だから今日は楽しもう |
僕のハニーはさらさらヘアの美人さんで、そしてとても頑張り屋さんでもある。彼が実は僕より年上だと聞いたのも、僕が知っている名前が本名じゃなくて、しかも世界に展開している会社の御曹司だと知ったのも、ビジネスのバリバリ第一線で働いてると聞いたのも、じつは最近の話だ。和希が卒業するときになってようやく教えてもらった訳なんだけど、「家の事情で」と言って学校を早退したり休んだりしていたのが出張や会議だったと知ったときには、驚いたというより痛々しさを感じたものだった。だってあんなに細い体で学校と仕事を両立していたなんて。BL学園在学当時に知っていたら本社サイドに抗議に行っていたかもしれない。本当に、それくらい腹が立ったんだ。だって体を壊したら取り返しがつかないじゃないか。ハニーは「俺が望んだことですから」と言ったけど、そこを止めるのが上に立つ者の責任っていうんじゃないのかな。まあもう卒業しちゃったから、今更どうもできはしないのが、僕としてはつらいところだ。 つらいといえばもうひとつ。ハニーはまだ経営者としては修行中の身だけどいつか、そう遠くない未来には、どこかの会社を預かることになるんだろう。その時にはたぶん然るべき名家のご令嬢と華燭の典を……ということになるはずだ。いずれはグループの総帥として立つ立場にあるんだ。社長が男の恋人と同棲してるなんてことになったら、それこそ会社の屋台骨を揺るがす一大スキャンダルになってしまう。そんな個人の嗜好がネックになるなんて、いつかは笑い話になる時代が来るのかもしれないとは思う。でも悲しいけど、それは今じゃないんだ。僕はハニーがどれだけ努力をしているか知っている。だから僕のちっぽけな満足感のためにハニーの将来をつぶしたりはしないつもりだ。そんな僕の気持ちはうまく隠してきたはずなのに、かわいい後輩に気づかれて、そして泣かれてしまった。 泣いてくれた啓太だって明るく楽しい恋愛をやってるわけじゃない。性格の悪い相手だってことは置いても、親に猛反対されたあげく監禁されてたのを裸足で逃げてきたと聞いた。そんな子を泣かせてしまうなんてね。ちょっと反省。 2週間ばかりヨーロッパに行っていた和希は、帰国した足で会長に報告に行き、次の日の午後にはもう研究所から出張先に直行した。僕と一緒にいられたのは睡眠時間込みで5時間と28分だけ。出張中は外食ばかりでバランスが悪いから、家にいるときくらいはきちんとしたものを食べてほしくて、和食をいろいろと作った。夜は夜で、少しでも疲れをとってもらうために、キスひとつでがまんした。2週間待ってせっせと料理を作って、ただ寝顔を見てるだけなんてね。僕ってすごい。 僕としてはこういう働き方はしてほしくない。2週間も海外に行ってて、帰国した翌日には高知なんて。いくら若くて体力があったって過信は禁物だ。橋向こうにある行きつけのカフェのオーナーは遊びでそんなことやってて、大病というかたちでツケを払う羽目になった。僕は和希にそんな思いをしてほしくないんだ。一流のビジネスマン ―― しかも製薬会社だ ―― である和希なら言わなくても分かってるだろうから、いちいち言わないけどね。 でもやっぱり心配で、ちょっとだけ牽制しておいた。本当に、ちょっとだけ。 「ねえ和希? ちょっと慌ただしすぎたりしない?」 「しかたないですよ。3年半かけた仕事がようやくかたちになるところなんですから」 う〜ん。3年半。3年半か……。つまり僕が学園を卒業する前から手掛けていた仕事ということになる。何をしてたのか、たぶん聞いてもわからないと思うし、聞いて和希が話してくれるとも思わないけど、準備やら根回しやらを考えただけでうんざりしそうだ。そしてその圧倒的な量の時間をかけた仕事の結末を見届けるのは、和希の正当な権利だった。僕が止めていい話じゃない。 「それじゃしかたがないね……」 「もう……、そんな目で見ないで下さいよ」 「どんな目?」 「えーっと。置き去りにされた大型犬が、自分を置いて去っていくご主人様を見てるような目、かな」 何だそれ。と思った。何となく情景が目に浮かばないこともないけど。ただ、いつも、曲解されないようにしているのか曖昧な物言いをしない和希がそんな表現をしたのが可愛くて、つい目元をゆるめてしまった。和希はちょうど手にしていたマグカップをテーブルに置こうとしていたところで、気づかれなくてよかった。そんなふうに笑うと拗ねるから。僕の可愛い恋人は、年上の自分より年下の僕の方が大人みたいに見えるのをすごく気にしているんだ。僕はただ大人っぽく見えてるだけなのにね。 「なんか、わかるようなわからないような説明をどうもありがとう。それと、仕事の完結おめでとう」 さすがの和希もこれは予測していなかったのか返事をせず、目を丸くしてこっちを見た。 2日後の夜。高知のついでに四国の営業所やら関係会社やらを回って帰ってきた和希は、帰ってくるなり風呂に入ってしばらく出てこなかった。男の入浴時間なんて女性に比べてみたら知れたものだ。和希は僕なんかよりずっと長いけれど、でもこんなに長いのははじめてだった。よほど見に行こうかと思いはじめた頃、ようやく出てきた和希は今度は髪を乾かしはじめた。 和希のドライヤーの使い方は意外に男っぽい。いい加減なというか、大雑把というか。ぐわーっと髪をかきまわしながらばっさばっさと乾かしていくのだ。シャンプーにだってこだわらないし、あれでどうしてこんなさらさらつやつやの髪に仕上がるのか。和希にはいろいろ謎があるみたいだけど、僕にとってはこれがいちばんの謎、かな。 風呂上りにレモンを浮かべた冷たいミネラルウォーターを持っていったらドライヤーを止めて、でもこっちは向かずに「5日から9日までの間で、2泊3日でオフにできる日ってありますか」と言った。和希がこっちを見ずに話すときは要注意だ。和希にとってとても大事なことを話そうとしているからだ。 「5日から10日? だったら9と10以外なら大丈夫だけど」 「じゃあ5日から7日でお願いします」 「なに、なに? 2泊3日って。旅行?」 「まあそんなものです。モニターみたいなものですけど」 「へえ? どこだろう」 「それは着いてからのお楽しみにしてください」 「準備もあるんだけど?」 でも和希から返事はなかった。ドライヤーに再びスィッチが入れられ、ブワーっという音がそれに取って代わった。どうやら教えてくれる気はないらしい。 それでも2日前には『泳ぐならその準備』とメールを寄こし、和希がバッグに本を数冊入れているのを見て、もしかしたらリゾート地へ行くのかもしれないと見当がついた。それが海か湖か川かの判断はつかなかったけれど。 でも。そうかぁ。和希とリゾートか……と思ったらなんだかすごくわくわくしてきて、『現地でえっちは厳禁です。守れなかったら即刻!!!帰宅してもらいます』とメールしてきたときも、あまり気にもならなかった。そりゃあ僕だって旅先で和希と愛を交わしたい。だけどそれは旅の楽しみのごく一部にすぎない。それより以上に和希と一緒に旅行に行ける方が大事だから。 「でもどうして君、いちいちメールしてくるかなあ。一緒に住んでるんだから話してくれればいいのに」 「内緒だからです」 「内緒、ねえ」 「それに……、学校の友達なんかと旅行に行くときって、そんなもんじゃないんですか?」 いや。普通に学校で話すだろ? そう言いかけて気がついた。鈴菱の後継者として育てられてきた和希には、友人と旅行に行くなんてことはもちろんなかったろう。それどころか友人と呼べる人間が啓太のほかにいたかどうかさえ疑問だ。だったら……。和希が僕を通して普通の学生を追体験しようとしているのなら、それが無意識にしろ僕はそれを受け止めたいと思う。 「うん……。そうだね」 和希は『でしょう?』とでも言いたげな顔をして、ちょっとだけ首を傾げて見せた。 そうして僕はとってもお利口さんの顔をして、ひとりで高知行の便に乗ったのだった。和希からわざわざ郵便で送られてきた、やたら凝ったつくりの『旅行のしおり』と航空券に従って。どうやら僕はこのあと、高知駅から特急に乗って指定の駅まで行き、そこで乗り換えた路線バスの中から宿の人に電話して迎えに来てもらうらしい。和希との合流はそのあとだ。せっかくの旅行なのにひとりで移動って、正直、残念だと思いかけていたけれど、ここまでくるとそんなふうには思わなくなっていた。だって合流できるのはわかっているんだし、ミステリーツアーみたいで面白いじゃない。和希が僕をどこへ連れて行きたいのか。どこへ連れて行こうとしているのか。旅行のしおりやら地図やらからあれこれ考えているうちに、あっという間に時間が過ぎて行った。 過ぎていくのは時間だけじゃない。窓の外の風景も次へ次へとうしろに過ぎていく。ちょっと地方に行ったら見られる、どこにでもある風景がエンドレスで流れていく。梅雨が明けたばかりの風景はくっきりとした原色に彩られていて、鬱陶しい梅雨空の下から抜け出してきた僕の目には少々痛い。でもだからと言って雑誌に目を落とすには外が明るすぎて、本を閉じた僕はもう一度、窓に目を遣った。 そういえば和希からこんな話を聞いたことがある。窓から見える銀行の看板を見ていたら面白い。そこの地方にしかない銀行があって、そういうのはだいたい県名がついているから、それを見ているだけで今どのあたりにいるかがわかる、って。たしかに京都に行ったとき滋賀銀行や京都銀行っていうのを見かけた。そういうのがずっと続くのなら時間つぶしにだってなるかもしれない。で、今日は僕もやってみようかと思ったけど、30分くらいしてから、同じ県内だけを移動するんだから銀行名がさほど変わっていくとも思えないのに気がついたのだった。ちょっとお間抜けだったね。 そんなこんなで降りた駅はとてもきれいで、でも没個性的。旅行に行った先で降りた駅は鄙びた木造の駅舎だった、なんて思うのはツーリストの勝手な妄想。日々利用する客の利便性が最優先されてしかるべきだ。でも妄想を抱くツーリストの僕は、少々残念に思いながら駅前のバスターミナルからバスに乗った。バスは町を抜け、畑を抜け、田んぼを抜け、また町を抜け、ちょっと向こうに栽培用ビニールハウスがいくつも見える山のふもとで僕は降りた。家を出てからなんと6時間かかっていた。山の方へ入る方の道に宿の迎えらしいミニバンが停まっていて、乗り込んでみて驚いた。だって和希が座っていたから。 「驚きました?」 「まあね。君は1便遅れると思っていたから」 「すみません。でもモニターなので一緒に移動するわけにいかなかったんです。あとで『旅行のしおり』の使い勝手がどうだったか、アンケートに答えてください」 そういえばモニターみたいなものだと言ってたね、と言おうとしたら遮られた。和希が「ほら、あっち」と指差す先を目が追う。山の方に入った道はぎりぎりすれ違いができる程度の幅しかない。左側からは枝が伸びてきてて、もう少し端に寄ったら窓をこすりそうだ。何が。と思う間もなく一気に右側が開けた。 「うわ……!」 思わず窓をあけて首を出した。視界の端から端。右から左まで空が広がっていた。青くて、ほとんど夏を思わせる雲が空の青さを際立たせている。目をほんの少し下に向けると、そこにあるのは海。どこまでも広がっているのは太平洋か。絶景だった。和希が僕をこっち側に座らせた理由がよくわかった。 さっきまでと違って道はゆったり2車線ある。どんな山の中へ入っていくのかと思わせて一気に海へ視界を広げる。もし視覚的効果を狙っていたのだとしたら、それはじゅうぶん目的を果たしていると言える。少し下ると、今度は閉ざされた小さな湾 ―― いや、入江、かな ―― が見えてきた。もとは岩礁でもあったのか湾の入り口はつながってしまっていて、ところどころに松までが生えている。天橋立や宍道湖を思いっきりスケールダウンした感じだ。大きな池にも見える海の色は、深い青に緑色が混じる。 「ちょっとおもしろいでしょう。あの松の生えてるあたり、底は大きな岩が積み重なってるだけなので、海水の行き来は結構あるんです。魚なんかも泳いでますから、釣れば刺身にしてもらえますよ」 「刺身って、あんまり小さい魚だとどうなの?」 「小さいうちに入ってきて、出られなくなった魚が程よく育ってますから。そういうのを狙ってください」 「なるほど」 ま、小さければ開いて天ぷらなりフライなりマリネなり……。でも磯釣りってあんまり僕の趣味じゃない。クルーザーで沖へ出てカジキを釣るならともかくとして。 そうする間にもクルマはどんどん下がっていき、きれいな白砂のビーチが見えた。このあたり、灰色がかった関東の砂浜とは違う。波打ち際から少し山側には洒落たコテージ風の建物。3階建てで2階と3階には窓が5つずつ。そして。手前を遮っていた木々がうしろへ去った瞬間。 「わあ、何、あれ」 ちょっとキノコを思わせる、斬新だけれども妙に景観とマッチした色とりどりの小さな建物が3棟、足元を波に洗われながら建っていた。木造茅葺だったらボラボラ島の水上コテージになるところだ。 「ようこそ。俺の3年半をそそぎこんだベル研保養所へ」 「3年半……? じゃあこれがこの間出張してた仕事なんだ」 「社員の福利厚生も、経営者のしごとのひとつですから」 いや。でも経営者自らが動いて作る保養所っていうのも少ないんじゃないのかなぁ? 「今日は水上コテージで1泊。明日はキャビンで1泊になります。キャビンの方も中に入るといろいろ凝ってますから。楽しみにしててください」 「それもアンケート?」 「もちろんです。よりよくするためなのでご協力お願いします」 「了解」 ビーチの手前で車を降りてふたりで並んで歩いた。砂浜を歩くにはふさわしくない革靴で。でも、少なくとも僕はそんなことは気にしてない。だって僕の意識が向いているのは、頬を上気させて成し遂げたばかりの仕事を語る和希だけだから。その顔は陽をはじく波頭よりよほど輝いて見えた。潮騒がいいBGMだ。 「学園島とは潮の香りが違うね」 「そうでしょう?」 「すごく爽やかで……。こっちの方が海らしい感じがする」 海らしいというのは少し飛躍した言い方だったかもしれない。でも僕の語彙ではこれが精いっぱいだった。ただ言いたいことは伝わったのか、和希は小さく頷いてくれた。 「イメージしたのはボラボラ島の水上コテージなんですけどね」 「あ、やっぱり? 僕もちょっとそれ思った」 「最初はあれでスタートしたんです。でも台風のからみやら何やらであんなふうにはできなかった。だったらいっそ斬新にしちゃえ、って」 確かに『斬新』としか言いようがない建物だ。少し上から見たときはキノコ風かと思ったけど、ここからだとそれほどでもない。ただちょっと角がないだけ。屋根に壁に柱。そしてそれらが交差するところ。本来なら角になるはずの部分全部にやわらかいカーブがついているのだ。たったそれだけのことなのに、ずいぶん変わって見える。 ああ、でも色はすごい。基調になる色は何もない。赤も青も黄色も緑もみんな使われている。『色とりどり』は、なるほどこういうことを言うんだって感じだ。しかもペイントのパターンは完全なランダムで、3棟とも似ても似つかない色と塗り方をしている。でもそれはでたらめなのではなく計算しきったものなのだ。だから景観に程よくとけこみ、お互いを殺しあうこともない。見ていてもうざったさを感じない。考え抜かれた色彩設計がこれほどすごいなんて今まで全然知らなかった。 「台風のからみって……。たしか日本では海岸の中に建物建てるのって難しいんじゃなかったっけ?」 「海岸線はあっちの松が生えてる方ですから」 ボラボラ島の水上コテージは海外リゾートでも人気のスポットだ。でも日本国内であんなタイプのコテージを見ないのは、法律があれこれあって、海岸線の建築認可がめったなことではおりないからだと聞いたことがある。それを海岸線は松の生えてる方……って。これは相当、コネを使いまくったと見た。さほど規模が大きいとも思えない建物に3年半もかかったのはこのあたりに関係しているんだろうか。 「3年半もたいへんだったね。お疲れさま」 「これにかかりきってた訳じゃないですからね。それに、啓太の喜ぶ顔を思えばどうってことないです」 「って、啓太? 啓太がどうかしたの?」 ふたりきりでリゾート気分満点だったのに。なんでこんなところで啓太の名前がでるかなあ。せっかくいい感じだったのに、一気に現実に戻ってきてしまう。思いっきり水を差された気分……。 「ああ……。うちってもともと山の中の保養所はあったんですよ。それで新しい保養所をどうしようか考えてたときに、啓太とテレビ見てたら旅番組でボラボラ島やってて。中嶋さんと行ってみたいって言ったんです。あの人をボラボラ島に引っ張り出すのは難しいだろうけど、国内だったらかなえてやれそうだな、ってね」 「ふーん。じゃあ僕が『アフリカのサファリキャンプを思わせる施設がいいな』って言ったら、それ作ってくれた?」 「駄目です」 「即答? 僕としては、ここはちょっと考えるフリくらいして欲しかったところなんだけど」 啓太に勝てないのはわかっていても、やっぱりこれは面白いはずもなくて。半分以上本気で拗ねてみせたら、和希は「だって」と言って向こうを向いてしまった。 「だってあんたは身内みたいなものなんですからっ。そんな……公私混同なんてできません!」 ここに誰もいなくてよかった。和希が向こうを向いててくれてよかった。だって僕ときたらぽかんとあけた口をしばらく閉じることができなかったんだから。でも和希の言った言葉の意味が身体中にしみわたっていくにつれて、じんわりと心が温かくなっていく。そうか。僕は和希の身内なんだ。啓太は違うけど。うん。ココ重要! 「ねえ、キスしていい?」 「駄目です」 「これも即答? 駄目なのはえっちだけじゃなかったっけ」 「管理人さんが見てるかもしれないから駄目です」 しかたがないから足で砂に『I Love You』と書いた。和希はさらさらヘアを風に揺らしながら『Me Too』と続けて書き、そして両方を消した。 僕と和希の恋愛に将来はない。でもいいんだ。こんなに和希を好きになれたのだから。いつかふたりの歩く道が分かれる日が来ても、僕はずっと君を愛し続けるだろう。 だから……。ねえ、和希。今日をうんと楽しもう。 |
いずみんから一言 |
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