啓太くんの誤算 |
そりゃ人生に誤算はつきものなんだろうけどさ。と、バスに揺られながら啓太くんは、19歳になったばかりにしては少々じじくさいことを考えた。 中嶋のマンションは高速道路へのアクセスもしやすいし、市の中心部へも20分程度で行ける。コンビニへは徒歩5分。そこを行き過ぎて10分も歩けば、タウンガイドに必ず載るようなお洒落なショップが並ぶ一画に出る。中嶋御用達の高級スーパーこそ車がないと行けないが、普段の買い物なら、ひとつ手前のバス停近くにあるスーパーで充分だ。 つまり環境抜群の森林公園に面しているとは思えないくらい便利な場所にあるのだが、どうやらそれには「車を使う」という条件詞がついていたらしい。大学に通うためにJRに乗ろうと思ったら、住宅街をうろうろ縫って走る路線バスに30分以上も揺られて普通電車しか停まらないしょぼい私鉄の駅に行き、電車に乗り換えてふたつ目の駅まで出なくてはならないのだ。それでも行きはバス → 私鉄 → JRが連絡しているからまだましだが、帰りとなるとそうはいかない。下手な時間に帰ってこようものなら、私鉄の駅で待ち、バス停で待ちと、JRを降りてから1時間以上かかることだってあるのだ。車を使えばたった20分の距離で、である。 思い起こしてみればプラチナペーパーが届いたあの瞬間から、啓太の人生は誤算の連続だったと言えるかもしれない。今から思えば笑っちゃうようなレベルだが、それでもあの頃なりに必死になって勉強して入学した高校をたった半年で転校するという誤算が、そもそものスタートだったのだ。あのまま前の学校に通いつづけていれば、きっと物足りないくらい平穏無事な人生を送ったことだろう。そこそこの大学へ行きそこそこの会社に就職する。そこそこの女の子と見合い結婚でもして、そこそこの出来の子供や孫に恵まれたことを喜ぶ、そこそこの人生を。だがそれは、決して不幸なものではないのだ。 ところが実際は大きく違っていた。学園に転校したことで起きてしまった誤算の中でも最大のものが、中嶋と出会ってしまったことだろう。中嶋と出会い、愛しあってしまったために、啓太はごく普通の幸せというものを手放し、両親とも訣別しなければならなかったのだから。 中嶋と出会って得たものはとても大きい。彼と出会わなければ、ここまで真剣に誰かを愛するなんてなかったはずだ。誰もが一流と認める大学に合格することもなかった。このままでいけば一流企業の就職だって夢ではない。 得たものが大きすぎたために失ったものもまた大きかったが、とりあえずそれは丸呑みして、何とかやり過ごそうとしているところだ。たとえは悪いが、元値が高ければ割引率が大きくても手元に入る現金が多いのと同じようなものだ。だが啓太の誤算は、思わぬところに潜んでいたのだった。 「えーっと、俺は……」 ガイダンスでもらってきた資料をもとに時間割を組んでいた啓太が言った。 「7号館と8号館がほとんどみたいです」 「ああ。あの図書館の向こうな」 「そうです、そうです。中嶋さんたちはどこですか? 3年だと講義も少ないでしょうけど、たまにはお昼とか一緒にできますよね」 「いや。無理だ」 「えーっ!? どうしてですか? 全部4時間目だけとか?」 「違う」 「じゃあ講義棟がかけ離れてるとかですか? だったら……」 「それに近いがな。俺は来週から和光なんだ」 「へっ……?」 ことばの意味を理解するのに何秒かかかった。さらに「和光」というのが埼玉県の地名であると思い出すのにさらに数秒。元埼玉県民でなければ地名であるとさえ思わなかったかもしれないが、それはさておき。『 和光イコール啓太の通うキャンパスとは違う。故に一緒には通えない 』と答えを導き出すのにも数秒が必要だった。 「もしかして法学部のキャンパスが移転したとか……」 「ほお? 和光が地名だと気づいたか」 「それくらい俺だって知ってます。それより、いつの間に移転しちゃってたんですか? 俺、全然……」 「早合点するんじゃない。通ったんだよ」 「何に」 「司法試験」 「誰が」 「俺が。まあ丹羽も、だが」 中嶋の説明によると、司法試験に合格したものは司法修習生となり、16ヵ月間の講習を受けなければならないらしい。それらの終了後に受ける試験に合格して、はじめて念願の弁護士になれるのだ、と。そしてその講習を受けられる司法研修所が、全国でただ1ヵ所、和光だけなのだった。 今度は理解するのに先刻よりもさらに時間を要した。そして感情が頭の理解に追いついたとき、啓太は思わず情けない声を出していた。 「ええ〜っ? そんな、いつの間に……」 「そんな驚くようなことか? 受けてたのは知ってただろう」 「知ってました。知ってましたけどぉ。今年は問題の傾向を見るだけとか言ってたから……」 「……なんだ、おまえは。人が難関の試験をストレートで通ったっていうのに祝いのことばもなしか?」 しまったと思ったときには遅かった。啓太はこれまた誤算のひとつ。お仕置きへと直行するはめになってしまったのだった。 「……でも、どうして教えてくれなかったんですか……」 脱力しきった身体を中嶋の上に預けたまま、啓太はかすれた声で問いかけた。 ソファの上に毛布はなく、まだ汗の引ききらないふたりの裸身を、窓から差し込む午後の光がやわらかく包んでいた。 「俺だって一緒に喜びたかったです……」 先刻はつい驚きの方が勝ってしまったが、啓太だってうれしくないわけがない。三大難関試験と言われる司法試験に初挑戦で、しかもまだ大学2年生の中嶋が合格していたのだから。うれしいしおめでたいし、そんな中嶋が誇らしかった。 でも。だからこそ合格通知を受け取ったときに、一緒に喜んでお祝いを言いたかったのだ。ささやかではあっても啓太にできる限りのお祝いの食卓を囲み、夜には「おめでとうございます」と言って心からのキスをしたかった。そう。こんなお仕置きなんかではなく。 それは中嶋にも分かっていたのだと思う。長い指で啓太の髪をもてあそぶ仕草がとても優しかったからだ。本当にお仕置きをされたあとなら、なかなかこんなふうには甘えさせてもらえない。 「しかたがないだろう。合格通知がきたのはおまえが目を覚ます前だ。覚ましたあとはしばらく不安定だったし、退院が決まった頃は、篠宮や遠藤まで巻き込んでおまえの受験対策に大わらわだった。とてもそんな余裕はあるまい」 「あ……」 「それに合格通知だが、俺もちゃんと見たわけじゃないんだ」 「え? どうして……」 「ここに届いていたのを丹羽が病院へ持ってきてくれて、中を確認しただけだ。あとの手続き一切は奴に任せたし。まあ……、それっきりだな」 知らせてもらえなかった理由が自分だったと知ってしょんぼりしかけた啓太だったが、中嶋のことばにまだ重い身体を起こした。 「じゃあ見せてください」 「……うん?」 「合格通知、見せてください」 「そんなもの。今更、見てどうする」 「……お祝いするんです。その……、こんなソファじゃなくて、もっとちゃんと……」 そしてその日は、お仕置きに引き続いてお祝いという、目まぐるしくも濃厚な1日となったのだった。 理由は納得できたが、がっかりしたのもまた事実だった。 「ひとつ屋根の下」といってもいい寮生活のあと、卒業と言う名の別居期間を越えてようやくまた一緒に暮らせるようになったのだ。朝から晩まで見ていられると思っていた恋人の姿を取り上げられたのだから、がっかりするのも当然というものだ。 啓太にだってこっそりと思い描いていた夢はある。学部が違ううえに1年と3年では授業数が違うので朝は無理だとわかっていたが帰りは違う。時間さえ合えば週に1度や2度は中嶋の車で家に帰れるだろうと思っていたのだ。帰りの車の中でその日にあったことを話し、途中で寄ったスーパーでは相談しながら夕食の買い物をする。 そんなささやかであるがゆえに十分実現可能だった啓太の夢は、たった1通の合格通知と共に消え去り、こうして日々、誤算を思い知らされながらバスと電車を乗り継いで通学することとなった。 ところが啓太の誤算はそれではすまなかった。 気持ちを切り替えた啓太は、毎朝、中嶋を見送ろうと考えた。家から和光までは遠い。寮に入らず家から通うことにした中嶋は、啓太より早く家を出るからだ。玄関先でキスをして見送るだけでなく、たまには中嶋と下まで下り、一緒に通う丹羽とふたりにむかって「いってらっしゃい」と手を振るのも、それはそれで幸せな風景であるはずだった。 それなのに。 「なんだってあんな早く出かけちゃうかなあ……」 そう。啓太が目を覚ました頃、中嶋の姿はすでにないのである。 今朝もそうだ。がんばって早起きしたにもかかわらず、ベッドの隣のぬくもりはすでになかった。同じベッドに寝ていながらこうも毎日毎日抜け出されるのに気づかないのは、正直言ってかなりへこむ。しかも中嶋の広いベッドではなく、啓太の部屋のごく普通のシングルベッドで、だ。それはつまり中嶋が啓太よりあとに眠ったことを意味する。 「……いったい、いつ寝てるんだろう……?」 啓太はほっと、悔しさ半分 ・心配半分のため息を吐き出した。 中嶋の邪魔をしないよう書斎とつながったベッドルームを避けた啓太が、自室のベッドにもぐりこむのは1時過ぎくらいである。それよりあとに眠った中嶋はおそらく6時前くらいに家を出、夜は8時を過ぎないと帰ってこない。そんな毎日を繰り返す中嶋を見ていると、嫌でも思ってしまうのだ。もしも自分がいなかったら、と。 もし啓太がこの家にいなければ、身軽な中嶋は和光で寮に入るなり部屋を借りるなりしたかもしれない。そうしていれば中嶋の負担ははるかに軽かったはずだし、浮いた時間にもっともっと勉強してもらうことだってできたはずだ。 「まあいいんじゃない?」 だが今日、ようやく行けた入学祝いのランチの席で、思わず不安をもらした啓太に苦笑しながら和希は言った。 入学式の日に和希からお祝いの食事に誘われていたのだが、そんな状態の中嶋をほったらかして自分だけ出かけることもできず、かといって授業が詰まっているのでランチにも行けずにいたのだ。それが今日は3時間目が休講なのが先週から分かっていたので、ふたりで待ち合わせて行ってきたのである。 和希は「ここのより美味いのを食べたことない」と絶賛する鰆の味噌漬の、最後の一切れを口に放り込んでから続けた。 「それも中嶋さんの楽しみなんだろうからさ」 「え? そう……かな?」 「近くても真っ暗な部屋に帰るより、遠くても明るい部屋に帰る方がいいに決まってるだろ? おまえが笑顔で出迎えてくれるっていうオマケがもれなくついてるんだしさ」 「…………うん」 ちょっと恥ずかしそうで、ちょっと満足そうで。それでいてうれしそうに頷いた啓太は、だがその直後にまたもや誤算の谷間に突き落とされることになった。今夜、中嶋が帰ってきたら聞き質さなければならない。どんなに中嶋が疲れていようと、だ。 壮大な決意の元、啓太は降車ボタンを押した。 その中嶋は8時より少し前に帰ってきた。 玄関先でかばんを受け取り、洗面所に行く中嶋のあとをついて歩く。どこで聞いたものかと考えていたら、どうやらいつもより口数が減ってしまっていたらしい。訝しく思ったのか、うがいをした口元をタオルで拭いながら中嶋が問いかけた。 「遠藤と食事に行ったんだろう? どうだったんだ?」 「美味しかったですよ、すごく。赤坂のみどり川って和食屋さんでしたけど」 「和食? 赤坂のみどり川が、か?」 中嶋の片眉が思わず跳ね上がった。その様子に、ほかの店と間違えていると思ったのだろう。啓太は料理の説明をしようとした。 「ええ。懐石料理っていうのかな。そんなのでしたよ? あれって和食なのにフランス料理みたいに一品ずつ運ばれてくるんですねえ。はじめてだったからびっくりしちゃいましたよ。なんでも、和希はそこの鰆の味噌漬が好きで、この時季にはよく行くんだそうです。あ。それ、うちにも送ってくれるって言ってました。来週くらいに着くそうですから、届いたら夕食に出しますね」 「それは有難く頂かねばならんだろうな」 中嶋はいとも楽しげにくちびるの端を吊り上げた。 「赤坂のみどり川と言えば、日本でも5本の指に入る超高級料亭だ。そこの味噌漬など、金を積んだからといって食えるものでもないからな」 「へっ? 料亭……ですか? あの、政治家とかがよく使う……」 「超高級の、な」 「でも……。でも。門のとこに小さく、えっと、かまぼこの板くらいの表札がかかってただけですけど?」 「つまり『 看板がなくても商売になる 』店という訳だ」 中嶋から家計を任された啓太は、じつは和希に今日の料理の値段を聞いていた。そのとき和希が「うーん。請求こないと分かんないけど……。まあこれくらいかな」と言って片手を広げたのを、勝手に5千円だと解釈していたのだ。それでも十分すぎるくらいリッチなランチだと思っていた。だが……。 自分でも広げてみた手に目を落として、啓太は思わずつぶやいていた。 「じゃあ……。じゃあ、あの料理って、もしかして5万円……」 「昼だからな。まあそんなところだろう」 しまった。もっとよく味わっておくんだった。 今になって思ってももう遅い。誤算というのはいったいどのくらい積み重なるものなのだろう? 啓太はまたしてもやらかしてしまった誤算に、「馬鹿馬鹿。俺の馬鹿〜っ」と口走っていた。中嶋が楽しそうに眺めているのにも気づかずに。 そんなこんなで聞きそびれてしまった啓太だったが、夕食後に熱いお茶を入れなおしたところで、おそるおそる口を開いた。夕刊を読んでいるのを邪魔するとまずいかとも思ったのだが、今を逃すともう二度と聞けないような気がして、がんばって聞くことにしたのだ。和希が思わず喋ってしまった内容は、まあいっかでスルーしてしまうには少々重すぎるものだった。 「あの……。中嶋さん?」 「うん?」 和希といった食事の話をしてからというもの、中嶋の機嫌は微妙に上を向いている。せっかく連れて行ってもらった超高級料亭を啓太がただの『 和食屋 』としかとらえていなかったのが、どうやら中嶋を満足させるツボにはまったようだ。啓太を満足させられるのは自分だけだと思っている中嶋は、和希の思いがうまく啓太に伝わらなかったと知ると機嫌がよくなるのだ。無意識とはいえこういうタイミングを逃さず捉えられるようになったのだから、啓太も進歩したものである。 「今日、和希からちょっと聞いちゃったんですけど」 「……ああ」 「和光に通うのって、3ヶ月だけなんですか?」 そう。和希は今日、こう言ったのだ。「7月からはどこにいくか分からないからなあ。帰れる間はおまえの待つ家に帰っておきたいんだよ。その気持ちは痛いほど分かる」と。 司法試験に合格すれば、司法修習は最初と最後が和光であとは日本のどこか。 それは「車を運転するには免許証が必要だ」と同じくらいあたりまえのことだったので、和希にしてみれば本当に何気ない一言だったのに違いない。ネットでほんのちょっと検索してみてもすぐに分かることでもあったからだ。ところが検索など思いもつかず、中嶋からも知らされていなかった啓太にとっては青天の霹靂。まさに「聞いてないよ〜っ!」と叫びたくなるほどの衝撃だったのである。 「最初だけじゃない。最後の1ヵ月も和光だ」 「あとの1年は……?」 「裁判所が民事と刑事。あとは検察庁と弁護士会と。それぞれ3ヵ月ずつだ。一応、場所の希望は出しておくが、どこかまではまだわからん」 「そんな……。もし遠くだったら……」 「おまえは大学があるし、所謂『単身赴任』というやつになるな」 同居後たったの3カ月で早くも単身赴任。それはもはや誤算云々のレベルではない。リアクションのしようもなく、啓太はただただ呆然と立ち尽くしたのだった。 なんだか勉強する気も起きなくて、さっさと寝てしまおうと思った啓太だったが、風呂から出たところで中嶋に寝室へと拉致された。中嶋は中嶋なりに、啓太の様子が気になっていたらしい。正直言って、中嶋には啓太がなぜ呆然としてしまったのかがよく分かっていないのだ。だったら別にリビングで話を聞いてもよさそうなものだが、啓太がぐずりはじめたときに身体で黙らせるにはベッドの中の方が都合がよかったのである。 「単身と言っても、夏休みや春休みはおまえがそっちに来るだろう」 啓太の肩を抱き寄せながら中嶋が言った。 「ええ。まあそうですけど……。って、中嶋さん?」 「どうした」 「前に俺が『 和希にバイト紹介してもらう 』って言ったら、『 単発はいいが長期のバイトは夏休みが明けてからにしろ 』って言いましたよね?」 「言ったが?」 「それって、もしかして……」 「長期のバイトだったら辞めなきゃならんだろう。休みの間中、赴任先にいるんだったらな」 「生活費を俺に預けたのは……」 「手渡しだと時間的に無理なことだってあるかもしれない。おまえを餓死させてみろ。遠藤になんて嫌味を言われることか」 餓死する前に和希に借りるけど。とは言えなかった。こっそり思ってしまったのは無意識のうちに胸の奥にしまいこんでいた。言っちゃいけないと思ったのではない。それより気になることを思いついたのだ。 「じゃあ、じゃあ……。貸し金庫の鍵を俺が預かったのも……」 「中身に用ができたといって、いちいち帰って来られないからな」 「はああ〜っ」 中嶋の話を聞いて、啓太は思わず脱力していた。ベッドの中でなかったらその場にへたりこんでいたことだろう。入学式の帰り道、中嶋から家計を任されて、思いっきり。本当に思いっきり感激したというのに。貸し金庫の鍵を預かって、信頼の重さに震えたというのに。その全部が中嶋の都合から出たことだったとは。中嶋が簡単にそんなものを預ける人間でないのは啓太がいちばんよくわかっている。だから信頼の重さに変わりがないことくらい分かってもいるのだが。それでも種明かしをされてみれば有難味も半減。脱力のひとつもするというものだ。 「どうかしたか」 「いーえ。別に」 啓太が何かに拗ねているのは分かったようだが、「そうか?」と言っただけで中嶋はベッドサイドランプを消した。ぐずる気配がないので寝てしまおうと思ったのだろう。ところが一方の啓太は暗くなったことで第2幕の幕開けを期待した。 このところ中嶋も疲れ気味で、平日の夜にこんな時間を持てなかったのだ。だが今日は違う。ぎりぎりとはいえ日付が変わる前にベッドに入れたのだ。啓太が中嶋との甘い時間を期待したのも当然だったろう。しかし。いつまで待っても中嶋のくちぴるは落ちてこなかった。 「あの……。中嶋、さん?」 「……うん?」 「抱いてくれないんですか」とはさすがに言えず、「寝ちゃうんですか」と啓太は聞いた。声が少々情けなくなったのは、どうにもごまかしきれていなかった。中嶋は啓太をあらためて抱き寄せはしたものの、それ以上のことはしようとしなかった。 「最近、寝不足だから早く寝ることにした。おまえも付き合え」 「……はい」 ベッドに入ってからだけでも、これでいくつめの誤算なんだろう。早くもたてはじめた中嶋の規則正しい寝息を聞きながら、啓太は小さな息をそっと吐き出した。 翌朝。 何か暖かいものが頬のあたりに触れ、ついで頭が触られたのに気づいて、啓太は意識をゆっくりと浮上させた。そして小さな「ぱたん」という音でぼんやり目を開けた啓太の耳に、今度ははっきりと玄関のドアが閉まる音が聞こえた。寝ぼけた頭でも、中嶋が出かけていったのだと分かった。では先刻の感覚は、中嶋が「行ってきます」のキスをし、頭を撫でていってくれたものなのだろう。それに気づいた啓太は、胸の奥底からわきあがってきた幸福感に、布団の中で思わず破顔っていた。 昨日はなんだか誤算が一杯で、最後の極めつけのように中嶋に寝られてしまったときには「誤算なんて世界中から撲滅してやる!」と思った啓太だった。だが昨日、いつもよりかなり早く眠ったからこそ、こうやって自分の知らないうちに中嶋がキスをしたり頭を撫でてくれたりしていたのに気がつけたのだ。毎朝毎朝してくれていたのだと思うと、自分は世界一の幸せ者だと思えてくる。 「それに、夏休みとかは俺が行ってもいいみたいだし。っていうか、もう行くって決まっちゃってるみたいだし」 優しいなあ、中嶋さん。と思いながら、啓太は布団を頭の上まで引き上げると、「えへへ」と声に出して笑った。本当だったら関係を説明できないような自分など、赴任先へなど行かない方がいいのだ。週末だけならともかく、ひと月以上も滞在すれば嫌でも目に付いてしまうだろうに。そしてそれがこれからの中嶋にとってプラスに働くことなど、絶対と言っていいくらいにないのだから。分かっていながら、それでもいいと言ってくれる中嶋が、本当にうれしかった。 うんざりするくらい誤算もあったけど。 そしてこれからだって泣いちゃいたくなるくらいくらいあるんだろうけれど。 中嶋さんさえ変わらずそこにいてくれるんだったら、誤算くらいあってもいいやと思える、今日の啓太くんだった。 |
いずみんから一言。 がっかりしたりしょんぼりしたり、またまた浮上してみたり。 中嶋氏でなくても啓太くんを見ていると飽きないことでしょう。 それにしても、和希がさりげなく不憫です(笑)。 どうしても入れられなかったのですが、このランチは入学祝いの分。 誕生日の方は別に約束を取り付けようとしたのですが、啓太くんにそんな話を 聞けるだけの余裕がなくなっちまった(笑)ので、未遂に終りました(爆)。 ちなみに司法修習生となった中嶋氏は公務員扱いとなり、国からお給料が出ます。 ボーナスもちゃんと出ます。 それは中嶋氏のお小遣いになっちゃうのかも。 そして。中嶋氏が入らなかった和光にある寮は「いずみ寮」といいます。 なんだか親近感のわく名前です(笑)。 |
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