啓太くん のシャンパンファイト |
慣れない枕って、どうしてこんなに寝にくいんだろう。と、ぼんやり覚めかけたアタマのすみっこで俺は思う。暑くもなく寒くもなく、ついでに言えば乾燥しすぎてもいない、つまりは快適な室内にいて。マットレスは微妙に堅く、布団は頼りないくらい薄っぺらい気もするけど、どちらも不快というほどでもない。不快というなら、むしろこの臭気だ。かすかに空気に混じるこの独特の臭気を、俺は知っている。どこだ。どこで俺はこれを……。 まだ半分以上眠ったままのアタマでゆっくりと、でも何故か焦りながら、俺は考える。そうするうち、意識は焦っている自分に向けられていく。何で俺は焦ってるんだ……? 今日は誰とも何の約束もしていなかった。ブランチを中嶋さんと済ませたばかりだから、夕食の支度にはまだ早い。留学前の手続その他。忘れているものはないはずだ。チェックリストは全部終了している。だったら何だ……? そして不意に臭いの正体に気づき、がばっとばかりに身を起こす。 病院だ ―― ! 白く無機質な空間。あのわざとらしいピンクのカーテンが開け放たれていて、病室がふつうのものより広いのがわかる。ベッドはふたつ。窓をはさんで右側が俺。そして。左側のベッドに身じろぎもせず横になっているのは中嶋さんだ。窓からの光に、目を閉じた横顔が妙に白っぽい。眼鏡をかけていないのが、嫌になるほどリアルだった。 正確な出発日は決まってないものの、俺たちはあと数週のうちには渡米する。決まっていないのは中嶋さんの方の都合だ。俺の準備は終わっていて、先週は和希と成瀬さんが壮行会を開いてくれた。送別会じゃないのは、ふたりとも海外を飛び回っているからだ。予定さえ合えば年に何度か会えると言っていた。「日本にいるよりよく会えたりしてな」と和希は笑っていた。そう言って、俺がホームシックになったりしないように気を使ってくれたんだろうけどね。 篠宮さんや岩井さんも遊びに。っていうか、飲みにきてくれたし。前の学校の友人連中 ―― 忘れてるかもしれないけど、三輪と矢島と船木です ―― にも会えた。中学当時の成績を知っている彼らは、ハーバードに留学できるまでになった俺に驚き、そして思いっきり喜んでくれたのだった。 できることは全部した。あとは出発するだけだ。寂しさや緊張感はあるけど、今はもう考えないことにした。中嶋さんがよく言うんだよ。その小さいアタマで余計なことは考えるな、って。そう。考えるから不安や寂しさが出てきちゃうんだ。でも俺にとっていちばんの不安は中嶋さんを失うこと。だったら一緒に留学できる今、不安なことなど何もなかった。 司法修習の最終段階もほとんど終わった今日。朝寝をした俺たち ―― 文字通り『朝に寝た』んだよ。理由はまあ……、ご想像の通り。かな(^_^;) ―― は、渡米の報告を兼ねて鈴木シェフの店でブランチをとった。お祝いだと言ってプレートつきのデザートを出してもらっていい気分になった俺たちは、心地よい風に吹かれながら家への道を歩いていた。気温は高いし空は馬鹿みたいに青いけど、湿度さえ低くて強めの風が吹いてたら、それだけでじゅうぶん心地いいんだ。向こうに行けば、今日の暑さはきっといい思い出になるだろう。折に触れて思い返すような、幸せで懐かしい思い出に。 マンションまで、歩いてもそれほどかかる訳じゃない。いつもみたいに夕食になら、店を出てすぐに電話でお風呂に給湯をはじめ、急いだりしないかわりに寄り道もせず、まっすぐ家に帰る。着いたらちょうどいい具合にお湯が入っていて、そのまま俺のお風呂タイムとなる。でも今日は違っていた。中嶋さんが足を向けるまま、本来の道を左にそれたのだ。 用事があった訳ではない。と思う。何か感傷のようなものがあったのかもしれないし、ただ単に、もう少し風に吹かれていたかったのかもしれない。このところ忙しいのはお互いさまで、ゆっくりする時間がなかったのだ。家に帰るとそれなりに雑用もできてくるし、ほんのちょっとのんびりした気分になるための回り道、って感じだろうか。小洒落たショップが点在する通りをしばらく歩いていた中嶋さんは、高級酒の品揃えで有名なリカーショップの前で足を止めた。 「ふうん……。ちょっと寄っていくか」 「あ、俺ここ、はじめてです」 「そうだったか? 前におまえが美味いと言ってた葡萄のジュースはここで買ったんだが」 「え〜? それで去年はなかったんですね……。知ってたら自分で買いに来てたかも」 一歩店に入ると、ころっと空気が変わった。ちょっと照明が暗くてちょっとひんやりした店内は、ひっそりと並べられたボトルの眠りを覚まさないようにしているのか、外の喧騒がウソみたいに静かだ。BGMもなく、お客や店員さんも低い声で会話をしている。そう言えば中嶋さんってこういう店が好きだ。静かで専門性が高く、店員さんだけじゃなくお客の側のレベルまで試されているような店が。 ゆっくりと見て回っていた中嶋さんが、日本酒のコーナーに入ったところでつぶやくように「おや?」と言った。ふっとくちびるを緩めた視線の先にあったのは『大吟醸鈴の音』。「フルーティな味わいで女性にも人気」と和希が自慢する、鈴菱酒造の主力商品だった。そういえばこんなふうに店で売られているのを目にしたのははじめてで、俺は思わずにやにやしながら眺めまわしてしまった。 「和希もがんばってるんだなあ」 「あいつは製薬会社の方だろう。がんばってるのは酒造の営業だ」 まあ、たしかにそうなんですけどね。そう言われちゃ身もふたもないというか……(汗)。 でも中嶋さんの目当てはそこじゃなかったらしく、日本酒のコーナーを抜けてワインの棚の、さらに向こう側に出た。そこはシャンパンが並ぶ棚で、足を止めた中嶋さんは何かを探すかのようにぐるりとあたりを見回した。正直なところ、これはちょっと意外な展開だった。中嶋さんは基本的にブランデー派だからだ。篠宮さんが英国で買って送ってくれていたスコッチを楽しむことはあるし、王様たちが遊びに来たらもちろんビールだ。自分から手を出すことはなくても、他所で出されたら焼酎だって日本酒だっていけてしまう。だけどシャンパン。……う〜ん。シャンパンなんて普段に飲むもんじゃない感じがするし、たぶん俺がその場に行きあわせなかっただけなんだろうけど。それでもやっぱりちょっと意外だった。中嶋さんとシャンパンはどうもそぐわない。これが西園寺さんあたりなら、なるほどって感じなんだろうけれど。でも呼びとめた店員さんと話す「〜の祝いに」っていう会話の断片が耳に飛び込んできて、それで俺は納得したのだった。そうか。誰かの何かのお祝いなんだ。 中嶋さんは唯我独尊で傍若無人で他人を見下して冷笑を浴びせたりする。口から出る言葉はしばしば氷の短剣となって降りそそぎ、俺なんか今でもヘタをすれば満身創依だ。だけど。中嶋さんは本当は、すごく細やかな心遣いのできる人なんだ。クリスマスや誕生日といった自分には何の関心もないイベントだって、俺が喜ぶというだけの理由でレストランやホテルを予約し、プレゼントをくれる。お店もプレゼントも、お世辞抜きでうれしいものばかりだ。ううん。俺だけじゃない。留守をすることの多いマンションの管理人さんにも、奥さんの好みそうな和菓子を買ってきたりしてるし。留学中のマンションの管理を頼んだ実家のお手伝いさんには何か綺麗な包みを渡していた。あとですごく弾んだ声のお礼の電話が入ってたから、中身は推して知るべしだ。きっと、さりげなくいいものだったんだろう。いったい何処でリサーチをかけてくるのかと、そんな場面に遭遇するたびに不思議に思ってしまうくらいだった。 そんな中嶋さんだもの。何かのお祝いにシャンパンを買いに来たって不思議でも何でもない。きっと小さくても質のいいものを選び、小洒落たラッピングをしてもらうに違いない。もらった人の笑顔が目に浮かぶようで、何だか俺までわくわくしてきたのだった。 そうと分かれば邪魔はできない。シャンパンコーナーのいちばん端っこにいろんな種類の栓抜きが置いてあるのを見つけて、俺はそっちに移動した。こういうときの中嶋さんはとても真剣で、でもどこか楽しそうな表情をする。真横にいてはわからないそれを、ちょっと離れたところから見つめる。俺のとても大事な瞬間だ。 ところが。そんなささやかな幸せはいくらも続かなかった。表の方がやけに騒がしいなと思ったら、あっという間にどっかのオバサンたちが押し寄せてきたのだ。歳の頃は4〜50代。ちゃんと数えてはいなかったけど、たぶん6人はいたと思う。 「あらここだわ」 「あったわよー! シャンペン売り場ー!」 「村上さーん、堤さーん! こっちこっちー!」 「どれどれ? どれがシャンペンなの?」 「それより、ねぇ。シャンペンって美味しいの?」 「シチュエーションで飲むから味なんてどうでもいいんでしょ」 「どうせほとんど泡になっちゃうんだしね」 てんでばらばらに喋る声は大きいし金属質だし、アタマが痛くなってしまった。中嶋さんがいなかったら逃げ出してたかもしれない。だけどそれは中嶋さんも同じだったらしい。ほんの少し目を細めると ―― 俺に向けられてたら、絶対、後退りしてた。怖いっ! ―― 店員さんに何か言ってこっちに来たからだ。つまり、うるさいオバサンは先に買い物させて追っ払っちゃおう、っていう作戦だ。こんなうるさいところで落ち着いた品選びなんてできないからそれはいいんだけど。この雰囲気を壊されたのが、俺にはすごく腹立たしかった。 「えーっとね、シャンペンが欲しいの」 「お祝いよ。うちの先生がすごい賞をとったから」 「月曜の人たちは紅白のワインなんですってよ」 「でもそれって地味よねぇ(嘲笑)」 「そうそう。お祝いですもの。やっぱり華やかなのがいちばんよ(鼻笑)」 「え? どんなの……って言われても。どんなのにする?」 「普通のでいいんじゃないの?」 「そうね。普通のがいいわね」 「じゃあ普通の『シャンペン』っていうのにして」 中嶋さんと一緒に、少し離れた棚のシャンパンを見ていると、嫌でも店員とオバサンとのやりとりが耳に入ってくる。お世辞抜きで店員さんってすごいなあと思った。こんな訳のわかんないオバサンたち相手に苛立ちも見せず、終始にこやかな態度を崩さないんだもの。「普通のシャンペン」なんて言われても困るだけだろうに。だけど逆に言えば、それは主導権を握りやすいということでもある。予算を聞き出した店員さんは候補をいくつか出したかと思うと、あれよあれよという間にそのうちの1本に決めてしまったのだ。オバサンたちの意見を聞いているフリをしながら、その実、自分の思うものを売りつけたテクニックは、まさに匠の技だった。あれが売れ残りでも驚かない。ああいうのを身につけとくと便利だろうなあ。中嶋さんにしょっちゅう「おまえは本当にわかりやすい」と言われてる俺には、ちょっと高度すぎる技かもしれないけどね。 それが何だってあんなことになったのか。今どうしてこんなところに寝てるのか。思い返そうとしてここまで考えてきたものの、やっぱりここで途切れてしまいそうになる。だから分かってることを箇条書きふうにたどっておくことにする。 まず立ち位置。俺と中嶋さんはシャンパンコーナーのいちばん端っこにいた。そこは外へ出る2本の通路のうちの1本だ。オバサンたちの話題は、シャンパンを包んでもらっている間に、次の作品の話になっていた。どうやら『賞をもらった先生』というのは何かを作る人で、オバサンたちは弟子というよりはカルチャーセンターあたりで教えてもらっているようだ。それが美術系なのか手仕事系なのかまではわからなかったけれど。 買い物を終えたオバサンたちが通路いっぱいに広がってこっちにきたので、俺はもう一歩退こうとした。あぁそうか。その時だったのか。「こーんなくらいの」と勢い良く広げたオバサンの手が、まともに俺の顔面にヒットした。 世の中って本当にタイミングでできていると思う。あと0.5秒遅かったら大惨事になっていた、とかってよく言ったりするだろ? それでなくてもクルマを運転する人や現場作業をする人なんかは、ぎりぎり事故にならなかったけど冷やっとした経験はあるはずだ。今回の俺もそうだったんだと思う。ちょうどタイミングが合っちゃっただけの話なんだ。ただし、悪い方に。間の悪いことに、その時の俺はオバサンたちを避けるために一歩うしろ。つまり壁側へ下がろうとしていたのだ。片足が浮き、重心がうしろに傾いている。そんな瞬間にオバサンの手が、それもマトモに顔面に入ったのだ。バランスを崩して倒れるというよりはむしろ吹っ飛ばされる感覚で、背後にあった棚に叩きつけられていた。 このあたりになると記憶がかなり混乱してしまっている。記憶の底の方にあるのは、何か大量のガラスが割れる音だ。たぶんシャンパンのボトルが落ちて割れたんだと思う。硬いものが腕や肩や背中に当たった覚えもある。濡れてまとわりつく衣服の不快さ。大量すぎてむっとする匂い。耳のあたりではじける炭酸のぷちぷち感。思い出せるすべてが細分化された断片で、経過をたどれるほどではない。それから……そう。かばってくれる手を感じた。それが中嶋さんだったんだろう。でないと隣で寝ている理由にならないから。かばってもらったこともロクに覚えてなくて、今まで呑気に寝てたなんて。俺ってなんて恩知らずなんだろう。今の俺は、少なくともどこも痛いところはないし、包帯を巻かれたりしているところもなさそうだ。それが全部、中嶋さんがかばってくれたからだろうに。たまらない罪悪感にかられた俺は、じっとしていられず、思わずベッドから飛びおりていた。足元にはスリッパも靴もなかったけど気にする余裕もなく、裸足のままで中嶋さんの枕元に走る。 「……中嶋さん……?」 返事はない。今まで俺が声をかけて、起きてくれなかったことなんてほとんどないのに。恐怖に胸を締めつけられる思いがした。長いまつげが目元に陰を落としてはいたものの、襟元に青いラインの入った病衣に包まれた胸は規則正しく上下していた。端正な顔にも切傷ひとつない。思わずもれたため息を、俺はまるで他人のもののように聞いた。だけどほっとできたのはほんの一瞬にも満たなかった。あれだけのボトルが落ちたんだ。ガラスの破片も半端なかったはず。じゃあもしかして見えないところに怪我してるのか? ボトルで頭を打ったりしたのかも。俺の方が先に目覚めたっていうあたり、良くないことの証明のように思えてしまう。 ハーバード目指して今まで努力してきたのに、渡米直前でこんなのってアリかよ? 中嶋さんひとりならとっくに留学してたのに、俺に付き合って2年のばして、その結果がこれ? 焦る気持ちそのまま、薄っぺらい上掛けを引きはがした。いつの間にか着せられていた病衣は作務衣みたいな前合わせになっている。右下の方で結ばれていた紐と内側で結ばれていた紐と。2本をほどくわずかな時間ももどかしく、一気にくつろげた。見慣れた、でもあまり正視したことのない中嶋さんの胸を凝視する。何度見ても傷も青あざもない。ちゃんと仰向けで寝てるから背中ってことはないだろう。だとしたら……。残るはひとつ。足だけだ。足なんてたいしたことないみたいに思えるけど、だからといって安心はしていられない。太ももには動脈だか静脈だかの密集した部分があって、そこを傷つけられたら即、命に関わるのだから。俺は躊躇いもなくズボンに手をかけると、一気に引きおろした。……おろしたはずだった。いや。実際、右手はおりている。おりていない左手は、力強い何かに掴まれているのだ。俺の手を掴むものがある。その意味するところは簡単だ。それしかない、と言ってもいい。なのに俺ときたらアタマの中が、ただ「ズボンを下げなきゃ」ってだけでいっぱいになっていて。上の方から「こら、何をしている」という声が聞こえてきたのにも「早くズボンをおろさなきゃならないんですっ!」と答えていたのだった……。 何でそんなことを思ったのか。アタマに血がのぼっちゃって冷静な判断ができなかったから、というのは容易い。だけどこの瞬間。俺は本当の本気だった。手を掴まれ、阻まれたことに対して、とてつもなく怒りしか感じられなかったのだ。中嶋さんの無事を確認しなきゃいけないのに、と。だから手を掴む「何か」を振り払おうとして、それでようやく、呆れたような ―― 「ような」じゃないな。思いっきり呆れかえってたかも ―― 中嶋さんの視線に気がついたのだった。 「こんなところで俺の服を脱がそうとするなんてな」 状況がうまく把握できなくて、思わずポカンとしてしまった俺の視線の向こうで、中嶋さんはくちびるの端を吊り上げてみせる。 「朝までたっぷり抱いてやったのにまだ足りないか。おまえは本当に淫乱だな」 「……中嶋さん……?」 「人の昼寝の邪魔をしたんだ。帰ったらお仕置きだな」 ああ、中嶋さんだ。と思った。昼寝だったとは意外すぎるほどだったけど。でもこんな、「帰ったら」なんて場所を気にするような発言は、どうも中嶋さんのイメージとはそぐわない。だって思いたったらすぐに、外だろうとどこだろうとはじめちゃうのが「中嶋英明」だからだ。馬鹿な俺はそれを聞いて、やっぱり本調子じゃないんだなどと、かなり的外れなことを考えていたのだった。 それにしても昼寝だなんて、中嶋さんにしたらずいぶんのんびりしている。そう思っていたら、俺の知らない間にふたりとも1泊することが決まっていたらしい。中嶋さんは、自分はアタマなんて打ってないことはわかっていたけど、意識レベルの怪しかった俺の方は頭を打った恐れがあったこと。そして後になって多額の賠償請求を起こされたらたまらんという店側の意向が理解できたのとで、黙って入院することにしたのだった。それやこれやでテレビもない、本の1冊もない病室ではほかにすることもなく。ましてやドクターから「今日は安静に」なんて言われたうえに服までクリーニングに出されたとあっては、ただ寝る以外に時間をつぶす方法がなかった。病院内ってあまりおしゃべりをする雰囲気じゃないんだよな。それでなくても中嶋さんってあまりしゃべるタイプじゃないし。それにさっきの中嶋さんじゃないけど、このところの寝不足が一気に表面化してきて、ふたりとも本当によく寝た。こんなによく寝る中嶋さんを見たのははじめてで、そしておそらく、最後の体験になるだろう。 そして翌朝。あとはもう一度、ドクターの問診と検査を受けたら、いよいよ無罪放免! という段階になって、俺はとんでもなく酷い状態にあった。 まずアタマが痛い。「割れるように」ってよく言うけど、割ってなくなるものなら今すぐ割って欲しい、ってくらいに痛い。気分もサイテー。のどがやたら乾いてるのに普通に水を飲むと吐いてしまいそうで、少しずつ口に含んだ水を時間をかけて飲みくだすしかなかった。さらに、ベッドから身体を起こそうとしただけで目が回った。ようやくの思いでそろそろと起き上がってみても、今度は出された朝食を見るのがつらかった。見るだけじゃない。2メートルほど離れた場所にいる中嶋さんが使う食器の音さえがつらいのだ。中嶋さんは本当に食事マナーのいい人で、食器のふれあう音や咀嚼音など、およそ食事中の思いつく限りの音らしい音をたてないのだが、そのわずかな音が槍のようにアタマに突き刺さってくる感じがする。さらに、冷えかけたチーズ入りスクランブルエッグの匂いが、マトモに嘔吐中枢を刺激してくれた。トイレ付きの特別室で本当に良かった。でなければ食事中の中嶋さんのすぐ横でリバースしてしまうところだった。 ぎりぎりでトイレに間に合いはしたが、ほっとすることはできなかった。中嶋さんがドアを叩くのだ。 『おい!大丈夫か』 いえ。大丈夫じゃないです。放っといてください。思いはしても声にはできなかった。出るのは情けないうめき声だけだ。本当に俺のことを心配してくれるなら、声なんかかけずに放っておいて欲しかった。だって介護に必要な広さはあるとはいえ、トイレはトイレ。けっして広いとは言えない程度のスペースしかない。その、ほとんど身体と接しちゃってるくらいのドアを叩かれているのだから。今から思えば、それは手のひらではたく程度の音だった。拳や指の関節で叩いたような硬質の音じゃなかったはず。それでも間違ってかぶってしまったお寺の鐘をつかれてるんじゃないかと思えるくらい、アタマがぐわんぐわんいった。 出せるものがなくなってトイレをよろばい出ると、中嶋さんが呼んでいた看護師さんが緊張した面持ちで待ち構えていた。アタマを打って気分が悪いのがかなりまずい状態であることくらい、俺にもわかっていた。昨日は爆睡している中嶋さんを見て心配していた俺だけど、今日の俺はその比じゃなかった。ふらつく俺をつかまえて、中嶋さんがベッドに寝かせてくれた。 「すぐに先生が来てくれますからね」 看護士さんの職業的笑顔に顔が引きつる。どうしよう。やっぱりアタマを打っちゃってたのかも。思ってもどうすることもできない思いに呆然とする俺に、看護師さんは体温を計り、血圧を測定する。そうするうちにドクターもやってきてざっと診察したあと、看護師さんとあれこれやりとりをしはじめた。医療ドラマなら1話に必ず1回はある緊迫のシーンだ。ここまでくるとだんだん現実味がなくなってきて、当事者でありながら傍観者のような気さえしてくる。なんだろう。死ぬって本人はこんな感じなのかな……。ところがそれは、ずっと一緒にいた中嶋さんにドクターが話を聞きはじめたところで一転した。中嶋さんの眉がひそめられている。応じるドクターもひそひそ声だ。そしてなぜか「えっ?」っていう感じで、ドクターと看護士さんがこっちを見た。やがて。何が「えっ?」だったのか俺には知らされないまま、指示を受けた看護師さんが足早に出て行ったかと思うと、点滴と採血の準備をして戻ってきた。 注射は好きじゃない。でも今の俺は、注射でもなんでも、この状態から逃れる方法があるのならそれにすがりつきたい気持ちになっていた。 「……これで、治りますか……?」 「楽にはなると思いますよ」 そんな話をしながらも手際よく採血した看護師さんが、刺した針を抜かずに点滴につなぐ。薬液がぽとぽとと身体の中に入ってきはじめると、針の刺さったあたりがじんわりと温かくなった。 「2時間ほどかかりますからね」 「トイレに行きたくなったら早めに言えよ」 中嶋さんや看護師さんが声をかけてくれたのに、不安に押しつぶされた俺には返事をするだけの余力がもう残っていなかった。 病室のざわつく気配に目が覚めた。点滴が3分の1ほど残っているので、1時間ちょっと寝たって感じだろうか。声のする方を見ると中嶋さんの前に男の人がふたり立っている。こっちに背中を向けていて、俺には誰かわからなかった。声にも聞き覚えはない気がする。相変わらず頭痛はしていたけれども話し声はアタマに突き刺さってこないし、何より吐き気がかなり治まっていた。あたりを見回せるようになった分だけ、体調も戻ってきたってことだろうか。ぼそぼそと話す声が切れ切れに耳に届く。 ―― せっかく留学のお祝いをお買い求めに…… ―― お選びいただいておりましたシャンパンの…… ああ、そうか。リカーショップの人か。中嶋さんはほかでもない、俺たち用にシャンパンを選ぼうとしてたんだ……。中嶋さんがなんと答えるのか聞こうとしたものの、顔をそっちに向けているのもしんどくなって……。そのまままた眠りの淵に引きこまれてしまった。 ちゃんと目が覚めたのは、それからまた1時間ほどあとのこと。終わった点滴をはずされている時だ。服を着替えた中嶋さんが俺を見下ろしていた。隣にはドクターもいて、「気分はどう?」と聞いてきたのはドクターの方だった。 「まだふらふらしてる感じがありますけど、さっきよりはずっといいです」 「そう。伊藤くんはずいぶんお酒に弱いようだから、これからは気をつけてください。中嶋くんが気づいてくれなかったら頭部MRI撮ったりして、治療が遅れるところだった」 「危なかったんですか? 俺」 『遅れる』という単語に思わず語尾が揺れた。だってそんな、検査をするったって何時間もかかる訳じゃない。全身麻酔をかけて太股から造影剤を入れるとかならともかく、普通の検査ならそれほどの時間はかからないはず。吐き気と頭痛を抱えた身には永遠に等しい時間だったとしても。そんなわずかな時間を使っただけで治療が遅れるなんて。いったいどんだけせっぱつまってたんだよ、俺。 ところが。涙目になってしまった俺に対して、何気なく言った言葉に過剰反応されたドクターの方も驚いたようだ。 「いや。君がおそらく思っているような意味の危なさとは違うよ。ただ二日酔いの治療は、1分早くはじめたら1分早く終るから」 「ああ、なんだ。二日酔いだったんですね。病気じゃなくて安心……」 ………………あれ? 二日酔い? 今、二日酔い、って言った……………? 耳に入った『二日酔い』という単語が脳に運ばれ、意味を伴ったことばとして戻ってくる。 「ええーっ!」 思わず叫んでがばっと身体を起こしかけ、自分の声でアタマが割れそうになってソッコー逆戻りをした。アタマが痛い。周囲が回る。気分が悪い。でもこの感覚には確かに覚えがあった。俺がまだ1年生だった時のお正月。中嶋さんや王様の新年会に参加させてもらった俺は、篠宮さんの持ってきたお神酒を飲み過ぎてしまったのだ。何で気づかなかったんだろう。今の状態はあの時とそっくりだ。身体を丸くしてうめいた俺に、中嶋さんの「馬鹿か、おまえは」という冷たい声が降ってきた。俺もそう思った。 とまあ、これが 『とんだシャンパンファイト事件(←王様談)』 の 『情けなすぎて逃げ出すことも忘れ(←中嶋さん談)』られた顛末だ。 「弱いのは知っていたつもりだが、まさか浴びただけで二日酔いになるとは思いもしなかった」 ってね。何と言われてもその通り。お説ごもっともとしか言いようがないんだから、何を言われても、自分でも驚くくらい腹が立たなかった。それにせっかくアメリカに出発するお祝いにとシャンパンを選びに行ったのを、もうちょっとで台無しにしてしまうところだったのも事実だし。 あの時。通路を挟んだ反対側にピックアップしたボトルを置いたりラッピングしたりする作業台の、ちょうど端っこがあったのがまずかった。落ちたボトル全部が割れたわけじゃなかったし、割れても真下に落ちて床で割れていた。だけどほんの一部。たぶん棚のいちばん上にあったものが放物線を描いて飛び、テープカッターや作業台の角といったゴツゴツしたところに当たって割れたようだ。中嶋さんがかばってくれた時、たぶん無意識のうちに床のガラス片を避けて作業台寄りになっていたのだと思う。結果として台の上から滴り落ちてくるシャンパンを浴びてしまった、という訳だ。服がかなり濡れていたし、耳元でプチプチシャワシャワいっていたのも、つまりはそういうことだ。 俺は大量 ―― もちろん、俺にとっての、だけど ―― のアルコールで動けなくなり、それを見たお店の人が救急車を呼んだ。騒ぎのさなかに原因となったオバサンはちゃっかり逃げていた、というオチまでついていた。全部をひっかぶるかたちになったお店の人にも、ずいぶん迷惑をかけてしまった。費用は保険に入ってるだろうけど、あとの掃除とか品物の補充とかあっただろうから。 お店の人と言えば、病室で見かけた見知らぬお客は、リカーショップの社長と店長さんだったらしい。クリーニングのできた服を持って検査の結果を聞きに来てくれたのだそうだ。あの程度で二日酔いになったと聞けば、顔や態度には出さなくても、内心ではさぞや呆れ返っていたに違いない。留学直前で本当に良かった。道でばったり会ったりしたら、どんな顔をしたらいいのか困るところだった。 鈴木シェフの店を出て歩きはじめたとき。俺はこの日のことをいつか懐かしく思い返すようになるだろうと思った。確かに忘れたくても忘れられない思い出とはなったんだけど……。まさかこんな恥ずかしい思い出になるなんてね(汗)。 でも。思い出は思い出に違いない。 今日の空もまた、うんざりするほどに青い。 |
いずみんから一言。 うーん。何なんでしょう。 「啓太くん、F1レーサーにならなくてよかったね」というおハナシかも? たくさん書いて、たくさん消しました(汗)。 A4サイズで4〜5枚は消してます。って、それ1本分やん(汗)。 諸般の事情でものが書けない状態が続いてましたが、いいリハビリになりました。 次はもう少しサクサク書けるようになりたいです。 |
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