疑惑




 まだ音はない。
 生まれたての白っぽい光が、わずかな風に揺らぐカーテンの動きにあわせて、部屋の中に入り込んでくるだけだ。
 その風さえも、まだ届けるだけの音を持っていないのだ。
 だが、音がないからこそ聞こえてくる音もある。
 ひとり分の規則正しい寝息。ドアが開き、閉まるかすかな音。そして。フローリングの床を歩く、素足の立てる足音 ―― 。

 ベッドがたわんだ。と、思うほどもなく中嶋がすべりこんだ。寝ぼけたというよりは完全に夢の中にいるような声で啓太が甘えた。
「う……ん。中嶋……さ、ん?」
「うん? 起こしてしまったか?」
「……ううん……」
「まだ早いからな。もう少し寝てろ」
「……うん。でも、キス……」
 無意識にすり寄ってきた啓太を中嶋がさらに抱き寄せて、軽いキスを落とした。暑苦しいと鬱陶しがりもせず抱いてくれる腕に、啓太は甘い息をもらした。
真夏とはいえ夜が明けたばかりの早朝である。ほんの数時間もすれば燃えるようになる大気も今はまだ幾分ひんやりとしていて、恋人たちが寄り添って眠るために神様が作ったのではないかと思える時間だ。
 それは幸せを象徴するかのようなひとコマであるはずなのに、啓太は違っていた。甘えて中嶋の腕の中にもぐりこみ、大きく中嶋の匂いを吸い込んだ瞬間、啓太の中でくすぶりつづけていた何かが一気に大きく膨らんだのである。
―― やっぱりおかしい。
 啓太の中で疑惑が決定的になった瞬間だった。

 夏休みを一緒に過ごすために啓太がこのマンションにやってきたのは数日前のことだった。中嶋に言われて7月一杯を実家で過ごし、待ちかねたように8月1日の朝9時に玄関のチャイムを鳴らしたのである。今の成績からでは無謀なまでの受験を目指している啓太は、しばらく離れていた中嶋とようやく会えた喜びをあらわす余裕もなく机の前に座らせられたのだった。
 遠足前夜の小学生のごとく前夜からテンション上がりっぱなしだった啓太はその気分のまま中嶋と同じベッドに入り、そして――。気がついたのだ。明け方少し前、まだ明るさのかけらもない頃に中嶋がベッドを抜け出したことに。
 1時間ほどして中嶋は戻ってきたが、抜け出したことは何も言わず、啓太も聞かなかった。トイレに起きたついでに新聞でも読んでいたくらいに思っていたからだ。だが心のどこかに引っかかっていたのかもしれない。啓太は中嶋の出入りに敏感になってしまっていた。
 もちろん起きて見届けているわけではない。眠ったままのアタマの端っこで何かを感じているだけである。だから毎日のように中嶋が1時間ばかり抜け出しているように思っても、気の所為かとも思ってしまうのだ。だが今日でその違和感も確実な疑惑になってしまった。中嶋の身体からは、ふんわりとボディソープの香りがしたのだ。
―― 石鹸の匂い? シャワー浴びたのかな。こんな時間に……。
 シャワーを浴びただけでなく、ボディソープで身体を洗うくらいなのだから汗をかいたのだろう。だが、何故。ここは森林公園に面したマンションの19階だ。日中の暑さの残る宵の口ならともかく、日付の変わったあとなら寝室の窓を網戸にしておけば、寝苦しいと思うほど暑いこともないはずだ。
 嫌な想像がむくむくと頭をもたげてくる。そして一度芽生えてしまった疑惑という名のそれは、抑えようと思えば思うほど大きくなっていったのだった。

 良くも悪くも人間とは慣れる動物である。夏休みとは思えないくらい規則正しい生活にも、中嶋の手で綿密なまでに組み立てられた勉強スケジュールにも慣れた。中嶋とパジャマを分け合って一緒のベッドで寝たりするのにも、啓太はほんの数日で慣れてしまっていた。前者はともかく後者など、えっちをしないで眠るときにはたまらなく恥ずかしいものであったはずなのだが。
 だがどうしても慣れないものもあった。ベッドを抜け出ていく中嶋である。
 何日か過ぎればパターンのようなものが分かってきた。必ずしも毎日というのではなく、どうやら出て行くのは啓太を抱かなかった日に限られているようだ。ただ抱かれた日は啓太の方が満足しきって ―― 疲れきって、ともいう ―― 眠っているので、気がつかないだけなのかもしれない。
 ぐずぐず気にするくらいならあっさり聞けばいいとも思うのだが、どうしても聞けなかった。中嶋が出て行く理由に不安があったからだ。
 中嶋は啓太を抱かなかった翌朝に出て行き、1時間ほどあとにシャワーを浴びて戻ってくる。……まるで誰かと遊んできたかのように。
 寝苦しいほど暑くはないといっても、真夏であるうえに体温の高い啓太までが同じベッドの中にいる。だから汗をかいたといわれればそれまでなのだが、それでは1時間もいなくなる理由にならない。
 どこかへ出かけているのだとしたら。外へ出て。そしてシャワーを浴びなければいられないようなことをしてきたのだとしたら。
 不安が不安を呼び、完全に聞くタイミングを失ってしまった、というのが現状だった。
 なにしろ相手はあの中嶋である。寮生活をしていた高校時代でさえ遊び相手が切れなかったというのだ。独立してひとり暮らしをはじめた現在は言ってみれば野放し状態。遊び相手の5人や10人、できたとしても不思議ではない。
 なぜ抜け出すのかと啓太が聞けば中嶋は嘘はつかないだろう。だが悪びれもせず「女とヤってきただけだ。どうかしたか?」などと言われでもしたら、それこそ再起不能になってしまうではないか。
 だからといって後をつけることもできなかった。他所の家のドアを開ける中嶋など見たくもないし、つけているのを感づかれるのも嫌だったのだ。「そこで何をしている」と氷のように冷たい眼で見返されるのは、想像しただけでも震え上がってしまいそうだ。
 鬱々とした啓太の前に、追い討ちをかけるような事実が発覚した。
 洗濯物の中に中嶋の衣服が1セット余分に入っていたのである。

 中嶋のマンションでは家事は交代制となっている。啓太は居候でもなく、ましてや家政婦ではない、対等の同居人だと中嶋が考えているからである。だから朝食こそ各自が好きなものを食べるが、昼は中嶋が作るし夕食は啓太が作る。
 同じように掃除と洗濯も交代でする。だがおかしいと思った日に洗濯当番から掃除当番に代わってしまって気がつかなかったのだ。それより以前は気にもしていなかったので、服の枚数がどうだったかまで覚えていない。
 洗濯物は乾燥機に放り込んでしまう中嶋と違い、篠宮の薫陶よろしく、啓太は日に当てて乾かそうとする。今日もそうやって干していて、Tシャツとカーゴパンツ。そして下着類が入っているのに気がついたのだった。昨日の中嶋はボタンダウンのシャツとジーンズで1日すごしていたはずなのに。
 シャワーを浴びているのだから脱いだ下着が洗濯籠の中に入っていても不思議でもなんでもない。だがソックス付きで服が1セットということになると、それは中嶋がどこかへ出かけた証拠でもある。シャワーを浴びたと思ったのは寝ぼけて勘違いをしただけ。ベッドは抜け出ているがリビングで新聞を読んでいるだけ。そう思いたい啓太にとって、1セット多い衣服というのは、まさに最後通牒を突きつけられたようなものだったのである。
「どうしたの? 啓太くん。そんな真剣な顔してパンツ握りしめちゃって」
 突然、聞こえてきた声で我に返った啓太が顔をあげると、同じように洗濯物を干していた隣の奥さんが不思議そうな顔をしてこっちを向いていた。共働きでもない限りどこのご家庭でも洗濯するのは同じような時間になる。その所為かときどきこうして顔を合わせ、今では言葉を交わすくらいまで親しくなっていた。余談であるがこの奥さんは現在46歳。「あと10年。ううん、あと5年若ければねえ。中嶋さんを誘惑しちゃうんだけどねえ」とまんざらでもない顔で宣まった強者でもある。彼女の見立てによれば、中嶋は「絶対、年上の女の方が好みに違いない」のだそうだ。……たしかに高校時代の中嶋は女子大生専門だった。あながち外れてもいないのが恐ろしい。
 その奥さんは干したタオルを広げながら、さらっと啓太の頭上に爆弾を落とした。
「なーんか、浮気の証拠をみつけちゃった奥さんみたい」
「えっ? ううう浮気の証拠ってパンツで分かるんですかっ!」
 声がひっくり返ったのはどうすることもできなかった。そんなもの、見て分かるものならその方法を是非知りたい。ところが爆弾を落とした当の本人は無責任なものだった。
「さあねえ。私は知らないけど。ほら。よくドラマなんかでやってるじゃない」
「……………………ああ。そう言えばそうですね」
 駄目だ。と、啓太は思った。恐ろしかろうが何だろうが、やはりなんとかして後をつけるしかないだろう。

 そうは決意したものの、その夜から2日連続で啼かされた啓太が出て行く中嶋に気づいて起きられたのは、それから4日もあとのことだった。眠くてくじけそうだったが、もしかすると今夜また……、という恐れがあり、意地と気合と根性で飛び起きたのだった。
 エレベーターホールで鉢合わせするとシャレにならない。玄関のドアが閉まる音を合図にTシャツと短パンを着た啓太はまず玄関ののぞき穴から外を伺い、次に裏口でも同じようにしてから、そっとドアを開けた。廊下に中嶋の姿はない。そのままエレベーターホールまで走っていくと、2台あるうちの1台が降りていくところだった。時間が時間である。中嶋が乗っているのに違いない。呼びボタンを押しつつ、啓太はドアの上のインジケーターを凝視した。途中階で停まればその階が怪しい。逆に外に出るなら駐車場のある地下2階だろう。
 だが身体は起きていてもアタマはまだ眠っていたようだ。ノンストップで1階まで降りたエレベーターがそのまま停まっているのに、地下まで行くだろうと思い込み、そのままじっと動き出すのを待ってしまったのだ。気がついて慌てて1階まで降りたときには遅かった。中嶋の姿はもうどこにも見えなくなってしまっていた。
 
 翌朝は無駄には待たなかった。中嶋の乗ったであろうエレベーターが1階に着いたのを見極めるとすぐ、啓太は非常階段を駆け下りた。
 じつは昨日。とぼとぼと部屋に戻り、もう一度ベッドにもぐりこんだところで、啓太は気がついてしまったのだ。降りたところに中嶋がまだいたらどうするつもりだったんだ、と。啓太を起こさないよう、下に降りてから誰かに電話をかけたかもしれない。誰かが車で迎えに来るのを待っていたかもしれない。のこのこエレベーターで降りていたら、そんな中嶋と鉢合わせしたかもしれなかったのだ。危なかったと思ったとたん、冷たい汗が背中を伝っていったのだった。
 だが追跡は止められなかった。中嶋がどこで何をしようと、啓太にそれをどうこうする権利はない。でも、だからこそ知っておきたいと思う。知らないままだと嫌な不安が募るだけだからだ。今はまだ小さいことだが、積み重なれば共に暮らすことなどできなくなってしまうだろう。啓太は無意識のうちにそれを避けようとしていたのかもしれなかった。
 細心の注意を払って外へ出た啓太は、左右を見回してそれらしい姿が見えないのを知ると、とりあえず街の方へ向かって駆けた。中嶋のマンションは広大な敷地の森林公園に面しているので、動ける範囲は自ずと限定されている。
 だがコンビニの前を過ぎ、曲がり角を曲がったところで足を止めてしまった。中嶋の姿はどこにもない。ぼんやりとした街灯に照らされた道路が、ただまっすぐ伸びているだけだ。念のためにもう一度コンビニものぞいてみたがやはりいない。
―― どこ行っちゃったんだろう……。
 街灯がついているとはいえ真っ暗な道である。前方に車がいればテールランプは見えるはずだ。さほどタイムラグがあるわけではないので、乗り物を使っていないのならどこかに姿が見えるはず。啓太が知る限り中嶋は自転車を持っていないし、啓太があとをつけているのを知らない中嶋が身を隠しながら移動するはずもない。だが姿はおろかテールランプさえ見えないというのはどういうことなのだろう。
―― どっかの建物に入っちゃったんだろうか……。
『どこかの家に』とは思いたくなかった。
 たいして走っていないはずなのに、鼓動がやけに早くなっていた。

 翌朝は雨だった。その所為か、あるいは最初から予定がなかったか。中嶋はどこにも行かず、啓太の隣で眠っていた。
 ここ数日の習慣で明け方よりかなり前に目が覚めてしまった啓太は、中嶋を起こさないようそっと近寄ると、確かめるように二度三度と息を吸い込んでみた。石鹸の匂いなどこれっぽっちもしていない。以前のままの中嶋がそこにいる。
 もうやめよう、と啓太は思った。石鹸の香りをさせていてもいなくても、中嶋はこうして啓太の隣で眠ってくれているではないか。中嶋と過ごす時間が長くなればなるほどに、中嶋が誰かを隣に眠らせる男ではないということが分かってくる。自分が唯一の例外だとまで自惚れるつもりはないが、中嶋の中でほんのちょっとくらい特別扱いをしてくれてるんじゃないかなと思えるようにもなった。その中嶋を疑い、こそこそと後をつける自分が悲しかった。こうして隣で眠ってくれている中嶋にも申し訳ないとも思う。
 でも。だからこそ。誰かと遊んできて、平然と同じベッドに入ってくる中嶋であって欲しくない。
あと一回だけ。と、啓太は思った。あと一回だけ後をつけて、それで分からなかったらきれいに忘れてしまおう。それだけやって分からないのなら、これはきっと真夏の夜が見せた夢に違いないのだ。道路に中嶋の姿がなかったのが何よりの証拠ではないか。
 明日も見つからなければいい。そうしたら全部を夢にできる。夢ならば起きてしまえば元通りだ。そう。何もかもが。

 そしてさらにその翌朝。これがラストチャンスと啓太自身が決めた朝。啓太は誰の姿も見えないマンション前の道路にしゃがみこんだ。音らしい音のない時間である。何で移動しているにしろ、耳を済ませば何か音が聞こえるんじゃないかと思ったのだ。追っても見つからないのだから駄目でもともとくらいのノリである。
 身体を低くして全身を耳にする。啓太は頭の中から雑念を払い、ただ音を拾うことだけに集中しようとした。ゆっくりと息を吸っては吐き、吸っては吐く。やがて「集中しなきゃ」という意識さえ取り払われた頃、軽い足音が聞こえた気がした。
 はじかれたように顔を上げた啓太は、思わず左右を見回し、次の瞬間には道路に耳をつけていた。
 聞こえた。誰のものかわからないが、確かに誰かが走っている。
 とりあえず音がしていると思しき右手の方角へ、啓太は坂道を下っていった。

 マンション前の坂道を少し下ったところに森林公園に入る階段がついている。正規のゲートではなく保守管理用のもので、関係者以外は使えないことになっている。だが管理人のいないときに近所の住民がそこから降りたりしているのを思い出した啓太はそこで足を止めた。どこにも姿が見えないのなら、あるいはここを下っていったかもしれない。
 心の中で「ごめんなさい」と謝りながら、啓太は柵を乗り越えた。生い茂る草の匂いがいつもより強く感じられた。
 ところどころに常夜灯はついているものの、コンクリート製の階段は思ったより暗かった。開園時間外に誰かが使うなど考えて作られていないのだから、これは仕方がない。足元に気をつけてゆっくりと下りていきながら、啓太は自分にあきれた息を吐き出した。真っ暗な時間にこんなところを下りていって。もし中嶋が街の方に行っていたとしたらお笑い沙汰だ。時間を見計らって戻るにしても、この階段を上るとなれば啓太の方がシャワーを浴びなければならないくらいの汗をかいてしまうだろう。
 一度、足を止めて啓太は下りてきた階段を振り返った。もう道路がどこにあったか分からないくらい下りている。そして終わりはまだ見えない。ぼんやりと白く見える階段が、まだずっと続いている。それでも啓太は戻る気にはなれなかった。今日で最後と決めたのだから、心残りだけはしたくない。

 下の道まで降りたところで、さてどうしたものかと考えた。森林公園は文字通りの森林で、山の中に点在する施設を遊歩道がつないでいる。啓太はその遊歩道のど真ん中に降りてきたらしく、左右どちらに進めばいいのか見当もつかなかったのだ。物は試しとばかり、道に耳をつけてみたが、先刻のようには何も聞こえてこない。そう何度もうまくいくはずがないんだとしょんぼり肩を落とした啓太は、とぼとぼと道を左に取った。こうなったら自分の運のよさに賭けるしかないのだ。
 下りてきてしまうと階段よりさらに暗かった。おそらく常夜灯の間隔が広いのだろう。思わず不安になるくらいの闇が目の前に広がっている。勢いに任せて下まで下りてきてしまったが、よほど酔狂な人間でない限りこんなところで密会もないだろう。それでも足は止まらなかった。密会はないと思う半面で、ここなら人目を気にすることもないとも思ってしまうからだ。自然と速足になっていく先で、樹々の間からちらちらとこぼれる灯りが見えた。戻る時間を考えれば、持ち時間はあまり残っていなかった。
 あの灯りまで。と啓太は思った。あの灯りまで行って、そして見つからなければ諦めて帰ろう、と。
 いや。そうじゃない。夢の中からはじまったことなのだから、夢の中に戻るだけ ―― 。
 自分で自分にそう言い聞かせ、闇の中から一歩を踏み出した啓太は、思わず足を止めていた。文字通り夢のような光景がそこに広がっていた。

 そこは何かイベント会場にでもなる広場のようだった。周囲を樹々に囲まれたなかに、土の面がほぼ円形に広がっていて、真ん中に少し背の高い常夜灯が灯っている。啓太の見た灯りはこれだったようだ。淡く弱々しい光ではあったが、このあたりで唯一の光源である所為か、とても頼もしく感じられる。地球儀の骨組みのような枠に入れられたそれが投げかける、規則正しい放射線状の縞模様のついた光の中で、中嶋が独り、舞っていた。
 突く。払う。受ける。前蹴りをして半回転。蹴り上げ。裏拳。膝で蹴り上げたかと思うとまた突く。受ける。動いていないようでいて、その実、左へ。そして右へと移動する。
 技と技との間はとてもスムーズで、空手の型のことなど何も知らない啓太の目には、ただ流れるように舞っているとしか映らない。綺麗だ。と啓太は思った。緩急自在に型を決めていく姿があまりに美しくて、啓太は呼吸すら忘れて見惚れていた。
 突く。突く。突く。手刀で受ける。逆に突く。上段で受けたかと思うと下段で蹴る。払う。前蹴り。飛んで後蹴り。そしてふわりと4分の3回転をしたところで啓太と目が合った。
 着地してすぐ蹴りが入る。
「どうした? ついてきたのか?」
 手刀で払う。
 ついてきたことを咎めるでもなく、中嶋は穏やかな口調で問いかけた。圧倒されてしまっている啓太は返事をすることもできず、惚けたようにただ頷いた。
 そのまま受ける。
「そうか」
 すいっと左へ移動。突いて。突いて。そして蹴る。
「だったらもっとこっちへ来い。何をそんなところで隠れている」
 膝蹴り。
 啓太は黙ったまま、今度は横に首を振った。そこにあるのは完璧なまでの美しさ。そして調和である。あまりに綺麗なこの世界を、自分という侵入者が壊してはいけないと思ったのだった。
 蹴り上げる。
「ふん。まあ好きにすればいい。もう、すぐに終わる」
 受ける。突く。突く。払って右へ移動。前蹴り。引き戻した足をそのまま回して再び蹴る。
 髪から飛び散る汗までが美しい。啓太は見飽きることなく、そこに立ち尽くしていた。

「うひゃっ」
 いきなりシャワーの水をかけられて、啓太は色気のかけらもない声を出した。
 あのあとふたりで帰ってきたのはいいが、軽快に階段を駆け上がる中嶋についていけず、かなり遅れて上の道路までたどり着いたときには膝が笑って息も絶え絶え……という、非常に情けない体たらくだったのだ。自分のペースで上がればいいものを、なまじ前半で中嶋についていこうとしたのが悪かったようだ。多分に揶揄を含んだ中嶋の「おぶってやろうか」との声に意地をかき集めて歩き出したものの、玄関に入ったところでそれも尽きた。意地悪く笑う中嶋に抱き上げてもらってバスルームの椅子に座った、というのが今の状況である。あれだけの運動をして、まだ啓太を抱き上げるだけの余裕があるのが嫌味だった。
「冷たいじゃないですかあっ」
「そうか。まだ湯になってなかったか」
 分かっていてそう嘯く中嶋は、何故かとても楽しげだった。くちびるを尖らせる啓太の手元に泡を立てたスポンジを放り投げる。上目遣いに啓太が目を向けると、泡だらけになっている中嶋の長い脚が目に入った。
 しっかりと筋肉のついた、それでいて無骨さなどを微塵も感じさせない綺麗な長い脚。それはきっと、先刻のような地道で長期にわたる訓練から作り出されたものなのだろう。そうだ。中嶋は誰よりも努力をする男だった。それを知らない自分ではなかったのに。
 中嶋の在学中。部屋を訪れると中嶋はいつも机に向かっていた。本当に。いつもいつも。たまに音楽を聴きながらベッドに寝転がっていたかと思うと、英字新聞やらミステリの原書やらを読んでいるのが常だった。
 このマンションに越してきてからもそうだ。ほとんどスパルタといっていいくらい啓太に勉強させているが、啓太だけに勉強させてはいない。啓太が冗談にも文句を言えないくらい、中嶋は真剣に勉強していた。
 中嶋はただ頭がいいのではない。努力して今の自分を作り上げたのだ。であれば、中嶋のあの強さもまた、努力して作り上げたのに違いなかったのだ。ほかの誰でもなく、自分がそれに思い至らなかったことを、啓太はかすかな胸の痛みと共に恥じた。
 そう。疑惑なんて解けてみればこんなもの。あまりに事実が単純すぎて、かえって見えなくなっていただけなのだ。疑うから惑い、惑うから疑ってしまう。
「ひゃあっ」
 頭の上から今度はお湯が降ってきて、啓太はまたしても色気のない悲鳴をあげた。どうやら啓太がぼんやりと物思いに耽っている間に、さっさとシャンプーまでしてしまった中嶋がシャワーのコックをひねったのだった。
「なんだ。まだ洗い終わってなかったのか。そのトロさは国宝モノだな」
「…………世界遺産じゃなくてよかったです……」
「くっ……」
 慌ててスポンジをこすりつけはじめた啓太に、中嶋が喉の奥を震わせた。俯いてしまった啓太には見えないが、意地悪で、そしてとても楽しげな顔をしているのは分かっていた。
「さっさとするんだな。あまり時間はないぞ」
「時間、ですか……?」
「ああ」
 何の時間だろうと訝しむ啓太の耳に、不意に身体をかがめた中嶋が直接ことばを送り込む。
「何故、俺のあとをついてきたのか。理由を教えてもらわないと、落ち着いて勉強できないからな」
「…………そっ、それは……っ!」
「おまえだって貴重な勉強時間に食い込みたくないだろう?」
「もっ、もちろんですともっ」
 自分の運命を敏感に察知した啓太がなんとかお仕置きを回避しようと、コメツキバッタのごとく、ぶんぶんと首を縦に振る。だが中嶋はそ知らぬ顔で駄目出しをした。
「そういえば。何日か前にも、ちゃんと寝てないみたいなときがあったよな?」
「えっ? いや、あれは」
「なるほどな。俺はおまえに疑われてたわけか」
「えーっ? 疑ってたなんて、そんなぁ……」
「傷ついた」
「うわーん。だだだだだだってぇ〜っ!」
「うん? じゃあまず、その『だって』の中身から教えてもらおうか」
「ひーーーーーーんっ」

 夜もまだ明けきっていないというのに中嶋は「お仕置きモード」全開で。
 今日ばかりは啓太自身にも、掃いて捨てるほどの自覚と疚しさがあるわけで。
 退路を断つべく抱き上げた中嶋の、にやりと笑う端正な顔に、どうしても抗いきれなかった今朝の啓太くんだった。





いずみんから一言

朝っぱらから大変な啓太くんでした(笑)。
まあ、素直に吐けばお昼ごはんは食べさせてもらえることでしょう。
ただし午前中の勉強が頭に入るかどうかは別問題かと思いますが。

お隣のオバサンは、これからもちょくちょく出るかもしれません。
子供がいないので年の割には若く見え、結構稼ぎのいいダンナとふたり暮し
という設定です。

このオバサンにご自分の名前をつけたい方。
いらっしゃいましたらメールを下さいませ♪



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