同じだけの別れ

 トイレに行って帰ってくると、何かが手にあたったのか、ノートのスクリーンセイバーが解除された。先刻まで作っていた中期業務計画案と、そして先刻にはなかったメッセージが、オフィス・アシスタントの犬の口元に表示されていた。
『 あと15分 』
 それを見てわたしは、用を足したくてトイレに行ったのではなかったのだと気がついた。

 その喫茶店を選んだのにたいした意味はなかった。2ブロック先の角を曲がってすぐの、証券会社の2階にあるそこは、路面にない所為かガラス張りで明るい割に客が少ない。いくらオフィス街とはいえ東京駅まで徒歩数分の場所では、落ち着いて込み入った話ができ、しかも確実に席が確保できるであろう喫茶店を探すのは難しいのだ。いくつか知っている中で、いちばん相手にわかりやすそうな場所を選んだ。それだけである。だが歩いてみて、そこがいちばん会社から遠いところだったと気がついた。いろんなことに気がつく日だった。

 待ち合わせの時間より少し早かったが、予想通り相手はすでに座っていた。探すまでもなかった。必要以上に整った顔立ちと、背筋を伸ばして姿勢よく座る姿。そして遠目に見ても仕立てのいいスーツに包んだ長身とが、中年のオヤジには嫌味なくらいに眼を引いたのだ。そしてわたしはまた気がついた。用を足したくもないのにトイレに行ったのも、会社からなるべく遠い喫茶店を待ち合わせに指定したのも。彼と顔をあわせる心の準備をするためだったのだと。
 それはまるで、担任に呼び出された学生が職員室へ行くのを遅らせているようなものだ。中嶋英明という名を持つ青年がそれだけの威圧感をもっているからなのか。それとも「息子の恋人」に会いに行く父親は誰でもそうなのか。いろんなことに気がつく日でも、それはわかりそうになかった。
 こちらに気がついて席を立つ相手を座らせ、挨拶もそこそこにあらためて向かい合った。彼とは何度も顔をあわせているが、そのたびにいい男だなと思う。頭脳は明晰だがそれをひけらかすことはない。こんなオヤジを立てて話をあわせてくれるばかりか、「お父さん」と言って慕ってくれてもいた。おそらくは何度も同じ話を繰り返しているに違いないのに、いつも楽しそうに聞いてくれていた。黙って聞いているだけでなく、こっちが興味を持ちそうな話題を持ち出してくれたりもする。そう。彼と飲む酒は本当に美味かったのだ。おそらくは、啓太と飲む以上に。

 こちらから呼び出したにもかかわらず、そして、いろいろとシュミレートしていたにもかかわらず、面と向かってしまうとことばに困った。さて。何を言ったものかと迷っていたら、ちょうどいいタイミングでウエイトレスが注文を聞きに来た。水をふたつ持ってきたのでテーブルの上を見ると、何も置かれてはいなかった。
「君は? 何か注文してる?」
「いえ。俺もついさっき来たばかりなので」
 何の確証もないが、それは嘘だと思った。見かけとは裏腹のかわいい嘘に、肩に入っていた力が抜けたような気がした。
「じゃあ『 練馬ブレンド 』はどうかな」
「練馬、ですか?」
「ああ。ここのブレンドは二十三区の名前がついてるんだ。コロンビアベースの『 品川 』も悪くないが、マンデリンベースの練馬はバランスがいいと思うんだよ」
「じゃあ俺も練馬で」
 中嶋くんはちょっと面白そうな表情をして、眼鏡のブリッジを押し上げた。

「急に呼び出してすまなかった。学校が始まったら忙しいかと思ったものだから」
「いえ。こちらからもご挨拶をしなければと思っておりましたので」
「そうか……」
『 ご挨拶 』か、と思った。この、女などいくらでも言い寄ってくるような青年は、息子の恋人なのだという。啓太が合格通知を持って帰ってきたあの日。家内が半狂乱になって啓太を責めたてた。「中嶋さんと今すぐ別れなさい。あの人は男じゃないの」と。もちろん耳を疑ったし、家内の勘違いだろうと思った。だが、啓太の真っ白になってしまった顔色が、すべてを肯定していた。
 わが息子とは思えぬほどの大学に合格した、晴れがましくもめでたい日に修羅場となった家庭は、おそらく我が家一軒きりだったのに違いない。母親から浴びせられる聞くに耐えない罵声を黙って受け止めていた啓太は、それから3日後の夜明け前に姿を消した。文字通りの、身体ひとつで。だが主のいなくなった部屋は、わたしに奇妙な安堵感をもたらしていた。これでもう、あの罵声を聞かなくてすむからだ。わたしも朋子も。そして、啓太も。
「……パソコンにオフィス・アシスタントってのがいるだろう? 画面の端にイルカが浮いている」
「…………ああ……。はい。見たことはあります」
 愚問だったかもしれない。オフィス・アシスタントが何なのかすぐに思い出せなかった彼を見てそう思った。確かに中嶋くんのパソコンのモニタにイルカが浮いていたりしたら、それは違和感どころの話ではないに違いない。
「あれは種類を選べるらしいな。いつだったか女性社員が結託して、課のパソコン全部を犬に替えてしまったんだ。こっちの方が可愛いと言って。別に邪魔にもならないからそのままにしてあるんだが、これが毎日、出てくるパターンが違うんだな。いきなりぱかっと犬小屋が現れてそこから出てくるのは同じなんだが、歩いてきたり落っこちるみたいに飛び出してきたり。まあよくもこんなところまで考えるものだと、毎日エクセルを立ち上げるたびにそう思う。ところが今朝。その犬は外へ出られなかった。首輪を鎖につながれてたんだ。そうしたらその犬はどうしたと思う? どこからか大きなハサミを出してきて、その鎖を断ち切ったんだよ」
「…………」
「わたしにはそれが、家を出て行った啓太に見えた」
 何故こんな話をはじめたのか。中嶋くんもわからないだろうが、わたしにもわからなかった。確かにこれは今朝感じたことで、こっちを見て尻尾を振る犬をしばらく眺めていたのも本当だ。だがこんな話、誰にもするつもりなどなかったのに。
 自分だけの思いにしておくはずのものを、ついぺらぺらと喋ってしまった。だがこれも、行きたくないトイレに行ったのと同じ。本題に入るのを遅らせているだけのことだ。遅らせたからといって啓太が帰ってくるわけでもないのに。そしてそれは、自分でもよく分かっているはずなのに。

「啓太は、元気にしているか」
 気持ちを仕切り直して、そんなことを言ってみた。中嶋くんが口を開いていくれたら嫌でも話は前に進むだろう。
「じつはあの日。俺たちは信州にいたんです。篠宮が合格祝いだと言ってスキーを計画していたので。1日遅れでそこに来た啓太は風邪で熱がありましたが、今はとても元気にしています」
 風邪くらいひいていても不思議でもなんでもなかった。否。むしろ風邪ですんだのが不思議なくらいだ。何しろ啓太は、靴もはかずに家を出たのだから。
「……そのときのことを、啓太から聞いたか? なかなかの修羅場だったな、あれは」
「……少しだけ。帰ったらお母さんが待ち構えていて携帯電話を取り上げられた、という程度です。あれが全部だとはとても思えませんが……」
 ああ……と、わたしは頷いた。全部を話せなかったというよりは、思い出したくもなかったのだろう。啓太だけじゃない。家族の誰もが思い出したくない時間になってしまったのだ。
 泣き喚く家内。その姿におびえながらも止めに入ろうとする朋子の泣き声。そこにいいかげんにしろというわたしの怒鳴り声が重なる。とてもじゃないが「声」とはいえないあの騒音は、いまだに耳から離れようとしてくれなかった。『 阿鼻叫喚 』と言えば何を大げさなと笑われるかもしれないが、気分はまさにそんなものだった。
 自分の息子に男の恋人がいると知った家内のショックはわかる。安心しきって預けていた中嶋くんがその相手なのだから、裏切られた気持ちが強いのもわかる。そこまではわたしも同じだ。だがそのわたしでさえ、あの家内のことばはひどいと思った。まるで掌を返したかのように中嶋くんを貶め、蔑み、罵ったのだ。しかもとても汚いことばで。醜いまでに顔をゆがめて。
 それでも啓太が頷かないと知ると、今度はその矛先を啓太に向けた。『 こどものため 』という大義名分がついた母親は、そのこどもに対して、どこまで残虐になれるのだろう。半狂乱になって泣きながら罵る家内の姿を見ながら、そんなことを思ったのだった。それがあまりにも度を越していたので、わたしの頭の片隅に冷静な部分ができた。それがなければ今頃、こんなところで彼と向かい合っていることもなかったのに違いない。
「啓太はがんばったよ。努力した、という方が近いかもしれない。自分たちのことをなんとか説明しようとしたんだ。認めてもらおうとか、わかってもらおうとか、そこまでは思ってなかったみたいだがね」
「……はい」
「だからすぐに家を出なかったんだと思う。実際、翌朝に啓太の姿を見てびっくりしたんだ。わたしならあれだけのことを言われたら、その夜のうちに家を出たと思う」
 コーヒーが運ばれてきてことばを切った。きびきびとした動作でテーブルに置かれたシンプルなデザインの白いカップは少し大きめで、たっぷりと注がれた艶やかなコーヒーから香りが立ち上ってくる。
「いい香りですね。コーヒーらしいコーヒーの香りだ」
「ちょっと、ほっとする香りだろう?」
「ええ」
 中嶋くんはブラックなのがわかっているので、テーブルの端にあった砂糖入れを遠慮なく引き寄せる。ふたを開けると、ほんの少し混ぜられたピンクや緑のビーズの粒のようなものが、砂糖の白をひきたてていた。それが雪の間から顔を出す緑の芽吹きのようにも見え、啓太が向かったというスキー場を思わせた。
「つまらないことを聞くようだけど」
 一口すすったコーヒーのカップをソーサーに戻して、そんなことを言ってみた。答えはわかっているはずなのだが、聞かずにはいられなかったのだ。馬鹿な親心といえるかもしれない。
「君のところに行ったとき、啓太は靴を履いていただろうか」
「靴、ですか?」
 形のいい眉がはねあげられ、口元でコーヒーカップが止まった。目はまっすぐこっちをみたまま、まるで手に目があるかのように、カップは正確にソーサーの上に戻された。
「もちろん履いていましたが?」
「そうか。よかった。啓太は裸足で家を出たものだからね。ちょっと気になっていた」
「それは……」
 すっかり見慣れてしまった中嶋くんのきつい眦が、さらに厳しいものになった。それはわたしやここにいない誰かに向けられたものではなく、啓太にそうさせた自分に向けられているように見えた。そうか。やはり啓太は彼に想われていたのか。どこか諦めにも似た心持ちになりながら、わたしはそんなことを思い、端正なその顔を見つめた。こんな表情をしてさえ、中嶋くんは整った、有体に言えば綺麗な顔をしていた。家内のあの、醜い顔とは大違いだった。
 今のこの瞬間まで、わたしは心のどこかで、啓太とのことは遊びであって欲しいと願っていたようだ。遊びであればいつかは飽きるだろう。そうすれば捨てられた啓太はいずれ、わたしたちのところに帰ってくるに違いない、と。
 だが遊びの相手にこんな顔はできない。啓太はどうやら彼を本気にさせてしまったようだった。
「家内が靴を隠してしまっていた所為もあるんだろうが。啓太は部屋の窓から出て屋根の上にあがり、北側の雨樋を伝って下に降りたんだ。靴を履いていたりしたら、足がかりをうまく捉まえられなかったと思う」 
「……そう言えば啓太は真新しいスニーカーを履いていました。いつも履いていたものとブランドが違うとは思っていたのですが……」
 先刻、中嶋くんからスキーの話を聞くまで、わたしは彼が啓太を迎えに来たものとばかり思っていた。どこか公衆電話を見つけて連絡をし、車で迎えにきてもらったのに違いない、と。高速道路も比較的空いている時間帯だ。靴下だけの裸足で待つ時間は長く、風邪どころではすまないかもしれないが、それでも2時間もしないうちに啓太は暖かい車内に入れていると思っていたのだ。まさか中嶋くんが信州にいたなんて思いもしていなかった。
 啓太が家を出たのは、おそらく夜明けより少し前だったのだろうと思う。人の眠りの、いちばん深い時間であるからだ。だがそれは1日のうちでいちばん寒い時間でもあった。コンビニに靴は売っていない。うちのような地方都市に24時間営業のスーパーもない。靴下だけのそんな姿でファーストフード店にでも入ろうものなら、補導員とのトラブルだって考えられる。啓太はどこか見咎められないところで夜を明かし、スーパーかショッピングセンターが開くのを待ったのだろう。どんなに寒く、冷たく、そして不安だったことか。陽が昇れば昇ったで、今度は裸足の足元が他人の目を惹いたに違いない。少なくとも靴屋の店員からは好奇心たっぷりの視線を向けられたはずだ。そんな視線を黙って受け止めながら靴を買う我が子の姿が脳裏に浮かび上がり、わたしは思わず「……強いな」と呟いていた。
 いつまでも子供だと思っていたのに。誰かを真剣に好きになるというのは、ひとりの人間をそれほどまでに強くさせるものなのか。これではもう啓太は戻ってくるまい。驚きと諦めの入り混じったため息は、やけに長くくちびるから吐き出された。

「大学の入学金と授業料は振り込んでおいた」
 男の子に対する男親というのはどこでもこうなのだろうか。それとも寮に入れていた2年半で情が薄くなっているのだろうか。自分の息子を駆け落ちさせた男を前にしてさえ、もう戻ってこないと悟ると、こんなにもビジネスライクに話を切り替えられるのは。そして突然の話題変更に驚きもせず、中嶋くんは軽く頭を下げた。
「有難うございます。じつはその点は俺も気になっていて、振り込まなければならない金額を大学の方に問い合わせたんです。振込みが済んでいると知って、啓太は驚いていました」
「家内はもう放っておけと言ったんだ。だけどあれはわたしの息子だから。せめてそれくらいはしてやりたかった。まあ、4年分は払わせてもらうよ」
「その件ですが、来年の9月から、俺たちはハーバード大学に留学します。啓太の分の留学費用は鈴菱の奨学金でまかなえますので、ご心配には及びません。卒業後、啓太にはこっちの大学に復学させるつもりでいます。休学中は請求書の金額が変わっているかもしれませんが、そういう事情ですので」
「わかった。覚えておこう」
 東大に受かったと思ったら、今度はハーバードか。目の前にいるこの青年は、いったいどこまでの高みを目指そうというのか。人間にはあらゆる可能性がある。彼のように若ければなおさらだ。だがそこに向けて努力できるのはごくわずかの人間だけだ。ほとんどの人間は努力が続かず、目指したもののはるか手前で諦めてしまうものなのに。
 そして、ただまっすぐそれについていこうとする啓太が、我が息子ながらとても羨ましかった。失敗を恐れないと言うよりは、失敗することなど考えてもいないのだろう。このふたりを見ていると、「努力は必ず報われる」などという奇麗事さえも、つい信じてしまいそうになってしまう。かつては自分も持っていたことさえ忘れてしまっている「若さ」というものを、思い切り見せ付けられた気がした。
「学費はともかく、生活費はどうするつもりだ。まさか啓太の分までご両親に出していただく訳にもいかんだろうが」
「ああ……」
 そう言って、中嶋くんはふわりとした笑みをくちびるの端に乗せた。端正ではあるがあるがきつい顔立ちが、その瞬間だけ、とても甘いものに見えた。
「中学を卒業してから、親とはまったくの別会計です。基本はそれまでに貯めていた小遣いで買った株式や債権の運用ですが、今日までなんとかやってこれました」
「まさかあのマンションも?」
「ええ、まあ……。ですが、あれは売却を急いでいたにもかかわらず、売れずに困っていた物件なんですよ。だからとても安く買えました。親父の病院の外科医なんですが、引っ越して何日もしないうちにオーストラリアの小児病院へ行くことになってしまって」
「へえ?」
「もう何年も希望を出し続けていて、諦めて家を買ったとたんに受入れの通知がきたんです。皮肉なものだと周囲は笑っていましたが、本人は結構まじめな顔で『 この家が幸運を呼んでくれた 』といっていましたよ」
「幸運を呼ぶ家、か。それはいい」
 本当にいい。と、わたしは思った。幸せを求めて巣立っていった息子の住む家なのだ。ただの家よりどんなにかいいではないか。運のいい啓太が住めば、さらにいい家になるに違いない。
「だが株の運用じゃ大変だろう。日々、下がりまくってるじゃないか」
「まあ、長期保存用は選んでいるので、それなりに大丈夫は大丈夫なんですが……」
「うん」
「今度、大学を離れて司法修習生になりましたので、給料らしきものを頂ける身分になりました」
「は……。それは……」
 驚くというよりは呆れたわたしは、思わず目の前の男を眺めてしまっていた。司法修習生。つまり彼は司法試験に受かったと言うのか。日本三大難関試験と言われる、あの司法試験に。中嶋くんは啓太と2年違いのはずだから、まだやっと3年生になったばかりだろう?
 中嶋くんが弁護士志望なのは啓太から何度も聞かされていた。「場慣れするため」と言って司法試験を受けたのも知っていた。啓太が眠りつづけていたときに2次試験があったのも知っていた。それを受験するために中嶋くんと丹羽くんが2日ばかり病院を留守にして、そのうちの半日をうめたのがわたしだからだ。
 過ぎるほど優秀な男だ。卒業したらその年のうちに合格するに違いないと思ってはいたが。まさか2年生で受かるなどとは思ってもいなかった。しかも9月以降はほとんど啓太の病室に詰めていて、受験のための勉強などできなかったはずなのに。
「いや。失礼した。それはおめでとう。すごいな」
「有難うございます。たまたま俺と相性のいい問題が出ただけのことですよ」
 静かにそう言った中嶋くんは、少し視線を落として、コーヒーカップのハンドルをそっと指先で撫でた。

 あの日からずっと疑問に思っていたことがある。ここへ来た理由の半分はそれをぶつけるためだ。それなのに、顔をあわせてしまっては、どうしても訊くことができなかった。だが今は逆だ。こんな話を聞かされてはもう、訊かずにはいられない。
「何故、啓太だったんだ?」
「何故……、ですか」
「背が高くハンサムで、裕福な家庭に生まれ育って。スポーツ万能で勉強ができて。その若さでもう司法修習生だって? だったら女の子の方が放っておいてくれないだろう? なのに何故、啓太を選んだんだ? あれは美少年でもなければ可愛くもない、普通の高校生だよ? 君はもともと男の方が好きだったのか? それとも啓太に男を惑わす何かがあるのか?」
 矢継ぎ早にというよりは、一気に口から飛び出したという感じだった。自制はきかなかった。それなのに声も抑揚も変わらないどころか、むしろのんびりと聞こえるのが不思議だった。
「啓太の方から誘ったとは思えない。だったら君が引き入れたんだろ? なんでそんなことをしたんだ? 君に出会ってなければ、たしかに啓太は二流の私大にしか行けなかったと思う。だけど今頃は、家族みんなで笑っていられた。そうだろう?」
 黙って聞いていた中嶋くんは、カップに触れていた手を膝の上に戻し、そして深々と頭を下げた。
「お騒がせしたこと、そしてご家族をばらばらにしてしまったことをお詫びします。本当に申し訳ありませんでした。でも。そうまでして啓太は俺を選んでくれた。俺はもう、啓太を離すつもりはありません」
「…………」
「ご指摘のとおり、中学のときから女が切れたことはありません。相手は大学生ばかりで、その場限りの遊びには都合がよかったからです。年下のガキ相手に本気になる馬鹿もいませんからね。モノも人も、本気で欲しいと思ったことは一度もなく、時間つぶしのためだけに手にしていました。でも啓太は違っていたんです。どこが違うのかは俺にもまったくわかりません。ただ啓太はまっすぐに入りこんできました。声も心も存在も、何もかもが。俺は啓太を知ってはじめて誰かと居る心地よさを知り、安らぎの意味を知り、誰かのために何かをする喜びを知りました。気がついたときにはもう、手放せなくなっていました。あんなにも欲しいと思ったのは啓太がはじめてです。男が好きとか女がいいとかいうのではなく、本気で好きになったのが啓太で、たまたま男の身体をしていた」
 まっすぐわたしの目を見て話す中嶋くんは、とても誇らしげにも見え、そしてあこがれを語る少年のようにも見えた。今まで何度も中嶋くんとは話をしたが、そんな目をして語る彼を見たのははじめてだった。そんなふうに語れる何かをもてるのは幸せだ。たとえその何かが自分の息子であったとしても。「同性の恋人」ということばのもつ、本能的な汚らわしささえ浄化してしまっているようではないか。
 その瞬間。ふいに沸きあがってきた感情は、「羨望」としかいいようのないものだった。わたしは心から羨ましいと思ってしまったのだ。そんな何かをもち、手に入れた中嶋くんを。そして中嶋くんほどの男にそこまで望ませた啓太を。
「つまりは、そういうことです」
 そう言ってことばを締めくくった中嶋くんに、わたしにはもう、頷くことしかできることは残されていなかった。
「……とりあえず、君が本気だということだけは分かった」
「有難うございます。冷静に話を聞いていただけただけでもうれしかったです」
「いや、それは違う。間違えないでくれ。わたしは君たちを許したわけでもなければ、頭に血が上ってないわけでもない。ただ、家内ほどの想像力がないだけなんだ」
「……?」
「恋人と言うからにはしてるんだろう? 啓太と。その……。所謂『 夜の生活 』というやつを」
「………………はい」
「は……っ!」
『 はい 』、か。『 はい 』ときたか。中嶋くんに似合わないあまりのストレートさに、わたしは思わず笑ってしまっていた。笑うしかなかったのだ。だってそうだろう? わたしの目の前にいる。このよく見知った男が、自分の息子を裸にして抱いているというのだから。抱いて。キスをして。絡み合うように愛撫をして……。喘ぎ声のひとつもあげるというのか? あの啓太が? そんなもの、出来の悪いお笑いネタじゃないか。ああ、可笑しい。笑いが止まらない。
 だがそれは、自分が勝手に『 笑い 』と思っていただけのようだ。笑いながら思わず視線をそらした先で、鏡になりきれなかった窓ガラスが、中途半端にぼんやりとした男の顔を映し出している。いまいましげでありながら呆れたような不思議な顔は消えかけの幽霊のように透き通っていて、その姿の向こうに、風が出てきたのか枝を揺らす街路樹が見えた。今まで気にもしていなかったが、何の木だか意外に背が高く、3階くらいまで枝が届いている。一度目に止まってしまえば、多分に黄緑を含んだ緑の色が鮮やかだった。
「こういう時には嫌味のひとつくらい言わせるものだよ。そんなにあっさりと肯定されてしまっては言えないじゃないか」
「……すみません。慣れなくて」
 律儀に謝る中嶋くんに、ようやく自分を取り戻したわたしは、今日いちばんの目的だったものを内ポケットから取り出してテーブルに載せた。直接手渡さず、テーブルの上に置いたのは、わたしなりの精一杯の抵抗だったのかもしれない。彼の手に触れたくなかったのだ。それは理性やら想像力やらとは関係のない、自分の子供を抱く相手に『 父親 』だけがもつ感情だった。
 だが。
 わたしは内心でため息をついた。馬鹿だと笑ってくれていい。この、目の前の男を殴ることさえできない情けない父親は、それでもこれを渡してやるために彼を呼び出したのだ。テーブルの上を指で押しやったクレジットカードと同じサイズのそれは、啓太の健康保険証だった。
「いくら君が給料をもらえるようになったとしても、啓太を扶養家族にはできんだろう。遠隔地で発行してもらってきた」
「……保険証、ですか。さすがにこれは思いつきませんでした」
「いや。わたしも自分で思いついたんじゃないんだ。総務の方から啓太の現況届を出すように言われて気がついた」
「ああ……。高校を卒業すると就職してるかもしれないですからね」
「まあこれも4年間は手続きをしておこう」
「有難うございます。お心遣い、感謝します」
 これで話さなければならないことは全部話した。コーヒーカップはどちらも空になっている。つまり。ここにいる理由がなくなったわけだ。それは向こうも感じていたようだ。保険証を内ポケットにしまった中嶋くんは、立ち上がると深々と頭を下げた。
「俺はこんな男です。啓太にはさぞかし苦労をかけることと思います。ですが決して、不幸にはさせません。お約束します」
「…………頼む。そうしてやってくれ」
 本当に。心の底からそう頼まずにいられなかった。

「……君たちは、これからどうするつもりなんだ」
「……入籍はしないと、啓太には言ってあります」
 1階に下り、ビルの玄関を出たところで、ふと思いついたことを聞いてみたら、そんな答えが返ってきた。あいまいな質問で、取り様によって答えは変ってくる。だがそんなことばが返ってくるとは思ってもいなかった。ついでに言えば、男同士で入籍ができるとも思っていなかった。
「現行法が改正されない限り、啓太を入籍しようとすると養子縁組するしかありません。ご両親から、せめて黙認だけでもしていただけるのならそれもよかったのですが」
「遠慮もなく連れて行ったんだ。遠慮なく入籍でもなんでもすればいい」
「ですが、それでは啓太は戸籍上、俺の息子になってしまいます。すでに啓太はご家族を捨ててきているんです。書類の上でまでご両親から奪うことはできません」
 繁華街でないとはいえ、ビジネス街もそれなりに人通りが多い。しかもここは証券会社の入っているビルなのだ。営業マンも顧客も出入りをする。そんな場所でする立ち話の内容ではなかった。何ということはない。わたしは彼との別れを引き伸ばそうとしているのだ。会いにくるときは遅らせようとしていたくせに。
「啓太はいつまでも伊藤家の長男です。いつか。お気持ちの整理がつきましたら、どうか会いに来てやってください」
「……わたしに足を運べと?」
「啓太はああ見えて頑固なところがありますから。もう二度と会わないと言えば、本当に会わないでしょう。だからこそお願いをしたいのです」
「……まあ。聞くだけは聞いてはおこう」
「有難うございます。いつでもお待ちしています」
 もう一度、頭を下げた中嶋くんは、「では」と言って踵を返した。ゆったりとした自信に満ちた足取りで東京駅の方へ戻っていく。通行人と行き交ってなお、その姿は人波に埋もれてしまうことなく、自らを主張していた。
 何もかもを見通したような中嶋くんだったが、どうやらわからないこともあるらしい。そう。啓太はわたしの息子なんだよ。わたしの血を引いているんだ。啓太の頑固さは、じつはわたしの頑固さとそっくりなのだ。
 人は皆、数え切れないほどの誰かと出会い、同じ数だけ別れていく。
 おそらくはもう二度と会うこともないだろう中嶋くんの背を、わたしは見えなくなるまで見送っていた。





いずみんから一言

やれやれ。やっと書きあがりました。
中嶋氏視点でこのお話を書きはじめたのは、さて。何ヵ月前のことだったやら。
出かける前にシャワーを浴びたり、ネクタイを念入りに選んだり。
つい明後日の方角にガンを飛ばしてみたり(笑)して、何も知らされていない啓太くんを
不審がらせておりました。
啓太パパに頼まれているので、啓太くんは中嶋氏が教授に会いにいくと思っています。
家を出た経緯から、まだ一人でいるのが不安なようなので、篠宮氏が家に来ています。
表向きは「篠宮が丹羽に用事があって来るんだが、ヤツは俺と教授に会いに行かなきゃならん。悪いがここで篠宮を待っててくれないか」ということになっているのです。
でも思ったことが書けなかったので視点を啓太パパに移動。出来たのがこれです。

ファイル名の「gakuhu」は岳父です。楽譜じゃないよ(笑)。
妻の父のことを岳父といいます。
「うちの岳父が」とは言えますが、「ご岳父様」とは使えない、ダンナ限定語のようです。

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