鏡の国の啓太 |
鏡の中から見返してくる、見慣れぬ表情の見慣れた顔。 こころもち上がった顎。焦点の定まらず、揺れつづける潤んだ瞳。その目元から頬にかけては、刷いたように朱に染まっている。何を訴えているのか、震えるくちびるがわずかに開き、ときおり赤い舌先がのぞく。 息が上がってくる。声が出そうになって。手でふさごうとしたのに、何故か指先がくちびるにかかっているだけだ。その指を伝って落ちる唾液。息をするたび上下する肩。 何、これ? 俺。色っぽい……? 俺いつも、こんな顔、してる……のか? 思った瞬間、身体の中心を熱いものが駆け抜けていた。 ここは学園島から車で二時間のところにある山の中のホテルだった。十八歳になったとたんに車の免許を取ってきた中嶋さんが、ドライブに俺を連れ出してくれて。そして当然のようにホテルの同じ部屋にチェックインをした。 ふたりでホテルに泊まるのはこれが初めてじゃない。ほんの数週間前、学生会の出張で東京のホテルに宿泊した。あのときは床入りだなんていわれて、ちょっと焦ったんだった。でも今日は違う。中嶋さんに外泊届けを出しておけって言われたときから、ちゃんと覚悟(!?)ができていたはずだったのに。 それがこんなことになるなんて……。 最上階のフレンチ・レストランで眼下に広がる夜景を見ながら食事をした。 俺なんかメニューの見方さえよくわからないのに、中嶋さんはお手軽なおまかせコースじゃなく、単品を組んでコースにしてくれた。それも知ったかぶりじゃなく、ときおり料理の内容をウエイターさんに聞いたりしながら選んだんだ。テーブルマナーだってホント堂々としていて、ホテルの人たち、高校生って言っても信じてくれないんじゃないかな。ソムリエがワインリストを持ってきたくらいだったし。 中嶋さんの選んでくれた料理は最高だった。オマール海老も鴨も美味しかったけど、俺が特に気に入ったあわびのステーキ・サラダ仕立てなんて、もう俺なんかの貧弱なボキャブラリーでは表現できないくらいの絶品だった。俺がそういうと中嶋さんは「よかったな」と言って静かに笑った。 そのあとはラウンジへ行ってジャズピアノの演奏を聴いた。それで初めて、中嶋さんがここのホテルを選んだ理由がわかったのだった。中嶋さん、本当にジャズが好きなんだ。今度どこかでライブのポスターを見かけたら、今日のお礼にチケットを買おう。体中で演奏を楽しんでいる中嶋さんの横顔を見ながら、俺はそう思った。 部屋に戻ったのは十一時近かったと思う。部屋に入るなりキスをされて。俺たちはお互いの舌を絡ませあいながら、ベッドまでの何歩かを歩いた。そしてボタンをはずされて服を脱がされて。ここまではいつもと変わりなかったのに。 中嶋さんは突然、ベッドの足の方にあったライティングデスクの椅子をひいて、俺を座らせたのだった。裸の尻に木の感触が冷たかった。 「中嶋さん?」 「おまえ。以前、俺に『何故こんなことをするのか』と聞いたな。そのとき俺は『おまえのそういう顔が見たいから』と答えた。だがそれではわからなかっただろう。自分でどんな顔をしているのか、なんて自分では見えないからな。だから今日はおまえに、『お前のそういう顔』を見せてやる」 俺の前で膝をついた中嶋さんはそう言い放つと、突然俺の両足を広げて……。そして椅子の肘掛にかけてしまった。 「やだっ。やめて下さい……っ!!」 思わず悲鳴をあげていた。その俺を薄く笑った中嶋さんが、冷たく光る眼鏡の向こうから見上げていた。俺は気おされたように唾を飲みこんだ。 何度も身体を重ねてるから、俺の身体なんて、きっと見られてないところなんてないと思う。足を広げられたことだって何度もある。そのまま思わぬところを舐められたことだって。でもこんなのはあんまりだ。SMショーじゃあるまいし。恥ずかしすぎる。だけど足をはずそうとしても、中嶋さんはしっかりと押さえこんでしまっていて、どうすることもできない。耐え切れなくなって、思わず中嶋さんの髪を掴もうとしたとき、デスクの向こうの壁に取り付けられた鏡に気がついたのだった。 鎖骨より少し下のところから鏡に映りこんでいる俺は、不思議そうな表情でこっちを見返していた。そしてその顎が突然、はじかれたように上に上がった。鏡に気をとられて暴れるのをやめたから、中嶋さんが俺の足の内側にくちびるを這わせ始めたのだった。 ゆっくり。ゆっくりと中嶋さんの閉じたくちびるが太腿の内側を上下する。でも絶対に足の付け根にある俺自身には触れようとしない。ときどき中嶋さんの髪が擦っていくだけだ。何度も何度も近くまで行くのに、その都度、もう片方の足へあっさりと移動していってしまう。怖いのと恥ずかしいのと腹立たしいのとがだんだん心の片隅に追いやられていって、もどかしさばかりがふくらんでくる。もう身体中の神経が、ただ中嶋さんのくちびるの動きだけに集中してしまっている。こんどこそ俺に触れてくれるだろうか。舌先で俺を捕らえて、喉の奥で受け止めてくれるだろうか、と……。 鏡の中の俺の眼が、熱を帯びたように潤み始めたのはそのときだった。目元に朱色が現れて、見ているうちに頬まで染めてしまう。そして俺はもう鏡の中の自分から眼が離せなくなっていた。 声を上げすぎて乾いてしまったくちびるを舐めようと思った。ただそれだけのことなのに、鏡の向こうの俺の舌は、半開きになったくちびるをいやらしく舐めとっていく。しかも両手の指でなぞりながら。何だって自分のくちびるをこんな舐めかたしなきゃいけないんだよ? まさかこんなこと、いつもやってる訳じゃないだろうな。思いっきり誘ってる、っていうより、ほとんど犯罪じゃないか。こんな姿。ああもう、頼むぜ。俺? 情けないことに、自分の表情に自分で興奮しているのがわかった。もう痛いくらいに勃ちあがっているのが見なくてもわかる。自分ではつらくてしかたがないっていう顔をしていると思っているのに、鏡の中の俺ときたら、なんともいえないくらい色っぽく、悩ましげな眼で見つめているのだ。そんな自分の眼に気づいた瞬間。身体の中心を熱いものが駆け抜けていた。 やばいっ。思わず眼を閉じていた。閉じたからといってどうなるものでもないのに。 もろに中嶋さんの顔を汚してしまった。そう思っただけで胸の奥が痛かった。恥ずかしいのか情けないのか申し訳ないのか、自分でもわからない。ただどうしても眼が開けられなかった。そうなった原因は中嶋さんにあるんだ。悪いのは中嶋さんだ。そう思おうとしても、やっぱり俺の胸の奥は痛んだ。 「くっ……」 背後で含み笑いが聞こえた。おそるおそる眼を開けると、いつの間にか中嶋さんが俺の後ろに回っていた。俺の迸りを受け止めたらしいタオルを手にしている。よかった。中嶋さんの顔、汚してなかった。一点の汚れもない端正な顔を見て取った俺は、荒い呼吸に紛らわせて、ほっとした息を吐いた。 「部屋を汚すのはいけない子のすることだ」 「中嶋さん、いつの間に……」 「俺か? 俺ならかなり前からベッドに座っていたぞ。おまえが自分の顔を見ているだけでいってしまうのを、ゆっくり見物させてもらった」 タオルをデスクの端に置いた中嶋さんが、俺の肩の少し下を掴んだ。そして肩に顎を乗せて鏡の中をのぞきこんだ。 「どうだった? おまえの顔は」 低めた声が全身をくすぐるようだった。達した後で消えかかっていた朱が、再び俺の顔を彩り始める。感じてるんだ、俺……。そんなこと、耳元で言ったりするからだ。この人は俺のことを知っていて言っている。自分の声だけで俺がどのくらい感じてしまうのか、なんて、きっと明日の天気を予測するより簡単なんだろう。 「どうした。言ってみろ。自分の顔を見て思ったことを、俺に聞かせるんだ」 「え……? だって、そんな……」 「恥ずかしがるな。俺の前では素直でいろといったろう」 「……はい……」 「じゃあ言えるな」 「……あの、色っぽい、です……」 「ふん。ずいぶんあたりまえの答えだが……。まあ、おまえだったらそんなものか」 駄目だ。もっとちゃんと答えなきゃいけないのに。中嶋さんは俺の口から言わせようとしているのに。だけど俺、今度は中嶋さんの声だけでいってしまいそうで……。中嶋さんがしゃべればしゃべるほど、押しとどめているのが難しくなってきている。こらえ性のない自分が情けなくて、なんとかつなぎとめておきたくなった俺は、デスクの端を掴もうとした。が、それはすぐに引き離されてしまった。 「……前屈みになるんじゃない。そんなことをしたら、顔が鏡に映らなくなってしまうぞ?」 そういって中嶋さんは俺の身体を引き起こした。 「ほら見てみろ。こんな色っぽい顔。隠してしまうのはもったいない」 うしろから巻きついてくる中嶋さんの腕が、俺の顎を上げさせた。その指が俺のくちびるを撫でる。何度も、何度も。そのたびに眼が潤んでいくのがわかった。抑えきれなくなった声が漏れ始め、思わず両手で中嶋さんの腕を抱いたとき。中嶋さんの指がくちびるを割った。 「口をあけろ。舌を出すんだ」 「あ……、はい……」 言われたとおりに口をあけ、鏡の中の中嶋さんを見ながら、おそるおそる舌を出す。中嶋さんは「いい子だ」といって俺の耳の下にひとつキスをすると、舌先を撫で始めた。硬い中嶋さんの指先が、舌の輪郭をたどるように行き来する。くちびるを撫でられていたときとはまた違う感覚が俺を襲った。敏感な舌先は中嶋さんの指の味だけでなく、形や硬さまでしっかりと捉えていた。これが中嶋さんの指なんだ。俺を支配し、俺を泣かせる、中嶋さんの、指。俺以上に俺の身体を知り尽くし、俺の身体のどこへでも自由自在に入りこんでいける魔法の指……。体育倉庫でのことが嫌でも思い出されてきて、俺は自分でも気づかないうちに、中嶋さんの指に舌を絡めていた。 俺、馬鹿だ……。まだ何も命令されてないのに。こんなに一生懸命、指を舐めてるなんて。中嶋さんの大きな右手を両手でしっかり持って。舌を撫でていた中指と人差し指を、まるで飢えた子供のように舐めたり吸ったりしている。指先はたっぷり唾液を使って舌で絡めるように。吸うときは強弱をつけて。それから、えっと……。 「……よく覚えていたな」 楽しそうな中嶋さんの声が聞こえた。指を舐めるのに夢中でいつの間にか俯いていた顔を、中嶋さんの左手が持ち上げる。 「顔を上げないと喉の奥まで飲みこめないぞ? さあ。もっと音を立てるんだ。俺にも聞こえるようにな」 指が邪魔で返事はできなかった。頷くことさえためらわれた。だから俺は返事の代わりに、言われたとおりに音を立てて、指に絡めた舌を動かした。静かな部屋の中に、指を舐めているだけで興奮している俺の息遣いと、舌のたてる隠微な音だけが聞こえている。 鏡の中で中嶋さんが、満足そうに俺を見ていた。それに気がついてちょっとだけうれしくなった俺は、ますます音を立てて指全体を吸い上げた。 そうなんだ。俺は中嶋さんが何を求めているか知っている。何故指を舐めさせているのか、その目的を知っているから、指を舐めているくらいで興奮してしまっているんだ。いつか俺は指ではなく、中嶋さんのものを、こうやって含まされることになるんだろう。 いや、違う。含まされるんじゃない。中嶋さんはきっと、そんなことは強要したりしない。俺の方がしたくてしたくてたまらなくなって、中嶋さんに「やらせてください」ってお願いして、それでするんだ……。それを想像しただけで、俺はもうどうしようもないくらいに勃ちあがっていた。 でもそんな自分の姿を、俺はもう直視できなくなっていた。あまりにもいやらしすぎて。そして、あまりにももの欲しそうで。それでいて眼が離せないのだ。どうしても鏡の中の自分に吸い寄せられてしまう。何故だかものすごく苦しくなった。 嫌だ。もうこんなこと、つづけたくない。お願いだからやめさせて欲しい。俺は眼の端から涙をあふれさせながら、中嶋さんの指を吸いつづけた。 「啓太?」 俺が泣いているのに気づいた中嶋さんが、俺の口から指を引き抜いた。ぬれた指を自分で舐め取りながら、「どうした」と聞いてくる。何気ないそのしぐさがとてもいやらしくて、俺は思わず身をよじると中嶋さんのシャツを掴んだ。 「おね……がいです。もう、駄目……」 「何が駄目なんだ」 「俺、もう……」 「だから言わないとわからないぞ? もう指が舐められないのか? それとももういきたいのか?」 答えることができなくて、俺はいやいやをするみたいに首を振った。 「いきたいのならここで入れてやろうか? 椅子に座ってやるんだ。俺を飲みこむところから始まって、あのときの顔が全部自分で見えるぞ? 上手に指が舐められたから、ご褒美におまえのしたいようにしてやる。だから変な遠慮などせずに、どうしたいかちゃんと言うんだ」 「駄目、なんです……」 俺はひとつひとつ、ことばを積み重ねて、なんとか中嶋さんに自分の気持ちを伝えようとした。 「こんな俺の顔……。見ていいのは、中嶋さんだけ、なんです。他の誰にも……、見せたくなんか、ない。見ちゃ駄目、なんです。……俺も見たら、駄目。中嶋さんだけ。中嶋さんだけが……」 後はことばにならなくて、中嶋さんの胸に顔をうずめてしまった。中嶋さんの指が俺の髪を梳いているのがわかる。なんだかとても優しかった。 「……啓太、離せ」 頭上から降ってきたことばに、ほんの少しだけ我に返った。怒ったんだろうか、中嶋さん……。さっきまであんなに優しく髪を梳いてくれていたのに。でもぐずぐずしていたら、よけいに怒らせてしまう。俺はいつまでも掴んでいたかったシャツを、そっと離した。 「いい子だ」 そういうと中嶋さんはかがみこんで俺を抱き上げてくれた。足を肘掛にかけたままだったことに、今頃になって気がついた。 中嶋さんが足を踏み出すたび、鏡が遠ざかっていく。俺をじっと見つめ返していた鏡が。俺が。見えなくなっていく。ベッドに下ろされたとき、もう俺を見ているのは中嶋さんだけになっていた。 「どうだ? 鏡の国は」 「こっちの方が絶対いいです。だって……あっちにいるとこんなことできないもの」 俺はそういうと、中嶋さんの頭を引き寄せてくちづけた。 |
いずみんより一言 いや〜。長かった。なんかすっごい難しくて、1週間かかって2行とか、そんなでした。 その割りにへぼいけど……(泣)。彼らが食したフレンチのメニューは、先日伊住が神戸市内のホテルで食してきたものです。あわびのステーキ・サラダ仕立ては、ホントに絶品でした♪ |
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