あとは野となれ |
毎日毎日。夜が明けて昼になってまた夜が来る。 昼・夜・昼・夜・昼・夜・昼・夜・昼・夜……∞ それは俺が生まれる1億年も前から繰り返されてきて、俺が死んだあともきっと1億年くらいは繰り返されるに違いない。 繰り返される事象は同じでも、内訳は毎日少しずつ違っている。昼の時間ってのは冬至を基点にだんだん長くなり、夏至で折り返して今度は短くなっていくからな。それはまさに死と再生で、そのあたり宗教と絡んだりしてるけど、まあ、今回の話には関係ない。ただ、ちらっとでもそんなアタリマエ過ぎて普段は考えもしねえようなことを考えるには、それなりの理由があるってことだ。 俺と中嶋は去年の司法試験に無事合格し、この4月から晴れて司法修習生となった。夏からは各地の裁判所やら検察庁やらに研修に出ることになるが、それまでは埼玉県は和光にある司法研修所に通っている。研修所は日本で唯一ここにしかないから、地方から来る修習生のために『いずみ寮』という寮まで用意されている。俺も中嶋も、何もなければその寮に入っていたはずだ。あるいは近くに部屋を借りていたか。まあどっちにしろ横浜のマンションから通うなんてことはなかったに違いない。往復の移動の時間が馬鹿にならないからなあ。 けどその前に立ちはだかったのが伊藤啓太という存在だった。詳しいことは聞くつもりもねえが、啓太は中嶋との関係が親に知られ、思いっきり反対されたあげくに実家を飛び出してきたらしい。まあ……な。親の気持ちもわからねえでもないけどな。でも人の気持ちってのは分かるからどう、っていうもんじゃねえ。合格祝いのスキー旅行に遅れてきたあいつの顔を、俺は忘れることはないだろう。無理に笑っている人間の顔があれほどまでに痛々しいものだと、俺はあのときはじめて知ったのだった。そんな啓太をひとりで置いておけるはずもない。中嶋はいささかの迷いもなく自宅から通うことを選択し、俺も一緒にヤツの車で通うことにしたというわけだ。別に俺だけ寮に入ってもよかったんだぜ。BL学園みたいな至れり尽せりの寮じゃないかもしれないけど、たった3ヵ月のことだしな。逆に言えばそれは、ちっとばかし早起きしなきゃいけなくなったとしてもたった3ヵ月で終わり、ってことだ。 横浜から和光は遠い。なんつったって神奈川県から東京都を通り、埼玉県まで行かなきゃならないわけだからな。そんな長距離を毎日車で移動するのには、どうしても事故のリスクが付きまとうだろ? あいつのことだ。早起きしなきゃならなくても夜遅くまで勉強するに決まってる。寝不足は気づかないうちに注意力を削ぎ取っていくってのにな。けど俺と一緒だとヤバそうなときに気づけるかもしれないじゃねえか。相手が俺なら気難しい中嶋だって「ちょっと代わってくれ」って言いやすいはずだ。俺はもう啓太のつらそうな顔を見たくねえんだよ。たかだか2時間ほどの早起きでそんなリスクが減らせるのなら、まあ誰だって一緒に行くわな。ヒデの野郎はそのあたり気づいてるんだかどうだか、一緒に行かせろという俺の申し出を、鼻を鳴らしただけで受け入れた。 そんな感じではじまった俺と中嶋の長距離通学だが、しばらくするうちに行きが俺、帰りが中嶋の運転と、パターンも決まってきた。しかしまあ毎日となると、野郎ふたりでそうそう話のネタもない。とはいえ会話の間に開いた『 間 』を無駄な喋りで埋めなきゃならないほど、俺とあいつはよそよそしい関係じゃないからな。日々遅くなっていく日暮れの時間を、窓からたっぷりと眺めてた、ってわけだ。これが意外と面白くてな。毎日毎日、暗くなる場所が遠くなっていくんだ。もちろん、研修所を出る時間が微妙にずれるから正確じゃないんだけどよ。でも、とあるビルの手前で日が暮れてたのが、ある日を境にビルの向こうで暮れはじめる。やがてそのビルはうんとうしろに遠ざかり、次のポイントだった学校ももはや圏外だ。今は工場の煙突群がチェックポイントとなっている。そう言えばばあさんが昔『畳の目ひとつずつ日が長くなる』って言ってたのを聞いたことがあるが、こんなふうに実感したのははじめてで、俺は毎日のチェックを楽しんでいた。 ところが、だ。今日は煙突どころかその前のチェックポイントである学校さえ見えないうちに、夏至の近い日の太陽は山のシルエットの向こうに沈んでしまっていた。理由は簡単。高速道路の大渋滞だ。20キロほど向こうで積荷を撒き散らしやがったトラックがいて、とりあえず全車停止。うんざりするくらい待たされたあげくにようやく動けるようになっても、まだまだ片側通行しかできなくて。こうなると高速道路はとんでもなく不便だ。脇道にそれたくても、出口にたどり着かなきゃどうすることもできないんだからな。下に降りたら降りたで、同じように降りた車プラス高速に上がれなかった車がうじゃうじゃいやがった……。ってのが今現在の俺らの状況だ。まあな。俺らもその1台なんだからエラソーなことは言えねえよな。 ってなわけで前置きはおわり。はぁ……。長かったぜ(苦笑)。 それにしてもひどい渋滞だった。思いっきり最悪な場所でつかまっちまった。つまり、家に帰るにはこの道しかない、って場所で渋滞にあったらもうどうしようもないわな。脇道はないではないんだが1時間以上の回り道になっちまうし、こっちからの流れでそっちも渋滞してる可能性があるってことを思えば、やっぱこの道から離れられなかった。 「あーあ。明日が土曜で助かったな。これで明日も授業じゃたまんねえぜ」 「……ああ」 「こんなだってわかってたら、ウーロン茶でも持って乗るんだったな」 「……わかってたらこの道は通らない」 「おお! なるほど」 「ふん」 「まっ。ご主人ってばご機嫌ななめですこと!」 「ふん」 上で止まっちまってからこっち、まー中嶋の機嫌の悪いことと言ったら! こんな暇つぶしの戯言にまでいちいち反応すんなってんだよ。それでなくても動けなくてストレス溜まってるってのに、横でこんないらいらされちゃー鬱陶しいことこの上ない。理由はわからないでもない。今日は啓太のところに遠藤と成瀬のふたりが遊びにきてるからだ。中嶋は本来そういうのが嫌いな男だ。啓太の世界には自分だけがいればいいと思っている。だけど実家を棄ててきた啓太に、遠藤とのつきあいまでやめろとは言えなかったんだな。へへっ。可愛いトコあるじゃねえか。なあ? とは言うものの、自分の目の届かないところで仲良くさせるのも業腹なんだろう。講義が終わった瞬間の、あのクルマに駆け寄る姿は、ちょっとした見ものだったぜ。こっそり携帯ムービーで撮っときゃよかったと、激しく後悔しちまったくらいにな。 ま、そんなこんなで一刻も早く啓太の元に帰りたいのは分かるが、自分の力でどうすることもできねえことにいらいらするのは、冷静な判断力を奪うだけでいいことなんて何ひとつない。そんなことくらい百も承知の中嶋のこの状態に、俺は少々危険なニオイを感じていた。どう危険かってな。それは俺にもわからない。わからないから怖いんだ。予測がつけば対処もできるんだがな。だからちょっと間を開けてみようと思った。30分ほど軽くメシでも食ってコーヒーの1杯も飲めば、手負いの母熊 ―― 自分で言ってて何だが。この比喩こえー(汗) ―― みたいな中嶋も、子連れの母熊程度になるんじゃないかってな。けどそれは中嶋自身もよくわかっていたようだ。「あそこのファミレスでメシにしねぇか」との提案に、いとも簡単に乗ってきたからだ。時刻はもう8時を回っている。休憩してもいい時間だった。 みっつ先の信号の向こうでファミレスの看板がくるくる回っている。なかなか動きそうにないが、あそこまでなら10分もあればたどりつけるだろう。動かなさそうで動いている車のハンドルに両手を残したまま、中嶋が気のない素振りでぼそっと言った。 「悪いが、ちょっと啓太に知らせてやってくれ」 「まだ早いだろ? さっきも電話してたじゃないか」 「いや……。あいつのことだ。食べずに待ってるに違いないからな」 そうか。啓太ってそんなヤツだよな。亭主が遅くなりそうだからって、さっさと自分だけメシ食っちまうタイプじゃない。亭主の帰りをじっと待つ新妻。くーっ。可愛いじゃねえか! 「あ、けど。遠藤が遊びにきてるんだろ?」 「ああ。俺が遅くなりそうだと言ったら、時間が許すぎりぎりまでいてくれるとは言っていたが……。さすがにもう帰っただろう」 「そっか。成瀬の試合も近いしな。んじゃま」 電話を出して中嶋の自宅にかける。これは俺が作ったルールだ。ヒデだろうと啓太だろうと、相手が家にいるであろうときに携帯電話にはかけない。ってな。携帯電話っていきなり相手が出るから便利っちゃー便利なんだがよ。なんかナイショ話してるみたいに見えるだろ? 傍から見ると。ああいうの嫌なんだよ。がさつな男にはがさつなりのこだわりがあるんだよ。 今の時間ならテレビを見てるか勉強してるか。どちらにしろ、あのだだっ広い家に電話は2ヵ所しかないから出るにはしばらくかかるだろう。そう思ってのんびり外なんかを眺めてたら、たった2コールで出たものだからちょいとばかり驚いた。が、啓太の様子にはもっと驚いた。 『もっしもーしっ。なっかじっまれっす〜』 「…………」 『もっし〜? もっし〜? カメさんれすか〜?』 「お、おい。……啓太?」 『あっ、王様らー。渋滞お疲れさまれすっ!』 きゃははと笑う啓太の声に、俺は聞き覚えがあった。あれは俺らが3年。啓太が1年のときの正月だ。みんなで鍋をつついていたら、篠宮が持ち込んだお神酒で啓太が酔っ払っちまって……。 「中嶋っ!」 「何だ」 「これっ!」 ごちゃごちゃ説明するのは難しい。俺は黙って電話を中嶋の耳元に近づけた。ごきげんな様子で『もしもしカメよ』を歌っているらしい啓太の声がとぎれとぎれに俺の耳にも届いた。なかなか帰ってこない中嶋にしょんぼりしているならともかく、これは異常事態である。そう認識した中嶋と頷きあった俺は、電話を戻すと「あと2時間ほどで帰るからな。もうちっと待ってろや」と言った。 『了解れーす。ごはんは王様の分も作ってますから、中嶋さんと一緒に上がってきてくらさいねー』 「おう。そうさせてもらうぜ。じゃあな」 もはや1分の余裕もなかった。酔っ払った啓太が何をしでかすかなんて予想もつかないのだ。ここでじっと待ってるなんて、とてもじゃないができなかった。もちろんファミレスで晩メシなんて食えるはずもない。幸いにも角に立っていたガソリンスタンドに乗り入れた中嶋は、そのまま斜め向こうにスルーした。マナー違反なのは俺も中嶋も百も承知だ。緊急事態だってのは、まあ……、俺らだけの勝手な理由だよな。けどこれで脇道に入る時間を数分は短縮できたわけだ。ちょうどいいトコに斜めに横切れるスタンドがあったのは啓太の運のおかげかもしれない。 俺はぽかんとした顔で見送った店員さんに向かって両手を合わせた。 「ガソリンスタンド屋さん、ごめんなさい。今度必ず給油させてもらいます」 「つまらんことを言ってないで、遠藤に何をどれだけ飲ませたのか聞け。場合によっては医者の手配も必要になる」 「おっ。そうだな」 あの様子じゃ急性アルコール中毒になるほどには飲んでないだろうけどな。中嶋の心配もわからないではないから、ここは逆らわずに聞いておくことにする。なんたって中嶋は手負いの母熊だからよ。はは。やっぱこえーや。 ところが。遠藤は酒なんて飲ませてないと言った。遊びに来て口にしたのは啓太の用意していたケーキと、あとはコーヒーと日本茶だけらしい。 「それには少なくともアルコールは入ってなかったですよ」 「なるほど」 「あとは……。そうだ。手土産を頼んだ成瀬さんが千疋屋でフルーツゼリーを買ってきてたんですけど……。まさかね」 「そうだよな」 「まあ成瀬さんにしても啓太が弱いくらいは知ってますから、強い酒が入ってるものは買わないと思いますよ?」 「結構、有名だからな(苦笑)」 たとえ洋酒が使われてたとしてもたかがゼリーだ。1個あたりスプーン1杯も使われてない。もちろん作ったことはねぇぞ? けど原価を考えればわかる。1個数百円の中に含まれているのは、何も製造原価だけじゃないんだからな。マトモに酒なんて入れてみろ。あっという間にアシがでちまうに決まってるんだ。だとしたらそんなもの、100個くらい食やぁ知らねえが、1個や2個であんなに酔っ払うはずがない。だがそれを伝えた中嶋の表情は一層暗いものになった。絶対に酒は飲むなときつく言い渡してある啓太が、ひとりでこっそり飲んだりするはずがない。酒に酔ったのでなければ何かの病気で酩酊しているような状態になったのかもしれないというのだ。まあ……そんな可能性は限りなく低いとは思ったがよ。ゼロじゃない以上否定するわけにも行かず、俺はマンションに着くまでの短くもない時間を、それまで以上の刺々しい空気の中で過ごす羽目になったのだった。 クルマをガレージに入れるのを引き受けた俺が一足遅れで中嶋の家に駆け込んだとき。キッチンの調理用テーブルに伏せて、啓太は気持ちのいい寝息をたてていた。中嶋が目で知らせてくれた足元の燃えないごみ用ダスターボックスには、成瀬が買ってきたと思しいゼリーの空きカップがふたつ、きちんと重ねて入っていた。待ってる間に腹が減って食ったんだろう。ふたの部分を拾い上げてみると小さな文字で『洋酒を使用しておりますので小さなお子様には食べさせないでください』と書いてあった。 「つまり、啓太はやっぱ酔っ払ってた、ってことか? たったのゼリーふたつで?」 「そのようだ」 「なんちゅう……。なんちゅう酒の弱さなんだ……」 同じように思ったのか。それとも病気じゃないと安心したのか。中嶋は小さくため息をつくと、啓太の肩をゆすった。 「啓太。……おい、啓太」 俺と中嶋がつきあいはじめて丸5年が過ぎた。高校大学と同じクラスできて、高校時代は学生会でまで一緒。それだけでも普通より濃いつきあいになるというのに、帰る先は同じ寮。中嶋のことはもういいかげんよくわかったつもりでいても、時々驚かされることがある。今がまさにそれだ。中嶋は今、とびっきり優しい顔で甘く囁いている。 「う……、ん……。中嶋さん……?」 「帰ったぞ。……待たせたな」 「うん……。おかえりなさい」 会話はしているものの、啓太はまだ半分以上夢の中だ。テーブルに半ば伏せたまま、とろんとした表情で中嶋を見上げている。だがその目はまっすぐに中嶋だけをとらえている。うれしそうに。愛しそうに。口調がいつもより子供っぽくなっているのは甘えているのか。それとも単に寝ぼけているだけか。はたまた酒の影響か。それはもう完全にふたりだけの世界で、俺なんかはそこにある冷蔵庫や食器棚と同じ、ただの背景と化していた。まあ……、何かセリフを求められても困るわけなんだが。 「……どうした。こんなところで」 「うん……。あのね……。和希と成瀬さんがね……」 「ふん? あいつらが?」 「すごく仲良しだったの。だから見てると苦しくなっちゃった……」 「……おまえは俺と仲良しなんだから、それでいいだろう」 「……うん………………」 いやもう、わかったからメシにしてくれよ! っていうかもう帰っていいか? と心が叫ぶこと十数回。万年新婚のふたりが心行くまでいちゃいちゃした後でようやく、俺は晩メシにありつくことができたのだった。まったく。インドのディナー並みの遅さだぜ。遅い時間の食事は美容と健康の敵だって言うのによ。なあ? ところが、だ。ふらふらと立ちかけた啓太に代わって中嶋が冷蔵庫から出したものは……。 「冷製パスタ……?」 「ああ……。ちゃんとパンもある」 「で? これをパスタやパンと一緒に食えと?」 誤解のないように言っておくが、俺は啓太の手料理が好きだ。ヒデの作った見目も味もいいそつのない料理も嫌いじゃないが、啓太の作った一所懸命さの伝わってくる料理は、見目も味も飛び越えて心に伝わって来るんだよ。相手を思う気持ちってやつがよ。けどこれは……。 冷やしたパスタとは別の大きなボウルに入れてラップをかけてあったもの。それは小鉢に入れたら何十人分か? っていうくらい大量の……。 「これ……。たこわさ、だよな」 「……そのようだな」 ラップを開けたとたん鼻と目に来て、俺も中嶋も中途半端な涙声になっていた。どれだけのわさびをぶちこんだものやら……。俺と中嶋はため息をつきつつ驚くという、じつに器用な技を披露してしまっていた。ほかにパスタソースらしきものは見当たらない。クッキングヒーターの上にもうひとつ、カバーボウルをかけた皿が置いてあるのを見つけたが、そっちはなんと枝豆とゲソ揚げの盛り合わせだった。どれもこれも見事なまでの酒の肴だ。ちょいと部屋に戻ってビールを取ってきたくなるくらいの。 「なんか……。酔っ払って作った、ってのがありありな献立だな」 「どうやらほろ酔い加減になってから買い物に行ったらしい」 中嶋がテーブルの下に落ちていたレシートを拾い上げながら言った。打刻された時間は、俺が電話をした30分ほど前のものだ。あれはどうやら買い物から帰ってきた直後だったらしい。酔っ払って歩いたもんだから一気に酔いが回ったんだろう。『キヌゴシドウフ』ってのもあるから、もしかしたら冷奴も作るつもりだったのかもしれない。 しかしこの組み合わせ……。ビールの肴にするならともかく夕飯、しかもパスタとって……。俺が呆れたくらいだ。すべてに厳しい中嶋の合格点から程遠いことくらい、考えなくてもわかる。ここの亭主は付き合いでもなけりゃビールは飲まないうえに皮肉屋だ。ちゃぶ台じゃねえからひっくり返したりはしないだろうが、かわいそうなこの後輩は、せっかく作ったこの料理にどんな皮肉を投げつけられることやら……。ま、弾幕とまではいかなくても、援護射撃のひとつくらいはしてやらねえとな。 ところが。こっそり身構える俺の前で繰り広げられたのは、真逆ともいえる光景だった。 「えへへ〜。がんばってつくりましたー」 「……ああ、そうだな」 「わさびはちゃんと生のを買いましたー」 「……そうだ。チューブ入りは使っちゃいけない」 「それでー。ちゃんとー。鮫皮のおろし器でー、おろしましたー」 「……ちゃんと覚えてたんだな。偉いぞ」 「……うん……」 ……はいはいはいはい。心配した俺が阿呆でした。馬鹿っプルの前にはいちゃいちゃのネタしか転がってないってのを忘れてた俺が阿呆でしたっ! 何日かたったある日の夕方。もうほとぼりも冷めただろうと思って聞いてみたら、さすがの中嶋もあの組み合わせには面食らったらしい。 「だがインスタントや冷凍食品は使ってなかったからな」 「って……。チェックポイントはそこかよ」 「あの容量の小さいアタマに、あれもこれも考えろという方が無理と言うものだ。手抜きをするなと言うなら、献立や見栄えの追求はしない」 「……へーへ。さいですか」 あの時。とっとと啓太を寝かせてしまおうとした中嶋は、意外なほどの啓太の抵抗にあって断念した。成功してたら適当にパスタソースを作ってたんだがな。にこにこ笑いながら俺らを見る啓太の目を誤魔化す方法も見つからず、とんでもなくわさびの効きすぎたたこわさをぶっちゃけてパスタを食ったのだった。……文字通り、涙を流しながら。 「それに今回、悪いのは啓太じゃないしな」 「まあな。あの渋滞さえなければこんなことにはならなかったよな」 「いや。不用意なものを手土産にした成瀬の責任だろう。あれの酒の弱さは知ってるはずだ」 「あー? そりゃちょっと……」 「それに啓太はなんと言った? 『成瀬さんと和希が仲がよくて苦しくなった』って言ったんだぞ?」 「ああ……。なんかそんなこと言ってたな」 「つまりは遠藤にも責任があるということだ。成瀬に買い物に行かせたのもあいつだろう? なら使用者責任もあることになる」 ははあ。使用者責任ときやがったか。俺らが酒を飲む目線の向こうで、メールチェックでもしているのか、パックのコーヒー牛乳片手に啓太が携帯電話をいじっている。あいつも、せめてチューハイの1杯ぐらい飲めるようになってれば、こんなことにはならなかったのにと思う。 「で。判決は?」 「接見禁止3ヵ月」 「……控訴は?」 「棄却に決まっている」 うーん。さすがは手負いの母熊。怖さもハンパねぇ。せめて未決拘留日数を含めてやれとは思うが、俺の口から言えば逆効果になりそうだ。遠藤理事長殿に借りも恩義もあるわけじゃねぇが、それでも今回のはほとんどヒデのやつあたりみたいなもんだろ?このままではあまりに不憫すぎる。それに何より遠藤に会えないとなると、啓太がつまんねえだろう。あれは啓太が中嶋のことを話せる親友なんだからな。 さてどうするかと首をひねっていると、携帯をたたんだ啓太がこっちに ―― 正確には中嶋のところに ―― やってきた。ふくれっつらとまではいかないものの、びみょーにくちびるを尖らせているのが可愛い。最初に会った時から考えるとずいぶん男っぽくなってきたけれど、まだこんな顔が似合うんだなあ……。 「どうした」 「和希と話ができなくて」 「向うは社会人だ。取引先と一緒とか、間の悪いことだってあるだろう」 「それはそうなんですけど……。でもそんなときは最初からプライベートの携帯は切ってるはずなんです」 「うん」 「それがこないだっから、出てはくれるのにすぐ切られちゃうんです。遊びに来てくれたお礼を言いたいだけなのに……」 「ふうん」 「まあ 『今度は苺ショート持ってくからなっ』 って言ってたから、怒ってるとかそんなんじゃなさそうなんですけど……」 ふうん、って何だよ。ふうんって。それ。てめぇが無茶な判決を言い渡しただけだろうに……。 『今度は苺ショート』 ってあたりに泣かされた俺は、ヒデがトイレに入ったタイミングを掴まえて啓太に声をかけた。 「あのな、遠藤の件だが……」 とっておきの解決方法に啓太の顔がぱっと輝く。俺的にはこれで十分。亭主に文句言われても、まあ何とかやりすごすさ。あとは野となれ山となれ……。 |
いずみんから一言。 千疋屋のゼリーで酔ったのは、じつはわたしです。 前の会社にいたとき、天下ってきた新社長の手土産で酔ってしまい まっすぐ歩けるようになるまで残業しました……(汗)。 それにしても和希さんが不憫です。 |
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