だからふたりで |
息せき切って啓太が走ってくる。 きらきらと光る、春の光の中で。 聞かなくても分かる。おまえは合格ったんだな。 ずいぶん頑張ったものな。 成績はひどかったし、拉致されて2カ月も眠ってたし。 そうか。それでも受かったか。 おまえのことだ。「運がよかった」とか言うんだろう。 だがそれは違う。おまえが努力した結果だ。 おまえがその手で掴み取った合格通知なんだ。 胸を張って受け取ればいい。 よかった。本当によかった。 面と向かって言う柄じゃないから フロントガラス越しに言わせてくれ。 「おめでとう、啓太。よく頑張った。えらいぞ」、と ―― 。 待ち合わせの場所にひとりで現れた中嶋を見て、かすかな予想のあった丹羽以外、つまり篠宮と岩井は少なからず驚き、そして落胆した。自分たちの顔を見たら飛びついてくるであろう啓太を抱きしめ、おめでとうと言って頭をなでてやるためにひそかにスタンバイされていた両手は行き場を失い、それぞれのポケットの中にそっと戻された。 「よう。啓太はやっぱり実家なのか」 「……ああ。ご両親に合格の報告をさせなければな」 「……そうか」 短い会話だったがこれで十分だった。丹羽は完全に意味を理解し、篠宮と岩井もそれぞれのレベルで理解をした。 去年の11月。まだ眠りつづけていた啓太を前に、中嶋はふたりの関係に気づいた啓太の母親にこう言ったのだ。「合格発表が終わったら必ず啓太を家に帰らせます。だから今は受験に集中させてやってください」と。中嶋は自らのそのことばを実行したのだった。 合格発表の会場から啓太の実家へ直行した中嶋は玄関先で啓太を下ろし、その場を後にした。二晩待ったが啓太は帰って来ず、中嶋だけが待ち合わせの場所に向かった。つまりはそういうことだった。 「この場所も時間も、それから宿泊場所も伝えてある。来れるようになったら後からでも来るさ」 「そうか……。じゃあ、行くか」 「……ああ」 その後4人は、彼らに似合わず饒舌だった。まるで、足りないひとりの分を補うかのように。 3月に入ると、日本列島は一気に冬を脱ぎ捨て、春の衣をまといはじめる。まだ雪は積もっていても、その下の枝は緑も鮮やかな新芽をふくらませていき、氷の張った湖の下では冬眠から覚めた魚たちが、ゆっくりと魚影を見せはじめる。どんなに寒くても光はすでに力を取り戻しつつあるのだ。とはいうものの信州の山中では彼らの背丈を超える高さの積雪が、どっしりとした壁となって彼らを出迎えていた。 この信州の中でもさらに山あいの村に卒業旅行のメンバーを誘ったのは篠宮だった。教授の海外視察に随行することになった先輩から、実家のある村の屋根の雪下ろしを頼まれたのだ。年寄りばかりとなった過疎の村では、家の者が腰を痛めてしまったら代わって雪下ろしをしてくれる人を見つけるのは難しい。スキーを兼ねて学部生が何人かずつで雪下ろしに行くことになり、啓太の合格発表後の日程を選んでみんなを誘ったものだった。村そのものは典型的な過疎の様相を示しているが、車で15分も走れば穴場として知られたスキー場がある。先輩の家に泊めてもらって午前中は雪下ろしをし、午後からはスキーを楽しむ。篠宮の目論見どおりにことが運んでいれば、それは啓太にとってとてもいい合格のご褒美になるはずだった。 JRの駅を下りてバスに乗り換え、そこから1時間で目的地となる。1日3本あるバスの便が出る頃には、彼らのほかに買い物に出てきたらしいおばちゃんたちが、熱い缶コーヒーなどを片手に乗り込んできた。 「バスは3本だけだったよな」 確認するように、丹羽が篠宮に聞いた。口には出していないが啓太を気にしているのは明白だった。 「ああ。近くまで行くバスはあるが、それだと30分近く歩かないといけないから、この雪では無理だろうな」 誰ともなく窓に目を遣った。先刻までやんでいた雪が、また降り出していた。不思議なことに、バスが奥へと進めば進むほど、積もった雪の量は少なくなっていた。 激しいものではないが翌日もまた雪だった。地形の関係で3月とは思えない冷たい風も強く吹き付けている。先輩の家は ―― というより村の家屋のほとんど全部がそうなのだが ―― 狭くはないが古いもので、心づくしの暖房を入れてもらっていても、防ぎきれない冷気は見えない錐となって彼らの身体に刺しこんできた。駅前より少ないといってもこのあたりの積雪量は1メートル近くあり、保冷庫の中に家があるようなものなのだ。いっそ雪に埋もれてしまえばかえって暖かいらしいのだが、この風の冷たさは慣れない者には如何ともしがたいものがあった。スキーには興味がなく、みんなが落とした雪を片付けたあとは村に残ってスケッチするつもりだった岩井までがほかのメンバーとともにスキー場にやってきたのは、その寒さが原因だった。 スキーロッジにはゲレンデに向かって大きく窓の開いたラウンジがあったが、岩井の書きたいものは見えなかった。そこで篠宮が「ごく控えめに」彼が岩井画伯であることを明かし、ゲレンデとは反対側の、小さな部屋を使わせてもらえることになった。そこは玄関につづく道を見下ろす場所に窓のある予備室で、芸人やバンドを呼んだときに控え室として使ったりしている部屋だった。岩井を案内した支配人は満室のために客室を使ってもらえないことをしきりに恐縮していたが、当の岩井にしてみれば、いくらいい部屋に通してもらっても、道の向こうにある雑木林がいい角度で見えなければ意味がないのだった。余談であるが、支配人に乞われて手渡した数枚のスケッチはご大層な額に入れられ、この部屋に飾られることになる。内装を新しくしたこの部屋には「岩井画伯のアトリエ」などという勝手な名前がつき、客足の激減する時季に「特別公開期間」として美術ファンを呼び寄せる、まさに「お宝」となったのであった。 それはもちろんあとの話で、今の岩井は、ただ無心にスケッチを続けていた。山の中にいる所為か風向きがころころと変わり、それにつれて雪の降り方が変わり、雑木林の表情が変わる。今の一瞬をとらえて鉛筆を動かしても次の瞬間にはまた違ってしまっているのだ。枝には雪が積もっていき、積もった雪は振り落とされる。舞い降りた鳥は何かを捕らえて飛び立っていく。雲間から差しこんでいた陽が翳ったかと思うと、雪の上に小動物の足跡がついていたりする。風を追うかのように岩井は、1枚、また1枚とスケッチを続けているのだった。 そんなスケッチが10数枚になった頃だった。道の向こうから軽トラックが走ってくるのが見えた。それもまたひとつの風景である。さっそく書き加えようとして、岩井は助手席に啓太らしい人物が乗っているのに気がついた。見極める間もなく車は建物の陰に入ってしまったが、画家の目はその人物の着ているコートが啓太のものと同じだと見抜いていた。彼らの卒業旅行に啓太が着てきていた、オフホワイトのダッフルコートだった。そして次の瞬間、鉛筆もスケッチブックも放り出した岩井は、床に撒き散らしていたスケッチを踏むのも厭わず、部屋を飛び出していた。 スキー場に足を運んではいるものの、中嶋はただの1度もゲレンデに出ていなかった。丹羽や篠宮と、そしてもちろん岩井とも離れ、ラウンジに座りつづけていたのだ。誰も理由を聞かなかったし、やめろと言う者もいなかった。そうして中嶋は昨日今日と、コーヒーを前にただ座りつづけていた。雪山のリゾートホテルといえども、すべての客がスキーやスノーボードをしているわけではない。大きな窓に面した明るいラウンジで、ゲレンデを眺めおろしながらおしゃべりに興じるグループもいる。そんな中で微動だにせず座りつづける中嶋はかなり目を惹いた。ただ、彼の纏う外の気温よりはるかに冷たいオーラのようなものが、声をかけようとするうるさい女どもを遠ざけていた。 本当は篠宮の先輩の家にいたかったのだろう。岩井が村でスケッチをするなら、中嶋も残っていたはずだ。だが都会育ちの彼らにとって村の風は想像していた以上に冷たく、逃げるようにスキー場にやってきてしまった。寒さ自体は気にならなかった中嶋だったが、ひとり残って気を遣わせるのも気詰まりだったために、こうして石の塑像となっているのだ。 だが魔法はいつかとける時がくる。化け物は王子様になり、馬車はかぼちゃに戻らなければならない。石の塑像を動かすキィ・ワードは、岩井の叫んだ「啓太」の一言だった。ラウンジに駆け込んできた岩井はこう言ったのだ。「中嶋、啓太が来ている」と。 駆け出しはしなかった。周囲に人が多すぎて走れなかったのだ。間の悪いことにスキーツアーのバスが着いたらしく、訳のわからない大学生らしい男女が次から次へと現れる壁となって、中嶋の行く手を阻んでいた。うんざりする思いでその人ごみを掻き分け、ロビーに足を踏み入れる。と、呼んだわけでもないのにフロントで何事かを話していた啓太が振り向き、そして、目が合った。ことばはなかった。そんなもの、必要なかった。必要なのは互いの存在だけである。目が合った次の瞬間、啓太は中嶋の腕の中に飛び込んでいた。ようやく出会えた恋人たちの姿を、次に着いたスキーバスの客が覆い隠していった。 しばらく動こうとしなかったから泣いてでもいるのかと思ったが、中嶋がそっと身体を離してみると、啓太はにこにこと笑っていた。目は赤かったが、確かに啓太は笑っていた。 『笑う』 今のこの状況に中嶋は違和感を感じずにいられなかった。去年の、あの啓太との関係を知られたときの母親の姿を思えば、啓太を家から出さなくても当然だし、出てきたとしてもかなりの悶着はあったはずだ。少なくとも笑って送り出してもらったとは考えられない。百歩譲って理解を得られたとしたら、そもそも待ち合わせに遅れたりしなかっただろう。啓太が何の連絡もなしに遅れる子じゃないことくらい、中嶋がいちばんよく知っている。24時間以上遅れて到着した事実が、背景の一端を如実に語っているはずなのだ。なのに何故、啓太は今、こんなに笑っていられるのだろう。 「あの……。ごめんなさい。待ち合わせに遅れちゃって」 「あ? ああ……」 「それより俺、お腹すいちゃって……。何か食べてもいいですか?」 「……軽食なら向こうのラウンジでとれるぞ」 「よかった。……夕べから何も食べてなくって」 それは……と言いかけた中嶋の脇をすり抜けて、啓太は先に立って歩きはじめた。どんな表情をしているのかは分からなかったが、啓太が何を着ているのかは分かった。オフホワイトのダッフルコートは、確かに早春のヨーロッパに着ていけるくらい暖かい素材のものだったが、雪山に着てくるにはあまりに軽装だった。ウエア一式はスキー授業のときに支給されて持っているはずなのに。 「啓太」 「はい?」 「荷物はどうした。佐藤さんの家に置いてきたのか」 啓太の足が止まった。視線を落としたのか、ほんの少し頭が前に傾ぐ。そのままゆっくりと左右に振る姿が、まるで消えていってしまいそうなくらい儚げに見え、中嶋は思わず啓太の肩を掴んだ。遠慮がちにその指先に触れた啓太は、返事の代わりに小さく咳をした。 スキーウエアを含む着替えなどは、食事をして、合流してきた丹羽たちとお茶を飲んでいる間に揃った。「弟のように思っている大切な後輩」のためと岩井画伯に頼まれた支配人が、自分のキャリアを賭けてコネを駆使した結果だった。いちばん近い街へ行くだけでも片道40分以上はかかるのだから、それは驚くべき速さと言ってよかった。 「よーし! 滑るぞ〜!」 着替えてきた啓太がはしゃいだ声をあげた。 「おっしゃー。その挑戦、俺が受けた!」 「負けませんよぉ。王様!」 寝不足なのか泣いたあとなのか、啓太の目は赤くなっていた。さらには時折、咳もしている。外へ出るスキーなどしない方がいいと、誰もが思った。だが誰も止めなかった。篠宮でさえ止めようとしなかった。丹羽は豪快に笑って受け止め、中嶋は片眉を跳ね上げただけだった。そして岩井は「楽しんで……くればいい……」と送り出したのだった。 ゲレンデに出た丹羽はわざと啓太を引き離さず、ほんの少しだけ前を滑り続け、啓太はむきになってそれを追った。勝てないことなど分かりきっているのに。それでも啓太は、まるで胸のうちに抱えこんだものを吐き出しているようにリベンジをかけつづけ、篠宮と中嶋は見守るようにゆったりと、啓太の後ろや横についていた。 そしてその夜。啓太は熱を出した。 「けほっ、けほ」 「おい……。大丈夫か」 「大丈夫です。……けほん」 村へ戻る頃には啓太の咳は少しひどくなっていた。篠宮が薬を飲ませたもののそれは次第にひどくなっていき、皆より先に押し込められた布団の中でもつづいた。彼らが泊めてもらっていた部屋は広く、あまり暖まらなかった部屋はストーブを消したとたんに一気に冷えた。 「そんな端に寝るからだ。こっちにこい」 いくら親しいといっても丹羽も篠宮も先輩である。遠慮をした啓太はいちばん窓寄りの場所に布団を敷いたのだった。だがそこは思ったより寒かった。隙間風こそ入ってこないが、しんしんと冷えこんだ空気は布団の中まで入ってくるような気がした。実家に戻ってからの精神的ダメージと緊張が中嶋に再会できた安堵感から一気に緩み、実際の症状以上の発熱となっていたのだ。皆と同じように毛布と布団を重ねていても、啓太にはそれでは足りなかった。 「あまり咳き込むとほかの連中にも迷惑だ。……さあ」 促してもなお動こうとしない啓太に、焦れた中嶋は軽く舌打ちをすると、啓太を布団ごと引きずって自分のところまで連れてきた。 「中嶋……さん?」 ふたり分の布団を重ね、隙間から寒くならないようにした中嶋は、自分が壁の方に入って啓太を抱きこんだ。抱いてみると思っていたより啓太の身体は熱く、息が早かった。十分広い部屋とはいえ、2列に敷いた布団の間隔が1メートルもあるはずがない。ほかのメンバーがいるからやめてくれと言うかと思った中嶋だったが、暴れもせずに啓太はそっと抱きついてきた。よほど寒かったのか、それとも中嶋がそこにいるのを実感したかったのか。中嶋のパジャマを掴んだ指は、そのまま朝まで離れることはなかった。 よほど特殊な事情がない限り、篠宮は朝6時には目を覚ます。起きて着替えて、朝の鍛錬に出るのだ。旅先で弓が引けなかったとしても、宿の周りを走り、スクワットなどの筋トレをするくらいはいくらでもできる。だがそれもこんな個人の家では憚られた。玄関を開けて外へ出たとしてもはずした鍵がかけられないのだ。開けっぱなしで出るような無責任なことは、少なくとも篠宮にはできなかった。 今日も同じように起きた篠宮は、布団の中で、さてどうするかと考えた。外に出て行けるならそっと起き出して着替えるが、無理なのが分かっていればそうもいかない。昨日は枕が替わってすぐだった所為かいくらもしないうちに全員が起きてきたが、今朝はまだみんな眠っていた。無理にはしゃいだような啓太につきあっていつもより以上に滑ったからかもしれない。と、そこまで考えて、篠宮は啓太のことを思い出した。昨夜。電気を消したあと、ひどくなっていた咳が聞こえなくなっている。 わざと気づいていないフリをしていたが、苦しそうに咳きこむ啓太を中嶋が同じ布団に入れて抱いていたのは知っていた。熱を出して寒がっている人間を人肌で暖めるのは悪くない方法だ。まして相手は中嶋である。彼のぬくもりに包まれた啓太には、これ以上ない癒しとなっただろう。昨夜はあれ以上の動きもなかったようだし、ごく普通の寝息しか聞こえてこないところをみると、どうやら熱も下がったようだった。薬を飲ませたときに触れてみると、ずいぶん額が熱かったのだが。 中嶋と啓太を取り巻く事情を、篠宮はよく知らない。ただ一度、まだ目覚める前の啓太の病室で、啓太の母親から「中嶋さんは……。啓太のことを、どう、思っているんでしょう」と、訊かれただけである。啓太から目を離さず、呟くように言ったそれは、まるで独り言のようだった。もしかして答えなど求められていないのかもしれない。そうは思いながらも篠宮は、「自分の命より大切にしているように見えます」と答えたのだった。気のきかない答えだと、自分でも嘆息する思いだった。 あれから5カ月。啓太は荷物も持たずに1日遅れでやってきて、無茶苦茶な滑りを繰り返した。コースを見極めながら誘導するようにすぐ前のポジションをキープするという丹羽ならではのテクがなければ、滑りだしていくらもしないうちに人や立ち木に激突していたに違いない。ただの「先輩」にすぎない篠宮には何があったのかと訊くことはできない。もちろん啓太が聞いてほしいといえば、全身全霊で耳を傾ける用意はある。ただ、今の篠宮にできるのは、彼の知るすべての状況から推察することだけである。 啓太はつらい選択をして、ここにやってきたのに違いない、と。 啓太が今、中嶋の腕の中で眠っているのが、篠宮には救いのように見えた。 それにしてもこの部屋は寒いなと篠宮は思った。啓太のことを差し引いても寒かった。普段から血圧の低い岩井は熱いより寒い方が身体が楽だと言っているが、それより以前に非常に風邪を引きやすい。ストーブをつけておこうと、篠宮はそっと布団を抜け出した。 いくら広い部屋だといっても、布団を5組も敷けば空いたスペースはごくわずかである。ほかのメンバーを起こしてしまわないよう気をつけながら布団をたたんだ篠宮は、部屋の隅に押しやっていたストーブを引っ張ってきて火をつけた。古いアラジンストーブは、つけると石油ストーブ独特の臭いがして、窓の向こうに踊る炎が見える。それは何故か心の落ち着く光景でもあった。 エアコンと違ってダイレクトに熱の伝わってくるストーブは、近くにいすぎるとすぐに熱くなってしまう。かといって移動できるほどの場所もないとなれば、少々行儀は悪いが仕方がない。先刻たたんだ布団の上に戻った篠宮が英会話でも聞こうと鞄の中を探していると、「篠宮?」と声がした。目を向けると、啓太を抱いたままの中嶋が篠宮の方を見ていた。 「すまない。起こしてしまったか」 「いや。それより悪いが、俺のバッグの中からタオルを出してくれないか。啓太が汗をかいてるんだ」 「じゃあ熱は下がったんだな」 「ああ」 「ついでに下着も出しといてやろう。着替えさせるといい」 「悪いな」 中嶋が啓太の身体を拭いている間、篠宮は冷え切った啓太の下着をストーブにかざしてやっていた。視界の端に啓太の世話をやく中嶋の姿が見える。それはストーブ以上に篠宮の心を温まらせた。 村の食生活は一見貧しいようでいて、その実、とても豊かである。山あいの田んぼで農薬などを使わず作った米を井戸水で炊く。さすがにかまど炊きではなかったが、これだけでも普段よりはるかに美味しいご飯が炊き上がる。そこに家で漬けた梅干と漬物を添え、味噌汁は自家製の味噌に、名人と言われた近所のばあちゃんが作った豆腐を入れて作る。卵焼きの玉子は平飼いしている村の鶏舎から分けてもらってきたものだ。少々塩気は強かったものの添加物を一切使っていない自然のままの味は、咳と熱が抜けただけの啓太の身体にも、やさしく染みとおっていった。 そしてそれは、合格発表の日から起きた一連の騒動の、一応の収束を啓太に告げるものだった。中嶋を選ぶために親を棄てた。AでなければBという図式は小学生の算数のように単純ではあるが、決して割り切れるものではない。昨夜のように発熱とはならないかもしれないが、その思いはこれから何度も啓太に襲い掛かることだろう。それはその都度、啓太が乗り越えていかなければならない発作のようなものだ。だから落ち着いた気分で今朝の食事をとれたのはとてもいいことだった。たとえそれが最初の関門を乗り越えただけにすぎないのだとしても。 熱が下がったとはいえ啓太に雪下ろしをさせるわけにもいかなかった。「村の雪下ろしをする」と言う約束で泊めてもらっているのだから少々心苦しくはあるが、丹羽が3人分くらい働いているのでいいとしてもらうしかなかった。 朝食のあとでシャベル片手に出かけていく丹羽たちを見送り、中嶋と啓太は元の部屋に戻った。昨日は何も言わずに終わったが、昨日言えなかったことも今日は言えるかもしれない。わざわざ聞き出すつもりはないが、啓太が言おうとするなら中嶋は聞かなければならなかった。親を棄てた思いを啓太が自分で乗り越えていかなければならないのなら、中嶋は啓太の思いを受け止め、支えていかなければならないのだ。それは親を棄てさせた中嶋の「男の責任」であった。 ストーブを前に座り、毛布を肩からかけた啓太をそっと寄りかからせる。ぎごちなく身体を預けてきた啓太に、中嶋は「無理に話す必要はない」と言った。 「話したくなったときに話したいことだけ言え。仕事中でも寝ているときでもかまわない。いつでも必ず、最優先で聞く」 「………………うん……」 中嶋は根掘り葉掘り問い詰めるタイプではない。それでもいろいろ聞かれるに違いないと思っていたのだろう。驚いたように身体をこわばらせた啓太は、中嶋のことばを理解するにつれてほっとしたかのようにゆっくりと緊張を解いていった。 正直なところ、啓太の中では何も整理がついていなかった。一度に押し寄せたものが多すぎて処理が追いついていないのだ。中嶋に聞いてもらいたいもの。言わなきゃいけないこと。言いたくないもの。言えないもの。思い出したくもないもの。どうすればいいのか自分でも分からないもの。それらがまるで洗濯機の中で回したかのように絡まりあい、ひとつに固まってしまっていて、どこから手をつければほぐれていくのか見当もつかなくなっていた。ここで「さあ話せ」と言われても話せるものではなかった。確かに吐き出せば楽になる場合もある。しかし無理に手を突っ込んで引きずり出したとしても、違ったところを掴んでいれば、楽になるどころか啓太の傷を広げてしまいかねないのだ。 何かが動いたような気がして目を窓の向こうに転じると、気持ちよく晴れた朝の光の中で、屋根に登る丹羽の姿が小さく見えた。このあたりは家と家の間が広く、一口に『隣家』と言っても歩いて数分以上の距離があった。つづいて篠宮が見え、落ちていく雪が見えはじめた。岩井はおそらく下にいて、落とされた雪をどけているのだろう。 あきれるほどに雪は積もっているが昨日までとは違って今日は晴れていて、窓に切り取られた空が青かった。気温が上がって雪が少し解けたのか、あちこちできらきらと光っている。晴れてみると陽はしっかりと力強く、こんな雪の中にいてなお、春の訪れを感じさせた。 「俺…………。帰る家、なくしちゃいました……」 光に誘われるかのように、啓太がぽつりと口を開いた。予感どころか確信も覚悟もあったはずなのに、心臓を鷲掴みにされたような気がして、中嶋は思わず息を飲んだ。すぐに喋ると声が震えてしまいそうで、間をおくためにひとつ息を吐いたものの、それがいつものため息のように聞こえたかどうかは中嶋には分からなかった。 「おまえ……。俺のところ以外の、いったいどこへ帰るつもりだったんだ」 「………………うん……」 啓太を抱きしめるわけでもなければ、啓太の方も抱きついてこなかった。こういうときにはキスのひとつくらいした方がいいのだろうと思いながら、それもできなかった。中嶋と啓太はただ、丹羽がわさわさと落としていく雪を見つめているだけだ。ストーブにのせたやかんがしゅんしゅんと音を立てている。向こうの部屋からは先輩の母親がかける掃除機の音が小さく聞こえてくる。玄関寄りの方から聞こえてくるコツコツした音は、主が農機具の手入れをしている音だろうか。ひとりの人間が誰かの人生を自分のものとして受け入れる。それは人生の中の一大事であるはずなのに、あまりにもそこは日常すぎた。 シャベルを雪に刺して汗を拭く丹羽に、近づいてきた篠宮がこっちを見ながら何かを言った。中嶋たちが眺めているのに気づいたはずはない。おそらく「あそこに佐藤さんの家が見えるな」くらいの会話だったのだろう。だが丹羽は大きく両手を振って見せた。豪快な笑顔が見えるようなその仕草に、啓太も小さく手を振り返した。 世界はこんなに白いから、ふたりで色をつけていこう。 歩きながら。立ち止まりながら。 笑いながら。走りながら。 その日の色を、思うがままに。 上手くできるとは限らない。 ヘタだったりはみだしたり 訳がわからなくなったりするかもしれないが それがきっと俺たちの人生だ。 いつの日か振り返ってみて、笑いあえればそれでいい。 だから啓太。 これからずっと ふたりで歩こう ―― 。 |
いずみんから一言 え〜っと。お詫びというかお願いです。 今回、「白」を意識して画面をつくりました。 だからもしかすると文字が読みにくい場合があります。 (とくに大きな画面でご覧の方) そのときは「文字の部分が読めないよ」とお知らせください。 色文字に変えます。ぺこり。 ばらんばらんに書いた話の、あっちにちょっとこっちもちょっとといったふうに からんでいるので、整合性を取るのに読み返すのが大変でした(笑)。 でももしかしたらまだ、どこかに前の作品と違っているところがあるかもしれません。 発見された方はどうかお知らせくださいますよう。ぺこぺこ。 |
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