君の特別になりたい 〜 ラブ・ファイター成瀬の挑戦 〜 |
どういう加減でか、暗闇の中で啓太は目を覚ました。部屋の中では豪快ないびきが響いている。 寝ぼけている所為もあって、最初はどこにいるのか分らなかった。が、眼が慣れてくるにつれ、ここが伊豆の温泉旅館だったと思い出されてくる。 啓太の隣の布団では中嶋が規則正しい寝息をたて、その向こうでは岩井が気配もさせずに眠っている。大いびきをかいているのはもちろん丹羽だ。大晦日から呑みつづけていることもあって、みんなとてもよく眠っているようだ。 ―― そっか。みんなで来たんだっけ。突然だったのによく部屋があったよなあ。 布団を鼻の上まで引き上げて、啓太はくすくす笑った。 ―― いくら最上級の部屋だって、お正月に部屋が取れるなんて。やっぱり俺は運がいいんだ。 啓太は幸せそうに隣の部屋の方に眼をやった。 あの部屋で。今頃、和希も。 そう思うだけで、啓太はいくらでも幸せな気分になれた。 啓太の言うように、ここに泊まりに来ることになったのは本当に突然だった。何しろ大晦日、つまり昨日の今頃は中嶋のマンションで騒いでいたのだ。騒いでいた当人でさえ思いもしなかった温泉行き。それらすべての経緯は、今から2週間前にかかってきた1本の電話からはじまる ―― 12月も半ばをすぎたある日曜のことだった。 前夜は遅くまで中嶋の手で啼かされていた啓太は、なんとかコーヒーで目を覚ましながら英字新聞に取り組んでいた。留学を控えているので、休日といえどのんびりともしていられなかったのだ。そんな啓太の様子を眼の端で見ながら中嶋が朝昼兼用の食事を作っていると、家の電話が鳴った。啓太が出ようとするのを制して中嶋がキッチン脇の電話を取る。だがその電話は少しの会話ののち、啓太のところに回された。 「啓太。おまえにだ」 「えっ? 俺?」 携帯電話が普及している昨今、家の加入電話にかけてくる相手はそう多くない。例外の筆頭格は丹羽で、啓太が実家と疎遠となった今では、ほぼ唯一の相手でもある。だが丹羽なら中嶋と話せば用は済んだはずだ。首をかしげながら電話を取ると、受話器から明るい声が聞こえてきた。 「啓太っ! いてくれたんだ。助かったよ」 「って、成瀬さん? どうしたんです、急に」 電話の主はBL学園伝説のラブファイター、成瀬由紀彦その人だったのである。紆余曲折があり、諸般の事情から「期間限定」と言われながらも、成瀬は「本命のハニー」である鈴菱和希に恋人扱いをしてもらえる一歩手前までこぎつけていた。 「ハニーのことなんだけどね」 「えっ? 和希に何かあったんですか?」 成瀬との付き合いは3年になるが、電話をかけてくるなんてはじめてのことである。ましてやここは中嶋のマンションだ。それを熟知しているはずの成瀬がわざわざ電話をかけてきたうえに、「ハニーのこと」などというセリフがかぶさったのだ。和希に何かあったのではと啓太が思うのも無理はない。だがその疑問は一瞬後には却下されていた。 「そうなんだよっ! ハニーってば大晦日まで僕より仕事を優先する、って言うんだよ!」 「…………ああ、なるほど……」 「『新しい年は、もちろん僕と一緒に迎えてくれるよね』って言ったら、『え? 年越しですか? たぶん仕事してますよ』ってさあ。ひどいだろ?」 それはまあ確かにひどいのだろうが。和希の側にも大きな理由があった。 大晦日から元旦にかけては当番要員を除いて、見事なまでに鈴菱関連の全オフィスから人影がなくなるのだ。そしてそれは海外事業所といえども例外ではない。つまりこの2日間だけは、よほどのアクシデントがない限り、どこの部署からも書類が上がってこないということを意味する。積みあがった案件は減っていく一方だし、それを邪魔する電話も鳴らない。仕事を中断させる客が訪ねてくる心配もなければ、中断して会議に出席する必要もない。本気で仕事を処理しようと思う和希にとって、この2日はまさにパラダイスなのだった。そのあたりの事情をよく知っている啓太としては、和希を弁護するしかない。 「うーん。大晦日は難しい……、かも……?」 ことばを濁す啓太に、だが成瀬は諦めようとはしなかった。このあたりはやはり「ラブ・ファイター」のラブ・ファイターたる所以なのだろう。 「僕もそう思ったんだよ。だからっ! 啓太に電話をしたわけ」 「えっ!? 俺、ですか?」 「そっ。君だよ、啓太」 満面に笑みを浮かべているであろう顔が目に浮かんでくるような成瀬の声だった。釣り込まれるように思わず「俺が何を?」と言ってしまった啓太に、成瀬がたたみかけるように言った。 「あのね。僕だってハニーの立場はわかってるつもりだから、べったり一緒にいたいって言ってるわけじゃない。ただ、一緒に年越しをしたいだけなんだ。新年になったら一番にキスして『僕の恋人になって』って言うためにね」 「はい」 「それでさ、僕も考えたんだよ。啓太のところで年越しのパーティーをやる、って言ったら、たとえ5分前でも来てくれるんじゃないかな、ってね」 ここまで頼りにされて断われる啓太ではない。もうこの時点ですでに、できることはやってみるつもりになっていた。 「あはは。なるほど〜。でも俺なんかが誘って、ホントに来るでしょうか?」 「大丈夫、大丈夫。啓太のお誘いなら絶対に来るって」 「うーん。じゃあ中嶋さんに相談してみます」 他の男といつまで喋ってるんだとでも言いだけにこっちを見ている中嶋を見遣りながら、啓太は電話を切った。これが伊豆の温泉につながるなど、これっぽっちも思っていなかった。 そして大晦日当日。年越しパーティは文字通り夜中であるはずなのに、昼過ぎにはもう成瀬が姿を見せていた。さらには成瀬のことを啓太から聞いた丹羽が現れ、丹羽に誘われた岩井までがいつの間にかソファに座っていた。 大掃除は中嶋の実家から家政婦が来て済ませていたし、パーティ料理は「参加費代わりだ」と言って和希から有名レストランのオードブルがたっぷり届けられていた。つまりその人手を利用できる用事など何ひとつ残っていなかった中嶋家の当主は、嫌そうな顔とうんざりとしたため息とで、不本意な客たちを迎え入れたのだった。 それでも気を遣ったらしく、丹羽は缶ビールを。岩井がワイン。そして成瀬はケーキとシャンパンを手土産に持ってきていた。最初のうちこそコーヒー片手に談笑するというスタイルをとっていたものの、そんなもの、このメンツで数時間ももつはずがない。酒の飲めない啓太と、啓太に付き合ってケーキを食べていた成瀬以外は、夕方前には飲み会へとなだれこんでしまっていた。 「ほらっ、啓太! ここ座れ、って」 「えー? でも俺、お酒飲めませんよ?」 「いーからい〜から。コーヒーでも日本茶でもいいから座ってろよ」 「俺も……。啓太がいてくれる方がうれしい……」 丹羽や成瀬が相手なら「見るな。減る」とでも言いかねない中嶋だったが、岩井にまで言われては仕方がないと思ったのだろう。中嶋は黙って啓太を引き寄せると自分の隣に座らせた。啓太はそのあたりの思惑になど気づくことなく、みんなが気持ちよく酔っ払っていくのを、ただにこにこと笑いながら眺めていた。 「本当に和希は来れるんでしょうか」 少々心配になりはじめた啓太が時計を気にしながら言った。すでに11時を少し回り、年越し蕎麦の準備をはじめたというのに、和希から連絡さえないのだ。誘いの電話をかけたときは『啓太が誘ってくれるんなら、仕事なんてパスだ、パス!』と言っていたのだが。成瀬の気持ちを知っている啓太には、たとえ和希が来てくれたとしても、年を越してしまってからだと意味がないと思ってしまうのだ。 だが並んでエビの天ぷらの下ごしらえをしている成瀬は、あまり気にしているようにも見えなかった。 「ハニーは啓太には嘘はつかないだろ? 来るって言ったんだったら絶対来るよ。大丈夫」 「……成瀬さんって、和希を信頼してるんですねえ……」 驚いたように成瀬の顔を見つめてから、しみじみとことばを洩らした啓太に、成瀬は優しく微笑んで見せた。 「啓太は信頼もしていない相手を愛せる?」 「…………いえ」 「だろ? 啓太だって中嶋さんとラブラブだもんね。信頼しきってるんじゃないの?」 「え? えへへへへへ」 「中嶋さんだって、啓太のことは信頼してると思うよ」 「あー。それは……。だといいんですけどねえ……。俺はまあ、努力中ということで」 さらっと笑顔で流して葱を刻みはじめた啓太に、成瀬は思わず苦笑をもらした。一歩引いたところから見れば、啓太よりも中嶋の方が、より相手を必要としていることがよく分るのに、啓太本人は未だそのあたりがよく分かっていないらしい。久我沼に拉致された啓太を探していたときも、その後しばらく入院していたときも、中嶋の啓太への思いはこれっぽっちも揺らいだりしていなかった。そして今、それは当時よりもさらに強く感じられるのだ。 伝わっていないはずはない。いくら中嶋の愛し方が判りづらいといっても、ここまで溢れさせてしまっているのだから。だから啓太は、おそらく感じ取ったもののあまりの大きさに、かえって信じられずにいるのだろう。地球が丸いと知っていても、自分が球体の上に立っているとは思えないのと同じようなものだ。 「あのさ。結婚式で『病めるときも健やかなるときも』って言うだろ?」 成瀬はエビの背腸をとりながら、今まさに「愛されていることの不安」を感じているのであろう啓太に語りかけた。自分が和希に求愛すると知って協力してくれている啓太に、少しでも何かを返したかったのかもしれない。 「……はい」 「健やかなるときっていうのは、まあ分るとして。病めるときってどういうときだと思う?」 「え? それって病気のときじゃなかったんですか?」 驚いたように聞く啓太に、成瀬はやわらかい微笑を返した。 「うん。僕もそう思ってたんだけどね、従兄弟の結婚式で牧師さんがこう言ったんだよ」 ―― 病気の相手を愛するのは当然です。ここで言う 『 病めるとき 』 というのは、相手が自分に対する愛を見失っているとき。そういうときこそ相手を愛しなさいと神様は言っておられるのです ―― 「つまりね、自分が 『 愛されてないのかも? 』 って思ったとき。っていうか、自分にそう思わせちゃったときが、相手の病めるときなんだって」 「…………そうなんだ……」 「愛されないのは寂しいよね。でも、それで相手を愛せなくなっちゃったら、そんな不幸なことはないんじゃないかな」 「……はい」 「だから牧師さんもそのことを言ってるんだと思うよ」 成瀬が何故、突然のようにそんな話をしはじめたのかをようやく理解した啓太は、そのことばをしっかりと胸に刻み込んだ。自分の不安を感じ取り、こんな話をしてくれる先輩を持ったのもまた、啓太の幸運のひとつなのかもしれなかった。 和希は現れた。大晦日まであと40分。夜食代わりの年越し蕎麦の準備ができあがった、ちょうどその時に。 「なんか……、見計らってたみたいだな」 「んー?」 ものすごい勢いで年越し蕎麦をすすりつつ、間の抜けた声を出した日本を代表する企業の次期総帥に、啓太は呆れたように言った。しかしそれは酷というものだろう。「今年中」にここへ来るために、昼も夜も食事に出る時間を惜しんで仕事をしていたらしいのだから。ちなみに「らしい」というのは、和希のことばが「(もぐもぐ)なっへ(ずるずる)ひょくいにえると(はぐはぐ)はいへーねも(ずるずる)こひひひはんはははるらろ?」としか聞こえなかったからである。確かに鈴菱本社のある絵にかいたようなオフィス街では、こんな日まで営業している飲食店を探そうと思ったら足を延ばすか近くの一流ホテルに行くかしかなく、どちらをとってもそれなりに時間がかかってしまうに違いない。 年越し蕎麦2杯を掻っ込んでようやく一息つけた和希が、ワイングラスを片手にオードブルに手を出しはじめた頃。啓太がオードブルの皿を取り上げた。 「啓太?」 「うん? もうすぐカウントダウンだからさ。こっちのテーブルに置いとくよ」 「ふうん?」 「あ。そのグラスもな。年が明けたらシャンパン開けるそうだから」 なるほど。たしかに向こうに置かれているワゴンにはクーラーに入れたシャンパンとグラスが用意されている。何か違和感を感じながらも、和希はワイングラスを空にすると啓太に手渡した。 つい先刻まで年末歌合戦を映し出していたテレビは、今はうってかわって各地からの寺社の風景に変わっている。場所こそ違うが、啓太も去年まで、この時間は初詣に向かっていた。……両親や妹と一緒に。にぎやかな飲み会に紛れて忘れていたその事実を、啓太はかすかな胸の痛みと共に思い出してしまった。啓太が選んだのは中嶋で、それ以外のものなど選べるはずもなかった。そこにはわずかな後悔さえ混じる余地はない。それでも寂しく思ってしまうのは、啓太が啓太である以上、どうしようもないことなのだろう。 この部屋ではみんな楽しく年を越そうとしている。和希に告白するつもりの成瀬、そんなこととは少しも思わず、自分の誘いに応じて駆けつけてくれた和希。テレビの歌合戦に合わせて下手な歌を歌いながら豪快に空き缶の山を作っていく丹羽。ひっそりしているように見えて、いつの間にか着実に杯を重ねている岩井。そして不本意極まりない顔をしつつも啓太の「お願い」を聞いて、このパーティをさせてくれた中嶋。彼らに悟られないよう、啓太はその思いを、ひっそりと胸の中にたたみこんだ。 「おーし! 1分前だ!」 テレビのチャンネルを次々と変えていた丹羽が、カウントダウンをやっているバラエティ番組を見つけて声をかけた。和希と話していた啓太は、「こっちに来い」とばかりに手を伸ばしてきた中嶋の隣に移動し、空いた場所にはちゃっかり成瀬が腰を下ろした。 「……5……4……3……2……1……ゼロ!」 「明けましておめでとう!」 「おめでとうございます!」 中嶋の腕に絡め取られながらも、啓太は和希から眼を離せなかった。そして成瀬の広い背中がその姿を隠してしまったのを見てようやく、中嶋の胸に身を預けたのだった。 さて。その成瀬である。和希が知らないだけで、今日のこのパーティは成瀬と和希のために開かれたものなのだ。ここで失敗でもしたら、気難しい中嶋を説き伏せてくれた啓太に申し訳が立たない。 というわけで成瀬は、年が明けたその瞬間、和希を思いっきり抱きしめていた。 「ちょっ……。な……。……ん……」 そして何が起こったか分らず、もがこうとする和希のくちびるをふさいでしまう。成瀬の舌に翻弄されつつもようやくの思いで成瀬を押し返した和希は、だがあまりに真剣すぎる成瀬の瞳に捕らえられ、逆に動けなくなってしまった。そんな和希に成瀬は、とても成瀬らしい剛球ストレートを叩き込んだ。 「和希。僕は君の特別になりたい。僕を恋人にしてよ」 「な、何をいきなり……」 「いきなりじゃないよ。ずっと言ってただろう。……本気だってことぐらい、気づいてたはずだよ?」 「……それは…………」 「鈴菱和希の立場くらい僕にもわかるつもりだ。立場が邪魔をして踏み切れないことも分ってる。そして……。いずれ君が、鈴菱に相応しい女性を妻に迎えなきゃいけないってことも、分ってるつもりだ」 「だったら……」 「そう。だからこそ尚更早く、僕は君の特別になりたい。こうしているうちにも、君といられる日が減っていくんだよ?」 「……」 「君を困らせるつもりはない。相手の女性を不快にさせるつもりもない。それまでの間だけでいい。君の中の僕のポジションを引き上げて欲しい」 成瀬がことばを切ると部屋の中に沈黙が落ちた。テレビから流れる音声が、かえって部屋の中の沈黙を際立たせている。ここには彼らだけではない。何人もの人間がいるのに、誰も口を開こうとはしなかった。そして気配さえ消してしまっていた。中嶋の腕の中にいた啓太もまた、背中にしがみついて息を殺していた。 どのくらいの時が経っただろう。凍りついたようだった和希の指がそっと動いた。やがてそれはためらいがちに上がっていき、成瀬の頬に触れた。 「……本当に……?」 「……本当に、何……?」 「俺の……。都合で終わらせても。……それまででも、いい、と……」 「誰かを失って泣くのは、その人との想い出が幸せなものだからだ。君はそれが残酷だと思うから、このままでいようとしてるんだと思うけど……」 成瀬は頬に触れる和希の手をとると、くちびるを押し当てた。 「冷めた目で君の結婚報道を見るより、そこで号泣する栄誉を僕に与えて欲しい」 今までの和希なら、手だろうとくちびるだろうと、こんなキスをすれば「やめてください」と抗議のひとつも出るところだ。ところが今日は成瀬に手を預けたまま、黙って成瀬の好きにさせている。いつもと違う様子に成瀬が顔を上げると、和希は真剣な、それでいて困ったような顔で成瀬を見返している。この中でいちばん和希に近いはずの啓太でさえ見たことのなかったそれは、もしかしたら裸の 『 鈴菱和希 』 だったのかもしれない。理事長や所長、鈴菱の三代目といった和希がまとう余計なものを、成瀬が引き剥がしてしまったのだろう。その姿はまるで幼い子供のようにも見え、成瀬はふっと表情を緩めると穏やかな口調で問いかけた。 「……どうしたの?」 「……」 「もしかして、困ってる?」 和希がこくんと頷く。 「それは……。僕が嫌いじゃないから、と、思ってもいい?」 小さく、ためらいがちではあるが和希が頷く。 「困らなくていい。困らせたりしないから。そんな心配はしなくていい。だから……」 「……」 「僕を、恋人にしてくれるね?」 和希がまた、こくんと頷いた。 再び和希を抱きしめた成瀬の背後で、「パンッ」という小気味のいい音が響いた。それまできれいに気配を消していた丹羽がシャンパンを抜いたのだ。驚いたふたりが思わず振り向くと、啓太が慌ててグラスを並べているところだった。 「王様ぁ。も〜。何じゃましてるんですかあ」 「いーじゃねーかよ。もう十分だろ?」 「駄目ですよぉ。ウマに蹴られても知りませんからねっ」 すっかり啓太たちの存在を忘れてしまっていた和希は、照れくささを隠すつもりなのか、ぶすっとした表情で丹羽の注ぎ分けたシャンパンを受け取った。 「ちーっとばかり時間も過ぎちまったがよ。まあ、あらためて、それやらこれやらに」 「乾杯」とも「おめでとう」とも誰も言わなかった。ただ眼の高さにグラスを掲げただけである。そっけないくらいではあるが、今の空気にはちょうどいい距離感だった。新年にかこつけてはいるが、もともとが成瀬と和希のために用意されたシャンパンなのだ。そのあたり、丹羽は上手く流していた。 シャンパンはお世辞にも高級とはいえなかったが、なかなかの品物ではあった。誰が選んだか知らないが趣味は悪くない。成瀬に腰を抱かれた和希が、半ば現実逃避にそんなことを考えながら口に含んだ酒の香りを味わっていると、啓太の手にしたグラスを、中嶋が取り上げるのが目に入った。 お祝い事なのでグラスを受け取り、形ばかり口をつけたものの、啓太はアルコールがまったく駄目である。中嶋はそんな啓太に飲ませないようにしたのだろう。だが何も言わずにグラスを取り上げた中嶋はともかく、突然うしろから伸びてきた手にグラスをもっていかれた啓太も少しも驚いていなかった。まるで何度もリハーサルを重ねた芝居のようにお互いが相手の動きを、そして気持ちさえも知り尽くしているのだろう。中嶋が啓太のグラスを空にするのを、和希は羨ましく思いながら見つめていた。思わず頷いてしまったものの、自分と成瀬とがそこまでの関係になれる自信は、今の和希にはなかった。 成瀬はあんなふうに言うが、自分はそこまで踏み込めない。……きっと踏み込めないだろう。 明日を見ないフリをして今日の激情に身を委ねてしまうには、自分は分別がありすぎる。遊びと割り切ることさえできない自分を不器用だと思いはするが、割り切ることができないくらい成瀬の存在は大きくなりすぎてしまっているのだ。和希にとって啓太と中嶋の自然な姿は、まるで手の届かないところで光る星のようにさえ見えるのだった。 「おーし! んじゃ新郎新婦をホテルに送り出そうぜ!」 そんな和希の心の揺れを吹き飛ばすかのように、丹羽が大きな声を出した。 「これ以上邪魔しちゃ、それこそウマに蹴られかねないからな」 「なっ……!」 「う〜ん。それはちょっと無理かな……」 急に現実に引き戻され、否定のことばがすぐに出ない和希に代わって駄目出しをしたのは、意外にも成瀬だった。していいと言われたら、ここから和希を横抱きに抱いてでもホテルに直行しかねない男のはずなのだが。 「そりゃあ僕だって最初くらいホテルに行きたいですよ? でも幸か不幸か、僕って顔が売れちゃってるんですよねぇ。混み合う時間に別々に入るならともかく、こんな夜中に一緒にいるところを写真週刊誌に見つかりでもしたら……。僕はともかく、鈴菱にはスキャンダルだ」 「……成瀬は、意外と冷静なんだな……」 「鈴菱の御曹司を相手にしようと思ったら、このくらいはね」 「全部が全部、ゲラで抑えられるわけじゃないだろうしなあ。ってか、反対派の手に渡るってこともあるわな」 久我沼の退場と共に、今のところ反・和希派はなりをひそめている。だがそれはあくまで表面的なものにすぎない。少しでも隙を見せれば、弔い合戦とばかりに和希の追い落としをはじめるだろう。呆れてしまうがビジネスの裏側とはそういうものだ。 そう言って一度ことばを切った丹羽は、だがすぐに代案を考えついたらしい。それはよほど楽しい思いつきだったのか、少し悪戯っぽい笑顔を見せた。 「みんなで温泉旅館に行く、ってのはどうだ? 3人・3人のような顔して部屋とるんだ。俺らがカモフラージュになるから大丈夫だろ」 新婚旅行についてこられる当事者のふたりがどう思うかは別として、それは悪くない考えだと誰もが思った。ただし今はすでに1月1日。温泉旅館の部屋がふたつも押えられるかどうかは甚だ疑問であった。 「じゃあ、こうしようぜ。このまま朝まで飲み明かして、それなりの時間になったら車で行けそうな旅館に電話して部屋があるかどうか聞く。10コ聞いて、駄目なら諦める。これでどうだ?」 誰からも異論は出なかった。端から部屋などあるはずがないと思っていたからだった。 みんなと一緒に起きていたはずなのにいつの間にか眠っていたらしい。中嶋に揺り起こされて、啓太はベッドの上に飛び起きた。 「…………おはようございます」 「おはよう。……みんながお待ちかねだ。着替えなくていいから顔だけ洗って来い」 「えと、あの……。お待ちかねって……」 「旅館に電話するのに、おまえの運を借りたいんだそうだ。こんな茶番劇、さっさと電話して終わらせろ」 「はい……」 起きてみると昨夜の服のままだった。リビングで眠ってしまったのを、中嶋が運んでくれたのだろう。とたんに昨日からの経緯を思い出した啓太は、部屋を出て行こうとする中嶋に「ごめんなさい」と声をかけていた。 「うん? 何がだ」 足を止めた中嶋が、ドアのところで振り向いた。 「あの……。俺が成瀬さんに頼まれちゃったから、温泉に行くことにもなっちゃったし……」 「かまわん。もう慣れた」 「え、……っと?」 「おまえといると、こんなことはしょっちゅうだしな。それに、こんな日に部屋があるとも思えない」 「そっか……。そうですよね」 「だからさっさと起きて電話をして、終わらせてしまえと言ってるんだ」 そのことばに、啓太は慌てて部屋から飛び出していた。 部屋はあった。啓太が眠っている間に丹羽がネットで検索して作ったリストの、上から2番目にあった伊豆の旅館に。 どういう話し合いになったのか、費用は全部、和希が持つことになっていた。だから値段は気にせず、というよりはむしろいい部屋の方がいいとは言われていたのだが。 『いちばんいいお部屋でございましたら……。はい。お二部屋ご用意できます』 「へ……っ? あるんですか、部屋……」 そう言われて驚いたのは啓太だけだった。間の抜けた啓太の応えを聞いたとたん、誰もが笑ってしまっていた。中嶋や和希でさえ思わず苦笑を洩らしてしまっているのだ。確かにこの啓太の運のよさは笑うしかないかもしれなかった。 「グッジョブ! ナイスだよ、啓太! ついでに二泊できない?」 「二泊だ。啓太。二泊って言ってみろ!」 「えっと……。あの、二泊って大丈夫ですか?」 『今日からのお二泊ですね。……はい、それではお名前から頂戴できますでしょうか……』 こと、ここに至っては、和希でさえもう反対はできなかった。諦めたように二、三度ため息をつくと秘書に電話をして伊豆に行くことを告げ、ここにハイヤーを回させる手配をさせたのだった。 2台のハイヤーに分乗するのに、成瀬と和希の乗った車に、啓太が止める間もなく丹羽が乗り込んだ。ところがシートに落ち着いてしまえば丹羽も成瀬も黙り込み、それぞれが好き勝手な方を眺めている。和希もまた窓の外に視線を移した。 混雑するのが分かっている幹線を避け、ハイヤーは裏道を西へ向かって走っていた。そのあたりでは一戸建ての家が多いようなのに、国旗や門松を立てている家もないし晴着姿の女性も見えない。ましてや凧揚げやコマ回しをしている子供などいるはずもない。ビジネスマンらしき姿が見えないのだけが正月らしい風景なのだろうか? やがてどこまでも続く同じ風景に見切りをつけた和希が、成瀬たちの方に向き直った。 「まったくもう……。やりすぎなんですよ、ふたりとも」 仏頂面で小言を言う和希に、だが丹羽も成瀬も悪びれたところなど少しも見せず、にんまりと笑って見せただけだった。 「ちょっと温泉に行きたかっただけじゃねーかよ。これぞ日本人の、正しい正月の過ごし方だろ?」 「んー? 僕はちょっと、それに便乗したかな?」 「あれが 『 ちょっと 』 ですか? どこが 『 ちょっと 』 なんです? 中嶋さんに頼まれたのはそんなのじゃなかったはずですよ?」 和希が呆れかえった声を出した。 11月に入ってすぐのことだった。珍しくアポを取った中嶋が、丹羽と和希の待つ理事長室を訪れた。啓太のことで相談があると言われ、少々身構えていた和希だったが、それは意外な内容だった。 本当なら啓太は両親や妹に囲まれて年を越すはずだった。だが中嶋との関係を知られ、それでも中嶋を選んだ啓太に戻る家はもうない。それでなくてもにぎやかな雰囲気が好きな啓太に、ふたりきりでの年越しは寂しいだろうからなんとかしてやってくれと言うのだ。 「海外旅行にでも連れ出そうかと思ったんだが、それでは『逃げている』気がするからな。俺は啓太にうしろめたい思いだけはさせたくないんだ」 そう言って頭を下げる中嶋に、誰が拒否などできるだろう? 和希も丹羽も、できうる限りの協力を約束したのだった。 「言われたとおり、予定はちゃんと3日まで空けてましたよ? でもまさか旅館まで手配してるなんて思ってもみませんでした」 「まー。いーじゃねーかよ。啓太は疑ってもいなかったぜ? 嘘はでかくつけ、ってな」 「需要と供給がぴったり一致したわけだしねえ。僕はとっても喜んでるよ?」 それでなくても忙しい和希は丸3日の時間を確保するため、例年以上に忙しい日を送らざるをえなかった。当然、自分で何かを計画できるはずもない。だから丹羽と途中から参加した成瀬のふたりに任せてしまっていたのだが、それは大きな間違いだったようだ。……いや。啓太の気持ちを紛らわせるという肝心の目的は果たされているのだから、間違いと言い切るのはいけないかもしれないが。だがおかげで自分は成瀬との関係を進めることになり、その証としての時間を過ごす場所へ行こうとしている。それはけっして嫌なことではなく、心のどこかで待ち望んでいたものではあったものの、いずれ失うのが分かっている以上、気持ちとしては複雑極まりないものがあった。 こんな日に空いてたからしょぼい旅館かと思ってたけど、大きくて驚いちゃったよなあ。料理も美味しかったし、部屋は広くて露天風呂までついてるし。王様たちも大浴場なんか行かずにこっちに入ればよかったのに。でも、そのおかげで中嶋さんとふたりで入れたんだけど。これってやっぱ気を遣ってくれたのかなあ。 和希も成瀬さんと一緒に入ったのかな。俺たちみたいにお風呂でしたり……したのかな。って、馬鹿っ! 何考えてんだよっ! マジで想像すんなよ。どんな顔して会ったらいいのか分んなくなるだろっ。 …………でも。役に立ててうれしい。……かな? 俺、いっつもしてもらってばかりだもんな。 ようやく 『 和希の特別 』 になれた成瀬さん。 このまま幸せになってくれたらいいのになあ……。 和希と成瀬さんの幸せができるだけ長く続きますように……。 そして、俺も中嶋さんの特別になれる日がきますように……。 啓太は暖かい気持ちに包まれながら、もう一度眼を閉じた。この部屋が、じつは2か月も前に予約されていたものだと気づかないままに。気づかないのもまた、啓太の幸運であるのに違いなかった。 啓太の胸のうちにはもう、家族のいない寂しさなど残っていなかった。なぜならすぐ隣に 『 中嶋英明 』という新しい家族がいてくれているからだ。だが啓太がそのことに気づくには、まだもう少し時間がかかりそうだった。 |
いずみんから一言 はい。という訳で「黒幕は中嶋氏」というオハナシでした。 彼は啓太くんのためならいくらでも頭を下げられる男なのです。 「その年のはじめに」の「去年は丹羽や和希が来て云々」はこれになります。 コメディタッチに仕上げるつもりが、中途半端にシリアスになってしまいました(汗)。 でも「もう一度この腕に」で成瀬さんを出張らせて、ちょろりと匂わせていた成和を ようやく書くことができて、やれやれです。 ホントは「なれ初め編」みたいな「100の質問」があるのですが、先に年末年始が 来てしまった(笑)ので、こっちを先に書きました。 順番どおりに書けない作者でごめんなさい。 彼らの話もきちんと1本あります。 でもネタバレになってしまうので、中啓の最終話を書いてからでないと出せません。 まあ「一番つらいときには相手が支えになる」とだけ書いておきましょう。 そちらの方はもう少々お待ちを。 |
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