今度マニア |
月曜の五時間目なんかに数学を設定したやつなんか、犬に食われて死ねばいい。 と、月曜の五時間目が来るたびにそう思う。週の初めなんてただでさえたるいのに、昼飯を食って張った腹のかわりに、今度はまぶたがゆるんでくる。ほどよく暖房の効いた教室。教壇では自己完結型の数学教師「ミスタ・マトリックス」が、線分ABを8:12に外分する点Pの座標の求め方を、まるでお経のように唱えている。 ああ、この拷問のような時間。腕時計に目を落とす。 あと15分。つまり900秒。5秒経過。895秒。 秒針の進み方がトロイ。890秒。 これって相対性理論だよな? 885秒。880秒……。 不覚にも俺の意識はここで途切れた。 「啓太、こら。起きんかい! 寝るんは授業中だけにしとけや」 肩をゆすられて眼を開けると、俺の親友・遠藤和希と学内デリバリー・ボーイこと滝俊介が見下ろしている。うーんと一度背伸びをすると、少しずつ目が覚めてきた。 「おはよう、和希」 「何が『おはよう』や、ボケ」 「あ。俊介も。おはよう」 「かーっ。もうやっとられんわ。おまえもようこんなやつの面倒みとるなあ」 「日々是修行也、ってね。心頭を滅却すれば、火もまた涼しいわけ」 和希と俊介のかけあいはなかなかおもしろかったけど、どうやらネタが自分のようで、これでは笑ってもいられない。にわか漫才はそろそろ終わりにしてもらおう。 「で、何?」 「おう、成瀬からの依頼や」 「成瀬さんから? なんだろう」 ラブ・コールには答えられなかったけど、それでも成瀬さんはあいかわらず俺をかわいがってくれる。だから何かあったら、自分でいいに来るはずだ。俊介に伝言を頼むなんて、初めてのことだ。 「ああ、成瀬な。なんや昨日まで遠征にいっとったんで、今はその報告書かなんか書くんに追われとるみたいやで。それでや。ほな伝言伝えるで。遠征の土産、ハニーにも買うてきたさかい、放課後テニスコートまで取りにきて、や。オッケー?」 「放課後。テニスコート。了解」 「ほなここにサインしてんか」 ポケットから出してきた受領証にサインを受け取ると、俊介はソッコーでいなくなった。さすがに素早いな、と思っていたら、何のことはない。六時間目が始まるのに、あと数分しかなかったのだ。和希もあわてて席に戻った。 「和希。放課後一緒にいける?」 背中に向けて声をかけると、和希は大きく手をふった。 さて。六時間目は海野先生の生物だ。今日はどんな風に脱線するのか楽しみだ。 放課後。俺はあとで理事会があるという和希につきあって、まず一度寮に戻ってかばんをおいたあと、ふたりでテニスコートに向かった。 「ところでさ。俺、前から気になってたんだけど、数学の友井って、どうしてミスタ・マトリックスなんだ?」 「ああ、あいつ、行列(マトリックス)にしか愛がないのさ」 「へっ!? 行列?」 「そう。だから今日みたいな授業はたるいだろ? でも行列やらせると豹変するらしいぜ。あるとき延々行列だけを何ヶ月もやりつづけた年があってさ。それがたまたま最初のマトリックスが公開された年だったんで、ミスタ・マトリックスって仇名がついたって聞いてる」 「へえ。だけどそんなことしていいのか?」 「ま、ここは私学だからさ。授業の内容は結構自由がきくんだ。それにBL学園の生徒なら、自分の将来に必要だと思ったら、自分で勝手に勉強するだろ?」 「確かに」 そんなどうでもいいことを話しながら歩いていると、もうテニスコートまできていた。ところが、いつもなら聞こえるはずのボールを打ち合う音はまったく聞こえない。ふたりできょろきょろしていたら、和希がテニスコートのはしっこを指差した。ベンチの方に部員が集まって何かを見ている。中心にいるのはもちろん成瀬さんだった。不思議に思いながら近づいていくと、成瀬さんがベンチの上に何かを広げ、まわりの部員が手をのばしてそれを少しずつ掴み取っているのがわかった。 「なんか賭場の雰囲気、って感じしないか?」 和希がこそっとそんなことを囁いた。確かに袖を通さずにはおっただけのジャケットや、長い髪をうしろで束ねた成瀬さんは、時代劇に出てくる無宿の浪人者のように見えないでもない。といっても、ものすごくノーブルな浪人者だけど。 「やあ、ハニー。来てくれたんだね。遠慮しないでこっちにおいで」 何かを手に持った部員が数人のいてくれたので、俺と和希はベンチの前までたどりつき、そして……ふたり同時に絶句した。ベンチの上に山のように広げられているもの。いろんな個包装でカモフラージュ(?)されてはいるものの、まぎれもなくそれは――コ×ドームだった。 「なっ、なっ、何なんですか、これぇーっ!!」 「何ってコ×ドームだよ。見たらわかるだろう。遠征に行った先に今度マニアがあったからいろいろ買ってきたんだ」 いつものにこやかな表情ではなく、成瀬さんはどこか真剣な顔をしていた。 「これからクリスマスに正月だろう。羽目をはずす機会も多いよね。だけど僕たちBL学園の生徒は、いつも狙われているのを肝に銘じておかないといけないんだ。BL学園っていうのはいってみれば最高のブランドだからね。ほら、愛と青春の旅立ちって映画があったろう。あれのなかで、将来の海軍士官夫人を夢見て女の子たちが群がってきてるじゃない。ちょうどあれと同じことが起こるんだ。ちゃんと防御しとかないと危ないのは僕たちの方。計画妊娠でもされたら目もあてられないし、へたすると違う男の子供でも、こっちに押しつけられる恐れだってある。それにいまどきの女の子なんて、お小遣いめあてで何してるかわからないだろう。困った病気でもうつされたら泣くのは結局、自分だからね」 成瀬さんらしからぬ力説に、はあそうですかと、あっけにとられてしまった俺の横で、妙に感激したらしい和希が成瀬さんの手を取っていた。 「成瀬さん。あなたの判断はとても正しいです。俺も常々、同じことを考えていました」 「へえ。遠藤と気があうのも珍しいね。じゃあ君も少し持っていけよ」 「あ、いえ。俺は持ってますから」 「ええっ。和希っ。お前そんなもの持ち歩いてるのかっ!?」 もちろんと頷いて、和希は札入れを取り出した。それの小銭入れのボタンをあける。中にはパッケージが三つ入っていた。 「うっそー!!」 「こんなの男の常識だよ」 「そうか。小銭入れを別にもてば、そこはちょうどいい隠し場所だね」 「ええ。以前は札と一緒にしてたんですが、落とすと恥ずかしいし」 「そうだね。ごまかしようがないから」 和希と成瀬さんがアダルトな会話(?)で盛りあがっているあいだに、いつのまにかテニス部員もみんないなくなってしまった。遠征から帰ったあとだというのに、練習は休めないのだろう。そんな彼らを目で追っていた成瀬さんも、やがて立ちあがった。 「じゃあこれは全部啓太にあげるよ」 そういって成瀬さんは残ったコ×ドームを集めると、俺の両手に乗せた。それはどう少なく見積もっても20個くらいはありそうだった。 「あはは……。有難うございます」 「そのうちのひとつでも、僕のために使ってくれたらうれしいのにね」 その件に関しては、俺はいつものとおり「お断りします」といって、和希と一緒にテニスコートをあとにした。うしろで大きな投げキッスの音がしたが、こっちも聞こえなかったふりをした。 理事会に出る和希と別れたあと、寮に戻ってかばんを置いてきたことに、俺は心の底から後悔していた。何が哀しくてこんなものを、一目でそれとわかる状態で持って歩かないといけないんだろう。テニスコートについたとき、確かにベンチの上には筒型のやジュースのパッケージ型みたいな、すぐには何かわからないものも残っていた。ところがそれらはテニス部の連中がちゃっかりと持っていってしまい、残ったのはごくごくフツーのものばかりというわけだ。カラフルな絵柄が帰ってうとましかった。 俺はあまりめだたなそうなベンチを見つけると、一度それらをぶちまけた。そしてベンチに向かってかがみこみ、身体で隠すようにしながらハンカチで包んでみた。 ……駄目だ。かえって怪しくなってしまった。あとはポケットというポケットに分散させるしかない。 シャツの胸ポケットには、透けないようにあまり濃い色のついていないものを選んで入れた。ズボンのポケットは財布やハンカチが入っているから、あまり多くは入れられない。あとはジャケットだけか。 そしてふと、俺も和希みたいに財布に入れておく方がいいのかな、と思った。俺はまだこんなものを使う状況になったことはないけど、でも……。 つまらないことを考えていたら、注意力が散漫になっていたらしい。あっと思うまもなく、肩越しに伸びてきた腕が、まだポケットに入りきれずに残っていたものをつまみあげていた。振り向かなくてもわかる。このトワレは……。 「ふーん。伊藤くんはこういうのがお好みだったんですか?」 恐る恐る振り向くと、七条さんが個包装の絵柄に見入っていた。悪いことにそれは真っ赤な地色に黒の絵で、いわゆる「四十八手」というやつをひとつずつ書きこんだシロモノだった……。 「違います!! それはさっき成瀬さんが遠征のお土産に、ってくれたもので、その、えっと……」 「なるほど。成瀬君もなかなか気のきいたものをくれるようですね。……でも残念ながら伊藤くんのためには使ってあげられない」 使ってあげられない? って何? アタマの中で?マークが点滅する。 「だってそうでしょう。これ全部普通サイズですよ? 僕がラージサイズだってことくらい、伊藤くんが一番よく知ってるじゃありませんか。この間だって僕のにつけてくれたくせに」 どっひゃ〜ん!! もう駄目だ。アタマパニック。口がパクパクするだけでことばさえ出てこない。頼むから、お願いだからこの近くに誰もいないで欲しい……!! 「とにかく今夜はこれということですね」 俺の心の中など知らぬげに、七条さんはそれをポケットに突っ込むと踵を返した。俺は追いかけることもできず、呆然と大きな背中を見送った。あれにはどんなのが書いてあったんだろうと思いながら。 |
いずみんから一言。 |
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