がんばるひでくん




「あのね、あのね。ママ。ひでくんね、ひでくんもあらて(・・・)のおけいこしたいの」
 台所で幼い子供にまとわりつかれ、ママはちょっと鬱陶しかった。買い物に行ったらスーパーの前の広場で、空手道場がオープンしたパフォーマンスに行き会ってしまったのだ。目を輝かせて見つめる子供をひきはがし、ようやく買い物を済ませて帰ってきたかと思ったら、今度はまとわりついて離れない。
「ひでくん。ママ今ね、晩御飯のしたくしてるの。あぶないからあっちにいって、プーさんと遊んでてくれる?」
「やだあ。ひでくんあらて(・・・)するのぉ」
 小さなひでくんの眼に、みるみる涙があふれてくる。それをふこうともせず、ひでくんは涙で潤んだ瞳で、まっすぐにママを見た。
「どうして? ママどうして?」
 どうして? どうしてといいたいのはこっちの方だわと、ママは思った。どうして子供ってば、こう時と場所を考えてくれないんだろう。いくらでも暇なときはあるのに、そういうときには絶対に駄々をこねたりしないのだ。いつだってそれは、忙しいときに限っていってくる。まっさきに「おなかがすいた」と訴えてくるのはこの子なのに。こんなにまとわりつかれては、包丁も火も危なくて使えやしない。
「でもひでくんは今、スイミングとリトミックとお絵かきと幼児教室にいってるでしょう? 空手のおけいこもしちゃうと、ゆうくんやななちゃんと遊べなくなっちゃうよ」
「いいもん」
「ひでくんが遊びたくなったときに、もう遊んでくれないかもしれないよ」
「いいもん」
「おけいこしてたら怪我をしちゃうかもしれないし」
「いいもん。ひでくん平気だもん」
「うーん。じゃあねえ、パパが帰ってきたらきいてみましょう。ね」
「パパがいいっていったら、いい?」
「もちろんよ」
「わーい。わーい!!」
 飛び跳ねるようにして向こうの部屋に行った息子に、ママはやれやれと思った。これで夕食の用意ができる。サッカー派のママに空手を習わせるつもりは毛頭なかったが、それはそれ。今がうるさくさえなければ、それだけで御の字だった。

 パパが帰ってきたとき、もうすでに時計の針は夜の九時を回っていた。いつもならとっくにおねむの時間だったのに、ひでくんはがんばって起きていた。
「パパだー!!」
 玄関まで走って出迎えにいったひでくんを、パパがうれしそうに抱き上げた。
「おっ。ヒデ。今日はまだ起きてたのか」
「うん。あのね、ひでくんね、ひでくんね。あらてのおけいこしたいの」
「え!? 何? あらて……???」
「あのね、えいってけとばして壊しちゃうやつ」
「えっ? 壊しちゃうの?」
「そうなの。パパがいいっていったらおけいこしていいの」
 こんな説明では何もわからない。困ったパパが救いを求めるようにあたりを見回すと、怖い顔をして首を横に振っているママと目が合った。
「ふーん。そうかあ。でもパパはあらてのことを、よく知らないんだ。だから今度ちゃーんと調べてきてお返事する。それでいい?」
「……うん」
 今すぐ返事がもらえると思っていたひでくんは、少々不満そうではあったものの、頷いた。だってパパはちゃんと約束してくれたし、それにもうおねむも限界に近づいていた。パパはひでくんを抱っこして子供部屋に連れていき、ベッドに寝かせた。忘れずに、ちゃんとプーさんも入れてやる。ひでくんはほとんど夢うつつの中で、「ひでくんあらてのおけいこするの」といいつづけていた。

 一風呂浴び、遅めの夕食をかきこんで一息ついたところで、パパはママに聞いた。
「で? あらて、って何?」
「空手よお」
「へっ!? 空手?」
「そうなのよ」
 ママはお茶を入れ替えると、自分とパパの前にコップを置いた。
「ほら、駅前にカルチャーセンターが出来たでしょう? あそこの空手教室が、スーパーの前の広場でデモ演技やってたの」
「へーえ」
「ヒデ連れて買い物にいったら、ちょうど、えーっとほら、板持ってる人が何人も並んでて、それを一人の人が割っていく、ってのよくあるじゃない」
「ああ。あれか」
「そう。それをやってたわけ。たまたまヒデの見たのが、蹴りばっかりで割っていくやつで……。もうヒデってばらんらんと目を輝かせちゃって」
「ははは。やっぱ男の子なんだなあ」
「笑い事じゃないわよ。買い物するのにそこからひきはがすの、ほんっとに大変だったんだから」
「う……。それは失礼をいたしました」
 パパはママににらまれ、ちょっと肩をすくめた。「元・男の子」のパパはひでくんくらいの頃、年上のいとこたちが「ブルース・リーごっこ」をしているのを、うらやましく思いながら見ていたのだ。だからひでくんが空手に魅せられた気持ちがよくわかった。それにパパのパパ、つまりひでくんのおじいちゃんは、種目こそ違うが同じく武道である剣道の選手で、若い頃には県大会に出たくらいの腕前をしていた。だからひでくんが空手のおけいこをしたいといいだしたのは自分の血筋だと、ちょっとうれしくさえ思っていたのだ。目の前でツノを出しているママには、まちがってもそんなことはいえないけれど。
「でも武道だろ。そんなに目くじらたてるようなものじゃないと思うけど?」
「だーめ。あんな汗臭そうなの。ヒデにはサッカーをやらせるんだから」
「汗臭いのは一緒だろう。武道だと礼儀だって身につきそうだし」
「やめてよぉ。大空の下を走り回るサッカーと、薄暗ーい部屋の中でやる空手なんて一緒にしないで。それに礼儀くらいサッカーのコーチだって教えてくれるわよ」
 こうなるとどうしても勝てないことを経験上よく知っているパパは、白旗を揚げずに、この場を一時撤退にもちこむ作戦を考えた。そして後日あらためて、捲土重来を計ればいい。
「よし。じゃあこうしよう。アタマから駄目っていうのはよくないと思うし、だいいちヒデもまだみっつになったばかりじゃ小さすぎる。だから幼稚園になったらいい、ってことにしておくよ。まだ1年半もあるんだ。そのうち忘れるさ」
 それはいい考えだとママも賛成した。パパはひでくんの寝顔に向かって無言で話しかけた。
「ヒデ。パパはおまえのためにめいっぱい抵抗したぞ。芽はちゃんと残してやったんだ。本気であらての稽古をしたいんだったら、おまえ自身の手で掴み取るんだ」

 時は流れてひでくん四歳の四月。
 満開の桜の下、ひでくんはママに手を引かれて幼稚園の門をくぐった。うしろからはビデオを持ったパパと、おじいちゃんおばあちゃんがつづいていた。よその子達が緊張で顔をこわばらせていたのに対して、ひでくんは終始ご機嫌でにこにこしていた。
 入園式も無事に終わり、みんなで食事をして帰ることになった。といっても園児連れではいつものファミリー・レストランにしかいけなかったけれど。ここで「期間限定 入園式スペシャルお子様ランチ」を注文してもらったひでくんは、一同に向かって爆弾発言をした。
「幼稚園になったから、ぼくもうあらてのおけいこしていいんだよね!!」
―― うそ……! 覚えてたんだ !! ――
 パパとママは思わず顔を見合わせた。二人の考えていたことは違っていただろうけど、思ったことは一緒だった。
「ひでくん。あらてってなあに?」
「空手だよ、空手」
 おばあちゃんの無邪気な問いかけに、我に返ったパパがすかさず口を挟んだ。
「いつだっけ? 大分前に一度やりたいっていいだしたんだけど、小さすぎたからストップかけてたんだ。そういえばあのとき、幼稚園になったらいい、っていったんだったよな」
 パパの最後のことばは意地悪くも、顔を引きつらせてしまったママに向けられていた。それはひでくんに対する、強力な援護射撃だった。
「え!? ええ。そんなようなことをいったんだったかしらね」
 相手がパパだけだと無敵を誇るママだが、舅・姑の連合軍を前にしては、どうにも分が悪すぎた。あとは彼らが反対に回ってくれることを祈るしかないが……。彼らのことばはママの祈りを打ち砕いた。
「そうか。偉いぞ、ひでくん。おじいちゃんとしては剣道の方がうれしいけど、空手だって悪くない。日本古来の武道ってものはな、やると背中に1本、ぴーんと筋が通るんだ。だから弱音を吐かずにがんばれよ。おじいちゃん、ひでくんの試合は必ず応援に行くからな」
「じゃあおばあちゃんは、ひでくんが幼稚園に入ったお祝いに、空手のお稽古着を買ってあげるわね」
「わぁーい!! あらてだ、あらてだあ。やったあ♪」

 こうしてひでくんは無事、空手のお稽古に通えることになった。ママは最後の抵抗に「何かひとつでもお稽古をやめたら、空手もやめる」ことを、ひでくんに約束させた。そしてひでくんが小学生になった頃には、嫌味たっぷりにお稽古事を増やしていた。
 しかしひでくんはがんばった。ただただ空手のお稽古をつづけたいがために。
 小学校も高学年になった頃には、英語は不自由なく話せるようになっていたし、ピアノはパパの好みのジャズ・ナンバーを弾いてあげられるようになった。水泳はあまり好きではなかったけれど、それでもクラスの誰よりも速く泳げた。お習字もお絵かきも、何度もコンクールに入選した。勉強だって、常に学年のトップスリーに入っている。
 やがてそれが「プラチナ・ペーパー」を呼ぶことになるのだが、小さいひでくんはまだそんなことを知らない。だから今日もがんばっている。
 がんばれ、ひでくん。未来(ヘヴン)は君のものだ!





いずみんから一言。

えーっと。番外編です。
ヒデってば幼児の頃からすでに策士だった、というオハナシ。
ママに叱られて目を潤ませるひでくんが、みょーに気に入ってます(笑)。


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