午前零時のできごと




「中嶋さん」
「うん?」
「俺ちょっと……、そこまで行ってきます」
 中嶋の勉強を邪魔しないようにと思ったか、啓太が遠慮がちに声をかけたのは、もうあと15分で日付がかわる時間だった。叩いていたパソコンのモニタの端で時間を確認した中嶋は、眉をひそめて振り返った。そこには巣穴から外を伺う小動物のように、啓太がリビングとの境のドアからひょっこりと顔を覗かせていた。
「こんな時間からか?」
 このところ、啓太の様子が少々おかしいのが半分。邪魔をされたのが半分で、中嶋の視線と口調は、並の人間なら震えあがるほど冷たいものとなっていた。それは免疫がありすぎてかえってニブくなってしまっている啓太にも感じられるほどだったようだ。が、一瞬顔をひきつらせはしたものの、出かけるという意思は変わらなかったらしい。
「今からだと……。えっと、30分はかからないと思いますから」
 こうなると啓太はてこでも動かなくなる。篠宮や和希の目には「しなやかに風をやりすごす草のよう」に見えるらしいが、中嶋にとってそれは、丸くなって外敵の攻撃をはねかえすアルマジロにしか見えないのだ。駄目だと言っても決行するに違いない。
 ところがここは中嶋が司法修習生として赴任してきた茨城の宿舎だった。自宅マンションのような落ち着いた住宅地と違って、ごちゃごちゃした街並みは少々鬱陶しく、真夜中に啓太ひとり送り出す気になどなれるものではない。小さくため息をついた中嶋は、手早く作業画面を保存すると立ち上がった。
「分かった。俺も一緒に行こう」
「え〜っ」
「ほう? 嫌なのか?」
 思わず口から出たらしい啓太の一言に、中嶋の機嫌が一気に下降する。
「……一緒に来てくれるのはうれしいんですけどぉ。でもレジには来ないでくださいね」
 啓太が嫌だったのはついて来られることではなく、どうやら買い物を見られたくなかっただけだったようだ。微妙に機嫌を上方修正した中嶋は、だったら昼間に行っておけばいいのにと思いながら上着を取り上げた。

 11月も半ばを過ぎ、下旬になろうとしている夜の空は、真冬のものほどではないにしても、やはり凍てついてみえる。月のない空ではいつもより多くの星が、冴え冴えとした瞬きを繰り返していた。風はまったくといっていいほどなかったが、その分冷えているようだ。寒いというよりは空気がとても冷たかった。張りつめたような寒さは、だがしゃんと背筋が伸びるようで、とても心地いい。寒いのか、それとも甘えたいのか。そっと身を寄せてくる啓太の腰を抱いて、中嶋はゆったりと歩を運んだ。
「さてと。どこへ行きたいんだ?」
 最初に研修を受けた栃木から引越して以来、一月半が過ぎていた。だが研修関係先と宿舎との往復だけがすべてのような中嶋は、このあたりに何があるのかをほとんど把握していなかった。どうせ3ヵ月だけの仮住まいだという思いもある。日常の買物をするスーパーやクリーニング店、大きめの本屋の場所さえ分かれば不便はない。だから「どこへ行きたい」という問いに「クレープ屋さんの隣のコンビニまで」と返されても、それが右なのか左なのか、見当のつけようさえなかったのだった。
「えっ? 知らないんですか? 神社の向こうにあるでしょう? 行列のできてるとこ」
「コンビニなら駅前の角にあるのを使ってるからな」
「そっかぁ。帰る途中ですもんね」
 啓太は自分で勝手に納得して頷いた。中嶋が、その神社の場所さえ知らないとは思ってもみないのに違いない。中嶋に分るのは、「往復で30分もかからない」ならそう遠くないのだろう、という程度でしかなかったのだが。
街灯はやけにぼんやりとして暗かったが、この時間だとまだ電気がついている家も多く、実際よりも少し明るく感じられた。自分たちが住む部屋の窓も、こうして誰かの足元を照らしているのだろうか。 啓太という存在がなければ、おそらく思いもしなかっただろうその連想は、だが不快なものではなかった。『不快ではない』というところまで含めて、受け入れてしまっている自分がここにいる。半身にこのぬくもりを感じながら歩くたび中嶋は、人生のどこかで置き忘れてきたものを見つけているのだった。
 駅から比較的近いこのあたりには、ファミリー向きより単身者、せいぜいが同棲カップル程度を想定された部屋が多い。いかにもなアパートはあまり見ないが、低層のマンションもどきや中嶋の宿舎になっているようなマンスリーマンションがあちこちにある。そして彼らの生活を支えるコンビニや商店、大衆食堂などが、住宅と住宅の隙間をうめるように看板をあげていた。場所柄かスナック以外にこの時間まで営業している店はほとんどなく、シャッターを下ろしたそっけない店先が、ふたりの前に現れては消えていった。

 そうやって10分も歩いたろうか。中嶋の前にエアポケットのようにぽっかりと空いた空間が見えた。近づいてみるとそこは空間ではなく小さな森で、道から少し入ったところに、意外なくらい大きな鳥居があった。どうやらこれが啓太の言っていた神社らしい。夜なので細かいところまでは分らないが、さっぱりと掃き清められた参道を見るだけでも、この神社が地域の住民から大切にされているのがわかる。先週の日曜あたりなど七五三のご祈祷をしてもらう子供たちが、親に手を引かれて鳥居をくぐって行ったことだろう。そして神社を回りこんだところに目的のコンビニがあった。隣にはかなり間口の広い店がパステルカラーに塗られた目立つシャッターを下ろしている。これが啓太の言った「クレープ屋さん」だというのは聞かなくても分かった。シャッターを見るかぎりではかなり大きそうな店で、啓太がそこを「神社の向こうのクレープ屋の隣」と言ったのは、じつに的確な表現だった訳だ。なるほどと納得する一方で、中嶋には新たな疑問がわいていた。そこは確かにコンビニだが、家を出てここと逆方向に数分歩いたところにあるのと同じ店だったのだ。風呂あがりに食べるデザートなどは時々そこで買っているし、同じチェーン店であれば品揃えが劇的に違うとも思えないではないか。そしてさらには、啓太がいつの間にこんな店を見つけていたのかも知らなかった。中嶋さえこのあたりには来たことがないというのに。どうせ啓太のことだから、ご近所の奥さんあたりに教えてもらったのだろうが、土曜の午後から日曜午後までの24時間程度の滞在で、どうやって行動範囲を広げていくのかは謎だった。
「いらっしゃいませ〜。ようこそ神社前店へ!」
 夜中には少々重いくらい力の入った声に迎えられて入った店内には、20人近い客がいた。この時間にすればずいぶんな賑わいだ。だが店に入ったとたん、中嶋は啓太に手を掴まれ、雑誌売り場のいちばん奥に引っ張って行かれた。
「約束です。レジには近づかないでくださいねっ」
「……ああ」
 ここまできて何を今更とは思いはするが、確かにそういう約束でついて来たのだから仕方がない。棚を軽く流して娯楽雑誌しかないのを見て取った中嶋は、通路の反対側、つまり今まで背を向けていた方に向き直ってみた。どうやらそこは市が指定する事業用ゴミ袋の棚らしい。事務所で見慣れたゴミの袋が4分別×大きさ別5種類で20に分けられ、理路整然と並んでいた。何気なく手に取ってみて、中嶋はその値段の高さに驚いた。事業用のゴミ袋の値段など今はじめて目にしたので比較のしようもないが、燃えるゴミ用のいちばん小さい袋が10枚で500円以上というのはいくらなんでも高いだろうと思う。指導を受けている弁護士事務所の事務の人がうるさいくらいにゴミの捨て方を口にするのだが、その理由がやっとわかった気がした。
 どこかの誰かと違ってジャンクフードを好まない中嶋は、コンビニを利用することはほとんどない。誰かが飲みに来たときに足りなくなった氷を買いたすのと、あとはタバコを買うくらいである。だから見慣れない品揃えが面白く、つい店内を見回してしまったところで、こっちを向いて頬をふくらませた啓太と目があってしまった。どうやらレジの方を見るのもご法度だったらしい。やれやれと思った中嶋は、仕方なくまた雑誌の棚に向き直った。漫画の雑誌やら競馬の雑誌など、今までの人生ですれ違うことさえなかった雑誌が、棚の8割ほどに並んでいた。中嶋には必要なくても需要あってこその供給であるのは間違いない。これもまた情報だと考えた中嶋は、そこにあった漫画雑誌のタイトルを覚えはじめた。いつかこの雑誌社の買収を手がける日が来るかもしれないと思えば、少なくとも時間つぶしの役にはたっている。

 やがて店内にいた客たちがうろうろと動きだし、「有難うございました〜!」の声に送られては出て行った。ひとり、またひとりと中嶋の前の窓の向こうを通り過ぎていく。なのに啓太は何をしているのかまだ中嶋の元に戻ってこない。レジの方を見てもいけないのなら電話でも……と思った頃になってようやく、啓太の姿が視界の端に入ってきた。
 にこにこと満足そうな顔を見れば、聞かなくても欲しかったものが手に入ったのだとわかる。だが手にさげた大きなレジ袋の中には、何故かデパートの紙袋でくるんだ何かが入っていた。
「お待たせしました。急いで帰りましょう」
「帰るのはいいが、何だ。その紙袋は」
「ああ。これですか?」
 小さく首を傾げた啓太は、袋を少しあげてみせた。かさばっているだけでなく、重さもそれなりにあるようだ。しかしそれよりなにより、コンビニのレジ袋に入ったデパートの紙袋と言うのはやはり異質だった。近所のおばちゃんのおすそわけならともかくとして。
「中が見えないように入れてもらったんです」
「……」
「だって、今、見えちゃったらつまらないでしょう?」
 啓太は時々ことばを端折る。それはおそらく啓太の中では明白な事実だからなのだろうが、中嶋には意味不明な場合が多かった。それでは分らないとその都度言うのだが、そういうときの啓太は必ずと言っていいほど、何故そんな簡単なことが分らないのだろうという顔をするのだ。中嶋に分るのは、こんなものに入れてもらっているから遅くなったということくらいなのに。当の啓太はそんなことなどおかまいなしに、「ね? 早く帰りましょ?」と言って笑った。中嶋の反論をすべて抑え込んでしまう、無敵の笑顔だった。
 帰り道は早いというが、本当に早かった。来るときと歩くペースは変えていないつもりなので、単なる気分の問題なのだろう。黙って寄り添って歩いてきた往路と違い、少し前を歩いている啓太は、時折うしろ向きに歩いては中嶋に笑顔を振りまいている。その姿があまりにも楽しそうにしているので、中嶋も紙袋の中身が気にならなくなった。あれは啓太が真夜中に出かけてまで欲しかった品物だ。無事に買えて嬉しそうにしているのだからそれで十分。中嶋が気にする必要はない。
 ところが。家に戻ったとたん、何もかもが一転した。

 勉強の途中で出てきた中嶋は、もちろん帰り次第、続きをはじめるつもりでいた。時間にして30分足らずの外出である。疲れるほどであるはずもなく、ひんやりした空気でリフレッシュできたあとなら、かえって勉強もはかどりそうでさえあった。だがドアを開け、いつものように先に通してやった啓太が、そうはさせてくれなかった。中嶋が鍵をかけるのを待ちかねたようにしてその手を取ったのだ。
「啓太?」
「こっちですよ?」
 先刻までよりさらに楽しそうな啓太の手を無碍には払えず、誘われるまま中嶋は、ついソファに腰をおろしてしまっていた。宿舎になっているのはビジネスマン向けのマンスリーマンションである。学生向けのそれよりは広いし設備のグレードも高いが、ゆったりしているとはお世辞にも言いがたい。しかもダイニングテーブルの向こう側。テレビと向かい合うように無理やり押しこんだソファセットでは、中嶋は足がつかえてしまって座り心地もよくないのだ。せめてローテーブルだけでものけてしまいたかったが、そうすると収納場所がなくて諦めた経緯があった。ライフスタイルに合えば便利でも合わなければただの障害物にしかならない。短期間用家具つき住宅の欠点といえるソファは、啓太がテレビを見るときくらいにしか使われていなかった。
「おい」
「5分だけ待っててくださいね♪」
 浮かせかけた中嶋の腰を笑顔で縫いとめた啓太は、コンビニで買った袋から小さな包みを出してキッチンに消えていった。だだっ広い横浜のマンションと違い、ここでは何もかもがすぐ近くにある。聞耳をたてるまでもなく、啓太が何かの包みを開け、グラスや皿を準備する様子が手にとるように伝わってきた。
 正直な気持ちを言えば、中嶋はすぐにもデスクの前に戻りたかった。司法試験の合格はゴールではなく、ようやくスタートラインに立てただけだからだ。合格して司法修習生となって、今やっと本当の意味での法律の勉強がはじめられた気がしているのだ。大学時代のテキスト類も、今の目で見ればまったく違って見えたりもする。中嶋はもっと多くのことを吸収したかった。だがその一方で、啓太に寂しい思いをさせている自覚もあった。一月ばかり前から啓太の様子がどこかおかしく、浮気を疑ったことさえあるというのに問い糾せずにいるのは、放っておいた罪悪感が躊躇わせているからだった。今日はその啓太が、思いがけず宿舎の方に来てくれていた。基本的に講義はサボるなと言っている中嶋だが、「どうしても今日、会いたかったから」と言われてしまえば愛しさの方が勝つに決まっている。そのときの胸の暖かさが不意によみがえり、今夜は啓太の好きにさせてやろうと中嶋は思った。この程度ではご機嫌取りにもならないかもしれないが、邪魔をされるのが何より嫌いな中嶋には、これが彼にできる最大の罪滅ぼしかもしれなかった。

 5分と啓太は言ったが、実際にはそれほどかからなかった。読みかけだった業界誌を取りにいき、広げたところで啓太が戻ってきたのだ。トレイの上にはぶどうジュースの瓶と家からもってきたらしいワイングラスがみっつ。そしてきれいに並べたチーズの皿がのっていた。ひとつはジュース用としてもグラスがひとつ多い。丹羽か篠宮あたりが来ることにでもなっているのか? と、内心で首をひねる中嶋の前で、先刻のデパートの袋をがさごそ言わせながら啓太が出したもの。それは凝った結びかたのリボンがかかった、2本のワインだった。
「中嶋さん。お誕生日おめでとうございます!」
 言われてようやく気がついて、中嶋が腕時計に目を落とす。11月19日が10分ほど過ぎようとしていた。
「これ、今年のボジョレー・ヌーボーなんです。中嶋さんがこんなのあんまり飲まないのは知ってたけど、でも今年は50年に1度の出来って言うし、何より今日の午前0時に解禁って聞いたら……」
 えへへと笑う啓太にくちびるの端をつりあげながら、中嶋はボトルを手に取った。お祝いで紅白のつもりなのか、赤と白のワインが準備されていた。それでグラスがみっつなのだろう。しかし「ボジョレー」に白はない。騙されたのでなければいいがと思いつつ、啓太の気分に水を指さないよう、中嶋はことばを選んだ。
「この白は?」
「さすがですねっ! 中嶋さんてば、ちゃんとボジョレーのことまで知ってるんだあ」
「たまたまな」
「俺、ボジョレー・ヌーボーって言ったらひとつしかないのかと思ってたんですけど、いろいろあるんですねぇ。このあたりで解禁と同時に買えるお店を探してたら、あそこのコンビニを見つけたんです。裏のお酒屋さんがオーナーなんですけど、なんかワイン通で有名らしくて。いろいろ相談してたら、お祝いだったら紅白がいいかなって話になって。ボジョレーに白はないけど、マコンヴィラージュってとこのでやっぱりヌーボーがあるって教えてもらったので、それにしてみたんです」
「なるほど」
 ボジョレーと称して白ワインを売りつける輩は時々いるが、啓太の見つけた店はそうではなかったようだ。きちんとした姿勢で売るような店ならいい品物を見分ける目も持っているに違いない。啓太の運はこんなところまでカバーしているようだった。
「現地で選んで仕入れてきたのを、零時に受取りたい人はコンビニで受け取れるようにしてくれてるんです。あんな時間に行くのは俺だけかと思ってたんですけど、結構たくさん来てましたよね。ちょっとびっくりしちゃった」
 この時間にあの人数は多いと思ったが、ボジョレー・ヌーボーの解禁を待っていた熱狂的なファンなのだろう。別に明日になると飲めなくなる訳でもないし味が変わる訳でもない。ならば明日買いに行けばいいはずだ。だが日付が変わってすぐに誕生日を祝いたいと思い、真夜中に買いに行ってくれようとした啓太の気持ちは、素直に嬉しかった。中嶋にとって自分の誕生日など、書類上の記入事項でしかない。啓太が祝ってくれるから。啓太がいてくれるからこそ意味のある日付なのだ。だからモノなどどうでもいいと思っている。啓太が自分のために考え、選んでくれたものなら、もうそれだけで十分だった。
「俺、ワインのことなんて全然わからないから、飲み頃の温度にしてもらってあるんです。合うチーズも選んでもらいました。あの……。受け取ってもらえますか?」
 これだけの月日を重ねても、尚も啓太はそんなことを言う。少し緊張した面持ちの啓太に呆れた中嶋は、皮肉のひとつも言ってやりたい気分を軽く押しとどめた。こんなところで泣かせてしまうのは本意ではない。それに今夜は啓太の好きにさせると決めたのは自分だった。
「おまえが俺のために選んでくれたものだ。有難くご馳走になろう」
 その瞬間。啓太が見せた笑顔こそが中嶋にとって最高の誕生日プレゼントだったのを、もちろん啓太は気づいていなかった。

 いつまでたっても啓太が理解できないことは、ほかにもいろいろあるらしい。たしかに中嶋は酒のつまみにチーズを好むが、いちばんのお気に入りはやはり啓太である。いつもは足元でうずくまる啓太を隣に座らせ、肌や髪の感触を楽しみながら飲むのがいちばん美味い酒になると思うのだ。今夜もまた啓太を抱き寄せ、啓太の髪や頬にくちびるを落とす合間にグラスを口に運ぶと、酔えないはずのワインでもずいぶんと気分が良くなっていくのが分かる。すぐに酔ってしまう啓太を「お手軽なヤツ」だと笑ったことがあるが、本当にお手軽なのは自分かもしれないと中嶋は思った。
 しかし少なくとも今夜は違った。お手軽に酔っているのではなく、この酒が啓太を思わせるのだ。熟成のしきれていない、どこか青ささえ感じさせる味わいであるのに不思議な余韻があとを引き、もう少し、もう少しと思っているうちに、気がつけば手放せなくなってしまっている。これはまさに啓太そのものではないか。啓太が倍になったのだから、こんな新酒ごときで酔ってしまってもしかたがない。本当にいい気分だった。
 中嶋を酔わせた自覚のない啓太は、ほんのりと上気させた顔で、すでに何度目になるか分からないキスを受けていた。思いっきり酒に弱い啓太は、自身は飲まなくても中嶋とのキスで入ってくるわずかなアルコールだけで全身を桜色に染めた。こういうときの啓太はうまく甘えられないいつもと違い、子猫のような仕草で身を預けてくる。ほどよい酔いが緊張感を鈍らせるのか、中嶋の手をうっとりと受け入れるのだ。いつものような鋭敏な反応こそ返ってこないものの、どこに触れても甘い声の混じった吐息を吐きだしてくる。そしてそれはワインの澱のように沈殿していき、部屋の中の空気を濃密なものに変えていった。
「……ねえ……」
「……うん?」
「……………………好き……?」
「ああ」
 好きかと問われ、そうだと答えてやる。中嶋にすれば朝になれば太陽が昇るのと同じくらい普通のことであったのに。よほどうれしかったのか、啓太はあごの下あたりをそっとくすぐっていた中嶋の右手を両手で抱き取った。まるでそれが神聖なものであるかのようにくちびるを押しあてては、何度も何度も頬擦りなどを繰り返す。中嶋は自分が世間一般の男から比べて狭量であることを知っていた。丹羽のように何もかも受け入れてしまえる度量の大きさもなければ、成瀬や篠宮のような優しさで相手を包みこむこともできない。ましてや和希のように、相手の幸せのためなら自分が一歩退くなど、できうるはずもない。自分がしたのは、この無垢の天使のような啓太を引きずり落として『中嶋英明』という名の檻の中に閉じ込め、所有の烙印を押したことだけだ。自分でも酷いと思う。啓太には明るく暖かな陽射しが似合っていると分っていて、日の当らない場所を歩かせようとしているのだから。なのに啓太は、中嶋が強く所有のしるしを見せてやればやるほど、安心したような顔を見せてくれるのだ。ちょうど、今のように。
 否応なく追い上げていけば、大きすぎる快楽に戸惑うのか脅えたような顔を見せる。それは中嶋の嗜虐性をそそり、啓太のすべてをむさぼり尽さずにいられない顔だ。その一方で、こうやって真綿でくるみこむようにゆっくりゆっくり高めていってやると、見慣れたはずの中嶋でさえ驚くような顔を見せてくれるのだ。中嶋の腕の中で子供のように安心しきっているのに、その横顔には妖しいまでの艶が浮かんでいる。自分の手だけが創りだせるこの顔に深い満足を感じて、中嶋は啓太の体をやわらかく抱きなおした。それをまるで待っていたかのように、啓太が首に腕をまわしてくる。
「……お酒は……。もう、終わりにして……?」
「…………かわりに酔わせてくれるならな」
「…………………………うん」
「……そうか」
 ゆっくりとくちびるを触れ合わせた中嶋はそのまま啓太を押し倒した。中嶋の大きな体がたちまち啓太を覆い尽くしていく。ソファは狭く、天井には灯りがついたままだ。ベッドにいけると思っていたらしい啓太が中嶋の腕の中で言葉にならない声を出した。
「あまり声を出すなよ。壁の向こうは隣のリビングだ」
 喉の奥で笑いながら意地悪く囁いた中嶋に、啓太が驚いたようにしがみついてくる。
 やがて。こくんと小さく頷いた。

 11月19日の午前零時が、今、終ろうとしている。





いずみんから一言。

本当なら11月にUPする予定だったお話の、1時間を独立させました。
ボジョレー・ヌーボーが19日解禁と聞いたらどうしても入れたくなって(笑)。
伊住の思いつくようなことくらい他サイトさまでも書いておられるでしょうが。
ま、それはそれとして(爆)。
中嶋氏が思いっきりニセモノなのは突っこまないで下さいねっ(平身低頭)。


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