女神の悪戯 |
敷地の広いBL学園では、昼休みや放課後といえども人気のない場所がいくつもある。木立の奥にひっそりとたたずむ東屋もそのひとつで、静かなここは西園寺郁のお気に入りの場所になっていた。 ひとりになって何かを考えたいとき、何もかも忘れてのんびり昼寝をしたいときなどにここを訪れるのである。 駆け足で近づいてくる春の足音が聞こえるようなこの日、その時間。暖かい風に誘われてたまたまそこを通りかかった生徒は、とんでもないものを見聞きすることになってしまった。出張から帰ってきたばかりの遠藤和希も、その数少ない人間のひとりだった。彼は東屋の手前で立ちすくんでいる数人の生徒を眼に留め、何事かと近づいていって、その場面に出くわしたのだった。 「だから何度も謝っているだろう」 「僕に謝ってもらったって、事態は何も進展しませんよ。僕は言葉が欲しいんじゃありません。僕の欲しいのは行動と結果。これだけです」 「まったく。臣、おまえという人間は、実は怒りっぽかったんだな」 「それは郁が軽率すぎたからです。今後のこともありますからね。こういうことは最初にきちんとしておかないと。それは郁がいつも口にしていることでもありますよ」 「だからそんなにくどくど言うなと言ってるんだ。わたしだって、あれに関しては反省しているんだから」 「反省。それは大いに結構です。では早速、明日のアポを取りましょうか?」 「わかった、わかった。わかったからもう……」 あの会計部のふたりが喧嘩をしている。しかも、いつもは物静かな七条臣が一方的に責め立て、西園寺郁が防戦一方となっているのだ。後姿になっているので表情まではわからないが、声が大きくなっている程度で口調はいつもの七条とほとんど変わらない。だがそれだけにかえって、彼が激怒しているのがひしひしと伝わってきていた。心なしかあたり一面、どす黒い霧に包まれているようでもある。和希は立ちすくんでしまった生徒たちの気持ちがわかる気がした。 珍しいものを見た思いに、音のしないように口笛を吹いた和希は、立ち去ろうとして、植えこみの陰になっていた伊藤啓太に気がついた。ずっとそこにいたらしい彼は、かわいそうなくらいおろおろしてしまっていた。和希はそっと近寄ると啓太の肩に手を置いた。 「啓太」 「あっ、和希!!」 「どうした。何があったんだ」 「お願い。あのふたりを止めて。俺が……、俺が原因なんだ!!」 すがりつくようにして懇願する啓太に、和希は小声で「離れよう」と言った。 「駄目だよ、止めなきゃ」 「あのふたりは馬鹿じゃないんだ。あんなこと、いつまでもやってないさ」 「その馬鹿じゃないふたりがやってるんだよ。こんな人目につくところで !!」 まず、自分が原因だという啓太から事情を聞きたかった和希だったが、そういわれてみればこれは緊急かつ非常な事態であった。 「わかったよ」 啓太の髪をくしゃくしゃと撫でて、和希はまだ言い争いをしている西園寺たちの方に足を向けた。 「あの〜、西園寺さぁん? 七条さんもぉ?」 まだ数人の生徒が残っていたので、和希はつとめて軽い口調で声をかけた。西園寺が不審そうに細めた眼を和希の方に向け、その視線を追って七条も振り返った。その瞬間に見せた七条の表情は、彼らが入学する前に西園寺の屋敷で見せたものと同じだった。ただしそれはほんの一瞬で、すぐに表情そのものが消されてしまっていたけれども。 「何が原因か知りませんけどぉ、啓太が怯えちゃってんですよ、ね !? そろそろブレイクといきませんか?」 やんわりと見返してくる和希の眼に圧されたわけでもないのだろうが、西園寺も七条も気まずそうに顔を背けた。すかさず啓太が割りこんでくる。 「お願いです。やめてください。俺のことで喧嘩するなんて、そんなこと……。俺もう、どうしたらいいのか……」 「ほらあ、ね !? さ、場所変えましょう、場所。そうすればきっと、気分も変わりますよ」 さあさあと和希はふたりの背中を押して、半ば追い立てるようにその場から連れ出した。後には呆気にとられた生徒たちだけが残された。 場所を変えるといったところで、この場合、選択肢などほとんどないに等しかった。和希は会計室に全員を放りこむとドアに鍵をかけた。 「さてと。七条くん 」 啓太と七条が驚いたように振り返った。手近な椅子に腰を下ろしてゆったりと足を組んだ和希は、理事長の顔で指示を出した。 「まずはお茶を淹れてもらおうかな。別に種類にこだわりはないけどね、香りの高い方が君たちの精神衛生のためにはいいような気がするよ」 少々不満げではあったものの、すでに自分を取り戻しつつあった七条は、黙って立っていった。仕切りの向こうからやかんに水を入れる音が聞こえてくる。啓太の耳にはそれが、いつもより荒っぽく聞こえた。 「次はおまえだ、啓太」 和希が手を伸ばして、もう一脚、椅子を引き寄せた。 「ここに座って、何があったのか最初から話してくれるかい?」 「うん。最初は、えーっと。あれは……」 「ゆっくりでいいから。よく考えて」 あれは去年の終業式の次の日だった。終業式の日だとみんな一斉に帰るから騒がしいって、西園寺さんたちは一日遅らせて帰ることにしてた。車で駅まで乗せてってくれるっていうから、俺も一日遅らせて。それで三人で少し早めに街に出て、食事をしてから駅に行くことになったんだ。いつも西園寺さんが使ってるホテル知ってる? あそこの和食屋さんで食事してたら、店に入ってきた男の人が俺たちに気がついて近づいてきたんだ。 「これはこれは。西園寺の郁さんじゃありませんか」 「ご無沙汰しております、辻井会長。奥様やお嬢様はお元気でいらっしゃいますか」 「まあ何とかやっておりますよ。郁さんもあいかわらず麗しくていらっしゃる。ところで……」 西園寺さんに挨拶してた人が、俺の方をじろじろ見た。 「お珍しいですな。郁さんが七条くん以外の人を連れていらっしゃるとは」 「お眼に留まりましたか。彼は伊藤啓太。まだ一年生なんですが、最近わたしの仕事を手伝ってくれています。啓太。こちらはKJF物流グループの辻井会長だ」 西園寺さんが紹介してくれたから、俺も立ち上がって挨拶した。 「伊藤啓太です。はじめまして」 「一年生なのに郁さんの仕事を手伝っているなんて。さぞかし優秀なんだろうね」 「そっ、そんなことないです。西園寺さんや七条さんのいわれたとおりにするだけでも精一杯で」 「彼は真面目ですからね。将来が楽しみだと思っています」 「ほうほう。それじゃあ七条くんが郁さんの右腕だとしたら、伊藤くんは左腕といったところですな」 そういってその人は、何がおかしいのか大笑いをしてた。 「ところで郁さん。お邪魔でしょうからこれで失礼しますが、じつは我が家の茶室を改築中でしてね。二月中には出来上がる予定なんです。そのときには招待状をお出ししますから、ぜひ三人揃っておいでください」 「そういうおめでたいことでしたら、喜んでお伺いします」 「ではお父上にもよろしくお伝えください」 なんか、やなオヤジって感じだったんだけど、西園寺さんといるとこういうのしょっちゅうだから、別に気にもしなくって。その人のことなんかすぐに忘れた。そしたら先月の終わりに本当に来たんだ。茶席披きの招待状が。俺たち三人に、ちゃんと一通ずつ。 「何か嫌な予感がするから、郁ひとりで出席なさいと言ったんですよ。それなのに……」 伏せたティーカップとポットをトレイの上にのせた七条が、啓太たちのすぐ後ろに立っていた。彼は左腕だけで支えたトレイの上のカップをひっくり返してセットすると、ポットから紅茶を注いだ。とてもいい香りはしたものの、それは西園寺の好きなウエッジウッドのイングリッシュアップルティーとは違っていた。 「有難う。いい香りだね」 「すみません。七条さん」 「どういたしまして。伊藤くんは完全な被害者なんですからね。自分の責任だなんて思っちゃ駄目ですよ」 「はあ……」 「それで。どうなったのかな」 喧嘩はしていても、西園寺の分を淹れない、などという子供っぽいことはしなかったようだ。七条がトレイを持って西園寺の方へ行った、その後姿を見送って、和希が啓太に先を促した。 「そういえば何て挨拶すればいいのかって、聞いてきたことがあったよな。あれか?」 「うん」 「あれならうまくいったって、ついこの間、うれしそうに話してたじゃないか。あれから何日もたってないぞ」 「そうなんだけど……」 招待状が届いたときから、七条さんはすごく行くのを嫌だっていた。西園寺さんひとりを呼ぶならともかく、俺たちまでが呼ばれる理由がない、って。何かおかしいから、西園寺さんにひとりで行った方がいいって言ったんだ。だけど……。 「喜んで出席するって、年末に言ってしまったじゃないか。だからむこうだってわざわざ三人に招待状を送ってきたんだ」 「そもそもそれがおかしいんですよ。そんなことをして、たとえば郁だけが欠席の返事を出したらどうなります? 僕と伊藤くんはあくまでつけたし。おまけなんです。そのおまけだけが出席したら、むこうは迷惑なだけですよ。僕が亭主ならこういう場合、郁宛で三人連名の招待状を送ります」 「なるほどね。七条くんの言いたいことはわかるよ」 前髪をかきあげながら和希が言った。しかし表情は先刻までと違って、何かを考えているようでもあった。実は和希にはもう、この後の展開が読めていたのだ。KJF物流グループの辻井会長という人物を、彼はよく知っていたからである。 ―― これは七条くんが激怒するのも無理はないな……。もちろん、この俺もだけど。それにしても辻井の奴、よくも啓太を…… !! 西園寺や七条がいくら切れるといっても、まだ高校生にすぎないのである。経験は足りないし、何より彼らはまっすぐだった。辻井が何かを企めば、それは呆気ないくらい簡単だったのに違いない。 和希は今、静かに、だが深く怒っている自分を感じていた。 「おわかりいただけてうれしいです。でも郁はわかってくれなかった。結局、郁は伊藤くんを騙したんですよ。こういう招待状に欠席と書いては失礼になるんだ、とかいって」 「だから軽率だったと謝っているんだ」 茶席披きは疲れたけど、西園寺さんのところで炉開きに出てたから、気分的にはすごく楽だった。お点前に出てきたのがあのオヤジじゃなくって、まだ中学生だっていう娘さんだったのも俺的にはマルだったし。まああのオヤジは後ろにずっといたから一緒なんだけど。 ずーっと順調にいってて、ハプニングが起こったのは濃茶が終わったとき。お釜の蓋を閉めたら、蓋の乗っかってた竹が ―― ああ、蓋置きっていうの? ―― それが蓋にくっついちゃってて、お釜の中にぽちゃんと入っちゃったんだ。茶室の中、怖いぐらいにしーんとしちゃって。オヤジが馬鹿みたいに焦ってるのは面白かったんだけど、女の子が泣きそうになってたから、思わず口出ししちゃったんだよ。気にしないでお湯を入れ替えてきたらいいじゃない、って。俺たちその間、お喋りでもしてますから、って。 その日はそれですんだんだけど、つい昨日のことだよ。あのオヤジがここに訪ねてきたんだ。この間のお詫びをって言ってたけど、本当の目的は他にあったんだ。 「おまえとその子の結婚話、じゃないか?」 「ええっ !! 和希、知ってたのかっ !?」 「で、断ったのにもかかわらず、今日もまたOKの返事を迫ってきた、と」 思わず立ち上がってしまったのは啓太だけではなかった。あの七条でさえ立ち上がっていた。西園寺は立ち上がりはしなかったものの、呆れ返った顔をしている。和希は軽く肩をすくめた。 「知るもんか。そんなこと」 「じゃあどうして……」 「俺が知ってるのはね、辻井公平という人物の方さ。おそらく西園寺家とのつながりがどうしても欲しいんだろう。西園寺くんがよく行く店くらい、とっくに調査済みだろうからね。鼻薬を効かされてる店員がこっそり辻井に連絡したとしても、不思議でもなんでもない。そして偶然を装って店に来たら、見慣れない奴がいた」 「俺……?」 「そう。聞けば西園寺くんの仕事を手伝っているという。前途有望と見たわけだ」 「だったら何も俺じゃなくて、西園寺さん自身とその子を結婚させればいいじゃないか」 「家の釣り合いってこともあるんだけどね。西園寺くんは美形すぎるだろう? 普通の女の子なら尻込みするんだよ。七条くんだって、その子に会ったのは初めてじゃなかったはずだ。ああ。思い当たるって顔してるね。でも七条くんの方は、得体が知れないところがあるとか何とか ―― おっと、ごめんよ ―― いって、女の子の方が嫌がったんだろう。ところが啓太は女の子のピンチのときに、見事に助け舟を出した。啓太って普通っぽいところが女の子に好かれそうだしな。ビンゴってとこだったんだろうよ。ついでに言えば、茶室の改築ってのも嘘くさい。カモフラージュの七条くん含めて三人まとめて呼ぶための、その場の思いつきだろうな。慌てて眼に見えるところだけ新しくしたに違いないさ。ようするに茶席披きそのものが、啓太とその子の見合いの席だったんだよ」 本物の高校生三人組は一斉にため息をつくと、その場に思いっきり脱力してしまっていた。やがて腕の中に伏せていた顔を七条に向けて、西園寺がぽつりと言った。 「……臣。今回は本当に悪かった。わたしの未熟さが招いたことだ。許してくれ」 「いいえ郁。僕の方もどうかしていたようです。いくら伊藤くんがらみのことだといっても、こんなに頭に血を上らせていては、郁の補佐は務められません。以後は改めます」 ようやく落ち着きを取り戻した西園寺と七条を見回して、和希が立ち上がった。 「さて。仲直りもできたようだし、この件は俺に任せてもらおうか。啓太はその子と結婚する気なんてないんだろう?」 「あるはずないよっ、そんなこと」 「じゃあいいよね。七条くんも」 「しかしそれでは……」 「あのね。俺は今、君以上に腹を立ててるんだよ。きっとね」 破顔ってみせたその顔は、七条が思わず退いてしまったくらい、凄みに満ちたものだった。いつも見慣れた遠藤和希ではなく、鈴菱の後継者となる男が、たしかにそこにいた。 それからわずか一時間のうちに、啓太は鈴菱の海外事業部北米課課長の娘との結婚が決まっているという話がでっちあげられた。その子の写真と啓太の写真が合成され、クリスマスパーティで会ったという証拠が作り出された。七条が気合を入れて作ったその写真は、知っているものが見てもわからないくらいの出来栄えだった。その場面のシナリオは何部も作られ、啓太やその子と両親だけではなく、パーティの出席者の何人かにも配られたという徹底ぶりだった。さらに探りを入れられたときのために、その日のうちに啓太の家を課長が娘を連れて訪ね、事情を話して家族の協力もとりつけた。 そこまでの布石をしておいてから、和希が鈴菱理事長として辻井に会いに行ったのだった。 「……つまり、鈴菱さんの方でも伊藤くんに目をつけていた、ということですかな」 「彼を取りこむと、西園寺とのつながりが強くなりますからね」 「ちょっと出遅れましたか。小細工などせず、すぐに娘と会わせておけばよかった」 「まあそういう訳ですので。今回のお話はなかったということにしてやってもらえますか」 「しかたありませんな。わたしの眼に狂いはなかったということで、自分を慰めることにしますよ」 「お嬢さんに申し訳ないと、伊藤からことづかっています」 「真面目な伊藤くんらしいですなあ……」 大人ふたりの手打ちで、今回の騒動は片付くはずだったのだが……。 「まったく。郁はどうしてそう軽率なんですか」 「聞き飽きたぞ、臣」 「僕にだって許せることと許せないことがあるんですよ」 会計室のドアを開けたとたん、諍う声が和希の耳に飛びこんで来た。啓太が所在なさそうに座っている。和希はため息をひとつつくと、啓太を手招きした。 「で、今度は何なんだ?」 「今度は……」 西園寺と七条が同時に和希の方を見た。それも少々忌々しげに。彼らの役に立っていたつもりの和希には、ちょっと意外な展開だった。 「郁が軽率だったから、理事長が出てきてしまったんです。せっかく返した借りを、また作ることになってしまった」 「じゃあまた返せばいいことじゃないか」 「返す? いつです、それは。あの理事長がいつそんな羽目に陥るんです? 郁じゃあるまいし」 和希は啓太を連れて外へ出た。啓太も今度はおとなしくついてきた。 「いつまでやってるんだろうな、あのふたり」 「うん。でも俺、なんとなくわかってきた気がする」 「何を?」 「西園寺さんは王様が卒業しちゃって淋しいんだよ。七条さんは七条さんで中嶋さんがいなくなって淋しい。ふたりともおもちゃをなくしたみたいなものだから……」 「なるほど。女神のいたずら、か」 「女神のいたずら?」 「春の女神はちょっといたずらなんだよ。淋しがってるふたりをからかってるのさ」 ふたりは同時に空を見上げた。そこに描き出した丹羽の面影は豪快に笑い飛ばし、中嶋は皮肉な表情を作っていた。 日ごとに暖かくなっていく風がふたりの間を吹き抜けていった。啓太にはそれが、くすくす笑っている女神の後姿のように思えた。 |
いずみんから一言 |
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