クマちゃんに乾杯!




「なあ、啓太?」
 ちょっとだけ困ったような顔をした和希は、今日何度目か、今月に入ってからなら何百回目かになるセリフを口にした。こんなときでさえ和希はとても礼儀正しい。というか、とても忍耐強い。
「毎日が日曜だと夏休みの有難みがないだろ? 学食のハンバーグだって週に1回しかないからあんなに感動できるんだ。だからさ。期末テストっていうのはクリスマスとお正月を楽しむ為のスパイスみたいなものなんだよ」
 そう。MVP戦のあと、思いもかけず ―― ずいぶんな言い方みたいだけど、でも本当のことだ ―― 七条さんと恋人になってしまった俺は、「はじめて恋人と迎えるクリスマス」ってシチュエーションに浮ついてしまって、とてもじゃないけど勉強なんてやってられる状態ではなくなってしまっていた。それを心配した和希は、ことあるごとにこうして引き戻そうとしてくれている。
「期末の結果が悪かったりしてごらんよ。クリスマスなんて楽しめないぞ?」
 俺だって分かってるんだよ。小テストの結果を見るまでもなく、かなりヤバい状況だってことくらい。何しろ退学勧告からあとは勉強できる状態じゃなかったし、MVP戦のあとは七条さんを怒らせたみたいになっちゃって、それはそれで勉強なんて手につかなかったし。すべての問題がクリアになれば恋愛気分にどっぷりで、もはや勉強する暇なんてあるもんか。
 落第とか留年とかって単語がアタマの片隅から離れなくなったのはいつからだろう。それなのに駄目なんだよ。「クリスマス」って魔物が俺の方を向いてにっこり笑ったりするだけで、俺のすべてが停止してしまうんだ。身体の中がクリスマスに埋め尽くされて身動きができなくなってしまう。
 今までももちろんクリスマスは楽しみだった。母さんの焼いてくれる鶏の骨付きモモ肉を食べ、ケーキの切り方が大きいとか小さいとか言って朋子と喧嘩する。おねだりして買ってもらったんだから中身なんて分かりきっているのに、それでもやっぱりプレゼントを開ける瞬間はわくわくしたりなんかして。
 ところが今は違う。恋人と迎えるクリスマスがこんなに楽しいものだなんて、思ってもみなかった。あったかくって幸せで、ふわふわしてて。オシリの下がもぞもぞしちゃうみたいで、少しの間でさえじっと座っていられないんだ。何をしていても七条さんの顔が浮かんでくる。クリスマスソングの流れる中を七条さんと手をつないで歩く自分の姿とか、七条さんとふたりで食べるクリスマスケーキとか。
 そうだ。クリスマスケーキどうしよう。どこか美味しいお店に食べに行こうかな。でもそう言って誘うと、なんかケーキ屋さんのハシゴになりそうな気がするからなあ。だったら買って帰って寮の部屋で食べようか。ああ、でも西園寺さんもいるから会計室がいいかな。あれ? 西園寺さんはパーティつづきだとか言ってたような気もするし……。どっちにしてもクリスマスケーキのカタログを集めてこなきゃ。って、その前にプレゼント決めなきゃ。ケーキと違ってこればっかりは相談できないし。
 ……………………ごめん。こんな話してたんじゃなかった。でもこれで分かっただろ? 何でもかんでもこんなふうになっちゃうんだよ。なんてことのない単語がクリスマスの扉を開くキィワードになってしまう。
「おい。啓太? 聞こえてるか?」
 我に返るとすぐそこに、心配そうにのぞきこんでいる和希の顔があった。すっかり忘れてた。
俺、和希の小言、いやいや、忠告だな。そう、忠告を聞いてたところだったんだ。
「うん。ちゃんと聞いてるよ」
「……そうか? でもちょっと眼がとろんとしてたぞ? 体調が悪いんだったら……」
「ホントに大丈夫だよ。ごめんな。心配かけて」
 本気で心配してくれてる和希に悪いと思いながら、俺はそこで話を打ち切った。
 だって恋愛ってそういうもんだろう? 誰かに何か言われてどうにかなるようだったら、それは本当の恋愛じゃない。分かっててもどうすることもできないから苦しいんだよ。今の俺みたいに。

 ときどき、恋人が七条さんでよかったと、また少し違った意味でそう思うことがある。
 七条さんはとてもまじめで真摯な人で、しかも西園寺さんの片腕だ。だからどんなに俺が恋愛の気分を楽しんでいたとしても、それに引きずられることなく授業に出ては日常の業務をこなしている。もし恋人が七条さんじゃなく、一緒になって恋愛にどっぷりつかっちゃうタイプの人間だったらどうだったろうか。
 もしそうだったら俺は授業をサボりまくり、ベッドから出ない日だってあるに違いない。七条さんが恋人だからこそまがりなりにも授業に出られるし、「教えてもらう」と称して部屋に行くために宿題だってやろうとする。まあアタマに入らないのは、恋人が七条さんでも変わらなかった訳だけど。
「おや? どうかしましたか?」
 ぼんやりと眺めていたら気づかれた。っていうか七条さんは必ず気づいてくれるんだ。気づいてもらったのを知った瞬間、俺がどれほど幸せな気持ちになってるかなんて、きっと七条さんにはわからないと思う。ふわっと腕の中に閉じ込められて、そっと触れるだけのキスを繰り返しているような、あの甘い時間と同じくらい幸せな瞬間を。
「七条さんが恋人でよかったなあ、って思ってました」
「それは僕もですよ、伊藤くん。こんなふうに、最後に『伊藤くん』とつけられるのがどんなに幸せなことか、きっと君にはわからないでしょうね?」
 その告白に俺はまず驚き、そして思わず笑ってしまった。だって俺と同じことを考えてた、ってことだから。
「じゃあ俺たち、お互いに幸せにしあってるんですね」
 何かよくわからないといった顔をしながらも、七条さんは優しく微笑んでくれた。人が人を好きになるって、なんてすごいことなんだろう。男とか女とか関係ない。ただその人を好きになっただけなのに、その人を幸せにしてあげられて、自分はそれ以上の幸せをもらえるのだから。
 でもこんな、うっとりとした時間は、そう長くは続かなかった。俺はすぐ、七条さんと付き合うというのが何を連れてくるのかを思い知らされることになる。

 それは明日から12月という日の午後だった。「今日は大切な方の誕生日ですから」と誘われた俺は、和希と一緒に会計室でお茶とケーキをご馳走になっていた。今日のケーキはわざわざ西園寺さんが注文して作らせたそうだ。それだけでもその人がどれほど大切な人だったのかが分かる。ただ、身構えて行ったわりには、その人はいなかったりしたんだけど。
 学生会室に比べると会計室はすごく静かだ。それなのに今日はさらに静かで。誰かの誕生日なのが信じられないくらいだった。これはそう……、しんみりしている、に近い。七条さんも西園寺さんも、時折顔をあげてはここにいない誰かに目を遣っているのだ。和希も同じようなものだったから、たぶん理由は分かってるんだろうけど、でも聞けなくて。俺は雰囲気に引きずられたかのようにただ黙々と、機械的にケーキを口に運んでいた。
「どうした、啓太。ずいぶんおとなしいじゃないか」
 その様子が面白かったのか、西園寺さんが笑いを含んだ声で言った。
「まるで借りてきた猫だ」
「伊藤くんなら猫でも可愛らしいでしょうね。このあたりに耳をつけて。しっぽもつけてみましょうか」
「ああ、そうですね。啓太って子犬っぽいけど、猫耳も似合うかもな」
「じゃあメイドさんの服も着て頂かないといけませんね。可愛いですよ、きっと」
 何か遊ばれてるなあと思ったし、1年後にまさか本当にやるハメになるなんて思いもしなかったけど、この時の俺は、重い空気が一瞬で消えたことがうれしかった。もっとはっきりいえば、七条さんが温かい微笑みを俺にむけてくれているのがうれしかったのだ。今にも消えてしまいそうな微笑を、あらぬ方へむけているのではなく。
 そんな時だった。西園寺さんが「啓太もパーティに来るか?」と言ったのは。
「明後日のMホテルなんだが、臣が出席をしぶっているんだ」
「だって寂しいじゃないですか。伊藤くんと離ればなれになるなんて」
 ねえ? といたずらっぽい顔で同意を求められて、俺はちょっとどきどきした。だって「はい」とも「いいえ」とも言いにくいんだもの。そんなふうに言ってもらえたのはすごくうれしいんだけどね。でも西園寺さんの邪魔をしたかと思うと素直に喜べない。
「啓太に声をかけなかったのはまだ早いかと思っただけだ。おまえがフォローするなら、連れて行くのに異存はない」
「じゃあ決まりです。伊藤くん、あさっては僕につきあってくださいね。フォーマルなスーツはそこにいる年齢詐称の同級生に借りるといいですよ。お金持ちって、意外と子供の頃の服を残していたりするそうですから」
 いきなりの急展開だった。たった10分前までしんみりとケーキを口に運んでいたとは思えない。それより何より、西園寺さんが「啓太には早いかと思った」って、そんなパーティに俺が出ていいのか? そっちの方が気がかりだ。思わず和希を見ると、小さく肩をすくめて、少しつまらなさそうに笑った。
「Mホテルだったら最低でも100人くらいはくるんだろ? 大人数だから気にせず行ってくればいいさ」
「そぉ?」
「パーティって優雅に見えるかもしれないけど、あれはあれで結構忙しいんだ。紛れ込んでる高校生なんか、誰も気にはしないよ。場慣れするにはいい機会なんじゃないか?」
 鈴菱の三代目として政財界のパーティにしょっちゅう出席してる和希の言葉には、思わず手をポンとうってしまうくらいの説得力があった。それに何もひとりで行くわけじゃない。西園寺さんと、そして七条さんが一緒なんだ。
「あそこのケーキは美味しいですよ。煩わしいおしゃべりは郁にまかせて、僕たちは郁の分までご馳走を食べてきましょうね」
「はいっ。よろしくお願いします!」
 お気楽な時間がこれで終わるなんて思いもせずに、俺は自分で終止符を打ったのだった。

 2日後。パーティから戻ってきた俺は自分のふがいなさと情けなさにすっかりうちひしがれ、風呂に入ることもできずにベッドに突っ伏していた。かなぐり捨てるように脱いだ和希のスーツを、ハンガーにかけるのがやっとだった。暖房を切ったままの部屋は少し寒く、頬にあたるシーツも冷たかったが、今の俺には、それがすごく気持ちよかった。
 今日の俺のデビュー戦は、見事なまでの惨敗だった。
 和希や七条さんに気楽そうに言われて、ただご馳走を食べてれくばいいと思っていた俺がお馬鹿だったのだ。たとえどんな集まりであれ、パーティである以上、そこは社交の場であるはずで。そういった「場」を楽しめるのは、それだけの素養があるからだ。そんなことさえ分かろうとせず、自分に都合のいい言葉だけを鵜呑みにしていた俺。甘く見ていたパーティに、しっかりとしっぺ返しをされたようなものだった。
 そもそも最初からつまずいていたんだ。だって俺は、それがどんな人の開く何のパーティかさえ知ろうとしなかったのだから。「地元の大学で教えている外国人講師の奥さんたちがチャリティで開くもの」だって知ってたら、和希や七条さんに何を言われてたって出席したりなんかしなかった。
 受付で名前を言って胸につける名札を貰う。そんなところで早くもやっちゃったっていうか、やられちゃったんだから情けない。俺ときたら受付にいた人からかけられた言葉が、英語であることさえわからなかったのだ。さりげなく七条さんがフォローしてくれたけど、もし俺ひとりだったら中に入ることさえできないところだった。
「今の方はスペインかポルトガルか……、そのあたりの方だったようですね」
「えっ? そうなんですか?」
「ええ。ですから少し訛りが強かったようです。慣れないと聞き取りにくですよね」
 しょっぱなに受けた先制パンチに驚きはしたけど、でもこの時はまだ余裕があった。七条さんの言葉に「なんだ、そうだったのか」と自分をごまかせるくらいには。
 パーティそのものだって最初は楽しめていた。周りがみんな外人さんなのをいいことに七条さんとふたりでケーキの食べさせあいっこしてみたり。簡単にできる日本風のものはないかと相談された西園寺さんが提案したっていう、二人羽織ゲームに七条さんと出場してみたり。小さな子どもたちが出てきて聖歌を歌ったあと、かごを持って寄付を集めてまわったときには、小銭を入れて頭を撫でてあげる余裕さえあった。でもそれは西園寺さんや七条さんが一緒にいてくれたからで、俺自身はほかの出席者の誰とも言葉を交わしていない。ひとりでは何もできないという、そんな簡単なことにさえ、そのときの俺は気づいていなかった。

「魔がさす」って言葉があるよね。あの「魔」って「間」なんだと思う。本当に、ふっとそんな時間ができるんだ。時間と空間の狭間に落ち込んでしまったような、魔のような間が。
 あれはパーティも終盤にさしかかった頃だった。七条さんは奥さん連中と写真に納まるのに忙しく、ちょっと離れたところにいた。確かにね。プラチナブロンドに紫の瞳。加えて長身美形の出席者がいたら、誰だって一緒に写真を撮りたいって思うよな。それを面倒くさがった七条さんが断るために「じゃあ、おひとり10ドルまたは1000円で」なんて言っちゃったものだから、我も我もと列ができちゃったって訳だ。みんながそれをチャリティの企画だと思ったから断るわけにもいかず、今や言われるままにポーズをとっている。
 西園寺さんは俺と二人でビンゴゲームの数字を抜いていたが、なんか上品そうなおばさんが挨拶にきて、そのまま隣のテーブルに移動した。つまり俺ひとりが取り残されたことになる。ふたりとも、姿はちゃんと見えているけど、なんだかぽっかり空いたエアポケットみたいな空間に俺だけがいる。そしてひとりになった途端にすることがなくなった。3人分のビンゴカードといったって数字を抜くのにさほどの時間さえかからない。数字の揃った人が何人か賞品を貰いに出ていってすぐ。俺はどう立っていたらいいのか分からなくなってしまっていた。魔の間に落ち込んでしまった瞬間だった。
 まず、周囲が外国人ばかりという当たり前すぎる事実に今更のように気がついた。誰かが話しかけてきたらどうしよう。今は七条さんも西園寺さんも離れたところにいて、困っていてもすぐに助けにきてはもらえない。下を向いていたら「気分でも悪いのか」と声をかけられそうな気がするし、かと言ってまっすぐ前を見ててもきっと、それはそれで話しかけてこられそうな気がする。
『何も学会でスピーチする訳じゃない。日常の英会話など、中1程度の学力があれば十分だ』
 これは以前、西園寺さんから言われた言葉だ。オーラルコミュニケーションの時間が苦手だと言ったら、そんなふうに言って笑っていた。
『落ち着いて耳を傾けてごらんなさい。知っている単語がいくつも耳に飛び込んできますよ? それに、ゆっくりはっきりと話したら、こちらの言いたいこともちゃんとわかってもらえます』
 こっちは同じ時の七条さん。そうだ、和希がこんなことも言ってたっけ。
『外人さんの喋ってるおかしな日本語ってあるだろ? 文法も単語もアクセントも変なやつ。でも何が言いたいかは不思議と分かるんだよな。だから日本人の喋るあやしい英語だって、相手はちゃんとわかってくれてるんだよ』
 みんな、きっと正しいことを言ってるんだと思う。でも俺は「はいそうですね」とはとても言えなかった。言えるようなら最初から苦手意識なんてもったりしてないだろ?
 だからひとりになったこのときの俺は、誰かに話しかけてこられないようにするにはどうしていればいいのかと、それだけで頭がいっぱいになっていた。
 顔はどこを向いていればいい? 身体は。眼は。足は。手は。
 ケーキを食べるのに夢中のフリでもしてればいいんだろうけど、すでにお腹はいっぱいの状態で、これ以上何も食べたくない。自分ひとりで勝手に焦った俺は、なんだか追い詰められた気分になってきた。何もしていないのに頬が暑くて仕方がない。その時だよ。飲み物を運んでくるサンタクロースが近づいてきたのは。まさにどんぴしゃりのタイミングだった。
 
 今日はチャリティーのパーティでいろんなところが手作りだ。ビンゴゲームの賞品は奥さんたちのお手製だし、会場内の装飾なんかも殺風景にならない程度に省いている。料理やケーキは立食形式で各テーブルに置いてあるけど、飲み物は後ろに作られたドリンクコーナーに取りに行かなくてはならない。そこから可愛いミニのサンタクロースの衣装をつけた留学生たちが飲み物を運んできて、それを取ったお客はトレイに小銭を置く。それが全部、寄付金となる仕組みだった。もちろん自分で後ろに取りに行けばそんなのはいらないし、何より種類がたくさんある。俺も最初の乾杯のときだけはサンタクロースから受け取ったけど、そのあとはティーソーダが欲しい七条さんと一緒に後ろに取りに行っていた。
 でもこのときの俺はやけに暑くて。サンタクロースのトレイに100円を置いて、足のついたグラスに入ったオレンジジュースを取った。
「It is not orange juice.」
 何か言われたのはわかった。でも聞き取れたのはこれ。オレンジジュースじゃない、ってことだけ。じゃあ替えてくださいってどう言えばいいのか分からなかったから、「オッケー」とだけ言ってグラスの中身を一気飲みした。オレンジジュースとは違う苦味が口の中に広がった。どうやら俺はグレープフルーツのジュースを取ってしまったようだった。しまったと思った。グレープフルーツは嫌いなのに。口直しに含んだ氷を舌で転がしていたら、こっちを見ている七条さんと目が合った。七条さんはさっき俺がジュースを取ったサンタクロースと何かを話していた。
 七条さんがちょっと慌てた感じでこっちに戻ってくる。どうしたんだろうと思った瞬間。こめかみの部分がどくんと脈打ち、顔が一気に熱くなった。えっ? と思ったがもう止まらない。どくどくどくどくこめかみで打つ脈が感じられ、グラスを持ったままだった手が見る見るうちに真っ赤になっていくのが見えた。何が起こっているのか自分でも把握できないうちに、今度はアタマがまわりはじめた。眩暈のひどいやつというよりは、遊園地のティーカップで調子に乗ってぐるぐる回したあとといった感じだ。
 どうすることもできなかった。ただ足を踏ん張って立っているだけで精一杯だった。とにかく七条さんが来てくれるまで立っていなければ。そう思ってるのに七条さんときたら、まるで宇宙遊泳をしているみたいにふわりふわりと近づいてくる。そんなんじゃ駄目だよ、七条さん。そんなゆっくりだと、俺は立っていられなくなる……。
 でもぎりぎりのところで間に合った。七条さんの腕が俺を抱きとめ、落とす直前だったグラスを取り上げた。
「どうかしたのか」
「ジュースと間違えてお酒を飲んでしまったんですよ。……ああ、これはラムがベースのようですね」
「ラムだと? 甘酒で酔っ払うと言っていたのにか?」
 声は出せなかったが七条さんと西園寺さんが話している内容はちゃんとわかった。ああ、そうか。さっきのサンタクロースはこう言ったんだ。
『It is not orange juice. It 's a cocktail.』
 種明かしをされればなんてことはなかった。ジュースと思い込んでカクテルを飲んでしまったんだ。なんて馬鹿な俺 ―― 。

 それが会場で感じた最後の意識で、次に気がついたときには寮の部屋の前だった。ここまで抱いてきてくれたらしい七条さんが、俺の部屋の鍵を出そうとポケットを探っていた。病院で診てもらってから寮に戻ったらしく、時間がたっていた所為か酔いはほとんど覚めていた。そこで丁重にお礼とお詫びを言って、ひとりで部屋に立てこもった、というのが今の状況だ。酔いは覚めていたが自分のやらかした大失態に打ちひしがれ、臥せたベッドから顔を起こすこともできなかった。
 楽しい気分をぶち壊してしまった自分が恥ずかしかった。
 せっかくのパーティで俺ときたら自分の殻に閉じこもっていたのだ。もし西園寺さんや七条さんのように周囲の人と言葉を交わしていたらこんな無様なことにはならなかった。誰かといればグラスの中身に気がついてくれただろうし、それでなくても耳が慣れて「カクテル」くらい聞き取れたはずだ。言葉を交わせなかったのは誰の所為でもない。俺自身の責任だった。話す言葉をもたず、話せる内容ももっていなかった俺の。
 こんなことで七条さんの傍にいていいんだろうか。七条さんの傍にいるということは西園寺さんの傍にいるということでもある。七条さんとつきあいはじめてすぐのとき、西園寺さんだって言ってたじゃないか。「わたしは無能な人間はいらない」と。
 急にわきあがってきた不安に思わず起き上がったときだった。ドアをノックしている音に気がついたのは。正直言って出たくはなかったけど、ノックの仕方が七条さんじゃなかったのでドアを開けた。
「啓太っ。大丈夫かっ」
「和希……?」
 飛び込んできたのは和希だった。青く険しい表情は、おまえの方こそ大丈夫かよと言いたくなるようなものだった。
「カクテル飲んで倒れたって西園寺さんから連絡もらって……」
「ああ、うん。もうあらかた覚めたみたいだけど」
「吐き気はしてないか? トイレはちゃんといってるか?」
「吐き気はぜんぜんしてないよ。トイレはいってないけど」
 そこまできてようやく納得できたのか、ちょっとほっとしたような顔をした和希は、部屋に入るなり足元に落としていたビニール袋を取り上げた。
「そうか……。とりあえずは大丈夫そうでよかったよ。トイレに行ってないってのがちょっと気になるけどな」
「そうなの?」
「うん。ちゃんと代謝されてないとあとをひくし、すっごく気分が悪くなる。だからこれ飲んどけ。ちょっとくらいはマシになるから」
 和希が差し出した袋の中にはスポーツドリンクが何本か入っていた。よく冷えているのか、表面に水滴がついているのが見えた。
「薬ももってこようかと思ったんだけど、病院で点滴したって聞いたからやめにした」
「うん」
「でも吐き気とかしてきたらすぐに言うんだぞ? がまんして治るもんじゃないからな?」
「わかった」
 口調だけだけは和らいできたものの、和希の表情は硬く、顔色は青いままだ。なんか……、有難いなあ、って思った。俺が馬鹿で酒飲んでひっくり返っただけなのに。オニイチャンってこともあるんだろうけど。でも、ただ俺の身体を心配してくれている和希が、とてもうれしかった。だからかもしれない。俺は自分でも意識しないうちに「あのさ……」と切り出していた。
「俺、今度のことで痛感したんだよ。俺ってば何にもできなさすぎるって」
「そんなことない。だっておまえまだ……」
「うん。確かにまだ高校生なんだけど。でもドリンクを運ぶサンタクロースの中には高校生も混じってるって聞いた。みんなちゃんとパーティに『出席』してたよ。俺みたいな『傍観者』じゃなくて」
「うん」
「だから俺、この次の機会があれば、今度はちゃんと出席したい、って思ったんだ。でもそのために、何をどう勉強したらいいのかわからないんだ。和希、教えてくれる?」
 和希はふわっと笑って、そしてぽんぽんと俺のアタマを撫でた。
「大丈夫だよ。今の気持ちさえ忘れなければね」
「でも俺、英語とか無茶苦茶苦手だし」
「う〜ん。でも、子供だった七条さんが日本語を覚えるよりは簡単だと思うぞ? なにしろ日本語は漢字・カタカナ・ひらがなの3本立てなわけだし。きちんと教えてくれる先生がいたわけでもなかったし」
 俺は日本に来たばかりの七条さんを思わずにいられなかった。今の俺の半分の年齢で言葉の通じない日本にただひとり置いていかれた、ほんの子供の七条さんを。今日の俺は寮に逃げて帰ってきさえすれば、こうして和希が心配してくれているのがちゃんとわかる。でもその頃の七条さんは、家に帰ってきても外にいるのと何も変わりはしなかったのだ。おばあさんが心配してくれてる気持ちは伝わったかもしれないけど、でもそれは、どんなに不安でつらい毎日だっただろう……。それに比べたら、俺は負け犬でさえないのだった。

 それでどうなったか、って? もちろん期末試験は乗り切ったよ。勉強した期間が短かった割にはいい感じだったんじゃないかな。この調子でいけば西園寺さんから「無能」のレッテルを貼られずにもすむと思う。今までみたいに四六時中ぼんやりと七条さんのことを考えてる訳じゃなくなったけど、でもその方が長く七条さんと一緒にいられるってことに気がついたから。それに英語の問題だって、「彼の」とか「ジョンの」とかいう部分を「七条さん」に置き換えたら、いきなりやる気が出てくることにも気がついたんだ。数学だってそう。点AB間の距離を求めるなんてのは、俺と七条さんとの距離を求めるって読み替えれば、考えるのが楽しくなる。ただちょっと。内接円の面積を求める問題で「俺に内接する七条さんの面積?」とか思っちゃって、モーソーを振り払うのにすっごく苦労したりした。ま、これはナイショの話なんだけどさ。
 おかげで理事長主催のクリスマスパーティも思いっきり楽しめている。あのままだったらサイテーの成績表をかかえて、今頃は家に向かっていたのに違いない。

 その席上。くまのぬいぐるみだけが下がったクリスマスツリーを眺めながら、七条さんとクランベリーのソーダを飲んでいたときだった。何の前触れもなく、突然のようにぺかっ! とひらめいた。そう。この間のパーティの出席は、和希が仕組んだんじゃないか、って可能性に。
 まあ和希が考えたのは、パーティで楽しい思いをすれば俺も英語が好きになるかもしれない、って程度だったかもしれないけど。でもそう考えるとすべてのつじつまが合うのに気がついたんだ。
 まず西園寺さんは七条さんとだけ行く予定だったこと。いくら七条さんが渋ったからって、招待状のいるパーティにそんな簡単に追加で出席できるはずがないだろう? 和希がパーティの規模を知ってたことだって怪しい。いくらMホテルだって、「100名さま以下お断り」のはずはない。もっと小さいパーティだってあるはずだ。っていうか、ない方がおかしいだろ。なのになんで和希は「100人くらいは来る」って知ってたんだ?
 それに俺がカクテル飲んでひっくり返ったって知ったときのあの和希の顔もある。あれは本当にひどい顔だった。もし和希が俺を出席させるように仕向けたのだったとしたら、あの顔だって説明がつく。そりゃあ心配もするよな。急性アルコール中毒って命にかかわったりするんだから。
 大企業で部下だの取引先だのを動かしてる和希の手にかかれば、ただの高校生にすぎない俺なんてチェスの駒以上に動かしやすかったのに違いない。ただ俺が和希の予想よりお馬鹿すぎたおかげでちょっとばかり経過予想が狂ったかもしれないけど、でも「恋愛ボケしてしまった俺の眼を覚まさせる」っていう最終目標にはちゃんとたどり着いていた。
「あーあ。なんかやられちゃったなあ」
「何にやられたんですか?」
 あのときの、必死に俺の世話をやこうとした和希を思い出して笑ってたら、七条さんが穏やかに俺を見てくれていた。
「七条さんに、ですよ。俺ね、七条さんが切れたら禁断症状が出そうです」
 ごまかしたのが分かったのか、七条さんの片眉が跳ね上がった。でも口を開く前に、舞台の方で「ポン! ポン!」と小気味のいい音がした。見ると王様と中嶋さんがスパークリングの白ぶどうジュースの栓を、シャンパン風に開けているところだった。近くにいた人が誰ともなくボトルを取り上げてはグラスに注いでいく。
「おい、こらっ! それぁ乾杯用だろーがっ! だーっ。もう、飲むんじゃねえ、って!」
 王様がいくら大声で吼えても誰も聞こうとはせず、グラスを受け取った端から空にしていっている。
「せっかくですから僕たちは何かに乾杯しましょうか」
「そうですね。えっと……、じゃあツリーに一杯かかってるクマちゃんに」
「僕と伊藤くんを引き合わせてくれたクマちゃんに」
 グラスを目の高さに掲げて軽く触れ合わせる。グラスはとても綺麗な澄んだ音がしたのに、俺には何故か、それが和希のくしゃみに聞こえたのだった。





いずみんから一言。

「明日から12月という日」がお誕生日なのは、もちろんみのりさまです。
今年は3回忌だったのにお供え物が書けなかったので、ここで入れてみました。

啓太くんの飲んだカクテルは「イズラ・デ・ピノス」。
英語だと「アイル オブ パインズ」。つまりパイナップルの茂る島です。
でも入っているのはパインジュースじゃなくてグレープフルーツジュースなのです。
オレンジジュースと間違えたのはグレナデンシロップが入っていて
色が赤くなっていたからだと思われます。
ホワイトラム、砂糖、グレナデンシロップ、グレープフルーツジュースをシェイクし、
氷を入れたワイングラスでどうぞ。


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