魔王の肝臓  




 いいですか、伊藤くん。
 もうあんな人の言うことを真に受けたりしちゃ駄目ですよ?
 そもそもあの人は人間じゃないんですからね。

 はい。七条さん。
 今度から気をつけます ――

 甘い囁きを子守唄代わりに聞きながら、俺は深い眠りに引きこまれていった。温かい腕の中で愛しい人の鼓動を聞いていると、なんだかとても安心できる。明日は日曜日。嫌なことは忘れてゆっくり寝よう。ゆっくり。ゆっくり ―― 。

 ドンドンドン!! ドンドンドンドンッ!!
 激しくドアを叩く音がした。うるさいな。何だよいったい。そう思いながら俺はなおも惰眠をむさぼっていた。腰から下が痺れたように重くて、起きる気どころか身体を動かす気力さえない。甘えた気分で手をのばすと、隣で眠っている人を探した。
「……七条さん。なんかうるさくないですか……」
 大丈夫ですよ。伊藤くんは安心してお休みなさい。
 だがいくら待ってもその答えはもらえなかった。そして俺の手はむなしく、シーツの上を泳いでいるだけだった。
「あれ? 七条さん……?」
 七条さんを探してようやく目を開けた俺は、叩かれているのが俺の部屋のドアであることに気がついた。ただ叩かれているだけじゃなく、俺の名前までが大声で呼ばれている。なんだろうと思っていたら、突然ドアが開いて和希が飛び込んできた。
「啓太っ!!」
「な、何だよ。いきなり……」
 七条さんと同じく、和希にも合鍵は渡してあった。だけど休みの日には使わないで欲しいってそれとなく言っておいたし、和希もそれは守ってくれていた。なのに何で今日は入ってくるんだよっ!? たまたま七条さんがいなくなってたから助かったけど、そうじゃなかったら第2ラウンド ―― いや、第3か第4か ―― の真っ最中だったかもしれないんだぞ !!
 だが和希はそんなことはどうでもいいらしい。俺の現状を見極めたとたん、そこらへんに脱ぎ散らかしていた俺の服や下着を、拾いあげてはベッドの上に放り投げてきた。
「早く服を着ろ。すぐに他の連中もやってくるぞ!!」
「ほかの、って……」
「早く! そんな姿、成瀬さんや篠宮さんに見られたらどうするんだ!!」
 何がなんだかわからなかったけど、昨夜の跡がたっぷり残った、こんなあられもない姿をそのふたりに見られる。考えただけでも恐ろしくて、身体の重みは完全に吹っ飛んだ。寝る前にふたりでお風呂に入っておいたのがせめてもの救いだった。
 和希に急き立てられるように服を着て、なんとかボタンを全部はめ終わったとき。開いたままだったドアに俊介が姿を見せた。だが俊介には和希のような切羽詰った感じは見られなかった。
「なあ啓太。俺にだけ教えてんか。七条は誰を呪い殺そうとしとるんや」
「呪い殺す? 七条さんが? 誰を?」
「とぼけても無駄や。聞いとうで、昨日の話。……やっぱり副会長はんか?」
「中嶋さん……」

 昨日。そうだ昨日。昼食を七条さんととった俺は、一緒に会計室にいった。食欲がないといって食堂に姿を見せなかった西園寺さんは、ひとりでパソコンに向かって仕事をしていた。
「こんにちは西園寺さん。食欲がないなんて大丈夫ですか?」
「ただの風邪だろう。わたしはいつも風邪をひくと食欲がなくなるんだ」
「でもやっぱり何か食べた方がいいですよ。でないと薬も服めないし」
「もっと言ってやってください、伊藤くん。郁は体調がよくないとすぐにこれなんです」
「その分、水分をいつもより多く摂るように心がけているじゃないか。薬は明日、家から届く。そうしたらちゃんと服む。つまらないことを言ってないで紅茶を淹れてくれないか」
「はい郁」
 そうして三人で午後のお茶を楽しんでいたら、突然思いついたように西園寺さんが言い始めた。
「そうだ。このあと入っている会議は、啓太に代理で出てもらおう。こんな体調で馬鹿どもの顔など見たくないからな」
「えっ!? 俺……?」
「それはいいですね。伊藤くんも来年から正式に仕事を手伝ってくれるのなら、今のうちに慣れておいた方がいいでしょうし」
「だけど……」
 西園寺さんの代理として俺が会議に出席する。いくらなんでもおこがましいと思ったが、西園寺さん相手に俺が反論なんてできるはずがない。形のいい眉を跳ね上げられただけで、あっさりと承諾してしまっていたのだった。

 一緒に会計室は出たのだが、七条さんは先に西園寺さんを寮まで送っていくことになった。紅茶を手渡したときに触れた手が、いつもより熱かったのだそうだ。
「郁を寝かせたら僕も会議に出ますからね。大丈夫。始まるまでにはちゃんと会議室に行きますよ。先に行って待っててください」
 そう言われたら頷くしかなかった。ひとりで先に行くなんて不安だったけど、俺は無理やり笑顔を作って七条さんたちに別れを告げた。七条さんは始まるまでに来てくれるっていったんだから、俺はただ先に行って、座って待っていればいい。
 ちょっと緊張しながら会議室のドアを開けた。時間が早いせいかまだ誰もいなかった。机と椅子が丸く並べられていて、各机の上にノートパソコンが載っているだけだ。こんなの勝手に座ってていいのかな。などと思っていたら、学生会室との間のドアがあいて、中嶋さんが入ってきた。この人って七条さんと仲が悪い。それがわかってから、俺もちょっと苦手になった。廊下側ドアの前の唯一パソコンの載っていない机に今日の資料らしいコピーの束を置いた中嶋さんは、俺の方をじろっと見た。
「なんだ伊藤。おまえも出席するのか」
「はい。西園寺さんに言われて……」
「ならそんなところに突っ立ってないで、好きなところに座れ」
「いいんですか?」
「俺が駄目だといったらおまえは帰るのか?」
「いえ……」
 冷ややかな眼で眼鏡のブリッジを押し上げた中嶋さんから顔をそむけるようにして、俺は手近の椅子を引いた。俺もやっぱりこの人が苦手だ、と思った。
 
 会議が始まったあとも中嶋さんには結構いろんなことを言われた。王様が通訳してくれたところでは、どうやら黙って座ってないで、出席したからにはちゃんと会議に参加しろと言っていたらしい。中嶋さんは絶対に無茶を言ったりはしない人だ。だけどあの人の物言いって一事が万事きついものだから、ようやく会議が終わってくれた頃には、俺は相当へこんでいた。七条さんが抱いて慰めてくれなかったら、絶対、寝られなかったと思う。だけど七条さんが呪い殺すって、一体……?
「伊藤。いるか」
「おい啓太。あれ何とかしてくれねぇか!?」
 とまどう暇もなく篠宮さんと王様が前後して現れた。和希がさっき「ほかの連中も来るぞ」って言ってたのが現実になったようだ。さすがにこのふたりは俊介と違って「呪い殺す」なんてことは言わなかったけど。
「七条のことなら西園寺かと思ったんだが、当の西園寺とは連絡が取れなくて困っているんだ」
「えっと、あの……。すみません。俺も今、和希に叩き起こされたばっかりで何がなんだか……」
「わかった。んじゃ来い。まずは現状の認識からだ」
 そう言うと王様はいきなり俺の手を掴んで部屋を出た。早足の王様に、俺はほとんど引きずられているようなものだった。うしろからは真剣な表情の篠宮さんと和希。そしてさらにそのうしろから面白半分の俊介がついてきていた。
 向かった先は意外にも寮の食堂だった。入り口から何人もの人間が中を窺っている。本当にこんなところで七条さんが中嶋さんを呪い殺そうとしているんだろうか。半信半疑で中をのぞいたとたん、異様な臭いに襲われた。うっと思って鼻を押さえた俺を、ジャケットの首のところを掴んだ王様が廊下の向こうに救い出してくれた。
「な!? すごい臭いだろ? 昼までになんとかしないと、みんなメシ抜きだぜ」
「ホントにこれは七条さんが?」
「中に入れなくて、窓から見たところでは鍋で何かを煮ているようだった」
「俺が聞いたらマオウとかカンゾウとかって言ってたぜ?」
「えっ!? 魔王の肝臓 !?」
「しっ!!」「しっ!!」「しっ!!」
 王様と和希と篠宮さんと。三人同時に口止めされて、慌てて両手で口をふさいだけど、時すでに遅し。入り口にいた連中の間にざわめきが走った。
「魔王の肝臓だってよ」
「魔王を呼び出そうとしてるんじゃなかったのか !!」
「……じゃあやっぱり呪いか?」
 和希が「こら」と言って俺の頭を小突いた。ごめんなさい失言でした。この失言を挽回するためには、俺が行って真偽を確かめてくるしかないだろう。和希も王様も篠宮さんも、口には出さないけどそれを期待して俺のところに来たんだろうし。それに西園寺さんがいない以上、もしもの場合、止められるのは俺だけだ。
「俺……。行きます」
「俺もついてこうか?」
「ううん。いいよ、俺ひとりの方がいいと思う。和希はみんなとここにいて」
「……わかった。もしものことなんてないと思うけど気をつけて」
「有難う」
「やばくなったら大声出せよ。ドアぐらい俺がぶち破ってやっからよ」
 俺はみんなに頷き返すと、食堂の中へ入っていった。

 一歩足を踏み出すごとに臭いはひどくなっていったが、それは今まで嗅いだことのない種類の臭いだった。くさいようでくさくないようで。でもなんだか濃厚で……。なんと言ったらいいのか。そう。中華料理からいい匂いをのけたらこんな感じになるかもしれない。カウンターまで行って厨房をのぞくと、尻尾でリズムを取りながら大鍋をかき回している七条さんがいた。鍋から立ち上る怪しい煙を、時折、翼で換気扇の方に送りこんでいる。怪しかった。とんでもなく怪しかった。ごくりと唾を飲みこんだ俺は、おそるおそる声をかけた。
「あの〜ぉ。七条さぁん……?」
「おや伊藤くんじゃないですか。もう起きたんですか。おはようございます」
「あ。おはようございます……」
「そんなところからのぞいてないで入っていらっしゃい」
 言われて厨房の入り口に回ると、この臭いを気にもしないのか、賄いのおばちゃんたちが昼の準備をしながらだべっていた。こっちを見るおばちゃんたちに頭を下げて七条さんのところに行く。鍋の中は真っ黒の液体が煮詰められていた。大鍋、真っ黒の液体、七条さん。似合いすぎていてちょっと怖い。
「ごめんなさい。伊藤くんが寝ている間に終わらせて、また君の部屋に戻る予定だったんですけど。ちょっと時間がかかってしまったようですね」
「何なんですか、これ。もしかして魔王の肝臓って……」
「ああ、よくわかりましたね。ええマオウもカンゾウも入っていますよ。あとはタイソウ、ショウキョク、ケイヒにシャクヤク。それからえーっと、何でしたっけね。動物性のものがいくつか入ってるんですが、西園寺家オリジナルの配合なので、僕みたいな部外者にはよく理解できません」
「西園寺家オリジナル!?!」
 えっえっえっ。ちょっと待って。西園寺さんの家ってお公家さんの血を引くとか言ってたよな。昔の人って政権争いで毒薬盛ったって聞くし。先祖伝来の毒薬か何かなんだろうか。じゃあやっぱりターゲットは中嶋さん? 俺が昨日いじめられたから?
 俺なんかのために七条さんの手を汚さないで下さい。もうちょっとで、そう言ってすがりつく所だった。やめたのはこっちに近寄ってくるおばちゃんたちが目に入ったからだ。おばちゃんたちは俺と七条さんを押しのけると、平気で煙を吸いこみながら鍋の中をのぞいた。
「どれどれ。そろそろいいんじゃないかね」
「そうだね。……ちょっとそれ貸してごらん」
 七条さんの手から木杓子を受け取ったおばちゃんが、中をちょっと混ぜてから、すくいあげた煮汁をとろとろと糸を引くように鍋にこぼした。
「ああ。いいいい。ちょうどいいくらいだわ。上出来だ」
「有難うございます。助かりました」
 ガラスのティーポットの上に重ねたガーゼを置いて、七条さんは出来上がった真っ黒の液体を漉しながら注ぎいれた。鍋の中にはかろうじて根っこや枝のように見える、得体の知れない何かが大量に残されていた。
「後片付けはしといてあげるよ。早く持っていっておあげ」
「申し訳ありません。でもこれを置いたら戻ってきますから」
 そして七条さんは俺に「行きましょう」と言い、ポットを乗せたトレイを持って食堂から出て行った。入口付近にいた野次馬連中は飛び退くようにして道をあけてくれた。俺と七条さんはその真中を、まるで紅海を渡ったモーセのように進んでいった。少し間をあけて、王様、篠宮さん、和希が。そしてさらにうしろから俊介や野次馬たちがついて来ていた。七条さんはそれに気づいていたのだろうけど、知らない顔でついて来させていた。彷徨える民を引き連れて七条さんがたどり着いた先は、西園寺さんの部屋だった。ノックはせずに鍵でドアを開ける。ここでわざとらしく振り返った七条さんが、「みなさんも入られますか?」と聞いた。王様たちは頷いたけど、俊介以下はクモの子を散らすように逃げていった。
 豪華な部屋の中では西園寺さんが、オットマンに預けた脚を暖かそうなひざ掛けに包んでリストを聴いていた。微熱のせいか少し紅に染まった物憂げな表情は、凄艶としか表現しようがない。目が合ったとたん、王様が鼻血を押さえながら部屋から逃げていった。
「何だ。ぞろぞろと他人の部屋に」
「みなさんいろいろと心配なのですよ。変に説明するより来て頂いた方がわかりやすいと思いまして」
「わたしの心配などしてもらわなくてもいい」
 そういって西園寺さんはポットの中身をマグカップに半分ほど注いだ。俺たち三人が見守る中、ゆっくりとそれを飲み始める。あんなに真っ黒ですごい臭いのするものをよく飲めるものだ。俺は思わず西園寺さんを尊敬してしまった。
「あのぅ……。何なんですか、それ」
 毒でも呪い殺すのでもないことはわかったが、一応訊いてみた。
「我が家に伝わる風邪薬だ。私は基本的に漢方薬しか服まないことにしている」
「昨日電話でお願いしたのが、今朝届いたんですよ。さっそく書いてあった通りに煎じようとしたのですが、合っているかどうかよくわからなくて困っていたんです。食堂のおばさんたちにずいぶん助けてもらいました」
「そうだったのか。あとでわたしからも礼を言っておこう」
 そういえば昨日、明日になったら薬が届くって言ってたっけ。今頃思い出しても遅いけど、まさかこれが薬だなんて思わなかった。でも王様も和希も篠宮さんも、誰も薬だって気がつかなかったんだから。
「何やら『呪い殺す』と思っていた人がいたようですが、おそらく呪い殺されても仕方がない人がいるから、そんな風に思ってしまうんでしょうね」
 違う。七条さんはわざとそう見えるようにしていたんだ。たぶん俺がいじめられた仕返しに。だってほら。七条さんの尻尾がすごく楽しそうに揺れているもの。俺はどう応えたらいいのかわからず、あははと気の抜けた笑いを返したあと、そっとため息をついたのだった。




いずみんから一言。

先日、みみずくとの間でメールならではの誤解がありました。おかげでふたりとも、しなくていい手間をかけてしまって……。と言うわけで誤解をテーマに書いてみました。
麻黄と甘草って、音だけ聞いたら魔王と肝臓でしょう?
七条クンが並べた生薬はおなじみの葛根湯からカッコンを除けたものです。
これだけだったら黒くならないので、鹿の角の黒焼きとか入ってるんでしょうね。うう。不味そう……


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