公認外泊 |
MVP戦が終わり、学園全体が、そして何よりその中心にいた伊藤啓太が、ようやく落ち着きを取り戻してきたある日の放課後。進路指導があるといって、会長の丹羽哲也も副会長の中嶋英明も学生会室を留守にしていた。出席番号が並んでいるので、こういうときにはふたり揃っていなくなってしまうのだ。だから啓太は留守番がてら、ひとりで命じられた仕事を片づけていっていた。誰もいない方がかえって気を抜きにくく、仕事はいつもより捗っていた。 一時間もした頃だったろうか。ノックの音とともに印刷屋が顔を出し、半月ほど前に注文していた冊子を届けに来た。 「結構ありますよ、これ。どこに置いておきましょうか」 「えっと。隣の会議室に入れてもらえますか?」 「はい」 啓太は慌てて走っていって、会議室のドアを開けるとストッパーで止めた。印刷屋が言ったとおり、ネコ車の上にはダンボールが七つと半端らしい包みがひとつ乗っていた。 「じゃあここ置いときますんで」 「はい。どうもお世話様でした。有難う」 印刷屋であろうとコピーのメンテであろうと掃除のおばちゃんであろうと、どんな人に対してもきちんと挨拶とお礼を言うこと。BL学園に転校してきて以来、丹羽や中嶋たち上級生から何度も言われてきたことである。最初のうちは何か気恥ずかしかったのだが、最近になってようやく、自然に言えるようになってきた啓太だった。それだけBL学園生らしくなってきたといえるかもしれない。 「はいっ、毎度どうも。またお願いしますっ!!」 伝票を啓太に手渡した印刷屋は帽子を脱いで一礼すると、空になったネコ車をがらがらいわせながら帰っていった。その後姿を見送った啓太は、一度学生会室に戻ってやりかけの仕事にきりをつけた。中途半端で放り出すと、それこそ何を言われるかわからない。そしてドアノブに『会議中です』のプレートをかけてから、会議室に積まれたダンボールを開けた。 BL学園では年に何度か、各界で活躍している卒業生を呼んで講演をしてもらっている。新進気鋭の人物が多く、講演会当日には卒業生や鈴菱の関係者などもかなり聞きに来ていた。その内容を一年分まとめて本にしたのが、今日届けられた冊子であった。在校生と教職員に配り、図書館や鈴菱各社に納めた後は、希望する卒業生のもとへ郵送される。啓太は一冊を手に取ってぱらぱらとめくってみたが、すぐにやめてしまった。どうせ自分も一冊もらえるのだ。それからゆっくり読めばいい。啓太は印刷された送り状を持ってくると、本と一緒に、宛名シールを貼って用意していた封筒に入れ始めた。 積み上げた封筒の山がかなり大きくなってきた頃、出席番号が前になる中嶋が会議室に入ってきた。 「あ。お帰りなさい」 「ああ。本が届いてたのか。かなり封筒に入れたようだな」 「はい。もうちょっとです。後は貼るだけで。でもクラスごとのはまだ分けてないんです」 「そっちは俺がやろう」 「お願いします」 進路指導がどうなったのか、啓太はとても気にしていた。だが中嶋にそれを聞くのは憚られた。啓太はちらっと中嶋の様子を窺い、彼が別に不機嫌ではないことを見て取ると、ほっと息を吐いた。どうやら進路は中嶋の希望通りでいけるらしい。もっとも、中嶋くらい成績がよければ、よほど特殊な進路を希望しない限り、教師は無条件でOKを出すだろうが。 中嶋の作業は手早い。大きな手で無造作に本を掴みあげると、リストを見ながら各クラスごとに数に分け、さっとクラス名を書いた紙を挟んでいく。クラスの数が少ないこともあって、啓太が中嶋の方を気にしている間に終わってしまっていた。 「啓太。貼っていくのはかまわないが、講演者の分は郵送するなよ」 「あ!? そうなんですか?」 「わざわざ足を運んでもらっているんだ。こっちから届けるのが筋だろう。紛れないように今のうちにのけておけ」 「はい。来てくれたのは、えーっと……」 「届けるときにはおまえも連れて行ってやろう」 「松田さんと、毛利さん、と。それから……。え!?」 講演者の宛名を探して封筒をひっくり返していた啓太が、今頃になって顔を上げた。 「中嶋さん、今なんて言ったんですか!!」 「だから出張に連れて行ってやろうと言ってるんだ」 「うわあ。ホントですかあっ。うれしいですっ!!」 「まだわからんが、たぶん一泊になるだろうと思う。俺や丹羽の横にいて、アポを取るときの電話のかけ方をよく覚えておくんだ」 「はいっ」 うれしそうに返事をする啓太に、中嶋がくちびるの端をつり上げた。 「物見遊山じゃないんだ。地図の読み方や相手先の訪問の仕方も、この機会にきっちりと身につけろ」 「わかりましたっ」 啓太はまったくわかっていない、実に楽しそうな顔で返事をしたのだった。 中嶋のことばどおり、啓太も出張に連れて行ってもらえることになった。今回の講演者は五人なのだが、ふたりは海外にいるので、さすがに届けるというわけにはいかない。残り三人のうち、ふたりが東京と千葉、ひとりが名古屋で、中嶋が強引に東京方面を取ったのである。 「啓太にやり方を教えなきゃいけないからな。二件あるほうがいいだろう」 「じゃあ俺が啓太を連れて東京に行っても、同じなんじゃねぇか」 「名古屋の吉田氏がうるさいのを、知らんおまえじゃないだろう。会長が行かなかったり、啓太みたいな子供っぽいのを連れて行ったりしてみろ。後のことは俺は知らんぞ」 「わかったわかった。好きにしろよ」 この程度の理屈なら。丹羽が本気を出せば打ち負かすこともできたに違いない。だが退学勧告以降MVP戦が終わるまで、どれほど啓太が精神的に参っていたか。中嶋が啓太を護り支えるのにどれほど神経を使っていたかを知っていたので、ここはあっさりと引いたのだった。 学園に残れることが決まり、元の啓太に戻ったように見えても、まだ何かの拍子にピリピリした部分がみてとれるのは、丹羽だけではなく何人もの人間が気づいていることだった。転校早々、自分のまったく知らないところで権力闘争に巻きこまれ、挙句に退学まで言い渡されたりしたのだ。啓太の心の奥底に傷が残っていたとしても、それは仕方のないことだと丹羽は思っていた。さっさと用事を済ませて残った時間で何か気晴らしをしてくるなら、少しは啓太も方から力が抜けてくるに違いない。 また、自分があえて引いたことを、中嶋なら気がついているだろうこともわかっていた。相手が気づいているのなら、それは貸しになる。中嶋に貸しを作ることは、若いくせに気難しい書道家に会いに行くことを差し引いても、充分に魅力的だった。 公認の欠席に公認の外泊。転校してきてから始めての遠出には、隣の座席に中嶋が座っているというおまけまでついていた。本当ならこれから知らない会社を訪問する緊張に包まれているはずなのだが、啓太には最高の気分だった。 そうなると中嶋が自分を窓際に座らせてくれたのもうれしいし、車内販売のコーヒーを買うときに、何も言わずに自分の分も買ってくれたのもうれしかった。中嶋がほとんど口をきかず、ペーパーバックの洋書を読みふけっていたとしても、たまにその横顔を盗み見するだけで、啓太はやっぱりうれしかったのだった。 新幹線が東京駅にすべりこむ直前。ぱたんと本を閉じた中嶋が、窓の外を指差した。 「あそこに薄平べったい、厚揚げを立てたようなビルがあるだろう」 窓の外などビルだらけだったが、そういうふうに説明されるとすぐにわかった。近寄るとそれなりに幅もあるのだろうが、どっしりしたビルが多い中で、華奢に見えるそれはひときわ目立っていた。 「はい」 「あれが鈴菱本社だ」 あっと思う間もなく、それは後方へ去っていってしまった。 「ああっ。もっとよく見ればよかった」 「これから何度でも来る機会はあるだろう。それより降りた後の乗換えは頭に入っているな」 「はいっ」 「よし。行くぞ。お前の初陣だ。気を抜くんじゃない」 ふたりを乗せた新幹線は、定刻どおり、東京駅の25番ホームに到着した。 適度なリラックスと適度な緊張。そのあたりを中嶋がうまくコントロールしたこともあってか、最初の訪問は、啓太にすれば上出来の部類に入った。もちろん中嶋の眼から見れば指摘事項は山ほどあったのだが、それでも相手はずいぶんと褒めてくれたのだった。 「君たちを見ていると、BL学園の伝統がきちんと受け継がれていってるんだなあと思って、ちょっとうれしいよ」 「有難うございます。僕は毛利さんが公演にいらしたとき、まだ転校してきていなかったので、お話を聞けなかったんです。でもこの本を読んで、すごいって思ったんです。だから今日こうしてお会いできて、本当にうれしいです」 毛利哲郎という卒業生が千葉県内で経営しているのは、ごくごく普通のIT関連企業である。そんな人物が今年の講演会に選ばれたのは、彼の経営方針にあった。毛利は自分と営業職以外のすべての従業員を、何らかのハンディをもっている ―― 毛利は彼らをチャレンジドと表現した ―― 人たちにしようとして、その実現のために走り回っているのだった。 「ここのビルだけをバリアフリーにしたって意味がない。家からここまで全部をバリアフリー化しないとね。そうすればぐっと採用できる幅が広がる。今の時代、キーボードさえ叩ければ、仕事には何の支障もでないんだ。欲を言えば営業職にもチャレンジドを入れたいんだけど、まあそれは次の段階かな。今は行政にかけあって、どこかの開発地域を丸ごと任せてもらえないか、模索中ってところ」 もし中嶋さんと出会ってなかったら、俺はこの人と仕事をしたいって思っただろうな。 熱っぽく語る毛利を前にして、啓太はそんなことを考えていた。それくらい毛利という人物も彼の夢も魅力的だった。 ―― もちろん、中嶋さんとは比べ物にならないけれど。 夕食をご馳走になった後、毛利の車で都内まで送ってもらったふたりは、電車に乗り換えてホテルに入った。中嶋が予約したそのホテルは、都心とは言いがたい場所にあって、啓太にはちょっと意外だった。たしかに観光シーズンではあるが、季節もへったくれもないような首都で、ホテルが一杯になるとは思えないのだが。それに何かのシンポジウムでもあるのなら、逆にこんなホテルもすでにいっぱいのはずだ。訝る啓太に、中嶋はそ知らぬ顔でチェックインを済ませると、ベルボーイの案内を断った。 「あれえ!?」 先に部屋に入った啓太が、少し間の抜けた声を出した。 「どうした」 「ベッドがないんですけど?」 応接セットとテレビとライティングデスクとキャビネット。豪華な花の生けられた花瓶まであったが、部屋の中の調度はそれだけだった。キィをデスクの上に放り出した中嶋が、喉の奥で笑った。 「こっちはバスルームだろうから、そっちのドアじゃないか?」 「これですか?」 啓太がドアを開けると、そこには確かにベッドがふたつ並んでいた。 「二部屋になってたんだ」 「ちょっと狭いが、一応スィートだ」 「すごい」 「せっかくの床入りなんだ。少し贅沢をさせてやろうと思った。予算の都合で都心から離れてしまったが、まあ、いいホテルだろう?」 「えっ、……と」 「気に入らないのか?」 「いえ。あの、とてもいいホテルだと思いますけど。でもあの、その……」 「思うけど、なんだ」 「とっ、床入りだなんて、そんな……」 「一緒に寝るのは初めてだ」 一度に大量のデータが流れこんできてハングアップしてしまったパソコン。啓太はちょうどその状態に陥った。どうすることもできないで、ただ呆然と立ち尽くしている。 「どうした。抱き上げて運んで欲しいのか」 「いっ、いえっ!! 歩けますっ」 弾かれたように歩き始めた啓太だったが、それがあまりにぎくしゃくしたものだったので、後ろから中嶋がすくいあげるようにして抱き上げた。降ろしてくださいとばたつく啓太を、ベッドの脇でおろしてやる。顔を真っ赤にした啓太は、なんとかして中嶋をにらみつけようとしていた。 「俺の部屋だと殺風景すぎると思った。だからこういう機会を作ったんだが?」 「中嶋さ……。あの……」 「しゃべるとキスができない。……教えてやったはずだな」 そういわれてしまえば、啓太にはもう、下りてきたくちびるを受け止めるだけで精一杯だった。中嶋が右手だけで器用に啓太のネクタイを解き、ボタンをはずしていく。何もかもを奪い取られた啓太は、ベッドの中に押しこまれた。裸なんて風呂に入るたびになっているのに、さらさらするシーツに包まれているだけで、自分がものすごく無防備で頼りない存在になったような気がした。思わず不安にかられた啓太が眼をやると、中嶋が惜しげもなく制服を脱ぎ捨てているところだった。 中嶋さんも裸になるんだ……。 啓太は小さく息をのんだ。今まで何度か中嶋に抱かれたけれど、それはいつも外でだった。中嶋はズボンをほんの少しずらすだけで、あとはワイシャツの前をはだける程度。だから啓太はいつのまにか、中嶋は服を脱がないものと思いこんでしまっていたのだった。 ベッドに入ってきた中嶋を、啓太が不思議そうに見つめた。 「どうした」 「中嶋さん。なんか……、怖いくらい真剣な顔、してる」 そうか、といって、中嶋はほんの一瞬だけ表情を緩めた。 「遊びでやっているわけじゃないからな」 中嶋が啓太を抱き寄せた。素肌と素肌が重なりあい、絡みあう。相手の熱がダイレクトに伝わってくる。そしてふたり分の吐息が混じりあい始める。中嶋の大きな身体に包みこまれたとき、先刻感じた無防備な頼りなさが消えてしまっていることに、啓太は気がついた。 そっか。ふたりとも無防備だから。だからこうやって、お互いを護りあうんだね……。 答えを見つけた啓太は安心したように肩から力を抜くと、すべてを委ねるために、中嶋の背に腕を回した。 「……啓太。こら、起きろ。いつまで寝ているつもりだ」 啓太が眼を開けると、もうすっかり身支度をすませた中嶋が肩をゆすっていた。慌てて起きようとして、身体の中に痛みが走り、啓太はもう一度ベッドに沈みこんだ。 「あっ、痛ぅっ……」 「いつもと同じようにすれば痛いのはあたりまえだ。したあとの起き方を早く覚えるんだな」 「だってこれは中嶋さんが……」 「旅先だ。加減はしてやった」 「加減って……」 昨夜はいったい何度いかされたのだろう。すぐにはわからないくらい、それは何度もだったはずだ。それで「加減をしてやった」といい放つのだ。啓太は内心でため息をつきつつ、そろそろと身体を起こした。 「無理はしなくていい。帰りの時間など、どうにでもなる」 「帰りの時間? だって今日は松田さんと……」 「松田氏にならもう会ってきた」 中嶋が苦笑をもらした。 「おまえ、今何時だと思ってるんだ?」 「何時って。……うわっ!!」 ベッドサイドの時計の針は昼を大きく回り、すでに三時近くを指していた。 「あんまりよく寝ていたからな。起こすのもかわいそうかと思って寝かせておいたんだが……。まさか帰ってくるまで寝ているとは思わなかった」 「……すみません」 「まあいいさ」 最初から寝かせておくつもりで二泊の予約を入れ、出かけるときにはドント・ディスターブの札をノブにかけていったことを、中嶋は素振りにも見せなかった。それでも啓太には、中嶋が自分を甘やかしてくれたことがわかっていた。 「よく眠れたか?」 「はい」 「そうか。……ならいい」 ベッドの端に腰を下ろした中嶋は、啓太と軽くくちびるをふれあわせた。昨夜の濃厚さからは想像もできないくらいの小さなキスは、啓太に大きな大きな幸福感を与えてくれたのだった。 |
いずみんから一言 |
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