ホワイトデイ狂想曲 |
待っていた電話がかかってきたのは、2月14日がもうすぐ終わろうかという時刻のことだった。メールには『啓太には内密で』と書いただけだったのでかかってくるかどうかも分からなかったのだから、時間そのものに不満はない。それどころか少々嗜虐的な悦びさえ感じてしまっている。どんな思惑であれ、あの中嶋が電話をかけてきたのだから。今の気分を表そうとすれば、いちばん近いのは『賭けに勝った』だろうか。 ―― 勝ったからって、どうなるものでもないんだけどね。 自分の発想に自分で肩をすくめながら、和希は通話ボタンを押した。 和希は今、橋向こうの街にある自宅マンションの「のんびり部屋」にいた。接待に使うことを念頭において設計した所為もあるが、和希のマンションはどの部屋もモノトーンにまとめたスタイリッシュな空間となっている。ペントハウスならではの特性を生かし、各部屋から見えるそれぞれのテーマに沿って造られた庭の眺めが、唯一の潤いといえるだろうか。 エグゼクティブな男の住まいだと言われれば、誰もがなるほどと首肯するに違いない。しかし十分以上の広さがあるにもかかわらず無駄なものを極力排除しているので、生活感があまり感じられない、悪く言えば薄ら寒い家という側面も持っていた。もちろん、ホテルよりははるかにましではあるのだが。 そんな和希のマンションにも例外がある。両親と訣別してきた啓太のために実家のつもりで用意した暖かい色調の部屋と、そしてこの「のんびり部屋」である。ここには和希のあらゆる「好き」が詰まっていた。壁にかかっている絵は無名に等しい画家のものだし、秋の終わりに特殊ガラスを建て切ってサンルームにしてしまう庭の眺めなど、設計した造園業者が見れば泣いてしまうかもしれないくらい手を加えてしまっている。クマちゃんも編物も多くはこの部屋で生まれたものだ。今も和希の足元には、編みかけの作品と毛糸を入れたかごがふたつ並んでいる。 普段なら書斎で書類に目を通していることも多いこの時間。のんびり部屋のカウチで足を伸ばして同業B社の新薬に関するレポートを読むだけにとどめていたのは、電話で中断される可能性を考えてのことだ。それはどうやら正解だったらしい。 「やあ……。早いのか遅いのか、よくわからない時間だな」 『それはつまり、ちょうどいい時間ということじゃないのか』 「少なくとも起きて待っていた時間のうちではあったな」 『ふん』 「それより啓太は君にあれを見せたかい?」 ほんの一瞬。1秒の数分の1の間が開いた。携帯電話にテレビ機能がついていないのが残念だった。あればあの男がどんな顔をしているか見られただろうに。 それが2月14日になったのはまったくの偶然からだった。 海外視察に行っていた和希が啓太に土産を買って帰り、じゃあランチでも……となっていたのだ。それが例によって和希の時間の都合がつかず、やっと3時間程度の空きを確保できたのが今日、2月14日だった、というわけだ。啓太は啓太でちょうど提出しなければならないレポートもあり、大学前での待ち合わせとなったのだが……。 ハンドルを握っていた成瀬がこのあたりの地理に少々不案内だったことが、発端といえば発端だったかもしれない。突き当たりに見える学校独特の塀の連なりを見逃した成瀬も成瀬だが、隣に座っていた和希も同じようなものだ。何度か訪れたことはあったものの、いつも運転手が運転していたため、迷いかけた成瀬に正しい道 ―― もうひとつ先の角を曲がるだけだったのだが ―― を教えることができず、無駄な遠回りをすることになった。 「ごめん。道を間違えたみたいだ」 「それを言うなら俺の方でしょう。何度も来ていながら、ナビのできなかった俺がいちばん悪い」 「あっはは。そんなのハナから期待しちゃいないよ」 「……それは……。ちょっと心外ですね」 「ごめんごめん。だけど君、いつも後部座席で書類に目を通してたりするんだろ? 細かい道順なんて気にする余裕なんてないんじゃない?」 「…………否定できない自分がつらいです……」 「ああ、うん。だけど5分遅れで着けそうだよ」 「じゃあメール入れときますね」 だがその5分はとてつもなく大きな5分だった。 車が停まる。和希が外に出る。冷たい風を避けてでもいたのか門の陰にいた啓太がこっちに向かって歩きはじめる。そのうしろからかけられた「伊藤くん!」という女の子の声。長い髪が左右に揺れている。啓太の足が止まった ―― 。 『ああ。人の顔を見るなり、いきなり『中嶋さんっ! 俺、生まれてはじめてバレンタインのチョコレートもらっちゃいましたっ!』と言いやがった』 今度、間が開いたのは和希の方だった。思わず吹き出しそうになったのだ。押しとどめられたのはビジネスキャリアというよりももっと直截的な理由、つまり、足をつねったことによる。ここで中嶋を怒らせて、いいことなど何ひとつないのだから。 「それはまた……。ずいぶんストレートな」 『さすがの俺もあれには驚いたが、まあ、隠されるよりはよほどいい』 「確かに」 それはおそらく、強がりなどではなかったろう。たとえそれが気合の入りまくった本命チョコだったとしても。知っていれば、それをもらった相手の心の動きを推し量ることもできる。そして自分の心を見つめ直す機会にもなるだろう。無意識に成瀬の顔を思い浮かべた和希の耳に、ピコンピコンという聞き慣れた音が飛び込んできた。どうやら中嶋は歩きながら電話をしていたものらしい。 「移動したのか」 さらに店員の声が入り、和希は声のトーンを落とした。 『『内密の』話なんだろう? 近くのコンビニに出てきただけだ。椅子があるからちょうどいい』 「ふうん。深夜のコンビニで缶コーヒーをすする君の姿は、さぞかし見ものだろうね」 『悪いな。不味いとわかっているコーヒーや緑茶を飲むほど、俺はマゾじゃない』 「そして自分のものに手を出されて放っておけるほどのマゾでもない、と?」 『ふん』 今までが男子校にいた所為だろうか。バレンタインというのはちょっとした穴であった。 学園宛てには毎年、文字通り山のようにチョコレートが届く。しかしスポーツをはじめとする各方面で活躍する学生に宛てたものであり、公的に外へ出ることの少なかった啓太には義理チョコ以外のチョコレートは届かなかったのだ。もちろん中学や前の高校時代の女子から届いたものの中には本命のものだってあったかもしれないが、受け取った本人が『義理』だと思えばその瞬間、それは義理チョコになってしまう。直接手渡されたものでないこともあって、啓太は自分に届いたチョコレートのすべてを義理としか考えていなかったのである。 それやこれやで和希も中嶋も、啓太がバレンタインのチョコレートをもらうことに、まるで免疫が出来ていなかった。その和希の動揺が中嶋にコンタクトを取らせ、虚をつかれた想いの中嶋は和希に電話を返したというわけだ。 『それで?』 「それで、とは」 『そろそろ俺を呼び出した用件を聞かせてもらおうか』 うん。とだけ言って一度ことばを切った和希だったが、それと気取らせぬほどの間をおいただけであとを続けた。 「うん。こういう時って誰かと話したくないかなと思ってね」 電話の向こうからうなり声が聞こえる。和希はそれを「どうやら図星だったらしい」と受け取ることにした。 ためらいがちのノックが聞こえたのはそれから少したってからのことだ。片手にホットウィスキーを入れたグラスをふたつ掴んでいた成瀬は、和希の電話が終わっていたのを見て取ると、そのまま入ってきて和希の隣に座った。 「はい。あったまるよ」 「ああ……。有難うございます」 成瀬の作るホットウィスキーはウィスキーにはちみつを加えてからお湯で割ってある。思ったより飲みやすく、そして適度なアルコールが心地よくて、和希のお気に入りのナイトキャップである。はじめて飲んだときにレシピを聞いて何度か作ってみたのだがどうしてもこの味が再現できず、今では自分で作る努力を放棄してしまった。少なくとも、今は成瀬が傍にいてくれるのだから。 「中嶋さんはなんて?」 「義理チョコだと思わせたいみたいですね」 「う〜ん」 「啓太だって顔はかわいいし性格は良いし。本命チョコの10個や20個、もらってきてもおかしかないでしょうに」 「まあね」 「いい機会じゃないですか。ここらで一度、啓太も女の子と付き合ってみるといいんです」 「え゛……っ!」 吹きかけたホットウィスキーを思わず飲み込もうとしてしまい……。成瀬は派手にむせた。 「げほ……っ。くほっ」 咳きこむわ涙目になるわ鼻水は落ちかけるわ。なまじ顔が甘く整っているだけに、その惨状たるや情けないものである。見かねた和希が手にしたままだったグラスを取り、テーブルに置いた。両手が空いてようやく余裕が出来たのか、成瀬はティッシュを取って涙を拭いた。 「あー。酷い目にあった」 「何やってんだか」 まだ少し鼻をすんすん言わせている成瀬に、和希が小さな子供を見るような目で笑いかける。が、成瀬のことばは意外にも和希に向けられた。 「ホント。和希があんなこと言うから」 「え? なんでそこで俺が出てくるんです?」 「だって君……、中嶋さんのこと認めたんじゃなかったっけ? なのに『女の子と付き合ってみるといい』なんて言うから」 俺は……。と言いかけて和希は正面に目を遣った。サンルームに置いたライトが、緑の中に一鉢だけ混じったピンク色の花をぼんやりと浮かび上がらせている。鈴菱酒造のアンテナショップが開店し、お祝いに届いた花の鉢をひとつもらってきたものだ。それにどんな名前がついているのか、和希も成瀬も知らなかった。 「俺が認めたのは中嶋さんの気持ちだけです。彼は本気でしょう。それは認める。だけど啓太はどうなんです? まともに女の子と付き合ったこともなく、ただ中嶋さんに押し切られちゃったのが見え見えじゃないですか。啓太の話の断片からだけでも中嶋さんのテクニックは窺い知れる。啓太が女の子も知っていて、それでも中嶋さんを選んだのならいい。だけど何も分からないまま、彼のテクに惑わされているだけなら……。それは間違いだと思うんです」 「それで? 女の子と付き合ってみろと?」 「俺はただ機会を与えてやりたいだけです。それでもやっぱり中嶋さんがいいというなら、俺はもう反対しませんよ」 和希は和希なりに考えていたのだ。もし自分がBL学園に呼び寄せたりなどしなければ、啓太は今でも両親や妹と暮らせていたのではないだろうか、と。その思いは啓太本人や中嶋と同じように和希の胸の奥にも抜けない棘のように刺さったままとなっていて、何かの拍子にずきりとした痛みを走らせる。だからバレンタインにチョコレートをもらったのはいい機会だと思ったのだ。中嶋はとても狭量で啓太が自分以外の人間に目を向けるのを許さない男であるが、啓太やほかの人間から器が小さいと思われることも非常に嫌う男でもある。 ならばホワイトデーにお返しを渡すついで ―― そう、あくまで『ついで』だ ―― に食事のひとつも一緒にしてくればいいのだ。内心でどう思っているにしろ、啓太がそれを堂々とやりさえすれば、表に出すことはないに違いない。自分の思考に陥ってしまっていたのだろう。ふと我に返ると、成瀬の顔がごく間近に迫ろうとしていた。 「なっ……。なんですか、いきなりっ」 「うん? 君もそうなのかな……って思ってさ」 「君も……って、何が俺もなんです」 「だから。君も女の子と恋愛して、その上で僕がいいって思ってくれたのかな、って」 ますます迫ってくる成瀬の顔はやわらかく微笑んでいるようでいて、そのくせ目だけが笑っていない。こいつ酔ってるのか? と思ったが酒臭くはないし、テーブルに退けたグラスのホットウィスキーもさほど減ってはいなかった。つまりシラフなのだろう。 こんな顔、真顔より性質が悪いぞとばかり、和希は成瀬の肩を押しやった。ぐいっと腕一杯押しやって、下を向いたまま小さくため息をつく。 「んな訳ないでしょう……」 「えっ? 何、なに?」 のぞきこんでくる表情と声がこどもじみたものになっているのは、和希の声が耳に届いた所為か。先刻のように目だけが笑っていないよりはよほどましだが、手がかかることに変わりはない。和希は半分ヤケになったように言い捨てた。 「だからっ。俺は鈴菱の名前をしょってるんですよっ。ヘタに遊んでとんでもないことになったらどうするんです!」 「じゃあ女の子とは……」 「ないないないないない。これまでもこれからも、ぜーったいにありませんっ!」 『結婚するまでは』の一言を言わなかったのはわざとではなかった。無意識の何かが言わせなかったのだ。だがそれに気づいたはずの成瀬は何も言わず、ただうれしそうに微笑っていた。 それで終わったと、和希も成瀬も思っていた。あとは啓太の問題だ。啓太と、そして中嶋の。 正直なところ、啓太が中嶋に抵抗できるとは如何な和希でも思わない。だが啓太を女に取られる可能性に中嶋が胆を冷やしたとしたら、啓太の扱いが少しでもよくなるかもしれない。そう。少しでいいのだ。やっと成人式を迎えたばかりというのに、啓太は自分の立ち位置を中嶋のサポートと思い定めてしまっている。本人がよければそれでいいとはいえ、今のままでは啓太が不憫だった。啓太には啓太の世界を広げる権利があるはずだ。 「ま、一石くらいは投じられたんじゃないかな」 そんな話をしたわずか2日後。啓太のバレンタインは和希のところに戻ってきてしまった。会議中に入っていた啓太からのメールにコールバックをしたところ、開口一番、泣きつかれてしまったのだ。 『和希ぃ……。ホワイト・デーって何したらいい?』 「何って……。そりゃ相手と中身によるだろ」 『チョコはG0DTVAので、ネットで見たら4200円もする期間限定品だった。今までもらってた義理チョコとはモノが違うんだ』 「ははあ……。4200円にびびってるな」 『そうかも』 「相手の子はどうなんだよ。おまえにはちょっと派手っぽい気はするけど、そこそこ美人だったじゃないか」 『どうって言われてもなあ。ああいうタイプ結構いるから』 「って、おまえ。もしかしてメールもしてないのか。中にメアドくらい書いてあっただろう」 『え〜?書いてはあったけど。お礼はその場で言ったし。別にメールまでしなくていいんじゃない?』 価値観の狂っているお嬢様ならともかく、義理チョコに4200円も出す女もそうはいないだろう。そこから伝わってくる相手の本気度にびびっているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。単に高価なものをもらったとまどいだけだったとは。こうなってしまえば和希も、あの女が啓太の目には端から恋愛対象と映っていなかったようだと判断せざるを得なかった。中嶋が義理チョコと思わせるのに成功したというより、それ以前の問題だったようだ。駆け寄ってきた時の様子を思い出し、哀れな……と思わずにいられなかった。 ―― ……はぁぁ…… ―― 思わずもれたため息は、かわいそうな女の子のためか。それとも届きもしなかった自分の思いに向けられたものか。 まっ、親の心、子知らずってこんなもんだろうよ。その一言で一切を棚上げにして、和希は意識を啓太に向けなおした。今は研究所に向かう移動の途中で、周囲の耳は気にならないが、時間には限りがあった。 「で? ホワイト・デーなんだな。中嶋さんは何て言ってる?」 『つまらんものを返して俺にまで恥をかかせるなよ、だって』 「ははあ」 『何か、にやりとかって笑っちゃって。意地悪されてるのかと思ったらみょーに楽しそうでさ。ああなっちゃうとまず相談とかのってくれる人じゃないんだよな』 「うーん。その顔は容易に目に浮かぶな」 『そのくせ何あげたかチェックして馬鹿にしたりするんだ』 「……それも容易に目に浮かぶよ」 『でさ。和希だったら大人だし、成瀬さんもいるから、何かいいもの知ってるだろうと思ったんだ』 「なるほどね」 なるほど。中嶋は今度の件をそっくり和希に背負わせてしまうつもりらしい。啓太も普段なら講義の合間にでも友人に相談したことだろう。だが大学にほとんど足を運ばない時季である。友人と顔をあわせる機会のない啓太に中嶋は、自分が手を引くことによって和希に相談させるシチュエーションを作り上げたのだ。いかにも中嶋らしい意趣返しだった。ならば。と、和希は思う。この状況を利用して、なんとかしてもう一度、啓太の目を女の子に向けさせることはできないだろうか、と。確かに啓太はチョコレートを持ってきた女の子を恋愛対照とは見なかった。だが恋愛対象と思っていないということは、彼女が恋愛対象になると気づきさえすれば、そこから発展していける可能性だってゼロではないのだ。 「わかった。何か考えとくよ。来週ヨーロッパに行くから買ってきてもいいし」 『さぁんきゅーー』 「お礼は……。そうだな。今度パフェ食べたくなったらつきあってよ」 『りょーかいですっ!』 電話の向こうで敬礼している啓太が見えた気がした。 啓太が最後に頼ってくるのは、やっぱりオニイチャン ―― 。 ホワイト・デーのお返しを自分に相談してきたことで、和希はかなりいい気分になっていた。いくら中嶋が非協力的だといったって相手は啓太。ちょっと甘えてみせれば洒落たショップのふたつやみっつ、いくらでも一緒に行って買い物くらいしたはずだ。それが啓太に振られた女に贈るものだと思えば、必要以上に熱心に品物を選んだことだろう。なのに。 「どうしたの? ずいぶんご機嫌だね」 珍しく和希のあとから帰ってきた成瀬が、不思議そうというよりは面白そうに聞いた。彼は5月に行われるチャリティ・テニス大会の発起人のひとりで、このところトレーニングのあとも忙しくしているのだ。いつもはそれでも和希より前に帰り、彼のために食事や着替えその他を準備して待っている。だが今日のように成瀬が遅くなってしまった場合、和希はまだそこまでアタマが回らないらしい。帰ってきた成瀬のあとをついて歩いた和希は、今はウォークイン・クロゼットの椅子に座って着替えを眺めながら、啓太に頼まれた一件をざっと説明した。 「それで、啓太にこないだのホワイト・デーを頼まれた、っていうわけなんです。中嶋さんは傍観を決めこむらしくて」 「ふ〜ん。責任重大だね」 「今、何にしようか考えてるんですけどね」 「最近は何が流行ってるのかなあ。花束とかマカロンとか?」 「指輪やネックレスとかはどうでしょう」 「すでに付き合ってるカップルなら良いかもしれないけど……。ちょっと先走りすぎかも」 「クマのぬいぐるみ」 「僕はうれしいよ? でも……、僕だけかも(笑)」 部屋着への着替えを終えてサイドテーブルに腰かけた成瀬が、そう言って満面の笑みを見せた。膝で頬杖をつきながらのぞきこんでこられると、まるでチェシャー・キャットに見られているようだ。 「ヴィンテージワインとかシルクの大判スカーフとか」 「ベストというよりベターだね。最後の手段に置いとけば?」 「う〜ん。来週ミラノに行くから簡単だと思ったのになあ」 「ミラノね。洒落た品物がいくつもみつかりそうじゃない。むこうの女性社員に相談すると、最新の流行を教えてくれる」 「流行か……。あっ、そうだ。あの子のスリーサイズわかります? 身長は160をちょっと切ったくらいでしたよね?」 「ああ、うん。身長はそんなくらいだったかな。サイズは85・63・82くらいだと思うけど……。何、なに? 啓太とおそろいのプルオーバーでも編むの?」 「いや、それはたぶん無理だと思うんですけど、ラ・ペルラはミラノが本店でしたよね」 「たしかそのはずだよ? って、和希。まさか……!」 「いい考えでしょう?」 和希がにっこり笑い、成瀬は天を仰いだ。 ラ・ペルラは超高級の下着メーカーである。値段は……、想像におまかせする。和希は値札を見もせずに買えるが、成瀬は値札を見るだけで終わるだろう。つまりはそういう値段だ。だが成瀬がここで問題にしているのは値段のことではない。そうではなくて。 「やっと思い出したんですよ。下着ですよ、下着。パンティを贈るのがおしゃれなんですよ」 「……和希」 「はい?」 「それ、いつの話だい?」 「いつの……って、だからホワイト・デーの」 もしここに中嶋がいたら、そこまでボケるかと嘲笑をあびせたはずだ。中嶋ほどあからさまでないにせよ、岡田が聞けば無表情で。石塚が聞けば困った表情を浮かべながら、それぞれ如何にすれれば上司のとんでもない勘違いを撤回させられるか、アタマをフル回転させていたに違いない。そもそもホワイト・デーに下着を贈るのが流行したのは何年も前のことで、しかも贈り主を選んだ。下着などという相手に誤解を与えかねないものをさらっと手渡せず、どれほどの男たちドン引きされたことか。しかもそんな情報は、彼女たち独自のネットワークであっと言う間に広まってしまうのだ。それはもう『恥さらし首』以外のなにものでもない。 「あのね、和希」 「はい」 「ホワイト・デーに下着を贈るのはやめた方がいいと思う」 「どうしてです?」 「うーん。もう流行ってないから、かな?」 別にパンティだってブラだってかまわないんだけど。と思いながら成瀬は言った。ふたりでホテルへ行き、最後にそれをつけさせるくらいの芸当を啓太が見せるのならば。だが啓太はそんなことができる子ではない。たとえ中嶋の存在がなかったとしても、そんなことはしなかっただろう。それがわからない和希でもないだろうに。 中嶋のように『つまらないものを返して自分にまで恥をかかせるな』とまでは成瀬も思わない。それでも、自分がついていながらおかしなものを選ばせるわけにいかなかった。ほかの誰でもない。啓太に頼られているのだから。かと言ってにべもなくはねつけることもできなかった成瀬は、できるだけソフトに、でも誤解されないようストレートに伝えたつもりだった。 ところが。こわばっていたとはいえ笑顔のオブラートでくるんでしまったからだろうか。それとも言い回しが悪かったのだろうか。和希はくすっと笑ってしまった。 「やだなあ、成瀬さん。ラブ・ファイターのあんたがそんなでどうするんです」 「でも本当にもう流行ってないよ?」 「本当にいいものは流行やなんかは関係なく、スタンダートになりますから」 「それに、下着っていうのは啓太のキャラに合わないと思うしね」 「ああ……。成瀬さん。あんたも俺と一緒ですね」 「何が?」 「啓太を弟みたいに思ってくれるのはわかります。でも、俺もそうなんですけど、必要以上に啓太を幼く見てしまっていませんか? 啓太だってもう成人式も過ぎたんです。5月には二十歳だ。そろそろ大人として扱ってやらないと」 啓太を大人として扱うことと、ホワイト・デーに流行遅れの品物を返すこととは別の次元のはずなのだが。内心では忸怩たる思いもあったのだろうが、これが成瀬の精一杯だった。啓太には別の何かを用意して、和希のもってきたものは彼女に渡さないように言い含めておくしかなさそうだ。 ―― ごめん、啓太。 心の中で成瀬は啓太に謝って、改めて作った笑顔を和希に向けた。幸いにも今度はこわばったりしなかった。 使った食器を啓太が洗っている間に、中嶋はヤカンを出して湯を沸かした。ただ喉を潤すためだけの茶ならポットの湯で十分だ。だが『ほうじ茶タイム』は特別だった。どんなに忙しくても夕食後にほうじ茶を一杯飲む間だけは啓太の話を聞く。中嶋がそう決めているからだ。自分の方からも少しは話をするが、メインは啓太に喋らせてやることにあった。啓太が今、何を感じどう思っているか。何をしても中嶋を優先し、自身は二の次三の次にしてしまう啓太だからこそ、そのあたりをきちんと把握しておかなければならないと中嶋は思っている。家族から引き離してしまった啓太に今また寂しい思いを強要しているのは、他ならない中嶋自身なのだから。 そんな大事な時間にポットの湯ではいけない。茶にはやはり汲みたて、沸かしたての湯がいちばんいい。それぞれのマグカップに入れるティーバックだってそうだ。通販を受付けていない銀座の老舗茶葉屋に足を運んで、自ら買い求めてくるものだ。それは自宅を離れてからも続くこだわりのようなもので、留学してからの入手方法も、すでに算段してあるらしい。如何にも中嶋らしい周到さではある。 そうしていれた茶の向こうで、啓太の話す内容は他愛のないものがほとんどだ。今も話しているのはマンションの隣人が飼いはじめた茶トラの子猫の話題だ。正直な話、中嶋には何の興味もない。だが楽しそうに留守中の報告をする啓太の表情は、わずかな時間のロスを補ってあまりあるものだった。啓太にとって中嶋を独り占めできる時間が大切なのは言うまでもない。が、中嶋にはそれ以上の意味のある時間なのだ。 「あ、そうだ。中嶋さん、ラペルラって知ってます?」 たった今まで話していた茶トラと高級下着メーカーがどうつながるのか不明だったが、名前は知っていたので中嶋は一応うなずいた。 「それがイタリアの下着メーカーのことならな」 「それです、それです」 啓太は生真面目な顔で同意した。 「昨日、バイト先で聞いたんですけど、和希がそこの本店で女物のパンティを買ったそうなんです。しかもプレゼント包装で」 「ほう?」 ちょくちょく中嶋の元を訪れる啓太には、単発以外のアルバイトは難しい。それと知った和希が鈴菱本社あたりで仕事を見つけては、効率のいいアルバイトとして啓太に回してやっていた。中嶋や丹羽だけでなく西園寺や七条にまで鍛えられた啓太は、どこの部署に行かせても評判がよかった。 その本社のあちこちで囁かれていたのが『御曹司の結婚』だったのである。 「出張に行ったミラノで現地の人に、買い物をしたいからって案内してもらったらしいんですよ。そしたら買ったのがピンクに超豪華なレースが付いたパンティだったらしくて。しかも別料金まで払って、むちゃくちゃ気合の入ったプレゼント包装してもらったそうなんです。ミラノの支店から『お相手はどこのご令嬢か?』とかって問い合わせが入ったって。食堂でもリフレッシュコーナーでも、その話題ばっかでしたよ」 和希はまだ鈴菱グループの中では研究所の所長でしかないが、実力の片鱗はあちこちで見せている。おそらく数年のうちにはどこか系列企業の社長に就任し、それを一回り大きなものに育てあげるに違いない。周囲の誰もが期待している御曹司がそんなものを買えば、それは現場も色めき立って当然と言えた。 「ふうん。あの理事長殿も隅に置けないな」 「でも……。成瀬さんは……」 『期間限定でも構わない』と言った成瀬を思ってか、啓太が少しうつむいた。ついさっきまでのどうでもいい茶トラの話は、どうやら気に病んでいた成瀬のことを考えまいとしてのものだったようだ。 誰と恋愛しようがお構いなしの自分たちと違い、和希には自分の好きな相手と生涯を共にする自由はまずない。いずれはどこか名のある令嬢と家庭を持つことになる。だがあの和希が、成瀬と暮らしながら同時進行で女とつきあったりするだろうか。しかもパンティを贈るほど親密な付き合いをしているなど、まずありえないではないか。ちょっと考えてもわかりそうなことを気に病む啓太に、中嶋はそっと息を吐いた。 「気にするな。時期を考えてみろ。どこかの飲み屋のおねえちゃんにもらったチョコレートのお返しだろうよ」 「そうでしょうか……」 「おまえな。パンティ贈ってくるような男に、大事な娘を嫁にやる親がいるか? 俺ならそんなものをもらってきたと分かった瞬間に婚約は解消させるな」 「……そっか……」 啓太が顔を上げた。大きな目をさらに見開き、目からウロコが落ちました、といった表情で中嶋を見ている。マグカップを両手で持っていなければ、手をポンと叩いていたかもしれない。 「おまえだってそうだろう。バレンタインにもらってきたのがチョコじゃなく、開けてみたらトランクスだったらどうする? どんなブランド物でも、相手の正気を疑うだろうが」 「疑うっていうより無理かも……」 「今度バイトに行って、まだそんな話をしている奴がいたら、そう言ってやれ」 「そうします」 啓太が心からにっこり笑ったのを見て、中嶋は今日のほうじ茶タイムを切り上げた。 啓太と中嶋にとって、その話題はそこで終わりだった。つまらない心配をした啓太が後日、中嶋にからかわれるくらいのことはあるかもしれないが、その程度の話である。 ところが。それで終わりにはならなかった。彼らが知らなかっただけで、その噂はすでに鈴菱本社だけのものではなくなっていたのだ。人から人へと情報は伝達されていくからだ。それも少しずつかたちを変えて。 和希が買ったたった1枚のパンティはいつの間にかランジェリー数セットになり、シルクのペアのパジャマに変化した。ほかにも「教会の下見をした」というバージョンがあり、これには「日本で挙式すると大々的になりすぎるから、海外でこぢんまりと式を挙げる」のだと、もっともらしすぎる注釈まで ついている。「引出物にするために、某国の若手デザイナーに銀のボンボニエールが大量に発注された」に至っては、もはや原型の名残さえ残っておらず、ここまでくると、ウェディングドレス発注の噂がないのが、いっそ不思議なくらいであった。系列各社の社長の中には、すでにお祝い品選びをはじめた者もいるらしい。 和希が出張から戻るまであと3日。その頃にはさらに広がっていることだろう。この騒動を手際よく治めてみせれば、和希の評価はますます上がるに違いない。……たぶん…………(汗)。 |
いずみんから一言 |
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