いつもと同じ朝




 待ちに待った夏休みがやってきた。
 7月一杯を焦れるような想いで実家で過ごした啓太は、8月1日の朝10時には中嶋のマンションに着いていた。いつもの朝寝坊はどこへやら。まるで別人のように7時前に起き出したかと思うと、朝食もそこそこに家を飛び出してきたのだ。もちろん中嶋から釘をさされていたので、夏休みの宿題は全部終わらせていた。それも間違いだらけで叱られることのないように、和希に頼んで答えのチェックもばっちりだ。過去10回の夏休み中、こんな真剣に宿題をこなしたことなど一度もない。
 思い切りよく玄関のドアを開けた啓太を、苦笑を浮かべた中嶋が出迎えた。
 これから30日。中嶋との共同生活がはじまる ―― 。

 啓太が今までいちばん長く中嶋と過ごしたのは丹羽のいう 「 新婚旅行 」 のときで、帰国した数日を含めた2週間程度である。しかもほとんどがホテル暮らしで、およそ 「 生活 」 とは言いがたい。だからこの夏休みが、ふたりにとってはじめて生活を共にすると言っていいかもしれなかった。
 少々緊張して現れた啓太だったが、数日もすれば中嶋との生活リズムのようなものができていた。きちんとした規則正しい生活は、かえってシンクロしやすかったのだろう。
 朝は7時に起床。朝食をしっかりとったあとは掃除と洗濯をすませて9時に勉強開始。昼食は啓太が勉強している間に中嶋が作り、その代わり、夕食は啓太が用意する。
 その夕食の前に七時のニュースをふたりで見るのも、夏休みになってからの習慣だった。中嶋はテレビの前のソファに。そして啓太はその足元で膝を抱えて座る。前の持ち主が二軒分ぶち抜いて作ったというマンションのリビングは単純計算で60畳はあるというくらい広く、ソファもチェアもストゥールもあるのに、何故か啓太はいつも中嶋の足元にうずくまっているのだった。

 ニュースが終わりかけたので、啓太は夕食の用意に席を立った。用意といっても料理はほとんど出来ている。冷蔵庫からつけあわせを出して皿に盛り、下処理のすんでいるチキンをフライパンでソテーすれば出来上がりだ。火にかけたスープの鍋をかきまぜていると電話が鳴ったので、啓太はキッチンの壁にかかっている電話をとった。
「はい、もしもし」
「おう、啓太か。メシ時に悪いな」
「なんだ王様ですか。晩ごはん食べに来るんですか? 今日はハーブチキンですよ」
 電話をかけてきたのは、同じマンションの二階に住む丹羽だった。何か理由をつけてはしょっちゅうこの部屋に食事に来ている丹羽は、啓太たちの生活習慣を熟知しているといっていい。だからこその会話だったのだが、今日は少し違っていた。違うって。そういう丹羽の声にも苦笑のニュアンスが含まれていた。
「ちょっと頼みたいことがあるんだよ。ヒデと替わってくれ」
「はい」
 中嶋と電話を替わった啓太が、出来上がった料理をリビングの端に置いたダイニングテーブルに運んでいったとき、中嶋は不機嫌そうな声でまだ何かを話していた。
「……わかった。しかたがないから連れて来い。ただし、紙のコップや皿まで全部もってこいよ。啓太には何ひとつ負担をかけるな」
 そういうと中嶋は彼には珍しく、がちゃんと受話器を置いた。
「中嶋さん?」
 テーブルの所に立ったまま、啓太が不安そうに中嶋の方を見ていた。中嶋は片頬に皮肉な笑いを浮かべながらテーブルにつくと、啓太の淹れた熱い日本茶をすすった。ふたりで考えた取り決めで、ごはんはワゴンに乗せた炊飯器から各自がよそうことになっていた。啓太は主婦でもお手伝いでもないのだから、そこまでする必要はないということだ。だからお茶をすすっている中嶋はおいておいて、啓太は自分の茶碗にごはんをよそった。
「俺が所属してる国際法研究会。知ってるな」
「はい。大学の枠を超えて人が集まってるっていうサークルですよね。確か伊勢崎町の本屋で会った……」
「そうだったな。あのときの連中だ」
「あの人たちがどうかしたんですか」
「実は今日、サークルの飲み会だったんだが、幹事を引き受けた丹羽が馬鹿やらかして……」
 ここで露骨にため息をついた中嶋は、茶碗を取り上げながらつづけた。
「店の予約がはいってなかったそうだ。十人超えると、飛込みではそうそう席も空いてないだろうしな。で、苦し紛れに自分の部屋に来いといった」
「でも王様の部屋じゃ五人だって無理ですよ」
「だからここを使わせろといってきたわけだ」
「あ。あはははは」
 これで中嶋の不機嫌さも理解できた。それに彼が丹羽に言っていた話の内容も。
「だけど中嶋さん、よかったんですか?」
「まあ丹羽の貸しにつけておくさ」
「そうじゃなくて。飲み会、行かなくてよかったのかなあ、って」
 何気ない啓太の言葉に、中嶋が箸を止めて顔をあげた。
「行って欲しかったのか?」
「……いえ」
「じゃあ言うな」
「はい」
 中嶋さんは飲み会より俺の方を選んでくれたんだ。啓太は食べることに専念するふりをして、笑いそうになる口元をごまかした。

 啓太が食器洗い機に汚れた皿をつっこんでいると、通路をにぎやかな声が近づいてくるのがわかった。来たな、と思うまもなく玄関のドアが開き、「悪ぃ、ヒデ」という声とともに丹羽が入ってきた。そのあとにつづいて、「おじゃましまーす」とか「こんばんはぁ」とかいう声が聞こえてくる。どうやら女子大生も何人か来ているようだ。
「トイレはこのドア。スリッパ履きたいやつはこの中に入ってるからな。女の子の分くらいはあるはずだ」
 何がおかしいのかキャーキャー言う声を残して部屋に入ってきた丹羽は、不機嫌極まりない表情をした中嶋の横をすり抜けると、まっすぐキッチンに入ってきて、啓太が出そうとしていたアイスペールを取り上げた。
「すまない、啓太。何もしなくていいからな。気を遣わないでくれ」
「ええ。ご挨拶だけしたら部屋にこもりますから。王様こそ気を遣わないで下さい」
「そうか? 悪いな。だが女共はうるさいからなあ。勉強の邪魔になるようだったら、俺の部屋使ってくれ」
 ―― えーっ !? うっそー。ちょー広ーい。ってゆーかぁ、ごーか? ホテルのロビーみたぁい。すごぉーい。
 リビングの方を伺うまでもなく、すでに充分すぎるくらいうるさくなっていた。これでアルコールが入ったら、いったいどんなことになるのだろう? 啓太は丹羽の申し出をありがたく受けることにした。
「挨拶なんかもしなくていいって。ヘタに捕まるとおもちゃにされっぞ。英語でも数学でも俺の問題集好きに使っていいから、今のうちにこっそり裏口から出てけ」
「その方がいい。これから先、テンションが上がることはあっても下がることはまずないからな」
 ―― なっかじっまくぅ〜ん。丹羽くんもぉ。何やってんのぉ〜? 早くいらっしゃいよぉ。
 中嶋のことばを裏付けるような黄色い声だった。すでに頭が痛くなり始めていた啓太は、軽いため息とともに、丹羽がさしだした部屋の鍵を受け取った。裏口を作っていた前の持ち主に感謝しながら。
 勝手知ったる他人の部屋というのは、何も丹羽の専売特許ではない。啓太も丹羽の部屋にはしょっちゅう出入りしていて、食器棚にはちゃんと啓太や中嶋のマグカップも置いてあった。コーヒー豆の場所もコーヒーメーカーの使い方もばっちりだ。さらには計算用紙が何処にあるかとかいったことまで熟知していたので、手ぶらで来ても数時間分の勉強くらい困らなかった。
 丹羽が高校時代から使ってきた問題集は、実のところ啓太には少し難しい。しかもGWからこっち、基礎に戻ると言って中学レベルの問題ばかりやっていたから尚更だ。だが今夜はいつもと違って、ノルマのない気楽さがあった。三角関数でもやってみるかな。目をつぶって一問を選び出すと、啓太は参考書片手に問題を考え始めた。

 かなりの時間をかけて三角関数を三問解いた啓太だったが、結果は無残にも全滅だったので、気分転換に物理の問題集に手を出した。これだと数学的なアタマはひきずったままで、それでいてまったく新しい観点から問題を見ることができるからだ。まずは参考書を広げてみる。ページをめくっていくと丹羽の、字は荒っぽいが丁寧な内容の書きこみがあった。それを読んでいるとなんだかできそうな気がしたので、試しにひとつ解いてみた。ちゃんと正解できていた。たとえ参考書に頼ったとしても、正解すれば気分がいい。嬉しくなった啓太がどんどん解いていき、そのページの最後の問題にもマルをつけていると、ドアの呼び鈴がなった。丹羽だと思った啓太だったが、念のためにドアのレンズから確認すると、ロングヘアと巻き髪の見覚えのある女子大生がふたり立っていた。
「どうしたんですか? おねえさんたち」
「今夜はここで泊まることになったのよ。丹羽くんは中嶋くんちで寝るみたい」
 ひとりが長い髪をかきあげながら、酒くさい息で言った。少し驚いた啓太が時計を見ると、確かに針は日付を越えている。物理の問題に夢中になっているうちに、ずいぶん時間が経ってしまっていたようだ。これでは酔っ払いの女子大生が帰るのは難しいに違いない。中嶋の部屋にはもっと多くの女子大生が来ていたから、他はみんな帰ってしまって、この二人だけが残っていたのだろう。
「それで、君は部屋に帰って来いって」
「わかりました。じゃあ俺、失礼します。あっ、そうだ。泊まるんだったら、タオルとかはここです。夜中にお水が飲みたくなったら、冷蔵庫にペットボトルのミネラルウォーターが入ってますから。コップはその中のを適当に使ってください」
 そう言って机の上を片づけはじめた啓太の腕をロングヘアが掴んだ。振り向いた啓太のすぐ目の前に女の顔があった。ダマになるまでごてごてに塗りたくったマスカラはどうかと思うが、とりあえず 『 美人 』 というカテゴリに入れてもいいような顔だった。が、そこに 『 自分は美人である。男はみんな自分の虜になって当然 』 とでもいうような傲慢さが見え隠れしているのを、啓太は敏感に感じ取っていた。
「ねえ君。中嶋くんと住んでるのぉ?」
「……休みのときだけですけど」
「ね、彼モテるんでしょ? 恋人とかいる?」
 ちらっと怜佳の顔がよぎった啓太だったが、あのきれいで真剣な人を、こんな薄っぺらい女たちに話すことなんてできなかった。
「さあ。特定の女の人はいないみたいですけど」
「きゃあ !! やったぁ !!」
 啓太の腕を放したロングヘアが、時間も考えずに巻き髪とキャーキャー言った。馬鹿らしくなった啓太が、使わせてもらった問題集と計算用紙を抱えて 「 俺もう部屋に帰りますから 」 といって出て行きかける。と、再びロングヘアが啓太の腕を掴んだ。
「待って」
「何ですか?」
「いいことを教えてくれたから、お礼をあげるわ」
「何を……」
 言い終わらないうちに、啓太のくちびるはロングヘアにふさがれていた。驚いて見返した啓太の頭を、彼女はさらに引き寄せてきた。だが口を開かなかった所為もあるのだろうが、中に入れてくるテクニックさえない女の舌はべたべたと無遠慮に啓太のくちびるの上を這いまわるだけで、啓太には不快にしか感じられなかった。やがてくちびるを離したロングヘアが、勝ち誇ったような表情で言った。
「どう? これが大人のキスよ」
「……これが大人のキスなんですか?」
 問い返した啓太は片頬に皮肉な表情を浮かべていた。もしこの場に丹羽がいたら、中嶋とそっくりだといったかもしれない。くちびるを拭った拳に口紅が縞模様を作っていた。
「そう。ほんのお礼よ」
「じゃあ俺からは、大人のキスを教えてくれたお礼に、高校生のキスをお返しします」
 ずうずうしさにむっときていた啓太は、参考書を手にしたまま女の腰を引き寄せた。不意をつかれた女の口から、啓太の舌がするりと中へ滑りこむ。そして啓太は今の自分にできる精一杯のキスを返した。それは中嶋の基準からいくとまだまだ初心者の域を出ないものだったが、先刻のキスよりははるかに技巧的だった。やがてロングヘアが胸を押し返してきたので、啓太は逆らわずに身体を離した。たかが高校生と見くびっていた相手の突然の反撃に、彼女は明らかにうろたえていた。
「……君は、何?」
「ただの高校生です。ご覧のとおりの受験生……」
「そんなこと言ってるんじゃないわよ。中嶋くんの何かって聞いてるのよ!」
 なんとか形勢を立て直そうとして女が詰め寄った。だが彼女の頭に血が上れば上るほど、啓太は冷静になっていった。
「……その質問、中嶋さんにもしてみました?」
「……」
「したんでしょう? おねえさんのことだから。何て言ってました?」
「……パートナーだ、って言われたわ」
 パートナー、か。部屋に戻りながら、啓太はそのことばを何度も頭の中で繰り返してみた。恋人ではなくパートナー。恋人ほど浮ついていなくて、恋人以上に相手から必要とされる存在。そんなふうに自分を表現してくれる中嶋に、啓太は胸の奥が暖かくなるのを感じた。

 部屋の中はすでに片付いていたが、どうしようもないくらいに酒と食べ物のにおいがしていた。エアコンが切られ網戸になっているのは、空気を入れ換えようとしているからなのだろう。
「俺はあっちの部屋で寝るからな。おまえら悪いがそこらのソファで雑魚寝してくれや。別に風邪もひかんだろ? タオルケットが欲しくなったら風呂場の隣がリネン室だ。そっからバスタオル取ってきてかぶってくれ。ここのバスタオルは一流ホテルなみだぜ。分厚いしでけえし十分まにあう」
 責任を感じているのか、丹羽がひとりでこの場を仕切っていた。啓太が入ってきたのに気づいた丹羽は、右手で拝むようなしぐさをしてから、中嶋の部屋を指差した。そこに中嶋がいるということなのだろう。ドアを開けてみると中嶋は、あいかわらず不機嫌な顔でパソコンをたたいていたが、啓太を認めると立ち上がった。
「帰ったか」
「はい。物理をやってきました。あと三角関数を三問やったんですけど全滅で……」
「わかった。それは明日見てやる。今日はもうこんなだからな。さっさとシャワー浴びて寝てしまおう」
「そうですね。それより中嶋さん、実はさっき……」
 啓太は丹羽の部屋で起こった一部始終を話した。中嶋はほんの少し眼を細めながら聞いていたが、啓太が逆襲に出たところで、満足そうな笑いを漏らした。
「おまえにすれば上出来だ」
 そう言って中嶋は啓太を引き寄せるなり、啓太が立っていられなくなるくらいのディープで真剣なキスをした。何度も崩れそうになる啓太をつなぎとめるように抱いた中嶋は、執拗なまでに啓太の口中を蹂躙した。そのあまりの激しさはそのまま、あの女子大生に向けられた怒りでもあった。
「お浄めだ」
 ようやく放してもらった啓太は、思わずその場にへたりこんでしまっていた。
「どうした。シャワーを浴びないのか」
「……立てないんです…………」
「まったく、いつまで手がかかるんだか」
 呆然としたままの啓太を抱き上げて、中嶋はバスルームへ向かった。リビングにいた連中はすでにいびきをかいていたので、そんなふたりの姿を見たものはいなかった。

 ちょうど一寝入りしたくらいの頃だった。中嶋は違和感を感じて目を覚ました。部屋の中に香水の匂いが漂っていた。
「誰だ。そこで何をしている」
「わたしぃ」
「おまえか……」
 ゆっくりともったいぶった足取りで近づいてきた髪の長い侵入者は、中嶋の足元に腰を下ろした。月の光の中に女の顔が見えた。
「そんなところで何をしている」
「わかんない?」
「ああ。わからないな」
「もう……。冗談ばっかり言うんだもん。か・わ・い・い」
「誰が冗談を言ったというんだ」
「じゃあなぁに? 本気で言ってるわけ !?」
 思わず高くなった女の声に、シーツの中で啓太が身じろいだ。軽く舌打ちをした中嶋が身体を起こした。
「出ろよ。啓太が起きてしまう」
「啓太?」
 不審そうに眉をひそめる女の前で、中嶋は腹のあたりに巻きついていた啓太の腕をはずした。タオルケットにもぐりこんでいた啓太の姿が女からは見難かったのだろう。気づいた女は飛び退くようにしてベッドから立ち上がった。
……う……ん……、なに、中嶋さ……ん
「ああ。ちょっとトイレの場所を聞かれただけだ。すぐ戻ってくる。心配しないで寝てろ」
うん……。帰ってきたら、キスしてくれる……?
「わかった」
 女の腕を掴んだ中嶋は大股でリビングを横切り、啓太の部屋の電気をつけた。
「悪いな、丹羽。ちょっと起きてくれ」
「……ん……、なんだよ、いったい……」
 丹羽が起きてくるまでに中嶋はリビングの電気もつけた。こういうタイプの女は後で何を言うかわからない。密室では男の方が不利になることくらい、中嶋はちゃんと承知していたのだった。丹羽がTシャツを頭からかぶりながら出てきた頃には、雑魚寝していた連中も起き上がり始めていた。
「あれ? りっちゃんじゃねえか。何だ? 今頃」
「知らん。気がついたら俺の部屋にいた。目的が何かはしらんがね」
「違うの !! 」
 即座に自分の置かれた立場を理解したらしい女が、媚を含んだような眼で丹羽やほかの男たちを眺め回した。こうなった以上、完全に自分を被害者にするつもりなのだろう。大学の法学部に入学できる程度のアタマはもっているのだ。それなりの回転くらいはするようだった。
「中嶋くんに言われてたのよ。鍵を開けておくから後で来い、って」
「中嶋が?」
「うん、そうなの。なんでこんなことになっちゃったのか、わかんない……」
 見事な演技だった。だがそれを信じた他のメンバーが何か言おうとしたのを、手を上げた丹羽が止めた。
「りっちゃん、頼むよ。他の日なら信じたかもしれねぇけどよ、今日だけは無理だ。啓太が来てるときに中嶋が女を連れ込んだりするはずないんだよ」
「どぉしてぇ? 現に中嶋くんはパジャマの上着を脱いでるじゃない。私を抱こうとしてたのよ」
「だからそれはねえんだ、って。中嶋の部屋に行ったんだろ? 啓太が一緒に寝てただろう」
「丹羽くんがあの子の部屋で寝ちゃったからでしょ。あ、そっか。私に来いって言ったときには、丹羽くんがあの子の部屋で寝ちゃうってわかんなかったのよね。それで……」
 不意に女が口をつぐんだ。低い笑い声がしているのに気がついたのだ。声をたどると、壁に背を預けた中嶋が、ぞっとするような笑みを浮かべていた。
「俺は啓太に、自分の部屋で寝るなんていうわがままを許した覚えはない」
 中嶋は一度ことばを切ると、そこにいた全員の顔をゆっくりと見渡した。
「ふ……ん。上田の顔が見えないな」
「上田? そういえばそこで寝てたよな」
「ああ。あのソファにいたけど……。どこ行っちまったんだろう」
「……つまり上田が鍵を開けて久保を中に入れた。手引きはしたものの上田は久保が俺に抱かれると思っているから、そんなところにいたくなくて入れ替わりに帰った……。まあそんなところか」
 おそらくそれは中嶋のことばどおりだったのだろう。俯いた女は、落ちかかる髪の隙間から上目遣いに中嶋を睨みつけた。そしてそれに気づいたのか、中嶋はさらに容赦のない攻撃をあびせかけた。
「どうせ女王様のことだ。キスのひとつでもお下げ渡しして言うことを聞かせたんだろう。下僕ってのは便利なもんだな。だから啓太も下僕にしようと思ったか。あれがいれば、こんな飲み会の小細工なんかしなくてもすむからな」
「おい……。ちょっと待てよ」
 たまりかねたように丹羽が口をはさんだ。確かに夜中に勝手に鍵を開けて入ってきて寝込みを襲ったのはよくないが、中嶋のことばは容赦がなさすぎると思ったのだ。
「飲み会の小細工って何だよ。それに啓太を下僕にって……」
「そうそう。第一、飲み会に小細工も何もないっしょ」
「そうか? 俺は三年もの間、丹羽哲也という男の仕事のやり方を見てきたんだ。丹羽は確かにがさつで大雑把だが、たかが飲み会の予約をしくじるなんてまずありえない。おおかたどこかの誰かさんが、キャンセルの電話でも入れたんだろうよ。責任を感じた丹羽が自分の部屋に来いというのを見越してな」
「本当か? りっちゃん」
「…………」
「黙ってちゃわからないよ」
「……どぉしてぇ?」
 顔をあげた女の目から涙がこぼれ落ちた。これ以上悪者にされてはたまらない。自分になびかなかった啓太も中嶋も許せない。そしてそんな自分は世界一哀れな女だ。自分がかわいそうすぎていくらでも涙はこぼれてきた。
「どぉしてみんな、私のこと悪く言うのよ。私が何をしたって言うのよ……」
「……上田を誑かして鍵を開けさせたことは、何も言うつもりはない」
 中嶋の口調はゆっくりしたものだった。だが眼鏡というフィルターを通さない彼の視線は鋭く、まっすぐに女の顔を貫いていた。ほんの少し怯んだ女に、中嶋はふっと苦笑を漏らした。
「おまえ……。啓太にキスして、逆にやり返されたんだってな」
「え? 啓太くん……って、まだ高校生だったよな」
「マジかよ、おい……」
 丹羽が文字通り頭を抱えた。中嶋の怒りの深さがわかったのだ。女は啓太に手を出してしまったのだ。中嶋の一番大切にしている部分、そしてもっとも触れてはいけない部分に。
 彼らの関係など何も知らない連中でさえ、首を振ったりため息をついたりしていた。合意の上の遊びならともかく、後で自分に従わせることだけを目的に高校生に手を出したのだ。誰が考えてもこれはレッドカードそのものだった。
 おそらく啓太から聞かされたとき、すでに中嶋は沸点に達していたのだろう。ぎりぎりの所で踏みとどまったのは、目の前に本人がいなかったからにすぎない。それをのこのこと不法侵入までして現れたのだ。中嶋を止められるものはもう何処にもいなかった。
「どうだった? あいつのキスは」
「別に。お子様のお遊びじゃない。あんなのキスのうちに入らないわよ」
「そうか。それは失礼をした」
 中嶋がくちびるの端を吊り上げた。
「あいつにキスを教えたのは俺だ。もう少し上手になるよう、鍛えなおすことにしよう」
「……中嶋くん……?」
「どうせならキスじゃなくて筆おろしをさせてやってくれればよかったんだ。いくら俺でも女の身体だけは教えてやれんからな」
「……」
「そうだ。おまえの気にしてた俺のパジャマの上だがな。着てるのは啓太だ。なんだったら見てこいよ」
「……好きなパジャマを着るわがままも許してないってこと?」
「よくわかったな」
 最終通告だった。女は黙って踵を返した。
「おい。どうすんだよ、りっちゃん」
「帰るの」
「帰るったって……。真夜中だぜ?」
「紅美とタクシー呼ぶからかまわないで」
 そして五、六歩、歩いたところで女が、ゆっくりと振り返った。眼だけが異常にぎらついていた。
「中嶋くんがホモだなんて思いもしなかったわ」
「俺は別にホモじゃないぞ。今でも丹羽よりはよく女を抱いている。おまえだっておとなしくしていれば、一度くらい遊んでやらないでもなかったんだ」
「じゃあどうしてあの子なの……」
「啓太か? しかたがないだろう。あれがたまたま男だったんだから」
 まったくの独り相撲だった。中嶋は同じ土俵に上がってきさえしていなかったのだ。踏みとどまろうとすればするほど廻りが離れていってしまう。それに気づいた女は、髪を一振りしただけで黙ってドアに手をかけた。他の男連中が後を追ってきてくれると思っていたのかもしれない。だが誰も動こうとはしなかった。

 翌朝。啓太が眼を覚ましたとき、珍しいことに中嶋はまだ寝ていた。中嶋はトイレにでもいっていたのか、ベッドにばったりと倒れこんだ姿で眠っていた。
―― うっわーっ。中嶋さんの寝顔だよ。
 ベッドの上にぺたんと座りこんだ啓太は、うつ伏せてこちらに向いている中嶋の寝顔をしげしげと眺めた。啓太はいつも中嶋より先に眠ってしまい、起きたときには中嶋の淹れたコーヒーの香りがしている。夜中にトイレに起きることもあるが、そんなときは部屋も暗いし、ベッドに戻ったとたん、すぐに寝てしまう。つまり啓太は何度も夜を共にしていながら、中嶋の寝顔など見たこともなかったのだ。唯一の例外とでもいえるのがチェスターのホテルだったのだが、あのときでも顔はちゃんと見えなかった。だからまさにこれは超レア。お宝映像ならぬ 『 お宝シチュエーション 』 そのものだった。
―― うそぉ。中嶋さん。……かわいいんだ………… !!
 中嶋はとても満足そうに、そして安心しきった表情で眠っている。まるで母親と一緒に眠る幼子のような寝顔だった。あれほど傲慢で自信たっぷりの中嶋がこんな顔をして寝ているなんて、啓太には少し意外だった。
―― どうしようかな。キスしたくなっちゃったよ。
 しばらく迷っていた啓太はそっと顔を近づけ……、そして、その顔をうっとそむけた。中嶋はとんでもなく酒臭い息をしていた。
―― なんだよこれ、いったい。昨日の晩、こんな酒の匂いなんかしてなかったぞ? 俺が寝てからまた飲んだのか??
 嫌な予感がした啓太は、そっとベッドを離れた。おそるおそるリビングに足を踏み出した啓太を、酒の臭いが包みこむ。昨夜、帰ってきたときもかなりなものだったが、今のそれは度を超していた。啓太が思わず吐き出したため息は、啓太の部屋から聞こえてくる豪快ないびきにかき消された。
 このだだっ広いリビングを ―― しかも窓は網戸のままだ ―― 酒臭くできるなんて、いったいどんな飲み方をしたんだろう? 啓太は首をかしげながら、あちこちに置かれたままになっていたブランデーグラスを集めて回った。ついでに魚河岸のマグロのごとく寝っ転がっている人間の数を数え、その分だけの新しいグラスを載せたトレイをリビングのテーブルに置いた。その帰りに拾いあげたアイス・ペールに、今度は新しい氷とミネラル・ウォーターのボトルを入れた。
 中嶋と丹羽のベッドサイドにも同じように冷たい水とグラスを置いてようやく一息ついた啓太は、オレンジジュースを飲みながら新聞を広げた。が、その眼は少しも字を追っていなかった。これからどうしようかと考えていたのだ。
―― あれじゃあトーストは食べられそうにないよな。母さんに送ってもらった梅干があるし、いちばん大きな土鍋を出してお粥を炊こうかな。篠宮さんが引っ越し祝いにくれた土鍋だったら、みんなの分くらい炊けるだろうし。どうせ起きてすぐには食べられないだろうから、いつでも炊けるように準備だけしておけばいいか ――
 トーストをかじりながら、下ごしらえから食器にいたるまですべての準備を終えた啓太は、思いついて近所のコンビニまでTシャツと下着を買いに行った。あれだけ酔っ払っていたら汗もかいただろうし、シャワーを浴びたいだろうと思ったのだ。いちばん安いものばかりを選んでも、寝っ転がっている全員の分を買うとそれなりの金額にはなってしまったが、「ま、いっか」の一言で歯ブラシまで買い揃えてしまっていた。家を出るときに親からもらってきた小遣いのほとんどを使い果たしてしまったが、さほど惜しいとも思わなかった。
 帰ってきてもまだ誰も目覚める気配がなかったので、啓太は中嶋のデスクで昨日の続きをはじめた。昨日、丹羽の部屋から借りてきた問題集がここのデスクに置いたままになっていたのだ。中嶋は眠っていても啓太にのんびりできる時間はなかった。

 啓太は知る由もなかったが、昨夜2度目の酒の肴はもちろん啓太であった。無断で侵入してきた女を追い出すのに全員を立ち会わせた以上、それは仕方のないことだった。もちろん喋ったのはほとんどが丹羽で、中嶋はたまに相槌を打つ程度でしかなかった。だがふたりのいちゃいちゃぶりを面白おかしく話されても、嫌味のひとつさえ返さずにグラスを重ねていたのだから、よほど機嫌がよかったのだろう。
 一方、丹羽以外のメンバーはいくら話を聞かされたとはいっても、中嶋ほどの男がまだ高校生の男の子との将来を真剣に考えていることに、口には出さなくても驚いていた。だがその疑問も、この朝に啓太が見せた心遣いを知れば氷解していったはずである。啓太は迷惑そうな顔ひとつしなかったばかりか、「だって中嶋さんのお客様ですから当然です」と言って笑って見せたのだ。
 結果として啓太は自分自身の力で周囲に存在を認めさせたのだが、おそらく、啓太本人はそんなことに気づきもしなかったに違いない。
 啓太にとってその日の朝は、ほんの少しイレギュラーなだけの、いつもと同じ朝にすぎなかったのだった。



いずみんから一言

ちょろっとカミングアウトした中嶋氏(笑)です。
2年越しで書き上げました(爆)。
一昨年の7月。「最悪の3日間」と平行して書き始めたのですが、当時の管理人から
「9月までupできない」と言われ、途中でほったらかしていたものです。
去年は去年で新婚旅行シリーズに追われていて他の物どころじゃなかったし。
全面的に手を加えましたが、今とはびみょーに筆致が違いますね(笑)。



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