啓太くんの不運な1日


                          

「ふ……、ふ……、ふ……、ふえーっくしょんっ!!」
 教室棟から出て風に揺れる枯葉を目にしたとたん、啓太は特大のくしゃみをしてしまった。 ここ数日、学園島を寒気が包んでいた。ここは基本的に暖かい土地ではあるのだがこんなふうにシベリア寒気団が下りてきてしまうともうどうしようもない。遮るもののない360°の海から容赦なく寒風が吹きつけてくるのだ。学校から寮へつづく道の両脇に植えられている樹も、すでに葉を落としきって寒さに震えている。そんな中で枯葉を1枚だけ残した樹があった。そこにしか葉が残っていないものだからつい目が行ってしまうのだが、風が吹きつけるたびに頼りなく揺れる様子に、よけいに寒さが増すような気がするのだった。
「うー。寒っ」
「大丈夫か?」
「うーん。風邪じゃないとは思うんだけどなあ」
 心配そうに問いかける和希に、啓太は鼻をすすりながら応えた。別に体調も悪くないし悪寒がするわけでもない。
「年末があったかかったからなあ。この寒さは正直、詐欺だよな」
「それは言えてる。やっぱこう、段階を踏んでくれないと」
「覚悟ができない、ってか?」
「そう。それ、それ」
 じゃれあいながら寮に戻るふたりを、むっつりとした3年生が足早に追い越していく。今日は明日に迫った「学校見学会」の準備のため、一斉下校となっているのだ。今日ばかりはクラブどころか会計室や学生会のメンバーまでもが校内に残ることを認められていなかった。丹羽などにしてみればお墨付きをもらったようなもので、授業が終わるなり、とっとと帰っていったことだろう。
「だけど学校見学会の準備っていうのに、なんで全校生徒が寮に戻らなきゃならないんだ? 篠宮さんは部屋を片付けて掃除しろって言ってたけど」
「そっか。啓太は見学会に来てないんだよな」
「うん」
「見学会ってのは毎年、3学期が始まって最初の日曜に設定されてるんだけど、これにきた人はどのドアでも開けて入れるんだ。もちろんサーバー棟とか理科の薬品が置いてある部屋とかは別だよ。でもさ、寮の部屋は例外じゃない、ってこと」
「ひええ〜っ〃」
 啓太が情けない声を出した。新学期のために寮に戻ってきたとき、すでに見学会のことは掲示板に貼り出されていた。年末の大掃除もそこそこだった王様や俊介までもが、袋一杯のゴミを出しているのも目撃していた。さらに言えば掲示板にはちゃんと「不要のものは廃棄し、室内を清潔に、整理整頓しておくこと」と書いてあったし、そのとき俊介から「啓太も今のうちからいらんもんとかほかしときや」とまで言われていたのだ。
「どうしよう。俺、何にもしてないよ」
「気にすんなよ。そのために今日があるんだからさ。俺だって年末はほとんど何もしてないぜ?」
「……うん」
 そうは言ったものの、啓太は自分の段取りの悪さにしょんぼりしてしまっていた。ほかの学生と違って3か月程度しかあの部屋にいないので、それほどモノが増えているわけでもないし、七条が部屋に来るようになってからはあまり散らかさないように気をつけてもいる。それでもやはり高校生男子の部屋である以上、整理整頓されているとは言いがたいし、掃除が行き届いているなどとはお世辞にも言えない状態である。新入学予定者の保護者、特に母親が目にすれば眉をひそめてしまうだろう。
「突然部屋に踏みこまれて平気なのは、篠宮さんと西園寺さんくらいだろ?」
「それもそうだな」
 和希の慰めともいえない慰めのことばに啓太のスイッチが切り替わった。いつまでもくよくよしないのが啓太の持ち味である。そうと思い切ればあとは早かった。出だしの遅さは加速で補えばいいのだ。
「よーし。寮までダッシュするぞ〜」
 そう言うと啓太は和希を残してダッシュしはじめた。すでに玄関が見えている寮までなど、走ったところでいくらも早く着くわけではない。若作りをしていても根はオヤジな和希はのんびりとそのあとを追った。

 寮の玄関ホールにはかなりの数の学生がたむろしていた。篠宮が配っているゴミ袋をもらおうとしているのだ。啓太を見つけて近寄っていった和希は、目敏くも啓太が何枚かのゴミ袋と一緒に、ピンク色の封筒を持っているのに気がついた。
「和希の分ももらっといたぜ」
「サンキュ。助かったよ」
 和希の部屋というのは、怪しまれないようにわざと散らかしているだけで、実のところ捨てるものはほとんどない。子供の頃から無駄なもの、余計なものを持たないように習慣づけられてきたからだ。だがそんなことはおくびにも出さず、和希は有難くゴミ袋を受け取った。
「ところで、それ。朋子ちゃんから手紙か? 珍しいな」
「いや。朋子じゃないんだ」
 啓太にそのつもりはなかったのだろうが、声は隠しようがないくらいに弾んでいた。学生はみんな、寮に戻ってくるとまず自分のメールボックスを確認する。手紙が入っていることなどまずないのだが、それでも必ず開けて確認するのだ。やはり親元を離れて生活していると、誰かから何かが届くというのはとてもうれしいことなのだろう。……たとえ自分の方からは何も出したことがなかったとしても。
 だが啓太の声の弾み具合はそういうレベルではなかった。周囲に人が多いから踏みとどまってはいるものの、どうやらすっかり舞い上がっているらしい。少々おもしろくない気分で、和希は啓太の手元をのぞきこんだ。ピンクの封筒には女の子っぽい筆跡で啓太の名前が書かれている。オニイチャンとしては中を確認せずにはいられなかった。
「おい。これ速達になってるじゃないか。急いでるんだろ? 早く読んでやれよ」
「うーん。部屋に戻ってから……」
「ばーか。何、気にしてんだよ。変な気なんか回さなくっていいって。ほら。ゴミ袋もっててやるから」
 本当に気を回しているのは自分の方なのにもかかわらず、そんなことはこれっぽっちも悟らせずに、和希は啓太を誘導していた。啓太は怪しんだ様子もなくゴミ袋を和希に預けると、封筒を開けて中を読みはじめた。そしていくらも読まないうちに「うわ」と言って顔をあげた。
「どうかしたのか?」
「うん……。この子、中学のとき同じクラスだった子なんだけど、弟にプラチナ・ペーパーが届いたんで、今度の見学会に来るんだって。で、学校がすごすぎて気後れしちゃいそうだから俺からも話とか聞きたいって」
「へえ?」
「その弟って結構さ、地元でも有名な将棋小僧だったんだよな。そっか。あの将棋が認められたんだ……」
『将棋』というキィワードに和希は覚えがあった。天才と称される子供はいくらでもいるが、その子はそういうのとは少し違っていた。才気あふれるタイプではなく、老成したようないぶし銀タイプの将棋を指すのだ。連戦連勝というわけではないが、その子の成長を見守っていきたいと思ったのだった。
「最年少で名人になったって話題になってた人がいるだろ? あの人の出身校だっていって私立の中学に行ってたはずだけど……。やっぱBL(こっち)の方が環境は整ってるよな」
―― そうか。中学が違っていたのか。だから啓太とは結びつかなかった。いや。別に結びついたからといってその子の入学選考が変ったわけではないのだが。
「でさ。この手紙くれた子。笠原典子さんっていうんだけど」
―― え? 笠原典子、さん……?
 その瞬間。「理事長」に切り替わっていた和希のスイッチが「オニイチャン」に戻された。そうだ。この会話の発端になったのは、啓太のもっていたピンク色の封筒だったのである。白でも水色でもなく、女文字で表書きの書かれたピンク色の封筒。
「何? 啓太の初恋の相手だったりして?」
「初恋は幼稚園のときのなっちゃんだよ。笠原さんはちょっと気になる女の子ってとこかな? おとなしい子だったんだけど、なかなか美人だったんだよな。高校が違うって分かったときは、正直いってがっかりしちゃったけど」
「ふーん。じゃあ久しぶりの再会、ってやつ?」
「そうなるよなあ。中学の卒業式以来だから」
「じゃあ気合入れて中を案内しなくちゃな」
「えへへへへ」
「気になっていた女の子」とのことなどうれしそうにぺらぺら喋られて、和希は思いっきり不機嫌になっていた。声だけではなく態度もそうだし、周囲には不機嫌オーラを撒き散らしまくっている。それはロビーにいたほかの学生たちにもひしひしと伝わっていた。気づいていないのはお気楽な啓太だけである。それを喧嘩ととったのか、丹羽が声をかけてきた。
「おいおい、どうした。おまえらが喧嘩だなんて珍しいじゃないか」
「別に喧嘩なんかしてませんよ。俺は今、啓太が中学時代にほのかな恋心を抱いていた女の子が、弟の学校見学会について来るっていうから、じやあ気合いれて案内しなくちゃな、って言ってたところなんですから」
 大人気ないとは思ったが、「ほのかな恋心を抱いていた女の子」というあたりに力が入ってしまったのは否定しようがない。いや。そうじゃない。このロビーに誰がいるかをきちんと見極めた上で、丹羽という相手の性格を利用したのだ。……結果はすぐに現れた。丹羽は大声で反応してくれたのだ。
「へえーーっ!? 啓太の初恋の女の子かあっ!!」
「あ、いえ。王様。初恋は幼稚園のときのなっちゃん……」
「そうかそうか。んで? 可愛い子なんだろうな? え?」
 丹羽が豪快に啓太の背中をばんばんと叩いた。やられている啓太自身がまんざらでもなさそうなのが、和希にはまた小面憎い。だが啓太の幸せもあとわずかである。啓太の周りにはいつの間にか、丹羽の声を聞きつけた人が集まっていた。
「ほう? 伊藤にもそういう時代があったんだ。なあ、七条?」
「誰かさんみたいにダース単位で数えるならいざ知らず、そりゃあ伊藤くんにだって可愛い女の子のひとりやふたり。いなかった方がおかしいというものですよ。ねえ、郁」
「そうだな。だがそんな可愛い子ならわたしもぜひ会ってみたいものだ」
「ああ……。俺もそう思う」
「って何それ? ハニーの初恋の子が来るの? ふうーん。そうなんだ」
「そうなんですよ、成瀬さん。ちょっとしたニュースでしょう?」
「いや、だから、初恋は幼稚園……」
 もはや啓太のことなど誰も聞いていなかった。今日この瞬間。啓太を取り巻く人間の間で、どす黒い連帯が結ばれたのだ。啓太は何かおかしいと思いつつも、疑うことさえ思いつけずにいた。

 見学会当日。誰の制服も、今まで啓太が見たことないくらいアイロンがきいていた。丹羽や岩井といえどもきちんとワイシャツのボタンをはめ、ネクタイを締め上げている。やがて対岸のホテルに宿泊していた来年度の入学予定者とその家族を乗せたバスが到着しはじめた。寮のロビーでは丹羽と中嶋が参加者の名前をチェックしつつ資料を渡していく。と、中嶋の手が止まった。
「笠原慎太郎くん……、ですね」
「はい」
 資料を手渡すついでに顔をあげると、緊張しきった面持ちの少年とその両親。そしてその陰に隠れるようにして姉がいた。さっと値踏みをしてみれば、中嶋の好みではなかったが、かといって問題外というほどひどくもない。中嶋はナンパのときでさえ作ったことのない笑顔で、その少女に笑いかけた。
「笠原くんのお姉さん。伊藤は今、寮の説明スタッフで、たぶん食堂のあたりにいると思います。誰かに案内させましょう」
「あっ、あの……。いいんですか?」
「もちろんですとも。……岩井、頼んでいいか?」
「ああ。……どうぞ、こちらです」
 いいも悪いも、岩井はそのために待機していたのである。かわいい啓太におかしな虫がついては困るのだ。無言で結ばれた連帯はしっかりと機能しはじめているようだ。そんなこととはつゆ知らず、中嶋に軽く頭を下げた笠原家ご一行様は、岩井の後について寮の中へと入っていった。別人としか思えない爽やか系微笑で見送った中嶋の耳に「素敵な人だった……」とため息のように囁く声が届く。次の資料を渡すため、手元のリストに目を落とした中嶋のくちびるは、見事なまでに吊り上げられていた。……啓太のポイント。マイナス1点。

 その頃、啓太のテンションはほとんどピークに達していた。いくら七条という恋人がいるといってもそれはそれ。本物の男色家でもなく、たまたまはじめてエッチをした七条のテクに惑わされてしまっているだけの啓太には、何かのきっかけさえあれば立派に更生できるだけの余地はある。手紙を受け取ってからというもの、何かの折に思い出しては「笠原さんと恋人になった自分」というのを想像してにまにま笑っていたのだ。それはごくごく普通の高校生としては当然の反応であり、七条に対していけないことをしている等というのとはまったく別の次元の話であった。その本人があと少しで眼の前に現れるとあっては、あながち啓太も責められまい。クラスメイトたちからの冷やかしは舞い上がった啓太を煽りたてこそすれ、着地させる効果は絶無だった。
「啓太……。こちらをお連れしたんだが……」
 和希とふたりで他の見学者の質問に応えていた啓太は、岩井の声に振り返るなり、満面の笑みを浮かべてしまった。眼の前にいる笠原典子は、中学のときよりうんと綺麗になっていたのだ。赤いリボンのついたエナメルの靴とおとなしい感じの服は、啓太の眼から見てもちぐはぐだったが、そんなことはどうでもよかった。茶髪にアイラインを引いてごてごてのマスカラをつけた今風の女子高生になっていなかっただけでも、啓太には好ましく思えたのだった。
「岩井さん、有難うございました」
「いや……。かまわない」
 大急ぎで啓太を両親と弟に紹介した典子は、食堂から出て行く岩井を振り返った。
「ねえ伊藤くん。さっきから気になってたんだけど、『岩井さん』ってもしかしてあの……?」
「えっと……、岩井画伯か、ってこと? だったらそうだけど?」
 へえ? といった感じで、笠原ファミリーだけでなく、その周囲にいた人たちも振り返っていた。
「すごーい。伊藤くんってそんな人から啓太って呼ばれてるの?」
「あ? うん。岩井さんには可愛がってもらってるよ」
「物静かで優しそうな素敵な人ね」
 典子の口調にはあきらかにうっとりとしたものが含まれていた。啓太のポイントがマイナス2になりそうである。そこに和希が助け舟 ―― 正確には『追い討ち』という ―― を出した。和希は今日のために早起きしてまで念入りに朝シャンをし、ご自慢のさらさら髪を絹糸のように仕上げていた。ご丁寧に天使の輪まで光っている。そしてライバル会社のトップたちから「人たらし」といわれている思いっきりの笑顔を、啓太に向けているように見せながら、その実、笠原典子に向けていた。典子の頬がかすかに染まる。鈴菱の次期総帥たるもの、このくらいの芸当ができなくては優秀な人材を引き抜いて来れないのである。啓太ここでマイナス3点。
「啓太。ここは俺と近藤でいけるから、おまえ、この人たちを案内してこいよ」
「いいの?」
「平気、平気。ゆっくり回ってくればいいって」
「サンキュ、和希」
 啓太は「じゃあ寮の部屋の方から……」と典子たちを促して食堂を出た。真ん中に絨緞の敷かれた廊下を歩き、階段を上っていると笠原典子が話しかけてきた。
「伊藤くん。さっきの人はお友達なの?」
「うん。同じクラスで親友なんだ」
「そうなんだ……。なんだか落ち着いた感じがあったから、上級生かと思っちゃった」
 あはは。ばれてるよ、和希。と啓太は心の中で笑った。余計な予備知識がない分、年上は年上に見えてしまうのだろう。
「さっき寮の入り口で資料を配っていた人たちも、高校生とは思えないくらい大人びていたな。ああいうの見てるだけでも、この学校の教育方針がわかる気がするな」
「そうですねえ。あんなふうに落ち着いてくれるなら、慎太郎にはやっぱり、今の学校よりこっちの方がいいかもしれないわね」
 丹羽と中嶋が並んで出迎えれば、それはインパクトがあるだろう。完璧な外面(そとづら) を作り上げる能力に関して、彼らの右に出るものはいないのだ。
 啓太は自分たちの部屋がある2階をパスして3階へ彼らを案内した。いくら掃除をしたといっても、見られずにすむならそれにこしたことはないからだ。ましてや知っている人に自分の目の前で見られるとつらいものがある。啓太の思惑にはまるで気づいていない笠原ファミリーは、周囲の人たちと同じように部屋のドアを開けて見始めていた。
「あら。でも洋室ばっかりなのね。慎太郎、いつも将棋のときは和室を使ってたから……」
「あ。寮長さんの部屋は和室です。っていうか、下に畳を敷いただけですけど」
「そうなの? じゃあうちの子も入学したら、そのお部屋を使わせてもらえるのかしら?」
「えーっと、あの……。部屋を改装するのは自由なんです。部屋を替わるときに元に戻しさえすればいいだけで。……っと、そうだ。ちょっとこっちの部屋を見てもらえますか? 思いっきり改装しちゃってる部屋があるんです」
「思いきりと言ったって、これだけの広さしかないわけだからなあ」
 説明がうまくできなくて、啓太は実物を見せることにした。百聞は一見にしかず、というやつである。騒がしいのが嫌いな西園寺がこんな日に部屋にいるわけがない。と思いつつ軽くノックして、啓太は西園寺の部屋のドアを開けた。同時に「うわ〜」とも「ひゃ〜」ともつかない声が4人の口から洩れる。それが部屋に対してだったのか、部屋の住人に対してだったのか、啓太には判断がつかなかった。なぜなら豪華な部屋の豪華な住人が、いとも優雅に立ち上がって彼らを出迎えたからである。
 啓太のこれまでの行動パターンから、条件がそろいさえすれば笠原ファミリーをこの部屋に連れてくるに違いないと、西園寺は踏んでいた。あとは七条に命じて防犯カメラの映像を自室のパソコンに流させればいい。もしこの部屋に来ずに寮を出てしまったら、適当なところで「偶然に」遭遇するつもりだった。西園寺は別に将棋小僧にもその姉にも興味はなかったが、幼なじみがようやく掴んだ幸せを失うような真似をさせたくなかったのである。とびきりのいい女ならともかくこの程度では、かわいそうでも啓太に泣いてもらうしかない。啓太の社会復帰の可能性と七条の幸福とでは、西園寺にはかける天秤さえないのだ。
「すっ、すみません。いらしたとは思わなくて……」
「いや、かまわない。誰かが入ってくるかもしれないのを承知で部屋に残っていたんだ。どうぞ、お好きに見てくださって結構です」
 さりげなく。本当にさりげなく、西園寺が適度な好意を含んだ目線を典子に流した。和希ほどではないにしろ、西園寺もまた、それなりの地位や身分にある人物たちと対等に渉りあっているのだ。一般庶民など篭絡するのに1分もかからなかった。典子の顔はまるで茹ったように真っ赤になり、口元を両手で覆ってがたがた震えている。母親も似たり寄ったりである。啓太はその様子に気づいていたが、西園寺相手では苦笑をもらすしかなかった。自分もはじめてちゃんと話したときには似たようなものだったのだ。人のことは言えない。
 そうは言ってもこのままぼーっとしているわけにはいかなかった。西園寺に対しても失礼である。どうしようかと啓太が思案をめぐらせていると、ノックの音がしてドアが開いた。中に入ってきた篠宮は見学者がいるのに気がついて、慌てて姿勢を正した。
「これは……。失礼を致しました」
「あ、ああ。いや。どうぞおかまいなく」
「申し訳ありません」
 突然の日本男児の出現に、何が起こったのかと目を丸くする笠原ファミリーに完璧な一礼をしてから、篠宮は西園寺に向き直った。
「すまないがちょっと通訳に来てくれないか」
「通訳? 臣では駄目なのか?」
「ああ。子供の頃からロシアにバレエ留学していた生徒がきているんだ。こちらの話す日本語は理解できるんだが、まだ口の方がうまく出ないようなんだ。さすがにロシア語となるとほかに人がいない」
「分った。すぐに行こう」
 え!? ロシア語……? 通訳……? 
 丸くなっていた目を今度は点にして、まだ立ち尽くしている笠原ファミリーに「申し訳ありませんがこれで中座させていただきます。どうぞごゆっくり、部屋の中はご覧下さい」と言い残した西園寺は、後姿にまで余韻を残して篠宮と部屋を出て行った。笠原ファミリーの呪縛が解けたのはそれからたっぷり5分はあとだった。啓太のポイントはすでにマイナス100点を超えている。

「……なんだったのかね、今のは」
「なんか白昼夢みたいな気がした」
「西園寺さんに会うと、最初は顔が綺麗のに驚いて、次に頭がいいのに驚くんですよね。BL学園は単位制の高校なんですけど、1年のときにもう必要な単位は全部とっちゃったそうです。特に語学がすごくて、いったい何ヶ国語喋れるのか、俺なんかには見当もつかないです。各国の大使クラスの人たちとも親しいんですよ」
「はああ〜。いるんだねぇ。そういうのってドラマの中だけだと思ってたよ」
「……僕も」
 寮を出て図書館に向かいながら、啓太は笠原父子に西園寺の説明をしていた。母親と娘はまだぽ〜っとしているようで、話には加わってこなかった。というより口を開いたらそこから西園寺の残像がこぼれ落ちてしまいそうで、もったいなくて口がきけなかったのだ。だがさすがに西園寺はあらゆる意味ですごすぎたようだ。いかに夢見る乙女といえども、西園寺が自分の恋人になってくれるとは思わない。寮から図書館までの距離は熱を冷ましていく距離でもあり、啓太のことを見直すための距離でもあった。
 ところが図書館には悪魔が潜んでいた。閲覧室にいた七条はパソコンのキィボードを叩く手を休めもせず、啓太に笑いかけた。
「伊藤くん、ご案内ですか?」
「はい。七条さんは、今日は何を作ってるんですか?」
「海野先生に頼まれて、研究用のプログラムを組んでいるんですよ」
 自分以外の女の子に浮かれている啓太に、実のところ七条は心の底の方で静かに怒っていた。もちろん顔に出すこともなければ、中嶋のようにそれでお仕置きをしたりすることもない。だがその女の子と啓太がくっつくことだけは、断固として阻止するつもりでいた。
 七条は自分のことをよく知っている男である。プラチナブロンドの髪と紫の瞳は、田舎の小学生にはいじめの口実にしかならないかもしれないが、都会の女子高生が相手なら、それは七条の最大の武器になる。そこに柔和な笑みを浮かべ、穏やかな口調で知的な会話をする。自分がまとわせている胡散臭さも、ごく短時間なら悟らせないだけの自信はあった。わざと啓太にだけ眼を向けているのも、その方が効果的と判断したためである。
 七条の思惑通り、啓太たちが図書館から離れる頃には、啓太に向き直りかけていた典子の気持ちは揺らぎ始めていた。
―― この学校にはなんて素敵な人が多いんだろう? 他の人たちに比べると、伊藤くんってちょっと子供っぽいかも……。
 彼らの姿が見えなくなったとたん、翼を思いっきり広げた七条は、すでに用意していたメールを送信した。
『伊藤くんが図書館を出ます』
―― いよいよ真打の登場である。

 図書館を出た啓太たちがクラブハウスに行きかけると、数人のテニス部員と共に成瀬が歩いてきた。ひとりで現れないあたり手が込んでいる。
「やあ、啓太じゃないか。案内ご苦労さま」
「テニス部のデモンストレーションは終わったんですか?」
「うん。僕の出番は終わり。今は他の部員がやってるよ。……それより紹介してくれないのかい? 将来のテニス部員候補君なんだろう?」
「はい」と言わせてしまう笑顔で促された啓太は、不信感など覚えもせずに笠原慎太郎を照会した。
「ああ、えっと……。笠原慎太郎くんです。こちらはテニス部の成瀬さん」
「はじめまして。成瀬由紀彦です。……っていうことは、もしかして君が啓太の幼なじみなのかな?」
「えっ? ええ……」
 将来のテニス部員候補君はどこへやら。ラブファイター成瀬は、自分のすべてのキャリアの中から選って選って選りすぐった笑顔を笠原典子に向けた。かてて加えて、いつの間にやら彼女と啓太の関係を『幼なじみ』にすりかえてしまっていた。この瞬間、啓太が典子と恋人になれる可能性は消えてしまったといっていい。彼女の記憶細胞には、すでに『伊藤くんはただの幼なじみ』と刷り込まれてしまったのだ。ラブファイターの異名は伊達ではない。
「啓太から話を聞いて、ぜひ会ってみたいって思ってたんだよ。こんなところで偶然に会えるなんて、これって運命なのかな?」
「そんな……」
 ここまでくれば啓太も怪しいと思わなければならなかった。気づきさえすれば、成瀬を引き離すこともできただろう。海軍並みのスマートさをモットーとする成瀬は、女の子相手にくずぐずかかわるのは逆効果だと知っているからだ。だが不幸なことに、啓太には成瀬からの熱烈なラブ・コールに免疫があった。それがかえって災いして、成瀬ならこういうのも挨拶のうちだと思ってしまったのだ。だから成瀬が啓太たちを学食に招いたときも、何も疑わずに受け入れてしまっていた。
「啓太。今、学食で見学者の皆さんにお茶を出してるんだ。行って休憩すれば?」
「そうですね。……どうしますか?」
「お茶なら私も頂きたいわ。ここの学校って広くって……。ねえ、お父さん」
「そうだな」
「じゃあ行きましょう。こちらです」
 成瀬はうまく一行の中にまぎれこんだ。成瀬はしっかりと笠原典子の隣を歩いていたが、他のテニス部員たちがカモフラージュになっていたので、誰も不思議に思わなかった。

 学食の入り口で啓太は俊介に呼び止められた。そんなところで大勢が立ち止まるわけにもいかず、成瀬たちが笠原ファミリーを連れて中に入った。
「あのな。女王様見んかったか? 寮長さんが通訳探しとんや」
「西園寺さんならもう篠宮さんと一緒に行ったよ」
「ああ。なんや会えたんやな。ほなええわ。邪魔したな。おおきに」
「うん。じゃあ俺、案内の途中だから、またな」
 そして一足遅れて学食に入った啓太は、あらゆる意味で出遅れてしまったことを悟るしかなかった。
 窓際のテーブルでは、全開モードの成瀬、和希、岩井、中嶋の4人が、笠原典子と話を弾ませていたのだった。


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 直球勝負しかできない丹羽は、啓太が初恋の人と劇的な再会ができたことを、心の底から喜んでいた。あとで冷やかしてやらねばならないだろう。
 七条に協力してやるつもりなどさらさらなかったが、からかい甲斐のある啓太をおもちゃにできて、中嶋はいたって満足だった。
 あるのかないのか分からないような関係をもちだしてBL学園生に手紙を送ってくる女など、ロクな者ではないと思っている岩井は、かわいい啓太がつまらない女に引っかからなくて良かったと、心の底から満足していた。
 そんな相談を受けた篠宮は、岩井の心配は至極もっともだと考えたので、陰ながら協力できたことに今頃は満足していることだろう。
 自分に目を向けてくれるならいざ知らず、ぽっと出の女になど啓太を奪われたくなかった成瀬は、阻止できたのと同時にラブファイターとしてのプライドも満足させられたので、これ以上、喜ばしいことはなかった。七条が相手なら、まだ目が届くというものだ。
 学食の入口で啓太を呼び止めるという大役を果たした俊介は、たったそれだけのために食券10枚 ―― 内訳は成瀬 ・七条 …… 各3枚、和希 …… 2枚。岩井 ・ 篠宮 ……各1枚 ―― を手にして、とても満足していた。
 かわいい啓太に、ただでさえ胡散臭い七条という虫をつけてしまったことに後悔しまくっている和希は、新たな虫をつけてこれ以上事態がややこしくなる前に幕引きができて、とても満足していた。
 側近の幸せを壊さずにすんで、西園寺はいたって満足していた。よほどいい女なら諦めるよう七条に諭してやるつもりだったのだが、彼女は到底そのレベルではなかったからだ。もっとも、自分の鑑識(めがね)が一般庶民と比べてどれだけ高いのか、西園寺は知る由もなかったが。
 すべてのことが驚くくらいスムーズに進み、何もかもがあるべきところに、しかも丸く収まったので、七条はとても満足だった。そしてしょんぼりと戻ってくる啓太を慰めるために、薫り高いお茶と啓太のお気に入りのケーキを用意し、シーツを新しいものに取替えたのだった。
 中嶋と俊介を除いた全員が満足できたのは、それが啓太のためだと信じて疑わなかったからだ。だが啓太自身の満足を考えたのは誰もいないようである。みんなから愛されるのも、ある意味、不幸なことかもしれなかった……。





いずみんから一言。

明けましておめでとうございます。
新年早々ですが、啓太くんをおちょくりたくなってしまいました。
で、書きはじめたら、我も我もといった感じでみんなが啓太くんをおちょくりはじめ、ほとんど
オールキャラ出演ですね。おかげで枚数は予定の倍です(苦笑)。
あんまりおちょくれてないのは、まあお正月のお祝儀ということで読みとぱして頂ければ(爆)。
こんな Izmic Cafe ですが、本年もよろしくお願い申し上げます。

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