平和な時間 |
今日の生物は生物室で授業をすることになった。別に実験をするわけじゃなくて、単に標本をたくさん使いたいから、ということらしい。それなら標本を教室に運んでくればよさそうなものだけど、相手が海野先生だとちょっとコワイ。俺たちの方が生物室に行くのが、一番無難で手っ取り早いのだ。 でもこの学園は敷地が広いから、教室移動は時間がかかる。だからみんなは前の授業が終わるとすぐに生物室に向ったのだが、トイレに行きたかった和希とそれに付き合った俺は、ほんの少しだけ遅くなった。といっても授業に遅れるほどじゃない。俺たちが生物室前の廊下にたどり着いたとき、もう誰の姿も見えなかったという程度だ。ここの学生ははっきりしていて、さぼるときはあっさりサボるくせに、授業に出るとなると始業のベルが鳴る前に机の前に座っているのだ。これを知ったとき、むちゃくちゃ「らしい」と思ったね。俺は。 まだベルが鳴った訳じゃなくても、やはり廊下に誰もいないというのは気が焦る。自然と早足になる俺たちの前方で生物準備室のドアが開いたかと思うと、海野先生とは明らかに違う背の高い影が出てきた。俺にとっては身間違えようのない人 ―― 七条さんだった。 「七条さぁん !!」 思いがけないところで会えて、思わず駆け寄っていった俺を、七条さんはふわっと抱いてくれた。口に出して言ったことはないけど、強く抱きしめられてるのよりこんなのの方が俺は好きだ。特にこんな所では。七条さんはいつも、俺がそのときにそうして欲しいと思う抱き方で抱いてくれるのだ。恋人と呼べる関係になってからまだ日も浅いのに、どうしてそんなことまでわかるのか、俺にはちょっと不思議な気がする。……西園寺さんに言ったら意味深な笑みを浮かべてたっけ。 「伊藤くん。奇遇ですね、こんなところで会えるなんて」 「ホントですね。こんな偶然ってあるんだぁ」 「僕たちの絆がそれだけ強いっていうことでしょうね」 俺たち3人のほかは誰もいない廊下。そのままいけば熱いキスがもらえるはずだったのに、不機嫌な声を出して和希が邪魔をした。 「なーにが『僕たちの絆』ですか。教室変更は職員室前の掲示板を見ればわかることだし、啓太が通りかかるタイミングなんて貴方にはお見通しでしょう? 防犯カメラがちゃんと作動してるんですから。あとは適当な理由を作って海野先生のところに来ておくだけです」 あっさりと見破られた七条さんは、日本人には絶対できないやり方で、小さく肩をすくめて見せた。 「おやおや。これだから恋人のいない人は無粋でいけない」 「無粋ついでに言いますとね、始業のベルが鳴るのに1分切りました」 ふう、と大げさにため息をついて、七条さんはもう一度俺を抱きなおした。 「しかたがありませんね。海野先生の授業に伊藤くんを遅刻させるわけにはいかない」 「そうですね」 「でも僕はただ伊藤くんを待っていたんじゃないんですよ。放課後に会計室に来てくださいと伝えたくて」 「放課後に会計室、ですね」 「って七条さん? そんなことのためにわざわざ生物室まで来たんですか?」 「そうですよ。これを電話やメールで済ませようとするなんて、それこそ無粋です」 「いや。俺が言いたいのは、一時間前の休み時間なら、啓太も七条さんも同じ教室棟の中だったんじゃないか……」 和希の必死の抵抗は始業のベルで断ち切られてしまった。和希は七条さんの腕の中にしっかり抱えこまれていた俺をひきはがすと、生物室のドアを開けて放りこんだ。俺の後ろでぴしゃりとドアが閉められたとき、海野先生はすでに教壇に立っていた。遅刻常習犯の海野先生でも、さすがに生物室でそれはないようだ。俺と和希は慌てて手近の席に座った。 「でも何なんだろう。放課後に会計室、って」 放課後。何故か和希と一緒に、俺は会計室に向かっていた。理事長の仕事が忙しいってぼやいてたからわざと誘わなかったのに、和希ときたら授業が終わったら当然のような顔で肩を並べてきたのだった。ついて来られるのが嫌なわけじゃないからいいんだけどね。でもこれって、親の心子知らず、ってやつ? 「わかんない。ここんとこ放課後は学生会室が多かったんだ。王様がサボっちゃってさ、締め切りすぎても書類が届かなくて」 「ははあ」 「だから西園寺さんのご機嫌が最低なんだよ。あれを見たら和希だって手伝いに行きたくなると思う」 「行ってもいいけど? 今日はオフにしたから」 「うん。少なくとも会計室に5分はいられないんだ。脅かすわけじゃないけど、怖いぞ〜」 「……それ十分、脅してるって」 「あはは」 だけど会計室の中は……。とても和やかだった。昨日までが真冬の地吹雪だとしたら、今日は春の桜吹雪だ。あまりのギャップに立ちつくしてしまった俺と違い、「なんだ普通じゃないか」とつぶやいた和希はさっさと中に入っていってしまった。 「やあ、いらっしゃい。遠藤くんも来たんですね」 「お邪魔でしたか?」 「いいえ。ご招待はしませんでしたけど、別に迷惑とも思いませんよ。それより……」 そう言うと七条さんは、和希の肩越しに俺に微笑みかけた。俺はまだドアを開いたときの状態で、ノブを掴んだまま立っていた。 「伊藤くん。そんなところで突っ立っていないで、こっちへいらっしゃい」 「あ。はっ、はいっ!!」 思わず飛び上がった俺を見て、七条さんが小さくくすっと笑った。 おそるおそる部屋に入ってみると、西園寺さんが何語かわからないことばで電話をしているところだった。顔つきも話し方も昨日とは別人のようだ。それはそれで喜ばしいことだけど、これじゃ和希にウソを言ったみたいだよ。 それでもやっぱり100%は信じきれなくて、西園寺さんの神経を刺激しないよう、そーっと和希の隣に腰掛けたら、七条さんがこっそり種明かしをしてくれた。 「じつは今日の4時までに全部の書類を届けると、副会長から言質を取ったらしいんです」 「今日の4時 !? って、もうすぐじゃないですか !! そんな時間にできるような量じゃなかったですよ?」 「ええ。そうかもしれません。でも届けるといったのは副会長ですから。たとえ猫の手を借りてでも間に合わせるでしょうよ」 「あはははは」 『猫の手』は王様に限って言えば比喩ではない。肩にトノサマを乗せた中嶋さんが王様をカンヅメにしている図が頭に浮かんで、俺と和希は思わず笑ってしまったのだった。 「せっかく書類をお届けに来てくださるのですから、暖かくお迎えしようと話していたら、タイの知人から郁にお茶が届いたんですよ。ちょっと変ったフレーバー・ティだったので、伊藤くんもお誘いしたわけです」 「ああ……。それでお礼の電話をしてるんですね」 「ええ。そうです。忙しい人だからなかなかつかまらなくて……」 「って和希っ。西園寺さんが話してるのって、もしかしてタイ語……?」 「ああ、そうだよ」 何気なく和希は言ったけど、俺はマジで驚いた。西園寺さんってそんな言葉まで話せるのか !? 中国語や韓国語ならわかる。お隣の国の言葉だから。でもタイ語……? 「伊藤くん、郁はタイ語があまり得意ではないんです。文法はマスターしたのですが、どうも発音がうまくできないようなんです。聞き取りも苦手だといっていました。だから、すごい、とか言わないようにしてあげてくださいね。また拗ねられると大変ですから」 「はい。わかりました」 「じゃあ僕は失礼して、ちょっとお茶の準備をしてきます」 「あ。手伝います」 そう言って腰を浮かせかけた俺を、七条さんはソファに押し戻した。 「今日の伊藤くんはいつもの『お手伝い』じゃなく『ご招待したお客さま』ですから。遠藤くんと一緒にくつろいでいらっしゃい」 あの顔でにっこり微笑まれるとそれ以上は何もいえない。俺は和希の隣にもう一度、座りなおしたのだった。 話が弾んでいた西園寺さんがようやく電話を置いた。西園寺さんにとって、苦手な言葉で話すというのは、かなり疲れるものらしい。たしかに電話ってお互いの表情や身振りなんかが見えないから、面と向かって話すよりうんと難しいんだけど。ふう、と小さく息を吐きながらこっちを向いた顔は、走ってきたあとのように上気していて、髪をかきあげるしぐさも思わずどきっとするくらい色っぽかった。こんな人とずっと一緒にいながら、押し倒そうとはしなかった七条さんって、ある意味、とってもすごいと思う……。 「よく来たな、啓太」 「はい。お邪魔してます」 「お邪魔してま〜す」 ほどよくお茶の香りが部屋に漂ってきた。フレーバー・ティだと言っていたけれど、何の匂いか見当もつかない。ちょっと甘くて独特の香り。どこかで。どこかで俺はこの香りを知ってるんだけど。聞こうと思ったけどできなかった。あきらかに不機嫌とわかるノックの音がして、中嶋さんが書類を届けに来たのだ。時計は午後4時数分前を指していた。 「時間どおりだな」 「俺は約束は守る男だ。期限までに提出できなかったのは不本意ではあるが、俺の責任ではない」 「原因を作った誰かさんをちゃんと働かせることも、おまえの仕事のひとつではないのか?」 「さあな」 受け取った書類を、西園寺さんの綺麗な指が一枚ずつ取り上げては眼を通していく。優雅に、でも真剣に。中嶋さんはドアのすぐ脇の壁に背中を預けてその様子を眺めていた。こっちはいかにも自信たっぷりでございます、っていう表情だ。その顔が何かに気づいたかのようにふっと上がったかと思うと、部屋の中を見回しはじめた。 「どうかしたのか?」 「……いや。ココナツ・ティーとは珍しいじゃないか。女王様はそんなお茶までお召し上がりか」 「タイの知人から今日届いたものだ。私の好みとは言いがたいが、好意を尊重して有難く頂戴するつもりだ」 西園寺さんが確認した書類をデスクの上でとんとんと揃えた。そうか。あの香りはココナツの香りだったんだ。朋子が好きでよく買ってきてたドーナツの匂いだ。なんか胸に引っかかってたものが取れたみたいで、むちゃくちゃ気持ちがよかった。 「確かに。書類は全部揃っている」 「あたりまえだ。俺が自分で届けに来ているんだ。抜けたりミスをしていたりするはずがない」 「どうせなら期日にも間に合わせて欲しいものだな。学生会が遅れたおかげで、わたしたちの作業期間が削られるのは理不尽だ」 「間に合わせて欲しければ、女王さま自ら丹羽の頭でも撫でてやるんだな。そうしたらどこかの犬程度には仕事をするかもしれないぞ」 …… あーあ。怒ってるよ、中嶋さん。そりゃそうだろう。あの人にしてみればこんなところにいなきゃいけないのは、恥じさらし首以外の何ものでもないはず。西園寺さんへの悪態にしたって、もしこれが七条さん相手だったらこんなものではすまなかっただろう。それがわかっているからか、お茶の準備を口実に ―― だと俺は勝手に思ってるんだけど ―― 七条さんが出てこなかったのは賢明な判断だと思った。 「もし本当にそんなことをしないと仕事ができないと言うのなら、わたしは丹羽を見損なっていたことになる」 「……ふん。伝えよう」 眼鏡のブリッジを押し上げた中嶋さんは、そういうと壁から背を離した。そしてドアのノブに手をかけようとして、その姿を見ていた俺と……、眼が合ってしまった。 「なんだ、伊藤。そんなところにいたのか」 「えっ !? ええ。お茶に呼ばれて」 「ほお? お茶、ねえ。そんなものでつられたとは気の毒に。せっかく真っ当な道に戻りかけていたのになあ。……まあ、立派な女王様の仔犬になれるよう、せいぜいがんばれよ」 捨て台詞を聞きとがめた七条さんが姿を現す直前、中嶋さんはするりとドアを抜け出ていっていた。本当だったら腹が立っただろうに、中嶋さんの捨て台詞ときたらいっそ見事と言っていいほどで。独り憤慨している七条さんを他所に、俺と和希と西園寺さんは、かえって和んでしまったのだった。 「伊藤くん。お茶に呼んでしまったばっかりに嫌な思いをさせてしまいましたね」 「あ、いえ。別に。あんなの気にしてないですから」 「さあ、お詫びにとっておきのクッキーを出しましたよ」 そう言うと七条さんはテーブルの上にお皿を置いた。そこには模様になるようずらして重ねた数枚の紙ナプキンの上に、チョコレートコーティングされたクッキーが綺麗に並べられていた。 「うわ。美味しそうですね」 「西宮のツ○ガリというお店のクッキーですよ。全部同じように見えますけど4種類ありますからね。よく見て召し上がれ」 「はいっ」 俺と和希は遠慮なく手を出した。異国の香りのするお茶と美味しいクッキー。これが学生会室と大きく違うところだ。学生会室ではコーヒーはあってもお茶菓子はない。スナック菓子さえない。口に含んだとたん、ふわっと香るチョコレートの香りが、なんだかとても懐かしかった。 「七条さん」 「はい? 何ですか」 「……ただいま」 俺のこの一言に、七条さんだけでなく西園寺さんの表情までが緩む。 「お帰りなさい。伊藤くん」 「お帰り、啓太」 こうして俺は、本来いるべき場所に戻ってきたのだった。 |
いずみんから一言 |
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