なんだよ』 『馬鹿。不特定多数が利用するホテルじゃないんだぞ? 働いてる人だって入れ替わるわけじゃない。シーツの取替えしてくれた人と、どんな顔をあわせるつもりだ?』 そこは男しか泊まっていない保養所で。しかもゴールデンウィークは過ぎてしまっていて、おそらく近くにはナンパに応じてくれるような女の子もいないに違いない。なのにえっちの跡ありありのシーツ……。リアルなまでにその場面が目に浮かんで、俺は全身が赤く染まっていくのを感じた。顔から火が出るっていうのは、きっとこういうのを言うんだろう。俺はそれ以上の反論もできず、『……リョウカイイタシマシタ』と答えたのだった。 「何が駄目なんですか……?」 耳元で囁くように甘い吐息を吹き込まれた。ぞくりと足の下から背骨を駆けあがっていった何かは、絶対に山の冷気なんかじゃない。 「ここは第2研究所の『外』ですよ? 遠藤くんとの約束を破るわけではありません」 そんなの詭弁だ。と、俺の頭は思った。なのに俺の手は七条さんの頭を引き寄せていた。 終わったあとはちょっとした罪悪感があった。和希は今も不眠不休で闘っているに違いないからだ。だけど人間って「やっちゃいけない」って言われるとやりたくなっちゃう動物なんだよ。だから鶴は織りかけの布を残してどこかへ去り、浦島太郎は年寄りになった。でも俺たちはたぶん誰にも見られてなかったろう。と、思う……。七条さんのことばじゃないけどここは第2研究所から10分くらい離れてるから、西園寺さんや海野先生に見られたはずはない。保養所の職員さんたちはもう出勤したあとだ。夜勤の人ならとっくに帰っている。あとは壁にある目だけだけど、これはもう外まで届いてないことを祈るだけ。っていうか祈るしかない。 だけど実際に見られていたのは ―― 。俺たちを見ていた 『誰か』 の方だった。 和希に申し訳ないと思いつつもすっきりさっぱりしちゃった俺たちが研究所に戻ると、応接室で海野先生と西園寺さんがお茶をしていた。手招きで座れと促され、向かいのソファに座る。テーブルの上にあるのは4人分の紅茶のセットと、西園寺さんのお茶請けとも思えない子供向けのひらがなクッキーだ。その袋に手を入れた西園寺さんは、ひとつずつ選んでは俺に手渡してくれた。最初が 『く』 で次が 『い』 で……。 『く・い・つ・い・た』 食いついた。つまり俺たちが隠したデータが、どこかの国で流れたのが確認されたのだ。やった! と思った。こんな山の中へ来てまで手伝った甲斐があったというものだ。声に出して喜んだりはできないから、俺たちは紅茶のカップを触れ合わせて喜びをあらわした。大人の顔でほくそえむ和希が目に浮かんだ。 俺たちはそれからさらに10日間、第2研究所で仕事をやり終えてから学園島に戻ってきた。その間、毎日あの木を使ったのはナイショの話だ。本物のワクチンにも目処がついたらしい。下界では留学先で感染した高校生が空港で見つかったりして大騒ぎになっていた。 「こんな時季に行くんてあほちゃうん」 とは俊介の弁。トライアルの試合をすっとばして日本にいた俊介だからこそ言えることばだ。この最高のタイミングでどーんと使えたら目立てたんだけど、ちょっとだけワクチンが間に合わなかったんだよな。ベル製薬でワクチンの製造をはじめるには、治験やなんかがあって今すぐというわけにはいかないらしい。でもまあ冬の本番には間に合うでしょ。 俺たちのデータを盗んだ不届きな国がどこなのかは知らない。でもニュースとかやってたら気をつけて見ておいて欲しい。 『まっすぐで長いしっぽの豚がうまれました』 とかってやってたら、それがその国だから。だって。豚のしっぽは巻いてるんだよ。遺伝子の2重螺旋みたいに、ね。 |
いずみんから一言。 インフルエンザ発生で大騒ぎになった神戸から、このオハナシをお届けします(笑)。 ってもう、とっくの昔に「ひとまず安心宣言」が出ちゃってますが。 ↑ ちゃっちゃと書かんからです。はい(汗)。 作戦名「100年の孤独」は焼酎の名前ではなく(苦笑)、ノーベル文学賞を受賞した ラテン・アメリカを代表する作家ガルシア・マルケスの代表作(かな?)です。 17人だかの「アウレリャーノ」が出てくるので、区別するのに特徴をつけるのですが 中に豚のしっぽをもつアウレリャーノがいるのです。 彼は「アウレリャーノ・豚のしっぽ」と呼ばれております(笑)。 訳わからん話が好きな方にはお勧めです。図書館でどうぞ。 |
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