もう夏ではないある日 |
空の色が変わった。うんざりするような青に透明感が加わってきている。空が高くなったというよりは、遠くなった、という方が近いかもしれない。そしてそれに比例して威圧するようにそびえていた雲がちぎれていき、今では絹を刷いたような雲が空を彩る。天はしっかりと秋への衣替えを進めているようだ。……ただ、この暑さを除いては。 地球の温暖化が進んだのか、今の日本は完全に亜熱帯だ。冬は来るが秋はほとんどなくなった。今年もすでに秋のはずなのにいつまでも暑い。街を歩く若い女の服装など、夏場とさしてかわらないものばかりだ。真夏ほどの湿度がない分、彼女たちはじつに快適そうに街を闊歩している。しかしビジネスマンたるものには何故か上着が必要だった。上着がないと相手に失礼だからだ。しかもどんなに暑くても10月を過ぎればそれは、分厚い合服に変えさせられるのだ。慣習という名の強制というやつだ。ワイシャツにネクタイに上着。どれも亜熱帯には馴染まない。フィリピンあたりの衣装は気候に合わせて作られているのに、日本は何故こんな欧米と同じものを着ているんだろう。和希を仕込んでくれた篠田のじいさまは、「これも行でございます」と言っていた。では暑くてうんざりしている自分は、まだ修行が足りないのだろうか。暑い思いをしてそれで何を得られるのか、今でもまだわからないでいるのだけれど。 手にしていた書類のフォルダを小脇に挟んだ和希は、車の中で緩めていたネクタイを締めなおしながら足早に会議室に向かっていた。建物の中だからよかったものの、外でこんな歩き方をしたら、あっという間に汗がにじんでいたに違いない。 だけど。ドアの前で足を止めた和希はひと息を入れた。中に入ると、上着を着て外を歩く方がよほどましだと思える状況になっているはずだ。それも行と呼ぶのか和希は知らない。知りたくもなかった。 かちゃり。ドアを開ける音がいやに響いた気がした。それはもちろん、和希の勝手な感じ方だったのだろうけれど。少なくとも中にいた全員が一斉に和希の方を見る程度の音ではあったようだ。そこに全員が揃っているのを見てとって、和希はひとつ小さく頷いた。会議室に集まっていたのは4人。西園寺と七条の会計部コンビ。そして元・学生会の丹羽と中嶋だった。 「皆、忙しいときにすまない。特に丹羽くんと中嶋くんには卒業してまでの招集要請に応じてくれたこと、感謝する」 「まったくだ。俺たちはお気楽な高校生でも、時間に融通のきく会社役員でもないんだ」 「おやおや。相変わらず計画性のない生活を送ってらっしゃるようで……」 「大学に入ってみろ。高校の勉強はお気楽だったとわかるだろうさ」 「だが中嶋。忙しいとアピールしている割には、議事の進行を阻害しているのはお前だと思うが?」 一気に室温が下がった気がした。ここは亜熱帯の日本であったはずなのに、いつの間にか極北に来てしまったかのようだ。座席の間を凍りついた風がすり抜けていく気がする。だがやれやれとため息をつく間もなく、それまで苦笑交じりで不毛な応酬を聞いていた丹羽が、にぱっと笑って背を起こした。 「ま、そういうことだな。郁ちゃんはやっぱいいこと言うぜ!」 何が「言うぜ!」だと思いはしたが、その一言で場の空気が変わったのも事実だった。どうやら『王様』は卒業しても健在らしい。こんなやり方ができるのはおそらく彼だけだ。自分だったらどうするだろう。そんなことを考えながら、和希は小脇に抱えたままだったフォルダからクリップ留めした資料を出し、すぐ横にいた西園寺の前に置いた。七条も中嶋もさすがに引きずることなく資料を回していく。いきわたったのを見て前置きもなく本題に入った。 「誰かが学園のシステムに侵入している」 そして一気につづけた。 「目的は啓太のデータ。毎日毎日、なめるように眺めてくれている」 夏服から冬服へ。衣替えの直後は暑いものだ。半袖でいながら「暑い」と文句を言っていた昨日までの自分が、とてつもなく贅沢なわがまま者だったように思えてしまう。昨日と今日と、気温はただの1℃も違わない。なのに今日は長袖で、見た目にも暑そうな色の上着まで着ている。それで自転車なんかに乗った日にはもう暑すぎていけない。しかも目の前にはご丁寧に上り坂が延びていた。急ではないがだらだらと長い。今日のデリバはこの坂を越えた向こうだというのに、ペダルを踏む啓太の足はもうへろへろだった。 「なあ、暑いよなあ。自分も暑い思うやろ? なんでこないにいつまでも暑いんやろ。ほんまCo2はソッコー全面排出禁止にせなあかんわ」 「って言うかさ。往復のタクシー代はもらったんだからタク乗ればよかったんだよ」 「あかんあかん。売上げがかわらへんのやったら経費を下げなな。利益はあがらへん」 あがらへんと言われても暑いものは暑い。ここは高級とまではいかないまでもそこそこ大きな住宅街である。緑は他所より多いし街路樹も整備されているが、両側に並んだ大き目の家の白い壁が照り返してくる太陽がうんざりするほどだ。夏ならいっそ諦めがつくのだろうが。それに鍛え抜かれた俊介と違い啓太の足でこの坂はきつかった。ため息をつきかけたその横を、1台のタクシーがいとも軽やかに追い抜いて行く。俊介のあとを必死に追いながら、あれに乗れないかなと、啓太は結構真剣に思った。 「せやけど、もうひとがんばりや。この坂さえ越えたらあとはグロ女のある山手町やん。高級住宅街に入ったらもちょっとくらいは楽になる」 「楽になるって言うけどさあ、俺もういいかげん汗かいちゃってるんだけど」 「気にすんな。俺もや」 「けど。これから行くの女子高だろ? あんまり汗臭いと嫌がられないかなあ……って思った」 不意に。本当に不意に風景が変わった。つまり、目の前にあった俊介の背中がなくなったのだ。いつの間にか啓太の前にはだらだら坂だけが広がっている。自転車を止めて振り返ると、腕のあたりをくんくんしている俊介がいた。 「なあ、俺、臭いと思う?」 「たぶん」 「せっかくグローリア女子高の子と知り合えるチャンスや言うのに……。臭いのはまずいよなあ、やっぱり」 今更だとは思ったが、啓太は「うん」とだけ答えた。どうせ寮に戻って着替える時間などないのだ。どこか冷房の効いたところで汗を引かせれば少しはマシになるかもしれないが、コンビニさえ目につかない住宅地では、できることは何もなかった。 「啓太は前にも行ってんねんやんなあ。その時はやっぱタク使うたんか?」 「いや、海野先生のクルマだった」 あれは夏休みが終わってすぐのことだった。この坂の向こうにあるグローリア女子高の生物部からBL学園学生会に、とあるシダ類の標本を貸してもらえないかと依頼があった。生物部の今年の研究テーマがシダ類で、部員が夏休みに集めてきた標本の中に、このあたりではまだ確認されていない種類のものが含まれているようなのだ、と。本当にその種類のものなのか比較検討するために標本を借りたいというわけだ。学生会長である啓太が確認したところ、学園としてはその種のシダの標本を所蔵していなかったのだが、話を聞いた海野が自身のコレクションの貸与を申し出たのだった。 ―― もしこれで確認できたら、北限のラインは大幅に書き直されることになるんだ。そんなすごい瞬間にぼくの標本が使ってもらえるなんて。すごく名誉で、なんだかわくわくするよね……。 先方は週末に取りに来ると言ったが、海野はそれでは遅いとクルマを走らせた。残念ながら採集されたのは以前からこの地方で確認されていたシダ類で、今日のデリバはその標本を回収しにいく、というものだった。借りたものなら自分で返しに来いと普通は思うが、女子高に足を踏み入れる貴重なチャンスをつぶす馬鹿な高校生男子はいない。標本を貸したという話を聞きつけた俊介は、自分から海野に売り込みをかけたのだった。 「グローリア女子言うたらこの辺ではトップクラスのお嬢様学校やん。やっぱ美人が多いんやろなあ」 「それはわかんないけど、笑い声が『おほほほほ』だったのには驚いた」 「ひゃ〜、そら驚くわ。そんなんドラマの中だけやと思とった」 人生なんて一寸先は闇。今がこうでも10秒後も同じ状態だという保証はどこにもない。だがそれは、言い換えると一寸先が光ということにならないか? その一件で危機感を感じたらしい俊介はその場で自転車の利用をあきらめた。……つまり、戻ってきた先刻のタクシーを呼び止めるという方法で。中は天国のように涼しかった。気の毒に思ったのか、それとも臭いのが嫌だったのか。運転手さんが温度を下げてくれたおかげで汗も一気に引いた。だからといって汗臭さがなくなったわけじゃないのが、啓太にはちょっと情けなかった。 「セキュリティを破られるとは。何の冗談だ?」 「おまぬけもほどほどにしてくださらないと。伊藤くんに何かあってからでは遅いんですよ」 「そんなに毎日通ってくるのに跡をたどれない、ってのも問題だな」 「それより相手の意図が不明で不気味だ」 黙って聞いていれば好きなことを言われているようだ。だが和希は逆に、この程度ですんでいることに驚いていた。本当を言うともっと悪口雑言をあびせられるのではないかと思っていたのだ。この口数の少なさは彼らの危機感の高さを示している。そう。これは危機なのだ。 気づいたのは8月の終わりだった。はっきりとわかったわけではないが、何か違和感のようなものを感じた。そのときはヨーロッパへの出張を控えていたので、あとをシステム情報部に託した。ところが帰国して受けた報告では、外部の者が啓太のデータに侵入していると確認できたところ止まりだったのだ。素人じゃあるまいに何をしているんだか。そう思った和希だったが、すぐにその意味が分かった。あとがたどれないのである。もちろん簡単にいきつけるとは、もとより和希も思ってはいない。しかし数日かけてできたのはしっぽをつかむことではなく、せいぜいが影の端を踏む程度でしかなかった。相手はむしろのんびりといった感じで啓太のデータを眺めているにも関わらず、だ。 「奴は毎日、侵入方法を変えてくる。こちらがデータを移動させても、何事もなかったように新しい場所を見つけて入ってくる。そしたらほかには目もくれず、啓太のデータにまっしぐらだ。おかげで啓太以外のデータはダミーに差し替えられたけどね。5分近くも啓太の写真を眺める様子はむしろ無防備と言っていい。アンバランスすぎる」 「つまり、相手はふたりいる。と?」 「たぶん」 和希が追って追い切れない相手というのも不気味だったが、何の目的で啓太のデータを眺めに来るのかも分からなかった。西園寺の言ではないが、相手の意図が分からないのはあまりに不気味だった。手当たり次第にデータを食い散らしてくれる方が、まだ気分的にはすっきりする。 「で?」 眼鏡を押し上げながら中嶋が言う。彼には珍しく皮肉のかけらもない口調だった。 「俺たちに何をさせたい」 「んなこと決まって……」 言いさした丹羽を、西園寺が無言で止めた。こんなところに呼び集められた以上、和希が自分たちに侵入者のあとを追わせたいことくらい、誰もが理解している。それを敢えて問おうとしているのだ。そんなことが聞きたいのではないだろう。 「言い方を変えよう。おまえはどの立場で俺たちに仕事をさせようとしている。理事長か。システムエンジニアか」 それはつまり、理事長として学園のデータ流出に対処したいのか。それとも自分の鼻先で好き勝手されて傷ついたプライドを宥めたいだけなのか。と、問いかけているのだ。そんなこと知らなくてももちろん侵入者は追える。だが誰もが自身の予定を持っていた。それがたとえポテトチップをつまみながらレンタルしてきたアニメを見る程度のものだったとしても、だ。有無を言わせず中断させ呼び集めても唯々諾々として協力すると、当然のように思われたらたまらない。 「もちろん理事長としてだ。と言いたいところだ……が、実際は違うな。わたしは腹をたててるんだよ。無作法な侵入者にも。そいつを捕えられない自分にも、ね」 4人の口からそれぞれに、それぞれの思いをのせたため息が漏れた。それはそうだろう。寮にいる西園寺や七条はまだしも、そんな理由で東京から呼びつけられたとあっては、丹羽や中嶋が馬鹿にするなと席を立っても責められまい。だが彼らはそのため息ひとつで終わらせてしまった。建て前でなく本音をさらしたところがよかったのかどうかは、和希にはきっとわからないままなのに違いない。 「ところで。当の啓太はどうした」 「今日は滝とおつかいに出した。……こんな話し合いをしてるところを見せたくない」 「気持ちはわからないでもないが、まったく知らせないつもりか」 和希の本音には何も言わなかった西園寺がこんなところで口を開いた。本人の知らないところで勝手に動いていいものではないからだ。 「相手の意図が分からないんだ。今この瞬間に直接の危害が加えられたらどうする」 「今日は大丈夫だろう。行先はグローリア女子高だ。あそこは山手町の真ん中だから」 「ポリ車の巡回も多いしな」 丹羽が納得したように頷いた。グローリア女子高のある山手町一帯は高級住宅街でパトカーの巡回も多いし、町内自治会で防犯カメラもあちこちに設置してある。もとはそこのお嬢様のために作られた学校だから、学校内のセキュリティもしっかりしていた。 「ま、今日はともかく明日からは。いえ。今夜からは僕が伊藤くんをしっかりお守りします」 「七条?」 「ですから皆さんは、しっかりがんばって犯人を見つけてくださいね?」 白々しいほどにっこりと七条が笑う。呆れたように西園寺がそっぽを向いた。 さて。それから3日後のことである。啓太はよろよろと授業に出てきた。あの日。グローリア女子高から戻ってくるなり拉致同然に七条の部屋に連れ込まれ、今朝まで出してもらえなかったのだ。当日はさほどでもなかったのに、翌朝には「外は危険です」と言われて朝食にも出られなかった。SOSメールを送った和希までもがそれを否定しなかったために、逃げ出す機会を失ったような感じだった。バストイレ付という部屋は便利でもあるが、こういうときに逃げ場がなくて困る。だが本当に啓太が困ったのは、出席日数が足りなくなると七条を泣き落として授業に出てきてからだった。 「よっ! 色男。相手がグローリアとは羨ましい」 「なあ、俺にも誰か紹介してくれよ」 「あぁグローリア! いいなあ。いいよなあ……」 何がいいのか何が羨ましいのか。問い返す暇さえ啓太には与えられなかった。だが、誰と? という答えはすぐに得られた。「な、サオリちゃんっていうんだろ? かわいい系か?」と聞いてきた同級生がいたからだ。サオリちゃんとはグローリア女子高生物部の副部長、伊集院沙織のことに違いない。例のシダ類を見つけてきたご本人である。色白で目が大きくて、リップクリームを使っているように見えないのに、かわいらしく引き締められたくちびるがつややかな桜色をしていた。絹糸みたいな長い黒髪をポニーテールにして紺のリボンで結んでいる。それがアニメの美少女剣士を連想させ、あまりにも名前とぴったりで覚えていたのだ。そしてうるさい外野の言をあれこれつなぎ合わせているうちに、どうやら知らない間に彼女と付き合っていることになっているらしいことがわかってきた。 ―― 伊藤さん。またお会いできるなんて思ってもみなかったです。沙織、すっごくう れしい……! ―― 伊藤さんってずっと寮にいらっしゃるんですよね? 今度このお礼に、母の手 料理をご馳走させていただいてもいいですか? ―― 伊藤さんは学園MVPだって聞いたんですけど……。えぇっ! 本当だったん ですか? すっごぉーい……! 「くっそー。俊介の奴……!」 群がっていたクラスメイトが予鈴でやっと離れてくれて、机に突っ伏した啓太がぼやきにぼやいた。伊藤さん、伊藤さんとまとわりついてくる彼女のことを、面白おかしく吹聴して回る姿が目に浮かぶ。啓太だって健全な男子高校生だ。女子高生が。それもかわいい系の子が大きな目をぱちぱちさせながら会えてうれしいと言ってくれているのだ。長くてさらさらで艶々した髪は揺れるたびに甘い香りがしていたし。思わずでれでれしたって不可抗力というものだろう? なのに。 「疲れてるな、啓太」 遅刻ぎりぎりで滑りこんできたらしい和希が後ろから声をかけてきた。その声が心なしか気の毒そうに聞こえた。啓太にグローリアへ行かせたのは、他ならない和希である。ついでに言えば海野の都合がつかないと聞いて、以前から売り込みをかけていた俊介に同行を頼むようにしたのも和希だった。丹羽や中嶋との会合の中身を、ほんの少しでも知られたくなかったからである。海野の動ける日だったらこんなことにはならなかったに違いない。 「疲れてるよ。疲れてますとも」 「……だよな」 「ということで、俺は寝るからフォローよろしく」 じゃっ! と手をあげた啓太のアタマを、某新喜劇よろしく和希がはたいた。そんなわけにいくかっ!といったところだ。アタマを押さえた啓太が恨みがましい目で振り向いた。 「なんだよう、自分はいっつも寝てるくせに」 「寝てるから言ってる。1時限目はやめとけ。千田先生は見つかるとエグい。これも立派なフォローだ」 放課後に呼び出されて1時間以上説教されると聞いて、啓太は授業の間中必死に目をこじあけていた。途中で何度か寝落ちしそうになったものの、和希がビンビンに尖らせた鉛筆の先で背中を遠慮なくぷすぷすやってくれたおかげで、なんとか乗り切ることができた。だが今日1日の授業がすべて終わった瞬間、その努力をはげしく後悔した。ドアの向こうに筋肉笑いを貼りつけた七条が立ちはだかっていたのだ。嫌〜な予感に襲われ、啓太は思わず駆け寄りかけた足を止めた。 「伊藤くんは女子高生とずいぶん親しくおなりのようですね」 「そ……、そんなことないです!」 「そうですか? 滝くんがあちこちで言っているのを耳にしましたが?」 「あれは俊介が勝手に言ってるだけですよぉ……。たまたま俺が前にも行って顔見知りだったからまとわりついてきただけで」 「グローリア女子の女の子にまとわりつかれたら、さぞうれしかったでしょうね……」 「七条さぁん……(涙)」 「もちろん僕は、伊藤くんが浮気をしているなんて、これっぽっちも思ったりしていませんが」 今日は厄日か? と啓太は思わずにいられなかった。こんなに七条さん一筋で生きてきているのに、ちょっと ―― そう、本当に『ちょっと』だけだ ―― かわいらしい女の子に鼻の下を伸ばしただけで、なんでこんな目にあわなくてはいけないのか。だが啓太は七条の寂しげな瞳に気がついてしまった。胸に何かが、きゅんと突き刺さる。今日は厄日か? じゃない。今日は厄日そのものなのだ。 「……浮気なんかしてないですよ?」 「知ってますよ。ただ……」 啓太は七条の手を取った。温かくて大きくて安心のできる七条の、手。でも今日は少し冷たく感じられる。 そして啓太は七条の目をのぞきこむ。アメジストの瞳は本当にきれいなのに、今日はそれがまるでガラス玉のように見えた。 「部屋に行きましょう? 行って、それで……。ふたりだけで過ごすんです。大盛りのアイスクリームでも食べながら映画でも見たら、きっと楽しいです」 俊介に頼んで橋向こうの街からアイスクリームを届けてもらっても、前後編の映画を選んだとしても、放課後からだと8時にもならないうちに終わってしまう。あとはもうお決まりのコースへまっしぐら、である。こうして啓太はこの日もまた、七条の部屋に捕らわれの身となったのだった。 その夜。あまり遅くはない時間。薄暗くなった廊下の角を背の高い影が曲がった。消灯時間が過ぎているのをまったく意に介さない様子で足を運んでいる。階段を降りたところで向きを変え、食堂の方へ進んだ。自販機が置いてあるからかガラスの扉に鍵はかかっていない。半分ほど開けてするりと中へ入り込むと、厨房の窓から外へ出た。常夜灯の淡い光に銀の髪が鈍く光った。 サーバー棟は明々と電気が点けられていた。そういう時、必ず待機しているはずの理事長専用車がないのを見て、七条は片眉を軽く跳ね上げた。こういう状況であるにもかかわらず、理事長殿はどこかの誰かと酒でも飲んでいるらしい。それはそうだろう。社会人なんだから。仕事が最優先だ。 電算室に入ると丹羽がメインコンピュターの端末の前で、中嶋と西園寺がサブシステムのパソコンの前で、ちょっとぼんやり気味にコーヒーを手にしていた。例の犯人が侵入してくるまで、まだ少し間があるらしい。追跡作業もすでに4日目。その程度のパターンくらいは掴んでいて当然だ。七条の顔を見て西園寺がカップをソーサーに戻した。 「さっさと作業に加わってくれ。おまえがいないと不味いコーヒーばかり飲まされる」 「不味くはないだろう。理事長殿差し入れのマンデリンだ。豆も焙煎も最高級だ」 「ではきっと淹れ方が悪いんですね。最高級の豆が可哀そうです」 毒を含んだ七条の言葉に中嶋の眉が跳ね上がる。だが何も言わなかった。口を開く前に、外でクルマの急停車する音が聞こえたのだ。「キキーッ!」という鋭い音に、その場にいた全員が思わず顔を窓に向ける。慌ただしくドアが開き、乱暴に閉められた。叩きつけるような靴音がそれに続き、窓に向いていた顔は誰からともなくドアの方に向けられた。あの理事長がこんなふうに走ってくるとは珍しい。その勢いそのままにドアが開けられ、険しい表情の和希が飛び込んできた。 「ずいぶん急いでいるな。臣、冷たい水を入れてやれ」 「はい。郁」 乱れた前髪をかき上げた和希が、はじめて気づいたように七条を見た。 「君も来ていたのか。啓太はどうした」 「皆さんが手間取っているおかげでずいぶん疲れてしまっているようでしたから、僕の部屋で眠ってもらっていますよ。それで僕の方は進捗状況を確認しに来た、というわけです」 「なるほど。じゃあ君も作業に入ってもらおう」 そういって和希はポケットから二つ折りのメモを取り出した。受け取った西園寺がそれを開き……、思わず息をのんだ。中には16桁の数字が8つと、アルファベットの羅列がいくつも並んでいた。何事かと西園寺の手元をのぞきこんだ七条は片眉を跳ね上げ、中嶋は眼鏡を押し上げた。そして丹羽はため息をひとつついて、そのメモを取り上げた。 「七条」 「はい?」 「今使ってる追跡プログラムにこいつを組み込めるか? 時間は1時間だ」 「無理ですね」 「おい……」 「どうせ理事長が組んだオリジナルなんでしょう? いちいち目を通してなんていられません。1から組んだ方が早いです」 「じゃあすぐにかかってくれ。郁ちゃんはサポートを頼む。俺と中嶋は組み込む方をやってみる。 これは何かと聞くものは誰もおらず、皆が黙って次の作業に入ったのを見て、和希は小さく頷いた。『見てわからないものは聞いても分からない』というものが世の中には存在する。このメモの中身はその最たるものだった。 「何も言うなよ」 七条に負けないスピードで、だが何倍もの大きな音をたててキィボードを叩いていた丹羽が、モニタを睨みつけたままぼそりと言った。 「こんなシロモノ、どこで手に入れたかなんて知りたくないからな」 「わかってるさ。聞いてしまったら知らないことにはできないからな」 「ったく。こんなヤバイもの持ち込むな。ここは民間の高校なんだぞ」 和希のくちびるの両端がゆっくりと吊り上る。肯定なのか否定なのか、頭がゆっくりと左右に振られる。さらさらした髪が一瞬遅れてふわりと舞った。 いつものように『誰か』が侵入し、やすやすと啓太のデータに行きついた。のんびりと、としか表現しようのない悠長さで啓太の写真を眺め、その後は学生会での活動記録を読み耽っている。試験成績を見ているよりは時間がかかるだろうが、追跡する側に時間の猶予はなかった。すぐに作業を開始する。最初はキプロスのサーバーだった。さらにトルコ、アブダビと経由して後を追う丹羽たちの前で、モニタの画面が次々に変わっていった。とにかくスピードが速い。これが2時間前までと同じパソコンかと思うくらいだ。昨夜まではどうしても入れなかった壁が、今日は拍子抜けするほどあっさりと開かれていくのだ。まるで「開けゴマ」と唱えられたかのように。和希のもってきたメモはまさに魔法の呪文だった。 丹羽たちは軍事衛星の利用端末に入り込んだと思っているようで、和希もそれを敢えて否定しなかったのだが現実は違う。いくら啓太のことになると手段を選ばなくなる和希といえどそこまではしない。目的はそれぞれだが、同じような設備を持っている民間の団体がいくつもあるからだ。そういうところと直接の関係を持っているわけではなかったが、そういうところに伝手をもっている人物に、和希は「ちょっとした」貸しを作っていたのだった。 「戻るぞ」 西園寺が短く言った。和希は無言で頷いた。世界各地を転々としてきた侵入者の「足」が日本に戻ってくる。七条のモニタは目まぐるしく数字が変わっていき、別に開いた黒窓では無数のアルファベットが下から上へとスクロールされていく。サブのシステムで追っている中嶋のモニタも似たようなものだ。丹羽のモニタでは地図が絞り込まれていく。縦と横に線が現れ、十文字にクロスされるとそこが拡大する。それが何度か繰り返されたとき。誰からともなく唸り声のような声が漏れた。 「橋向こうかよ」 「まったくの予想外だったとは言わないが……」 「ああ。むしろありそうな話ではあるのだが」 「だが……。やはり意外だ」 絞り込みが終了し、パソコンの画面が止まった。七条の画面は東経と北緯の数字を、丹羽と中嶋の画面は地図上の1点を示している。それはここから車で20分程の場所だろうか。啓太個人のデータにだけ固執していたことから、相手が近場にいることは十分に予想できていた。だが予想するのと目の当たりにするのとは、少々事情が違っているようだ。 「住宅地図と重ね合わせてくれ」 そして3枚の画面に浮かび上がったのは、閑静な住宅地にある1件の邸宅だった。橋を渡って街に入り、少し東へ寄ったところで坂を上がる。だらだらと、だが長い坂を上りきったところの地名は山手町という。さらにZ社の住宅地図は便利だ。ちゃんと地図に名前を書いてくれてある。 「伊集院、か。どういう家だろう」 「遠藤。心当たりはないのか。何か接点があるだろう」 「いや……。すぐには思い当たらないんだが」 不意に、パソコンを置いたデスクに手をついて七条が立ち上がった。彼にも似合わずそのまま立ち上がったので、コマの向きが合ってなかったのか、引けなかった椅子が音をたてて後ろに倒れた。 「おいおい」 「臣。何をやっている」 相手を突き止めた解放感からか、眉を跳ね上げた西園寺の声にもからかうような軽さが含まれていた。だがそれに気づく様子もなく、七条は立ち上がったままの状態で何事かを考えている。たっぷり3秒もその状態でいて、ようやく七条は和希の方へ向き直った。 「山手町の伊集院家、ですね。そこにサオリという高校生はいますか」 「いや……。まだそこまでは」 「では至急、確認してください」 何かと問い返す前に和希がちらりと視線を送る。頷き返しもせずに中嶋がパソコンに向き直った。その後ろ姿に七条が「グローリア女子高の名簿から探してみてください」と付け加えた。 「どういうことか説明してもらおうか」 「どうもこうもありませんよ。ご存知でしょう? 伊藤くんの浮気相手です。そこら中で噂になっていますよ」 あれか……。とつぶやいたのは和希だけではなかった。学食へ行ったり、待ち時間の合間に本来の勉強をしに図書館へ行ったりする、そんなときに嫌が上にも聞こえてくるのだ。グローリア女子の可愛い子ちゃんが啓太にえらくご執心で、啓太の方もまんざらではなさそうだ、と。だがあまりに開けっぴろげに語られるそれが、およそ『浮気』などというものからはかけ離れていたために、彼らの意識に留まっていなかった。 「そう言えば海野先生が面白いことを言っていたぞ。例のシダ類だが、念のために写真を送ってもらってみたら、よくあるというほどではないが珍しくもないものだったそうだ。しかも特徴がはっきりしていて、比較しなければならないようなものではなかった、とな」 「慣れてなかったからしかたないよね」と海野は言い、ずさんで迂闊な顧問だと思いはしたものの、自分より経験値の高い海野が言うならそういうこともあるのかもしれないと西園寺は考えた。ただ西園寺的に馬鹿らしすぎて切り捨ててしまい、今の今まできれいさっぱり忘れ去っていた。 「そもそもそこから仕組まれていたわけか」 「なるほどな。学生会にいれば自然と露出も多くなる。どこかで見かけて一目惚れした」 「BL学園学生会長。名前なんて誰にでも調べられる。女子高生にもな」 七条が深いため息をついた。心当たりがあったのだ。このあたりの私学の交流試合があって成瀬を応援に行った、あの時だろう。近くに女子高生のかたまりがいて、ちらちらとこっちを見たりしていた。BL学園の学生はそれでなくても目を引く。気づいていたのに放置していた自分のミスだ、と七条は自分を呪いたい気分だった。 「出たぞ。……伊集院沙織。2年A組。生物部副部長。家族は両親と兄。住所は山手町6丁目1。父は伊集院周三。某A製紙会社の営業部長。今年6月の定時株主総会で取締役就任。母は伊集院美咲。5歳上に兄・桜夜がいる」 「住所がぴったり。決定だな。じゃあ侵入してきているのはその兄か。経歴は出るか?」 「いや……。H大学経済学部在学中くらいか。一昨年までフロリダ州立大に留学していたようだが」 「パソコンに詳しくても不思議じゃないが、もうひとつこう……決定打が欲しいな」 「そうだな。父親がやってる可能性もあるし、彼氏になりたい男がポイント稼ぎをやってる可能性だってある」 だが何かがひっかかり、七条がもう一度キィボードを叩いた。本来なら思い出しもしなかったような『何か』を記憶の底から引きずり出してきたのは、視線に気づいていながら放置していた自責の念のなせる業だったかもしれない。モニタに表示された情報を目にして、七条は軽くくちびるを噛んだ。 「一昨年の1月、アメリカで海軍のホストコンピュータに何者かが侵入する事件がありました。犯人の本名は伝わっていませんが、フロリダ州立大の留学生だったようです。ハンドルネームは……」 「Midnight_S」 ごく一部の間では有名な名前だった。お馬鹿な連中の間ではカリスマ視する者もいるという話だ。証拠はないが桜夜とのつながりは容易に見てとれる。皆が思わず唸ったところで丹羽だけがぷぷっと吹き出した。 「あっはっは。海軍に侵入できるんだぜ。こんな民間の学校なんて居眠りしながらでもやっちまえらあ。な、遠藤」 「ああ。そっちは明日以降ということにして」 ことばを切った和希が皆の顔をゆっくり見回した。 「この女にはどう落とし前をつけさせたらいいと思う?」 次の日曜日。 和希は啓太の言うままに車を走らせた。待ち合わせをしたのはグローバル女子高近くの公園で、『女と会うなら人目のあるところを』という西園寺のアドバイスにしたがって啓太が選んだ場所だった。そこで遊んでいた親子連れの何組かは、西園寺がひそかに手配した『鈴菱とはまったく関係ない』人たちだったが、それは啓太の知る必要のないことである。 時間より10分も早かったにもかかわらず、待ち合わせの相手 ―― 伊集院沙織は完ぺきなお出かけモードで待っていた。白に近い淡いピンクのシンプルなワンピースに紺のボレロを重ねている。ヘアバンド風に結んだ幅広のリボンと靴とバッグをボレロと同じ色にそろえていて、和希の目から見ても趣味は悪くないと思う。今時には珍しいくらい正統派のお嬢様のようだ。ことさらのようにブランコに腰かけてかわいらしさをアピールしているのは、わざとらしいというよりもあざとさの方を強く感じたが。 隣に座っていた七条の手をぎゅっと掴んでから車を降りた啓太は、まっすぐに沙織に歩み寄る。まさか白のベンツから降りてくるとは思わなかったのだろう。一瞬遅れて気づいた沙織があわてて立ち上がる。乗り捨てられたブランコが不規則に揺れた。だがその揺れがおさまりきる前に、少女の表情が変わっていく。浮かびかかっていた笑顔が凍りつき、無表情になり……、崩れるのを隠すように両手が顔を覆った。 ‘Sinple is the best.’ それがあの夜、サーバー棟に集まっていた全員の統一した見解だった。つまり、啓太に事実を告げてしまえということだ。「啓太は妙に勘が鋭いところがあるから隠しておかない方がいい」から「めんどくさい」まで、理由は五者五様だったけれど。 翌日の放課後。何日かぶりの会計室で香りの高いトップウバをすすっていた啓太は、和希の口から語られる一連の事実に目を丸くした。というか本人にとっては寝耳に水の話で、まずは目を丸くする以外できることはなかった、というのが正しかったかもしれない。データを毎日眺められたからといって、ピンとくるほどの実害もなかったのだから。和希が静かな口調で淡々と事実だけを話した、というのも大きかったかもしれない。そのままであればいつものように「なんかちょっとやな感じはするけど、ま、いっか」で終わっていたのに違いない。 ところが会計室に俊介が現れたところから様相が変わりはじめる。七条に頼まれたケーキを買いに行っていた俊介は、会計室まで届けに来て、誘われるまま啓太の隣に腰を下ろした。バイト料の食券以外にケーキと紅茶が出るとあれば、そしてそのケーキが18センチ7千円もする高級品であるとくれば、遠慮する理由はどこにもない。むしろ大歓迎である。 「ほんでぇ? サオリちゃんとはうまいこといっとんかぁ?」 「あ〜。なんか今その名前、聞きたくなかったかも」 思いっきり空気の読めない発言にひやりとしたのは周囲だけだったようだ。俊介のツッコミに啓太がのんびりと応じている。ところが何気ない一言で啓太の表情が変わった。 「聞きたくないとは贅沢な。俺なんかサオリちゃんがおまえの周りをひらひらまとわりついとん眺めとっただけで、『こんにちは』さえ言うてへんいうのんに」 「…………ん……?」 「俺かってサオリちゃんとおしゃべりのひとつくらいしたかったで。啓太のその無駄に運のええとこ、たまーにむかつくな」 「しゃべらなかった? あの子と?」 「せやで。おまえらの方、近寄ろか思たら顧問の先生につかまってしもたんや。海野ちゃんへお礼とお詫びを言うといてくれって、まーくどくどと」 「そうか、そうだったっけ」 「幸せいっぱいで周りは目に入ってへんかったんか」 「………………んー……?」 急に無口になった啓太を七条が見遣る。啓太は眉間にしわを寄せて何かに耐えているかのように、じっとここではないどこかを見つめていた。 「伊藤くん。どうしました? 気分でも悪いんですか?」 「そうじゃなくて。……ってか、いや。むちゃくちゃ気分悪い!」 「おっとー!」 「だってそうだろ? 俊介が喋ってないんなら、なんであの子が学園MVPのこと知ってるんだよ。それってやっぱ俺のデータ盗み見たってことじゃないか!」 そういうのって気持ち悪い。いくら好きになったからって、やっていいことと悪いことがあるだろ? ってか、そもそもハッキングなんて犯罪なんだし。それが毎日毎晩? 俺のデータ眺めてる姿って、想像したらぞっとしてきた。あ、もうダメ。ぜーったい許せない。むっちゃくちゃ腹がたってきた。等々。 そして啓太は自分で幕を下ろすことにしたのだった。 「うまく誘導したものだな」 目は啓太を追ったまま和希が言った。和希は啓太に事実を告げはしたが、ここまで啓太が嫌悪感を顕わにするとは思っていなかったのだ。どんなに腹を立ててはいても、啓太なら許してしまうだろうと思っていた。それが伊藤啓太という人間であり、さらには事件に直面していた者と守られていた者との温度差でもあったからだ。 「まさか俊介を使うとはね。出てきた途端に場がひっくり返ったのは見事だった」 「それこそ『まさか』ですね。滝くんが何をしゃべるかなんて僕にはわからないですし、ましてや伊藤くんがそれにどう反応するかなんてわかりません。たまたまですよ」 「ふうん。でもいつもなら君、授業サボって啓太のケーキを買いに行ってるよな。それをわざわざ俊介に頼んだだけじゃなく、会計室で同席までさせてか? まあ、違うというならそれでもいいが」 「それより理事長こそ被害届を正式に出されたそうじゃないですか。こっちは確実に伊集院家にダメージを与えられたでしょうね。可哀そうに彼女は片思いの相手に振られただけでなく、妹思いのおにいちゃんまで逮捕されてしまうことになる」 「可哀そうに、か。本心かい?」 「少なくとも僕は本人のことしか考えていませんでしたよ。息子が逮捕されたら父親はどうなるんでしょうね。留学先でのことは揉み消せても、今度はそうはいかないんじゃないですか? 鈴菱の御曹司を怒らせたと知った役員会の狼狽える様子が目に浮かぶようです。……仕事をなくさなければいいんですけど」 そう。伊集院兄妹は誰でもない『鈴菱和希』を怒らせたのだ。父親は取締役から降格になるだろう。場合によっては会社を去ることになるかもしれない。だがこちらからどうしろと言ったわけじゃない。向こうが勝手にすることだ。だから伊集院家にどんな災厄が降りかかろうと、和希の知ったこっちゃない。気にする必要もない。啓太を動かしたのが七条の落とし前なら、これが和希の落とし前だった。 フロントガラスの向こうで啓太が踵を返すのが見えた。その顔が驚くほど大人びていて、和希も七条も思わず口を噤んだ。衣替えに合わせて『少年』という名のベールを脱ぎ捨てたかのように。沙織が何かを言ったようだが啓太は気にする様子もなく、静かにこっちに歩いてくる。啓太もまた自分で落とし前をつけたのだろう。 「終わったようですね」 「ああ」 戻ってきた啓太のために七条がドアを開けた。相変わらず熱い空気が流れ込んでくる。ドアが閉じられたその瞬間、いつの間に咲いていたのか、金木犀がふわりと香った。 |
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いずみんから一言 すごく長くかかりました。1年半ほどかかってます。 なにをしてたんでしょうね? 作中の伊集院沙織ちゃんと桜夜くんは、280000HITを踏んで くださったSNOWさまより頂戴しました。 多謝。 |
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