春待ち月 |
幾度かのため息とそれに倍するためらいのあと、伊藤啓太は携帯電話を取り上げた。時間はすでに午前零時を回っていた。 相手が眠っていると思ったからためらっていたわけではない。大学に合格したからといって気を抜くような人ではないことくらい、この学園の関係者なら誰でも知っていることだ。啓太がためらった理由は他にあったのだった。 ためらいつつも啓太は携帯電話からメールを送った。そして思ったとおり、その返事はすぐに来た。啓太はもう一度、まるで自分を奮い立たせるかのように大きなため息をつくと、電気を消して部屋を出た。 フットライトだけを残して照明の落とされた廊下を、啓太は注意深く歩いていった。こんなふうに足音を忍ばせて、何度四階まで上がったことだろう。だが今日だけは本当に、絶対に誰とも顔を合わせたくなかった。特にあの人に見られたら……。そう思うと廊下を駆け出したくさえなってしまう。だがそんなことをすると耳聡いあの人に気づかれてしまうかもしれない。駆け出したい気持ちをぐっと抑え、息を殺すようにして、啓太は廊下の端にある部屋の前に立った。 そっと叩いたはずなのに、ノックの音は驚くくらい廊下中に響き渡った。心臓が壊れてしまいそうなくらいドキドキしている。だが有難いことに中で啓太を待っていた人物は、誰かと声をかけることもせず、黙ってドアを開けてくれた。そしてこの期に及んでまだためらう啓太の腕を掴むと、部屋の中に引きずりこんだ。 「王様……」 「何だ? こんな時間に。いきなりメールよこすからびっくりしたぜ」 思ったとおり、丹羽の机の上には英語の辞書やら参考書が広げられていた。それらをがさがさと片付け始めた丹羽は、啓太に「悪いがコーヒー淹れてくれねえか」と言った。どう話を切り出していいのか迷っていた啓太は、ちょっとほっとする思いでコーヒーを淹れに行った。 啓太がこの部屋に入るのは歓迎会のとき以来だったが、コーヒーメーカーなどはそのときと同じ場所にあった。室内の印象もあまり変わらない。王様はまだ荷造りを始めてないんだな。滴り落ちるコーヒーを見ながら、啓太はぼんやりとそんなことを思った。 「すまねえな」 マグカップを手渡す啓太に丹羽が声をかけた。 「さっきからコーヒーが飲みたいと思ってたんだ。だけどめんどくさくてよ。そしたらメールが来たんで、こりゃちょうどいいや。なーんてな」 軽く言ってはいるが、こんな時間に啓太が訪ねてきたことで、丹羽はかなり神経を使っているのだろう。それは啓太を勉強机の椅子に座らせ、自分は一段低い椅子に座ったことからも伺えた。ただでさえ背の高い丹羽が上から見下ろしてしまっては、啓太が言いたいことを言えなくなると考えたのに違いない。コーヒーも椅子も、西園寺から「がさつでデリカシーがない」と罵られている丹羽にできる、精一杯の心遣いなのかもしなかった。 「さ。お前も熱いうちに飲め」 「……はい」 言われたとおりに口をつけはしたものの、啓太はすぐにマグカップを下ろしてしまった。膝の上のカップに眼を落とし、ぬくもりを確かめるかのように両手でカップを包みこむ。静かな部屋に丹羽がコーヒーをすする音だけが聞こえていた。やがてカップのぬくもりが失われ始めた頃、啓太がぽつんと口を開いた。 「……荷造りを始めたんです……」 「荷造り? って……。ヒデの野郎のことか?」 黙ったまま、啓太がこくんと頷いた。丹羽は心の中で天を仰いだ。どうせそんなことなのだろうと思ってはいたのだ。しかしまさかそれを口にするわけにもいかない。ことばの足りない親友を、このときほど恨みたくなったことはなかった。 「そりゃまあ、なあ。来週になりゃあ、すぐ卒業式だし。いまだにほっちらかしてんのは俺くらいなもんだぜ? 篠宮なんかはもう布団と机しか残ってないってよ」 「……」 「お前がどう思ってるのか知らんが、中嶋は一緒に住もうって言ってんだろ?」 「……引越し手伝いに行ったら、合鍵くれるって、言ってました。でも……」 啓太の語尾が震え始めていた。 「俺、自信がないんです。……だって中嶋さんはあんなに素敵な人だから。大学いって、いろんな人とつきあったら、俺よりもっとあの人にふさわしい人に出会うかもしれない。二年もあるんです。俺が卒業するまでに……。その間にあの人の心がどんどん離れていってしまうかも、って思ったら、俺もうどうしたらいいのかわからなくなって……」 「そのこと、ヒデに言ったのか?」 啓太は黙って首を振った。 「そんなこと言ったら『俺を信じろ』って言うに決まってますから。……俺が信じないのは中嶋さんじゃない。中嶋さんをつなぎとめておけるだけの魅力のない、自分を信じてないだけなのに……」 「……それで俺んとこ来たわけか」 丹羽が小さく息を吐いた。転校してきた啓太に好意以上のものを持ったのは、何も中嶋だけではなかった。成瀬は別の苦労があるかもしれないが、七条でも遠藤でも、もっと楽な恋愛のできる相手がいたのだ。何ゆえ啓太は、中嶋のようなしんどい相手を選んでしまったのだろうかと思う。 「王様だったら、中嶋さんのこと一番よくわかってると思って……」 「よし。学園で一番ヒデのことをわかってる俺のことばだ。よく聞け。いいか。おまえな、自分をもっと信じてやれ。ヒデが合鍵を渡すってのがどんなにすごいことなのか、よくわかってないからそんなこと考えちまうんだ」 「そう……、なんですか?」 「確かにあいつはもてる。この三年の間、相手は女子大生ばっかだったけど、途切れたことはない」 やっぱり。口の中でそう呟いた啓太の肩を、丹羽の大きな手が掴んだ。 「だがな。同じ相手と三度以上寝たことはねえんだよ。どんないい女でも二度が限度だ。あいつにとってセックスってのは、単なる気晴らし以上の意味はなかったんだ」 「……じゃあ……、俺とのことも、気晴らし、だったのかな……」 「ばっかやろ……!! おまえ、ほんっとにそんなこと考えてんのか!? 伊藤啓太ってのは、そこまで馬鹿な男だったのか?」 「だって……」 眼の端に涙を浮かべた啓太は顔を背けてしまった。親友のことをこれほどまでに思ってくれている後輩に、うまく彼のことを伝えてやれない自分が、丹羽はもどかしくてならなかった。 「お前が転校してきてから、ヒデは女と遊んでない。その時間のすべてをおまえのために使っている。それくらい自分でもわかってんだろ? まあたまには……、例のショーに顔出したりもしてるだろうが」 「はい……」 「おまえがきてからあいつは変わった。……そうだ。とっておきの情報、教えてやろうか」 悪戯っぽい表情で丹羽が言った。啓太がようやく上げた眼を丹羽に向けた。丹羽は片頬で笑っていた。 「捨て子騒ぎのときに篠宮が『伊藤とくっついたおかげでようやく落ち着いてくれたと思ったら』って、ヒデに言ってた」 「篠宮さんがそんなことを……?」 「おうよ。篠宮にさえ認めさせてんだぜ。立派なもんだ。亭主が単身赴任するってんなら、正妻はどーんと構えてなきゃいけねえんだよ」 『正妻』という丹羽のことばに、頬を赤くした啓太が、それでもくすっと笑った。丹羽はがしがしと啓太の頭をなでると席を立っていって、もう一度コーヒーメーカーをセットした。容量一杯まで入れたので、出来上がりには少し時間がかかるだろう。それまでにもう少し話しておきたいことが、丹羽にはあったのだった。 「あのな、啓太。これはいずれ中嶋が言うことだからと思って、俺からは言うつもりじゃなかったんだが……」 「王様?」 椅子に戻った丹羽が、それまでとは口調を改めて啓太に語りかけた。目も口元も、普段の彼からは想像もつかないくらい真剣だった。 「おまえ。ヒデの行く大学知ってるな?」 「……はい」 「じゃあ、ヒデの第一志望はどこだったか知ってるか?」 「第一志望、ですか?」 訝る啓太に丹羽が真剣な顔で頷き返した。 「あそこ……。第一志望じゃなかったんですか? だって中嶋さんくらい学力があれば、どこだって好きなところにいけるはずでしょう?」 「そうだ。だからヒデはいけなかったんじゃない。いかなかったんだ」 「どうして? 中嶋さんの第一志望って、いったいどこだったんですか!?」 「ハーバードだ」 「ハーバード。って、アメリカの!?」 つい大きな声を出した啓太に、丹羽が慌てて「しーっ」と言った。 「すみません。つい……。でもハーバードだなんて……」 「本当だ。実は夏休みにボストンへ行って、アパートの下見をしたりもしてきた」 「そこまでしてたのに……?」 「奴が志望を変えたのはMVP戦の少しあとだ。進路指導のとき、俺と中嶋は出席番号が並んでるから、俺は中嶋が担任と話してる間、外の椅子に座ってた。だから聞こえちまったんだが……。入学以来、あいつの志望はずっとハーバードだった。だから担任も驚いちまって、外に聞こえるような声を出したんだろうな。部屋から出てきて俺と眼があったとたん、『俺もヤキが回ったようだ』と言いやがった。あの時のヒデのなんともいえない表情を、俺は今でも忘れられねえ」 啓太は思わず考えこんでいた。進路指導があったとき。確かそれは講演会の本が届いたときだ。結果を気にしながら作業をしていたので、よく覚えているのだ。帰ってきた中嶋はいつもと変わりない表情をしていた。それどころか、東京の出張に連れて行ってくれるという話をしたりしたのだ。まさかそんな大きな決断をしていたなんて、思いもしなかった……。単純に喜んでいた自分を、啓太は呪いたくなった。 「あの……。中嶋さんが進路を変えたのは……」 「おまえがいたからだろうな。やっぱり」 おそるおそる口を開いた啓太に、あっさりと丹羽が答えた。予想をしていた答えではあったが、それでも啓太は思わず眼を閉じていた。自分はいったい、中嶋に何をさせてしまったのだろう? 閉じた眼の端から押さえ切れなかった涙がひとつぶ頬を伝った。 「国内と違って、やっぱりボストンは遠い。そうちょくちょく帰ってくるわけにいかないだろ? まあせいぜい夏休みとクリスマス休暇と……。そんなもんか。残りをおまえひとりで日本において置けなかったんだな、あいつは」 「だけど。待ってろって言われたら、俺……」 いいかけて啓太は口をつぐんでしまった。国内の大学に進学するのさえ不安になって、丹羽のところに相談に来たりしたのだ。海外に行かれてしまってはこの程度ですまなかっただろう。 「あいつと違っておまえはストレートだ。今はヒデに夢中になっているが、いってみれば麻疹に罹っているみたいなものだからな。間が開いて、その間に女の子が現れたりしたら、そっちの方がいいに決まってる。そうなってみればヒデとのことは、何だったんだろうって、思うようになる」 「俺はそんなこと……!!」 「うん。おまえはそういうやつだ。ヒデとのことに限らず、真剣でまっすぐで一生懸命だ。だからこそヒデもおまえのことを真剣に考えてるんじゃないか。……だけどな、啓太。ヒデは不安なんだよ。おまえを手元においておけないのが、不安で寂しくてしかたないんだよ」 「中嶋さんが……。不安になる……?」 自信家を体現したような中嶋が不安になるなんて、啓太にはとても信じられなかった。しかし丹羽は確かにがさつで大雑把かもしれないが、こんなときに冗談を言ったりする人間ではない。マグカップを取って立っていった丹羽の大きな背中を、啓太はじっと見つめた。まるでそこに捜し求めている答えがあるかのように、丹羽が戻ってくるまで、啓太はじっと見つめつづけていた。 「ほら。さっきのコーヒー飲んでなかったろ。今度は飲めよ。落ち着くぞ」 「……はい。有難うございます」 丹羽の淹れたコーヒーは熱く、そして苦かった。それが自分の心のように思えて、啓太は一口また一口と、苦い液体を飲みこんでいった。 「……俺、どうすればいいんでしょうか……」 「あ?」 「だって中嶋さん、俺のためにいきたい大学もいけなくて……」 「気にするな。中嶋はハーバード諦めたわけじゃない」 「……え? だって……」 「さっきも言ったろ。いずれあいつが言うことだから、俺からは言わないつもりだった、って」 「はい」 「中嶋は四年の夏に向こうに渡るつもりでいる。おまえは……まだ二年生か。一年で準備するのは大変かもしれないな。今から覚悟しとけよ」 「あの。それって……」 「おまえも一緒に行ってやってくれるだろう?」 もう限界だった。啓太の眼から大粒の涙が次から次からこぼれ落ちてきて、膝の上の手やマグカップを濡らしていった。 「けっ……、啓太……?」 啓太はマグカップを丹羽に押しつけると、子供のように泣きじゃくり始めた。 すぐそこに手に入る未来があるのに、自分を信じて待ってくれようとしている中嶋の心が大きくて。自分を信じて、あえて話してくれた丹羽の心が大きくて。あふれかえった感情が涙になって迸り出たのだった。慌てた丹羽がおろおろしながら啓太の背中を抱き寄せる。丹羽のシャツを掴んだ啓太は、声を上げて泣いた。 「ああ、もう。こんなとこヒデに見られでもしたら、言い逃れできねぇな、ったく」 丹羽の無骨な手が啓太の背中をぎこちなく撫でた。 「さっきも言ったろ。本妻はどーんと構えてりゃいいんだよ。な?」 「……はい……。話してくれて、有難うございました。俺、この学園に来て、王様と出会えて、本当に良かったです……」 そうして啓太はいつまでも泣いていた。丹羽も啓太の背中をずっと抱いていた。そんなふたりを窓の向こうから、春を待つ上弦の月だけが見届けている。 |
いずみんより一言 当サイトでは思いっきり遊ばれている王様に、卒業前にちょっといい役をあげようと思いました。 抱いてるのがバレて殴られてそうな気もするけど(笑) 尚、時間的にこれ以降になるヒデ卒業後の話は、「新婚さんシリーズ」になります。 100のお題の「SO SWEET」や「マスターベーション」などもこれに含まれます。 忘れた頃にUPしていきますので、こちらもよろしく。 真亜子さん、月の情報を有難う♪。 |
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