想い出の花束


 2007年9月14日。
 この日。丹羽哲也くんは朝からバイクを走らせていました。
 本当に行きたいところへは行けないので、実は行き先などどこでもよかったのです。ただ、海に沿って走りたかったので、バイクの鼻づらは西に向けていました。こっちを走ると対抗車線が邪魔にならず、海がずっと左手に続くのです。
 走っても走っても愛車を止めようとしなかった丹羽くんでしたが、目の前一杯に海が広がったとき、ためらいもなくバイクを砂浜に乗り入れました。
 もう今頃になるとクラゲが増えてしまって泳げないからでしょう。わずかに数人のサーファーの姿が見えるだけです。人気のない砂浜を波打ち際に向って歩いていくと、足の下で白い砂がさくさくと軽い音を立てました。
 やがて。つまづいたように足を止めた丹羽くんは、その場にどっかりと座り込みました。まだ暑い時季です。朝からかぶったままだったフルフェイスのヘルメットを脱ぐと湯気のような熱気があがり、髪の先からは汗が滴り落ちました。ぐいっと拳で拭ったそれに、汗以外のものが混じっていたかもしれません。
「…………みのりちゃん……」
 抱えこんだ膝にあごをのせ、まばたきもせずに丹羽くんは海のむこうを睨みつけていました。遮るもののない空と海の鮮やかな青さは、まるで誰かの腕のように、丹羽くんをそっと抱いていました。

 この日。学園島にあるベル製薬の温室で、海野聡先生は花を摘んでいました。
 収穫と言い換えてもいいかもしれません。この日のために新しく作り出した花は12種類。どれもが白く、そして清楚な華やかさを持っていました。
「これが遠藤くんに頼まれた胡蝶蘭型で……。こっちが七条くんのユリ型。このトロピカル・フラワーっぽいのが成瀬くんで……」
 それぞれの花は10数本から20数本くらいあります。一抱えもあるそれを温室の真ん中にある作業台に持っていくと、研究所の女性が手際よく綺麗な花束にしてくれました。白い和紙で包み、その上を透明のセロファンで覆います。幅広のサテンのリボンで結んでネームカードをつければ出来上がりです。作業台の端から垂れているリボンが気になるのか、トノサマがずっと手を出すチャンスを窺っていました。
「あっ、駄目だよ。トノサマ〜」
 ぽやんとしているようでも海野先生はやはりトノサマの飼い主です。ちゃんと様子を見ながら作業をしていたらしく、大慌てで離れたところまで連れて行きました。
「これはみんなから 『 みのりちゃんに 』 って頼まれた花なんだよ。そんな大事なもの、触ったら駄目じゃない」
「ぶにゃーお」
「心配しなくても、ちゃあんとトノサマの分も作ってあるからね」
「ぶにぶに」
「ほら。これだよ」
 比較的背の高い花ばかりの中で、それは本当に小さな花でした。トノサマでも自分で持っていけそうなそれは、春のスミレに似ていました。
「……みのりちゃん、喜んでくれるかな」
 鋏を持つ手を止め、そんなことを呟いた先生の足元で、トノサマが力一杯、尻尾を振っていました。

 その日。石川県のとあるお屋敷の茶室では、お客がふたりだけの小さなお茶事が始まろうとしていました。
 床には 「 想 」 一文字の掛け軸。京都の有名な寺の管主の名前が入ったそれを正客の位置に座った遠藤和希くんが改めて見ていると、かすかな物音と共に襖が開きました。亭主である西園寺郁くんを中へ招き入れた遠藤くんは扇子を前にお辞儀をしました。
「本日はお忙しい中、このようなところにまでお運びくださいまして有難うございました」
「いえ。みのりちゃんの追善茶事とあれば、たとえ地球の反対側にいても戻ってきますよ」
 これは冗談ではなく本当で、遠藤くんは出張先のニューヨークからこれに出席するために帰国していたのです。着いて何日もしていないのに帰国した遠藤くんにニューヨーク支社の人たちは困ってしまったのですが、「この日のご予定は1年前から決まっておりましたので」と秘書の石塚さんに言われてはどうすることもできません。すぐに戻るという遠藤くんのことばを信じて待つしかありませんでした。
「僕も。今日だけは特別です。みのりちゃんより優先される予定なんてあるはずがありません」
 本当は、こんなお茶事なんてない方が良かったんですけどね。そう言う七条臣くんの口元には、いつもの胡散臭い筋肉だけの笑顔でなく、寂しそうな微笑が浮かべられていました。

 その日。小ぢんまりとした、でも使い勝手の良さそうなアトリエで、岩井卓人くんと画商の河本義孝さんが1枚の絵を前にしていました。
 キャンパスの中では白いドレスに身を包んだ髪の長い女性が、ピンク色の首長竜に寄りかかって、幸せそうな微笑をこちらに向けています。そしてその周囲はあらゆる種類の花で埋め尽くされていました。見ているものまで幸せな気分にさせてくれるというのは、きっとこんな絵のことをいうのに違いありません。
「本当にいいんだね? 向こうは破格といってもいい条件を出してくれているんだが」
 岩井くんには珍しく淡い色調で描かれたその絵は、これからの画家としての力量を一気に広げるものでありました。1枚くらいいつもと違う絵を描いたところで大きく作風が変わるものではないでしょう。でもこれから何年か後、岩井くんが画壇の重鎮となった頃。必ず、大きなターニングポイントであったと言われることになる絵でもあったのです。
 そんな絵を周囲が放っておくはずがありません。河本さんには最初から売るつもりがないと告げてあったのですが、出入りの業者などの口から情報が洩れ、美術館や個人などが購入を強く希望していました。なかでも国立美術館の出してきた条件は驚くばかりのもので、河本さんとしても他の希望者のように簡単には断われなかったのです。
「いや……。この絵はあるべき場所に置いてやりたいし、それに……。みのりちゃんを金に換えるなんて。俺にはできない……」
「君がいいならわたしもそれでいいんだよ。画家が置きたいと思い、絵が居たいと願う場所に届けるのが、画商にとってベストの仕事なんだからね」
 そう言うと河本さんはイーゼルから絵をはずしました。
「じゃあ梱包します。立ち会ってください。できたら届けに行きましょう」
 
 その日。成瀬由紀彦くんは都内にある競技場で試合をしていました。
 成瀬くんはテニスの実力を認められてBL学園へのプラチナペーパーを手にしたくらいなのですから、日本の高校生レベルでは、苦戦することはあってもよほどのことがないかぎり負けることはありません。でも目を世界に向けると強い選手はいくらでもいます。今日の相手もそんな選手のひとりで、本当なら勝てるはずのない強豪でした。
 でも今日の成瀬くんは負けるなんてなんてことはこれっぽっちも考えていませんでした。フットワークは自分でも驚くくらい軽いし、ラケットの切れも最高で面白いようにスマッシュが決まっていきます。そして何より、気迫が相手を軽く上回っていました。
「悪いけど、今日だけは、絶対に、負ける、訳には、いかないんだ、よっ!」
 ピーッ! 
 審判の笛に、広い座席を埋め尽くした観客から一斉にどよめきが流れました。あと1ポイントで成瀬くんのストレート勝ちが決まるのです。ある意味、番狂わせといっていい展開に観客は興奮し、格下相手にこんな無様な姿をさらしてしまっている相手選手は頭に血を上らせていました。そんな回り中がヒートアップする中で、成瀬くんひとりが冷静に試合を読んでいました。いくら今までストレートで勝っているといったって、相手は世界の上位にランキングされる選手なのです。ほんの一瞬のミスでも見せてしまったら、そこから一気に覆されてしまうでしょう。
「落ち着け。焦ったら負けだ。負けたらどんな顔でみのりちゃんに会えって言うんだ?」
 そして。最後の一球になるかもしれないボールが戻ってきました。頭で考えるより先に足が動き、渾身の力を込めてラケットを振りぬいていました。
 スパーン!
 見事なまでのスマッシュでした。同時に審判の笛が響き渡ります。
「やったあ! 勝ったよ! みのりちゃん!!」
 成瀬くんのその叫びは、客席からの声援にかき消されてしまいました。でもいいのです。みのりちゃんのところに届きさえすれば。成瀬くんは何度も何度も天に向かって拳を振り上げながら、みのりちゃんに向って叫んでいました。

 この日。中嶋英明くんは、朝からひとり自宅のオーディオルームにこもっていました。パワフルなサックスの演奏が好きな彼には珍しく、ジャズバラードだけを低く流しつづけています。
 ゆったりとした革張りの椅子に身体を預けたまま身動きもしないその姿は、まるで氷の彫像のようでした。留守電にきりかえてあるのでもちろん電話にも出ません。が、それだけではありませんでした。水も飲まず、トイレにも立たず、ただただじっと座りつづけていたのです。音楽が聴こえていたのかどうかさえ分りません。眼を閉じた、そのまぶたの向こうに誰かの面影を追っていたのかもしれません。
 やがて眼の端から光るものが一筋、頬を伝って流れていきました。そして拭われなかったそれは音もなく襟元に吸い込まれました。
「…………みのりちゃん……」
 くちびるだけで形作られたその声は、中嶋くん自身の耳にさえ届きませんでした。

 その日。伊藤啓太くんと篠宮紘司くんは東北地方のとある町のお寺にいました。
 ここにBL学園のみんなを心から愛し、大切にしてくれたみのりちゃんが眠っているのです。静かで落ち着いたたたずまいは、忙しかったみのりちゃんの安住の地として相応しいようにみえました。
「うっうっうっ……。みの……、みのり、ちゃあん……」
 お墓の前で額づいて、啓太くんはわんわん泣いてしまいました。寮を出たときからずっとずっと我慢していたのですが、もう駄目だったようです。無理もありません。あれからまだ、たった1年しか経っていないのです。彼らの中でも特にみのりちゃんにかわいがってもらっていた啓太くんにとって、それはほんの一瞬のようなもの。悲しみを癒すには全然足りないのです。それがよく分かっているので、いつもはうるさい篠宮くんも、好きなだけ啓太くんを泣かせてあげていました。それに篠宮くん自身も声こそあげていませんが、目には一杯に涙をためていたのです。
 やがて啓太くんが落ち着きはじめたのを見て、篠宮くんが声をかけました。
「伊藤。今日はみのりちゃんに言いたいことがあるんだろう?」
「うっ、うん」
 篠宮くんが差し出したハンカチで顔をふいた啓太くんは、石台の上に置いていた花束を取り上げました。でも花入れには数日前の一周忌にご両親やご姉妹が手向けられたお花が、まだまだ綺麗な状態で入っていました。それを除けることはできず、啓太くんはお墓の前にその花束を置きました。
「みのりちゃん。……生まれてきてくれて有難う。俺たちはみのりちゃんと出会えて、本当に幸せでした。有難う。最後までがんばってくれて、本当に、あり……。ありが……」
 もう言葉になりませんでした。ぽろぽろ涙を流しながら火をつけたお線香を立て、ただ手を合わせてみのりちゃんの冥福を祈ることしかできません。そしてそんな啓太くんをそっと撫でるように、お線香の煙がまとわりついていました。
 
 その日。滝俊介くんは住宅街の路地の奥にある小さなカフェで忙しく働いていました。
 ドアに 『 本日貸切 』 のプレートがかけられたカフェに、せっせせっせと花瓶を運び込んでいたのです。それがあまりにたくさんだったので、オーナーがいったいいくつ注文したのか、自分がいくつ運び込んだのか、もうすでにわからなくなっていました。
「はいはーい。追加お届けやで」
 今日何度目かのお届けにもかかわらず、滝くんは元気一杯でした。これは滝くんも大好きだったみのりちゃんへ捧げるお花を入れるためのものだからです。ちょっとでもみのりちゃんのお役に立てると思うと、何度、オーナーの自宅とカフェの間を往復しようと平気でした。
「俊ちゃん、それはこっちに置いて」
「はい。毎度〜」
 こういう仕事をさせるとオーナーはほとんど役に立たないので、アルバイトのるみねちゃんと毬ちゃんが作業を取り仕切っていました。ふたりは朝からカフェの奥にあるみのりルームを磨きあげ、滝くんが運んできた花瓶をバランスよく配置していっていたのです。
 花瓶を両脇に抱えた滝くんがみのりルームに入って行くと、ピアノの上に1枚の絵が置かれているのに気がつきました。それは白いドレスを着て恐竜のもーちんに寄りかかったみのりちゃんでした。みのりちゃんは元気な頃そのままの、幸せそうな微笑を浮かべていました。
「ああ、それね。さっき河本さんと岩井さんがもってきたのよ」
「あとで壁にかけなおすかもしれないんだけど、今日はそこでいいって、オーナーが」
「せやな」
 滝くんもそこがいいと思いました。なぜならその絵は、みのりちゃんが愛してやまなかったBL学園の方を向いていたからなのです。
「みのりちゃん、今頃こないなとこで笑とるんやろな」
「きっとね」
「少なくとも天国以外の場所には行ってないよ」
「うん、……うん」
 そう言って頷く滝くんの顔は、いつの間にか涙でくしゃくしゃになっていました。

 夜になりました。
 間接照明だけで淡く照らし出されたみのりルームと対照的に、カフェの方は各テーブルに置かれたろうそくのわずかな灯りだけしかついていません。そしてこれだけはオーナーが自分でかけて回ったらしい糊のきいたまっ白なテーブルクロスに、映る灯りが揺らめいていました。
 今日はとても寂しい日なのです。
 1年前の今日。カフェのとてもとても大切なお客さまだったみのりちゃんが、百日にもわたる闘病の末、ついに旅立ってしまったのだと、妹のとうこさまがみんなにお知らせくださったのです。たくさんの人の祈りがついに届かなかった、とても寂しくて悲しい日なのです。
 カフェにいつも来てくださるお客さまたちはそれをよくご存知なので、今日は他所へ行ったりするはずもありません。次々に花束を抱えてやってこられては『 本日貸切 』 のプレートも気にせず中に入り、みのりルームに置かれた花瓶に花を入れていきます。そしてみのりちゃんの絵に思い思いのことを語りかけていくのでした。
 オーナーはみのりちゃんがお気に入りだった窓際の席についたきりです。オーナーの前とみのりちゃんがいつも座っていた席の前には、みのりちゃんが好きだったミネラル・ウォーターの入ったフルート・グラスが置いてありました。花を持ってこられたお客様たちはカウンターで同じグラスを受け取ると、みのりちゃんのグラスに合わせてから飲み干すのでした。グラスの奏でる澄んだ音色は、まるでみのりちゃんからの答礼のようでした。
 そうしてたくさんのお客様が来られ、そして帰っていかれました。あんなにたくさんあったのに、みのりルームの花瓶はもう一杯になっていました。みのりルームは文字通り、花に埋め尽くされていたのです。

 いつの間にかカフェに残っているのはBL学園のメンバーだけになっていました。
 みんなから頼まれた花を持って現れた海野先生や朝から働いていた滝くんはもちろんのこと。試合が終わってから駆けつけた成瀬くんに、絵を届けたあと改めて出直してきた岩井くん。バイクを走らせていた丹羽くんは一度戻って着替えてきたようです。デリカシーがないと西園寺くんに言われている丹羽くんでしたが、汗と埃まみれの状態でみのりちゃんに会うことなんてできなかったのかもしれません。そして中嶋くんはこの日のために仕立てたスーツに身を包んでいました。
 遠く離れた石川県にいた西園寺くんも、七条くん、遠藤くんの3人でちゃんと来ていました。追善茶事はしていても、ここでの集まりはまた別のものだからです。
 そしてさいごに啓太くんと篠宮くんが入ってきました。彼らはみんなを代表してお墓参りに行ってくれていたのです。ふたりともフルート・グラスを受け取ると、オーナーが座っているテーブル脇のアイスバスケットからミネラル・ウォーターのペットボトルを取り上げました。そこにはみのりちゃんの字で 『 ありがとう 』 と書いてありました。こうするとお水が綺麗になるのだといって、みのりちゃんはカフェにくるたびにペットボトルに書いていたのです。それを知っていた遠藤くんはみのりちゃんが旅立ったあと、残っていた文字を鈴菱化成の特殊フィルムに転写しました。篠宮くんが手にしたペットボトルの文字は、このフィルムに転写されたものなのでした。
「おつかれさま。どうも有難う」
 駅から直行してきたのでしょう。『 ありがとうの水 』 を飲んで一息ついた啓太くんと篠宮くんに、オーナーが労いのことばをかけました。
「……いえ。俺たちこそ代わりに行かせて頂いて……」
 礼儀正しい篠宮くんでさえことばをなくしてしまうのです。啓太くんは何も言えず、また新たな涙を零していました。オーナーはそんな啓太くんを抱いて、もう一度「有難う」と言いました。

 やがて。中嶋くんが席を立ちました。そしてみのりルームのピアノの前に座るとふたを開けました。
「……本当は、退院祝いに弾くはずだったのにな……」
 そう言うと中嶋くんは、ピアノの上に置かれたみのりちゃんの絵に語りかけるように歌いはじめました。


     Moon river
     wider than a mile


 ムーンリバーでした。中嶋くんはみのりちゃんが入院してすぐの日記に 『 ムーンリバー好きなんですよ。中嶋さんが目の前で歌ってくれたら、嬉しすぎて倒れるかもしれません−。 』 と書いていたのをちゃんと覚えていたのです。そしてさっきのことばのとおり、それを退院祝いで弾く予定にしていたのです。


     I'm crossing you in style some day
     Oh dream maker you heart breaker
     Wherever you're going I'm going your way
     Two drifters off to see the world

     There's such a lot of world to see
     We're after that same rainbow's end
     Waiting round the bend my huckleberry friend
     Moon river and me


 いつの間にかみんなピアノの周りに集まっていました。
「なんていうかその……。すげー女性(ひと)だったよな。パワフルで、ちょっと気を抜くと圧倒されてしまいそうだった。こんなことになるんだったら、もっともっと話をしておきゃよかったぜ。ただ携帯に入ってたアレの写真がどうにも苦手でなあ……」
「仕事にも遊びにも全力投球の女性でしたよ。本気で鈴菱本社に引き抜きたいくらい仕事熱心だった。でも俺としてはもう一度、ニットカフェでご一緒したかった。あのときは本当に楽しかったのに。まさかあれが最後になるなんて……」
「本当に責任感が強くて。最後の書き込みまで、サイトに来てくれる人や連載の続きを気にしておられた。できれば俺が成人して一緒に酒を汲みかわせるようになるまで、お元気でいて欲しかったんだが……」
「がんばりやさんだったよね? でもトノサマにも優しくしてくれたよ。もちろん学園のみんなにもね。優しいのは心が強いからだよ。だから最後の最後まであんなにがんばれたんだよね。立派だったよ、みのりちゃんは」
「うん。男の僕でさえ逃げ出したくなるような辛い治療にも、弱音ひとつ吐かずに立ち向かったんだもんね。本当にすごい。でも本音を言えば、辛い苦しいって甘えて欲しかった。ただ抱きしめてあげることしかできなかっただろうけど、僕も一緒に苦しませて欲しかった」
「佳人薄命をそのままいってしまった女性(ひと)だったな。あんなに急いでいたのは終わりが近づいているのが分っていたからなのだろうか? もっとゆとりのあったときに、わたしの点てた茶を手にしてもらっておけばよかった。茶の世界の宇宙観は、きっとみのりちゃんと共感できただろうと思うだけに残念でならない。せめて今はのんびりできていればいいのだが」
「突然旅立ってしまう人は、来世で緊急に必要とされているそうですね。だから大急ぎで呼び戻されるんだとか。でも僕は未来の平和なんてどうでもいい。たとえ人類を滅亡させることになったとしても、今生でもっとゆっくりして欲しかったですよ」
「俺がもっと絵を描かせて欲しいと思う女性だった。内面が輝いているからあんなに綺麗だったんだと思う。あんなに重い病気を抱えていたなんて気取らせもしなかったのは、さすがにみのりちゃんだ。他の誰にもあれは真似できない。身体も当然だが、精神的にも大変だっただろうに……。気づいてあげられなかった自分が情けない」
「病気も苦しかったやろし、副作用とかむちゃ辛かったはずやのになあ。口から出るんは泣きごとやのうて、俺らに対する気遣いばっかりやった。苦しくてもしんどくても周囲を忘れんかったみのりちゃんはほんますごい。できたら病室いってアホ言うて、1秒だけでもええから痛いん忘れさしてあげたかった。俺ら最後の最後まで気ぃ遣われとっただけやなんて、こんなん逆やで」
「俺が敬愛する唯一無二の女性だった。あんな方はもう、二度と俺の前には現れないのに違いない。生まれたからには人間はいつか必ず死ぬんだ。祈って助かるものならローマ法王なんか不死身の存在だろう。そう思っていたのに。みのりちゃんには、助かってくれと何度も祈らずにはいられなかった……。本気で何度も祈ったんだがな。残念で仕方がない」
「俺のいちばんの運はみのりちゃんと出会えたことだったと思う。だから絶対に忘れない。世界中の人がみのりちゃんを忘れてしまっても、俺だけは絶対に覚えてるから。だってみのりちゃんとのことは本当に幸せな想い出なんだもの。忘れるはずなんて絶対にないよ。だからみのりちゃん。
……ずっと一緒にいようね」

 大切な人を喪った悲しみは決して無くなるものではありません。そればかりか、悲しみは鋭い刃先をもっていて、いとも容易く心を切り裂いてしまうのです。でも優しい思い出がひとつでもあればそれで包みこんで、痛みを和らげることはできます。
 みのりちゃんはたくさんの思い出を残してくれました。だから啓太くんたちは思い出をひとつずつ取り出して、心をそっと包んでいるのです。
「ありがとう、みのりちゃん」
 誰からともなく、自然にそんなことばが出てきました。
 絵の中のみのりちゃんは、ちょっとくすぐったそうに微笑っていました。
                                                  070908 END






いずみんから一言

みのりさまの日記に貼られた白い猫の写真。
おそらくはご実家で撮られたものなのだろうが、その端の方に黒いお仏壇らしきものが写っていた。今頃こんなとこで四角い枠に納まって、澄ました顔して笑ってんだろうなと思ったら涙が止まんなくなっちゃって。気がついたらキィボードの上が涙でびしょびしょになっていた。
あわててティッシュで拭きながら、キィボードカバーかかってて良かった、なんて見当違いのことを考えている伊住。
世の中でいかに千の風が流行っていようとも、古い人間の伊住はやっぱりお仏壇だのお墓だのにお参りし、お焼香をしたいと思ってしまうのだ。
だから前回のお見舞い同様、今回も啓太くんと篠宮氏にわたしの代わりをしてもらった。完全なオンのみでのお付き合いだった伊住には、これが許される精一杯で、実際のお墓参りなんて望むべくもないのだから。したがって墓所がお寺にあるなんてのは伊住の勝手な創作である。そこのところはご了承賜りたい。

ところで、本文中に14日とあるにもかかわらず、8日にupしたのは理由がある。
伊住はみのりさまが亡くなられた日を存じ上げないのだが、去年の9月8日昼過ぎ頃に誰かがご挨拶に来られた。これはお通夜の席でよくある感覚なので勝手にご挨拶だと解釈しているだけなのだが、誰かが肩に乗ってくるのである。そしてしばらくすると背骨を通って足の裏から床に抜けていく。
そのときはそれがみのりさまである可能性を否定してほしくて、「みのぷりん」さまの掲示板にお見舞い云々という書き込みをしたのだった。
あれから1年が経つ。もしあれがみのりさまなのだとしたら、せっかく来て下さったそのお心を忘れてはいけないと思った。否定してはいけないのだと思った。
8日のupにしたのは、「ちゃんと気がついてたよ」という、わたしからみのりさまへのメッセージなのだ。

……はずしてたら大笑いしていいよ。みのりさま。
貴女は大切な、最愛の「妹」だから。
場所はどこでもいいから、笑っていてくれればそれでうれしい。
……とか書きながら泣いてちゃいかんね。
ごめん。まだしばらくは無理……。


追記。
本文中でみのりさまの墓所を「宮城県」としていたが、もしかして福島県か? と思いはじめたので、「東北地方」と書き直した。
気がついても問い合わせる相手が居ないのは、なんて寂しいことだろうと思いつつ。




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