あなたのくれたもの |
涙の受験生だって、日曜はやっぱりうれしい。朝は7時半に起きなくたってかまわないし、お経のような授業を聞きながら眼をこじ開けていなくてもいい。そして何より、中嶋さんと一緒に過ごせるってだけで俺は何よりうれしいんだ。 だから連休はその何倍もうれしいことになる。……たとえその間に「中学レベルの総チェックをやる」と、恐ろしいことを宣言されていたとしても。 5月3日の朝10時。俺は中嶋さんから指定された駅に降り立った。 中嶋さんのマンションへ行くときは、今乗っているJRから私鉄に乗り換える。でも今日はそうじゃない。中嶋さんから言われたのはいつもの乗換えポイントからふたつ先の駅だ。 どうして今日に限って違う駅で待ち合わせるのか分らない。ああ、でもそれを言えば、どうして今日は迎えに来てくれなかったのかも分らない。中嶋さんってホントに何もいわない人なんだもの。ただ降りる駅の名前と時間。それと2泊の荷物をもってこいって言われただけだ。 俺は、念のためと言って中嶋さんが送ってくれた携帯メールを開けると、ドアのところへ歩いていって、その上にある路線図と見比べた。大丈夫。ちゃんと合ってる。あたりまえのようでも、やっぱりちょっとほっとした。 ドアが開くのを待ち構えるようにして下りたものの勝手がよくわからなくて、ホームで案内板を見て下りる階段を確認しなくちゃならなかった。下りたら下りたで左右どっちの改札に行けばいいのかを見て……。なんてことをしていたら結構手間取ってしまった。おかげで改札についたときには俺ひとり。見通しのよくなった改札口の向こうに、皮肉なかたちにくちびるをつり上げた中嶋さんが立っていた。 「乗り遅れたのかと思いはじめていたところだ」 「下りる階段とかわからなかったから、いちいち案内板を読んでたんですよぉ」 「ふうん」 「せめて何改札口なのかくらい教えておいて欲しかったですぅ」 「日本人が日本国内を移動するんだ。何を困ることがある」 言い方はそっけなかったけど、中嶋さんは決して不機嫌ではなかった。だって俺が肩を並べるまで歩きはじめるのを待っててくれたんだもの。気に入らなかったらとっとと歩いて行っちゃってる人なんだよな。中嶋さんってさ。 「少し歩くぞ」 「はい」 初めての街はどこかおもしろい。おしゃれなガラス瓶に入った地酒を売っている店があるかと思えば、全国どこにでもあるチェーン店の喫茶店があったりする。あまり売れていなさそうなジーンズショップの店先で、大きなあくびをしたトラ猫に気を取られて上の空で返事をしてしまった俺は、「なぜ少し歩くのか」を聞きそびれてしまった。あれ? と思ったときにはもう遅い。話題は他のことに移っていて、聞けなくなってしまっていた。でも聞けないと思うとかえって気になってしまう。どこへ行くのかわからないまま不完全燃焼気味に歩いていた俺は、赤信号にひっかかったところでようやく聞き出すタイミングをつかまえた。 「どこへ行くんですか?」 「うん? ケーキ屋だ」 「……?」 「挨拶代わりの手土産みたいなものだな」 「えっ!? どっかのお家にでも行くんですか?」 「そんなようなものだが気にしなくていい。家人は留守だ」 ……留守宅なのに挨拶……? 俺のアタマの中はあっという間に?マークで一杯になった。ケーキが不思議なんじゃない。だって母さんや朋子にケーキやお菓子を買ってきてくれたりするから、そこに違和感はない。でも留守なんだろ? その家。留守の家にケーキ持っていって何が挨拶なんだよ? 駄目だ。俺には予測不能。俺はこれ以上の詮索を放棄した。ってか、なんでこんなこと聞こうと思ったんだろう。このまま歩いてればいずれわかるっていうのに。今となってはそっちの方が不思議だった。 そこからさらに10分以上歩いて中嶋さんは足を止めた。そこはアリスという名の小さなケーキ店で、花に彩られた大きなガラス窓から中の様子がよく見える、ちょっと懐かしさを感じさせてくれる店だ。ドアを開けるとカウベルがからんからんと音を立てた。 ショーケースの中は店構えと同じく素朴な感じのするケーキが並んでいた。苺ショートもチョコレートケーキもマロントルテも、俺が子供の頃に食べていたようなものばかりだ。……なんだかいつも中嶋さんが買い物をしているような店じゃない気がするんだけど。でも今まで歩いてきた道にだってケーキ屋はあった。そこに入らずここへ来たっていうことは、ここでなきゃいけない理由があるのかもしれないとも思う。中嶋さんは「いらっしゃいませ」というお姉さんに向かって、迷いもせずに注文を口にした。 「カスタードのシュークリームを3個ください。粉砂糖はいりません。ついでに敷いてあるアルミホイルものけておいてください」 うーん。この注文の仕方。みょーに細かい。ってか細かすぎる。つまりこの店で買い慣れてる、っていうことなんだろう。中嶋さんって守備範囲広いなあ。なんて思いながら中嶋さんの顔を見たら気づかれてしまった。 「なんだ。おまえも欲しいのか?」 「あ……、え? えーと……」 「バースディケーキはちゃんと用意してある。それで我慢しろ」 中嶋さんが俺のためにバースディケーキを用意してくれている!? そりゃあアタマの隅でちょこっとくらい期待しないでもなかったけど、それが現実になるんだ!? と思えばうれしさが違う。満面の笑みを浮かべて「はいっ」と返事をした俺のアタマを、お金を払っていた中嶋さんの手がくしゃくしゃと撫でてくれた。 シュークリームの箱を俺が持つことになり、俺のバッグは中嶋さんが代わりにもってくれた。そうして歩くこと約5分。街の様子は変わり、俺たちは大きな家が並ぶ高級住宅街に入っていた。 ただ大きいだけじゃない。ひと目で一流の建築士が設計したんだろうとわかる凝った家ばかりだ。一軒一軒は驚くくらい個性的なのに、街全体になると不思議な調和が感じられた。 そしてその中の一軒。白で統一された瀟洒な家の、門の隣にある通用口 ―― それでも埼玉の俺のうちの玄関くらいは優にある ―― を中嶋さんが開けた。中嶋さんにつづいて中に入っていこうとした俺は、表札が眼に入ったとたん、思わず足を止めていた。 「こら……。表札がそんなに珍しいか?」 「だって、ここ……」 「ああ。俺の実家だ」 そんなの。そんなの。そんなのーーーっっ。どーしてもっと早く言っといてくれないんだよおっ!心構えってもんがあるだろっ!! 涼しい顔をして庭を横切っていく中嶋さんのうしろを付いて歩きながら、俺の心臓は口から飛び出しそうなくらいバクバクいっていた。 白状すれば俺は今まで誰かと付き合ったことはなかった。だから相手の実家を訪ねるなんてのはこれが初めてだ。それがこんなに緊張するものだなんて、今はじめて知った。この植木の陰に、あの窓の向こうに、子供の頃の中嶋さんの面影が感じ取れるはずなのに、俺ときたら周りを見渡す余裕さえなく、すぐ前を歩く中嶋さんの靴だけを見ながら足を運んでいる。よく手入れされた芝生が眼に痛いくらい鮮やかだった。 「……ねえ、中嶋さん」 「ああ?」 「中嶋さんも俺の家に来るとき、緊張します?」 突然足を止めるから、もう少しで背中に突っ込むとこだった。顔をあげると「何をつまらんことを言ってる」とでも言いたげな眼とぶつかった。 「まあ、それなりにな」 ちょっと……。いや、とっても、だ。とっても意外なことばだった。そっかあ。中嶋さんだって緊張するんだ。いつだって余裕のかたまりにしか見えない中嶋さんが、俺の実家に来るって程度で緊張するなんて、ある意味これは感動だった。だったら俺が緊張したって不思議でも何でもないってことになる。それに確か「家人は留守だ」って言ってたし。両親や妹がべったり待ち構えている俺の家に来るより、ずっと楽なはずだ。そう思うと、自分でも肩の力が抜けたのがわかった。 「おまえは本当にわかりやすいな」 「えへへへへ」 「まあいい。それよりこいつに挨拶してやってくれ。先に荷物を入れようと思ってたんだが、おまえのことが気になってしかたないらしい」 えっ? と思いながら中嶋さんの視線をたどると、俺のうしろで尻尾をパタパタさせている大型の犬と眼が合った。 「マクシミリアン・マックスウェル二世だ。マックスと呼んでやってくれ」 「マックス。こいつは啓太だ。け・い・た。わかったか?」 マックスと呼ばれた犬は細身の大型。ふさふさした毛並みはもつれひとつなく、白をベースに薄い茶色がところどころ混じっている。すっきりときれいに伸びた四肢、細面でノーブルな顔立ちは、まさに『中嶋家の犬』そのものだ。無駄吠えはしないし、俺のうしろをついて歩いていたのに気取らせないくらい静かに行動するところなんか、中嶋家の訓練がどれくらい厳しかったか分ろうってモンだ。 その厳しい基準を乗り越えたマックスは、中嶋家のマニュアル通り(?)散々俺の匂いを嗅いでようやく納得したのか、中嶋さんに向かって「わん」と言った。 「よし、啓太。さっきのシュークリームをやってくれ。ふたを開けて箱を差し出すだけでいい」 「あっ、は、はい」 「噛まれたくなかったら箱を引くなよ」 「はいっ」 言われたとおり、ふたになる部分を手で抑えながら差し出すと、マックスは鼻づらをつっこんでシュークリームを食べはじめた。美味そうに、そして器用に食っているのがおもしろかった。 「犬ってシュークリーム食べるんですね」 「さあな。他所の犬は知らんが、こいつは子犬のときから食って、腹を壊したこともないな」 「へええ」 「もっともアリスのシュークリームに限るがな。他所の店だと香料がきついのか見向きもしない」 「面白いなあ。この子、種類はなんていうんですか」 「ボルゾイだ」 ボルゾイ? って、あのロシア貴族が飼ってたってやつ? そんなの話に聞いたことはあっても実物なんてはじめて見た。そうか。これがボルゾイか。へええ。なんか似合いすぎてて笑っちゃいそうだ。 中嶋さんの話によると、いつもは家の人が留守になる間、若い方の家政婦さんが世話をしてくれてるそうなんだけど、その人が妹の結婚式で実家に帰っちゃったらしい。もうひとりの家政婦さんはもう70近くて、とてもじゃないけどこんな大きな犬の世話は無理だ。ということでわんこホテルに預けるはずが、どこをどうしてか中嶋さんの耳に入り、今日こうして連れに来た、というわけだ。 「えっ!? 連れに来たって、これからどっか行くんですか?」 「ああ」 「俺てっきりこの家に泊まるものとばかり思ってました」 「ふうん」 「それに中嶋さんの部屋も見てみたいなあ、とか」 笑いながら誤魔化すように言ったけど、これは結構ホンネだった。寮でだってマンションでだって中嶋さんの部屋は見てるけど、中嶋さんが今までの人生の大半をすごしてきた部屋となると全然意味が違うからだ。そんなことを話しているうちにマックスは最後の1個を食べはじめた。中嶋さんは黙ったままマックスの首から背中にかけたあたりを撫でてやっている。返事がもらえないなあって思っていたら、マックスに眼を落としたまま「いや……。あの家にもう俺の部屋はないから」と言った。 「必要なものはすべてマンションに移した。いらないものは処分した。俺のいた部屋は、今はからっぽの空き部屋だ。そんなもの、見てもしかたあるまい」 「中嶋さん……」 「俺の家はあのマンションだ。そうだろう?」 俺と暮らすあのマンションだけが自分の家だといってくれる中嶋さん。それはそれでうれしくないこともない。でもそれ以上に、自分が今まで過ごしてきた家をあっさり切り捨てられる中嶋さんが、なんだかとても悲しかった。 「……そうですね」 「そのかわり、犬連れのドライブに連れて行ってやるから」 「……はい」 笑顔を作ろうとしても無理なのはわかっていた。でも中嶋さんは、俺が笑顔を作ろうとしたことも、それができなかった理由も、ちゃんとわかってくれたみたいだ。中嶋さんは俺を引き寄せるとそっと宥めるようなキスをしてくれた。足のあたりをマックスがうろうろしているのがわかる。シュークリームの箱はいつの間にか空になっていた。 いつもの車で犬を連れてドライブはできない。これが中嶋さんが迎えにきてくれなかった理由だった。中嶋さんはマンションに車を置いてきていたのだ。ガレージにあったのはベンツが2台とオペルとプジョー。その中の白のオペルに、もう中嶋さんの荷物は乗せてあった。トランクを開けてそのバッグの隣に俺のバッグも入れていると、横から中嶋さんがオペルのロゴ柄のクッションを放り込んできた。 「座席に置いとくとおもちゃにするからな」 「いたずらっ子なんですか?」 「正確にはいたずらオヤジだな。好きなだけ走り回ろうとするから、下りたらリードは俺が持つ。おまえじゃ負ける」 確かにマックスはかなりのスピードで庭中を走り回っていた。普段は物静かなのに、どうかすると猟犬としての本能を思い出してしまうらしい。だが中嶋さんが右リアのドアを全開にし、指をくわえて鋭い口笛を吹くと、すぐに向きを変えて駆け寄ってきた。 「ほら、入れ!」 「わんっ」 慣れた様子で犬が飛び乗り、尻尾の先が車内に収まるのを待って中嶋さんがドアを閉めた。開けてあった窓からマックスの鼻先が見えたから、なんで右リアを開けたのかがわかった。マックスが狭い車内で方向転換しなくても、歩道側に顔が向くようになっているのだ。車道側に向いていたら危険だし排気ガスの臭いで敏感な犬には耐えられないに違いない。 海岸線に沿って走る、1時間ちょっとのドライブは快適そのものだった。風は気持ちがいいし、流れていく風景は映画の中みたいに美しい。うしろにはでかい犬。隣に中嶋さん ―― 。最初はちょっと驚いたけど、最高のシチュエーションだった。 ところがサプライズはドライブだけじゃなかった。着いたところが何と中嶋さんちの別荘だったのだ。管理をしてくれている荒木さんというご夫婦に迎えられて中に入ると、海に向かって大きくとられた窓があった。近寄ってみるとこの家が少し高くなったところに建てられているのが分る。下の方には見える限りつづく砂浜。顔をあげると絶妙といっていいバランスで海と空とが広がっていた。 「うわっ! すごい、すごいっ!!」 「なんにもないところなんですよ。あるのは景色と魚だけ」 「それで十分ですっ」 本当に十分だった。海は学園で見ていても、島は作られたものだし対岸は護岸工事で覆われている。少しは砂浜の部分だってあるけれど、そのうしろはコンクリートのテトラポットだ。だけどここにあるのは純粋の砂浜。何にも邪魔されるもののない100%の砂浜だった。これで十分じゃないなんて、そんなのはないものねだりだ。 「今夜はブルー・ベイでお食事ということでしたので、お刺身は明日の夜に予定しています」 「楽しみにしてます!」 ……でもそのお刺身やなんかをのんびり楽しむのは、それこそないものねだりだった。俺は荒木さんが作ってくれた簡単な昼食を食べ終わるなり、英文法の問題集を手渡された。中を開けると中嶋さんがピックアップした問題にチェックがしてあった。今日はこれを全部やり終わらないと眠れない。試練のGWが始まった。 中嶋さんのことだから机から1歩も離れられないのかと思っていたら、2時間ばかり過ぎたところで休憩をとってくれた。誘われるままマックスを連れて海に下りていってみる。まだちょっと冷たい風が、限界まで酷使された脳に気持ちがよかった。 俺は中嶋さんに腰を抱いてもらってゆっくり砂浜を歩いた。学園島周辺のものより色が濃い砂を撒き散らしながら、マックスが跳ねるように走っていた。マックスは少し長めに取ったリードの許す限り、前に行ったりうしろに行ったりしている。かと思うと打ち上げられた海草や流木を見つけては臭いを嗅いでいる。そしてそれが無害なものであるとわかると、また俺たちの周りをうろうろしはじめるのだった。 陽をはじいてきらめく波と、寄せてくるたびに強く漂ってくる潮の香り。天然のBGMである潮騒は耳に心地よいだけでなく、聞いているだけで心が癒されていくようだ。中嶋さんは俺にいったいいくつ誕生日プレゼントをくれるんだろう。 マックスの世話があるなんてのは口実に過ぎないってことくらい俺にも分っていた。ほかに方法がないならともかく、設備の整ったわんこホテルに預けるのをためらう人じゃないからだ。だから中嶋さんは家の人が留守になった機会を捉えて、『俺の知らない中嶋さん』に触れる機会を作ってくれたんじゃないかなって思う。ここへ連れてきてくれたのはもちろん、実家を見せてくれたのだって、駅から歩いたのだってそうだ。マックスの世話というだけなら、犬を乗せた車で駅まで迎えに来てくれるのがいちばん手軽だったはずだろう? 自分を語ることの少ない中嶋さんがくれたこれは、俺にとって最高の誕生日プレゼントだった。うれしくて。うれしくて。この想いを表現する方法を見つけられなかった俺は、足を止めると中嶋さんに抱きついた。 「おいおい?」 「……ちょっとだけ」 「仕方のないやつだな。そのかわり、キスは夜までお預けだぞ」 「うん……」 お預けでもいい。夜にはしてもらえるってことだから。俺は頷きながら、さらに腕に力をこめた。 満ち足りた気分で迎える朝は最高だ。睡眠時間が少しくらい短くなったって、それを上回る幸福感は何物にも変えがたい。 いつものように丸くなって寝ていた俺は、背中を揺すられてゆっくり意識を浮上させた。 「う……ん。もうちょっとだけ……」 即刻却下されるのは分っていても、やっぱりちょっと甘えてみたりする。この「甘えられる瞬間」が俺だけの特権だってことに気づいたのはごく最近のことだ。和希に言ったら「中嶋さんが起こしてくれるって方がよほど特権だと思うけど?」と言って笑ってたっけ。 昨日はあのあと6時半まで問題集をやって、予約してもらっていたブルー・ベイというシーフードレストランに出かけた。「2日早いが」と言って出してもらったバースディケーキの残りは、しっかり冷蔵庫の中に収まっている。これは今日と明日の俺のおやつだ。それからまた問題集に戻って、全部終わったら1時を回っていた。学力チェックだから参考書とか辞書とかが使えなくて、分らないところはパスするしかないから、思ったより早く終わってしまったのだ。それから海の見えるお風呂にふたりで入った。電気を消して入っていると海を行き交う船の漁り火が浮き上がって見えた……。 もう一度、眠りの淵に沈みかけたら、布団がずるずるひきずり落とされてしまった。それでも未練たらしく枕にしがみついていると、脇腹のあたりに湿ったものとふわふわしたものが同時に押し付けられ、うわっとばかりに飛び起きた。 「わんっ」 「おまえか……。脅かすなよ」 「わん」 「……分った、起きる。起きるよ」 俺が完全に起きたのを確認したマックスは意気揚揚とベッドルームから出て行った。得意げにご主人様に報告してるんだろう「わん」という声が小さく聞こえる。時計を見ると7時を少し回ったところだった。そう言えば昨日、中嶋さんが「朝は7時半にお願いします」と言ってたっけ。俺はのろのろと置きだすと、昨夜プレゼントしてもらった服を着た。 開けたままのドアからコーヒーの香りがしてくる。中嶋さんのことだからコーヒーは自分で入れてるんだろう。数学の問題集が待っているのが、まるでウソのようにさえ思える朝だった。 無事、大学に通ったら、またここに連れてきてもらおう、と俺は思った。もちろんマックスも一緒にだ。そしてそのときに今日の分までのんびりすればいい。 こんな休日を知ってしまったら、もう手放すことなんてできやしない。だから何が何でも中嶋さんと同じ大学に通ってやる。生半可な努力じゃ無理なことはわかってるけど、諦める方がずっと難しいよ。 1月のあの日。同じ大学に来いと言われたときから一応の努力はしてきたつもりだ。でも本当の意味での「覚悟」みたいなものができたのはこの朝だったと思う。そういう意味でいえば、この「覚悟」は中嶋さんが俺にくれた人生最大のプレゼントだと言っていいかもしれない。 俺はえいっとばかりに気合を入れると、俺なりの決意を伝えるために、中嶋さんとマックスの待つリビングに入っていったのだった。 |
いずみんから一言 |
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