君はバニラ
〜Ten years later.〜 5555HIT記念






 毎朝、出勤する2時間前に穏やかに起こされる。
 寝ぼけた頭でリビングに向かえばダイニングテーブルには新聞3誌がちゃんと置かれていて、 キッチンからは食欲を刺激する焼けたトーストの香ばしい香りと、淹れたてコーヒーの芳香。
 男より一回りも小さな背中が忙しそうにパタパタと動いていて、寝室より出てきた気配を感じると振り返って「おはようございます」と明るい笑顔付きのあいさつ。

 そんな、何気なくも幸福な日々―――…。



 半覚醒した眠りの中、中嶋は何か変だと疑問に思う。
 その途端色々な出来事が頭を過ぎり、焦って目覚まし時計を掴む。
「―――…チッ…寝過ごした…」
 カーテンが引かれたままの薄暗いリビングを大股で通過し、シャワーを浴びて寝起きの顔を引き締める。
 遅刻をする程ではないものの、三面記事すら読む事も、コーヒー1杯飲む事も出来そうに無い。
 もちろん「愛妻弁当」も無ければ「いってらっしゃい」のキス付きの見送りも無い。

 初日からこんな調子では先が思いやられる。

 自業自得とは言え不機嫌極まりない表情でネクタイを結び、上着に袖を通す。
 新聞受けに入った朝刊も玄関に放り投げ、何ともサクサクした心境で出勤する羽目になったのである。



 事の始まりは昨日の昼にまで遡る。



 いつものように屋上で昼食を摂っていた中嶋の携帯に、仕事中はメールだけしか入れてこない啓太から珍しく着信があった。
「はい」
『お仕事中ごめんなさい。今…良いですか?』
「ああ。どうかしたのか?」
『―――…実は…3日程…実家に帰る事に…』
「3日?」
『ええ…ちょっと両親が…』
「調子でも悪いのか」
『いいえ、二人とも元気ですよ。そうじゃなくて…たまには顔を見せろって…』
 どうやら最近全く顔を見せない息子に焦れた両親が強制的に呼び出したらしい。
 来ないようならマンションに押しかけると言われてしまえば、行くしか選択肢は残されていなかった。
 中嶋との関係は昨年暮の事件の時、どさくさ紛れに報告している。
 色々と問題はあったもののどうにか『暗黙の了解』を勝ち取った。…とは言えまだまだ納得出来ないのだろう。
 そう言えばここの所啓太が帰っている形跡を見なかったな…と、中嶋は頭の片隅でふと思う。
 申し訳なさそうに伝えてくる啓太に中嶋は苦笑しながら了承する。
「ご両親によろしく伝えておいてくれ。近いうちにお邪魔すると」
『…ごめんなさい』
「お前が謝る事ではないだろう」
『――…へへ…そうですね』
 電話越しに鼻を啜る音が聞こえ、中嶋の口元が僅かに緩む。
「気をつけて行って来い」
『はい。とりあえず今日の夕飯は冷蔵庫に入れておきますから、温めて食べて下さいね』
「わかった」
『おみやげ、買ってきます』
 土産を買って来る程離れた場所なものか。
 啓太のセリフに笑いが込み上げるが、同時に最近何処にも連れて行ってやれていない事を思い出す。
 仕事ばかりしていないでたまには旅行も良いかもしれない。
 少しスケジュールを調整するか。
 啓太との他愛の無い会話を終わらせながら、空を見上げた昨日の話であった。





「ね、ねぇ…今日の先生いつもに増して怖くない…?」
「そういえば今朝珍しく遅い出勤だったわよね…」
「何か家庭であったのかしら…愛妻弁当持ってなかったもの」
「ひゃ〜、ミスらない様に気をつけなきゃっ」
 給湯室で女子社員がそんな会話を繰り広げいる頃、他の男性社員はしっかりと餌食に掛かっていた。
 いい歳した男が恐ろしさの余り半べそ状態。
 何を言われているのか全く聞こえないものの、至近距離しかも耳元で何かしらを言われている様子である。
「―――…と、言うわけだ。以後気を付けるように」
 凄みを帯びた笑みに背筋は異様にピンと張る。
「は、はいーっ!!」
 素早く礼をするとそそくさと中嶋のデスクより退散した。
 そんな光景が今日一日で何回見れただろうか。
 次は誰が…と、中嶋がほんの少し席を立つだけでビクビクする事数十回。生きた心地がしない…と、定時を10分程過ぎた頃には珍しく全員退社していた。
 そして一人残る中嶋は、早く帰っても今日は居ない存在に溜息を吐く。

 まだ一日。

 たったそれだけなのにこんなにも調子が狂うとは。
 長い事一緒に居過ぎたばかりに、居ない事に対応が効かなくなっている自分に苦笑する。

「―――…俺もヤキがまわったか…」

 でもほんの少しだけ。幸せそうに微笑んだのを誰も見る事は無かった。



 無駄に仕事をしていると分かっているし、非効率だとも重々認識しているのに、どうしても一人の部屋には戻る気にもなれず…でも、見回りに来た警備会社に追い出されるように10時には事務所を出た。
 車に乗り、帰宅する途中に目に入ったコンビニエンスストア。
 店の明かりがやけに目立つように感じるのは、物悲しさからか。
 何か腹を膨らませる物を適当に買おうか…とも思うが食欲すら湧いて来ない。
「相当イカレてるな」
 クツクツと肩を震わせながら自分を笑う。
 確か冷蔵庫にビールがあった。今晩はそれで済ませるか。
 駐車場の前で暫く止まっていたセダンは、再び夜の帳を走り出した。



 マンションに戻りエントランスを潜る。
 いつも以上に疲れたように感じる身体を動かしながらエレベータに乗り込んだ。
 自分の住む階に到着した時に感じた違和感。

 玄関ポーチが点いていた。

 今朝気付かないうちに触ってしまったのかもしれない。
 本当に何もかも上手くない一日だったと、最後の最後、玄関先で更に気分は悪くなる。
 小さく舌打ちしながらキーを差込み開錠する。
 こんな日はさっさと風呂に入って寝てしまおう。そう思いながらドアを開けた時、中嶋の動きは止まった。



 明るい室内。
 嗅ぎ慣れた食欲を刺激する食卓の匂い。
 そして、啓太お気に入りのスニーカー。



 扉が音を立てて閉まると、リビングからパタパタと音を立てて掛けてくる足音に、それすらも夢でも見ているのではないかと怪訝な表情になってしまう。
「あ、おかえりなさい。今日は遅かったんですね」
 ニコニコと笑いながら中嶋の手からアタッシュケースを受け取る時に、微かに触れた暖かな指先。
 何も言わなくても中嶋の表情を見ていれば何が言いたいのか理解した啓太は悪戯っぽくペロリと舌を出し、
「へへ。英明さんが心配になって帰ってきちゃいました」
「―――…良かったのか?」
 そう言う中嶋も悪びれも無く笑う。
「お盆に、二人で帰って来いって」
 廊下を先に歩きながら啓太は振り返って苦笑した。
「そうか…」
 小さく承諾した中嶋の、グーッとなった腹の虫に、一瞬ポカンとした表情を見せた啓太は次の瞬間破顔する。
「あー、やっぱり夕飯食べてない」
 クスクス笑う啓太に苦虫を潰した表情で、不機嫌に呟く。
「コンビニの飯は不味くて食う気にもならん」
 お前の味に慣れすぎた。
 口に出して言わないけれど、啓太にそう聞こえたような気がした。
「ふふ…、ご飯出来てますよ。どうします?先にお風呂にします?」
 小首を傾げながら問う啓太に男の眼がキラリと光る。
「いや…まず先に…」

 ゆっくりと一歩踏み出す中嶋の動きに、何を望んで居るのかはもう。

「お前を、喰ってから…だ」

 啓太の手より滑り落ち、ドサリと音を立てたアタッシュケース。



 二人がきちんと夕飯を食べたかどうかは、翌昼の男の弁当箱の中身だけが証人で。



 でもそれは、二人にしか分からない事実であった―――…。

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啓太にメロメロ(←死)な、なんとも情けない中嶋さんです(笑)
『奥様の尻に敷かれる旦那様』コンプでOKでしょうか(滝汗)?

理解出来ない恐れ激有なので補足と言う名の言い訳を(泣)
中嶋28歳法律事務所経営。啓太26歳大卒中嶋専門主婦(爆)です。
話の中に出てくる『暮れの事件』はまた追って書こうと思いますが、平たく言えば啓太の両親にカミングアウトかましたわけですわ、中嶋さんが。男前だね〜(一人萌)
『そんな大好きなあなただから』からもほんの少しだけ繋がってます。あの時の設定は、やっぱり中啓だったんだね自分(笑)

と、言う所で今回はコレにて閉廷〜(なんじゃそりゃ)。

お持ち帰り期間は7/4と呼ぶ日までの1ヶ月間で。
拍手でもBBSでもメールでも。お持ち帰りの際はお好きな所でひと言残してやって下さいマシ。

―――…あ、エロく無かったね、俺にしては珍しく(笑)




                                〜 Single Time MOMO さま 〜



いずみんから一言。

屋上で愛妻弁当を食っているヒデ。
へたすりゃ「哀愁のおっさん」にしかならない風景を、かくも簡単に覆してくれる。
熱いお茶を淹れてお届けしたいっす。
でも、「啓太の淹れた茶の方がマシだ」とか言われちゃうんだろうなあ(爆)。


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