みんなが君を想ってる |
それは1本の電話から始まった。 受けた男は電話を切ってしばらく考え、どこかに電話をかける。半日ほどで「ご指示の通りに手配しておきました」と連絡が入る。満足した彼は、そしてまた電話をかけた。 11月18日。よく晴れた日の朝。 「じゃあ行ってくる」 なーんてにこやかに言い置いて、中嶋さんは出かけて行った。中嶋さんが弁護士を目指すきっかけになった伝説の渉外弁護士チャンドラセガール・パージペーイの特別講義を聴くために。後ろ姿が見えなくなって、それから10数えてから、俺は深い深いため息をついた。これでほぼ確実に明日は留守になるからだ。つまり中嶋さんの誕生日を祝えないということだ。 中嶋さんは出発日が11月18日とはわかっていても、翌日が自分の誕生日だってことには気づいていないんだと思う。自分の誕生日に、書類に書き込む数値以上の意味を持ってない人だから。 ちなみに世界中の渉外弁護士を目指す学生が聞きたいというこの講義のプラチナチケットを射止めたのは当の俺。中嶋さんに俺の運の良さを見込まれて応募のページを送信した。だから今日のこの事態を招いたのは俺自身。誰にも文句は言えやしない。 あんなに喜んでいる中嶋さんを見るのが初めてだったので水を差すこともできず、日程が分かったときも出発するときも、俺は「誕生日なのに」とは言えなかった。でも落胆の表情を隠せたかどうかは自信がない。日本よりも暗いリビングの照明が俺の顔を隠してくれていればいいんだけど。中嶋さんを見送ったあとのため息の深さは、俺の我慢の深さでもあった。 これが他人事だったら「何で? 帰ってきてからお祝いすればいいだけの話なんだろ?」って言えるのに。お馬鹿な俺は中嶋さんが出かけてからというもの、俺は日に何度も「お祝いはいつでもできる。中嶋さんが帰ってきたその日が誕生日」「あんなに喜んでくれるプレゼントができたんだからこれ以上のものはなかった」と呪文のように繰り返して口にし、気がつけば中嶋さんが帰ってくるまでの時間を計算している。勉強や家事。することはいろいろあるはずなのに上の空というか、ほとんど手につかないし、やってもアタマに入ってない。かろうじて翌日の講義の準備ができている程度だ。 まあね。昨夜は勢いに任せてとんでもないこと言っちゃったし。「英明さんと呼ばせてください!」なんてよく言ったと自分で自分に感心してしまう。今ここに中嶋さんがいたとして、どんな顔して「英明さん」と呼べばいいのか。帰ってきた中嶋さんを前に本当に「英明さん」と呼べるのか。本当に自分でもわかってない。だからこの中嶋さんの不在は、神様がくれたインターバルなんだと思っておくことにする。 よし。前向きだ、前向き。いいぞ俺。……って、どこがだ? 慣れないアメリカの大学でも、なんだか話をする友達みたいのができてきて、今のところ一番親しいと言えるのがチャールズ・S・ブチンスキー。高校卒業してからインドを放浪してたとかですでに24歳になっている。一度つまらないことで助けてもらって以来と俺の保護者だと思っているフシがある。本人は「保護者?ダイマジンでしょ」と言ったけど、それを言うなら守護神だ。「シュゴシン?かっこいい。クールじゃないか!」だ、そうだ。何であれ気に入ってくれたんなら良かったけど。俺にはアメリカ人の喜ぶポイントがまだ もうひとつつかめない。黒髪でちょいぽっちゃり。ベジタリアン。日本人の俺には絶対食べられない青いアイシングのかかったカップケーキが好きだ。ロシア系なのに髪が黒いのは、代々イタリア美女を嫁さんにしてきたかららしい。中嶋さんがいない間は彼が大学までクルマにのせていってくれることになっている。行きたいところに自分で行けるようになるのが、俺の当面の目標だ。 みんなは彼のことを「ブッチ」と呼んでいるけれど、でも中嶋さんとの間での彼の呼び名は「トニー」だったりする。日本でも見ていたアメリカ海軍のドラマに出てくるトニー役の人とすごく似ているからだ。ちょっと眉の形が違うだけであとはそっくりだと思う。本人に言わせると「そうかなー?」だったけど。 脱線ついでに言っちゃえば、こっちに来ると確定したとき、このドラマの続きをすごく楽しみにしていたんだ。DVDをレンタルしてたらもしかしたら先の話もあったのかもしれないけど、俺はテレビでしか見ていなかったので。なのにテレビをつけてみてびっくりした。だって主役以外は1人しか知ってる出演者がいなかったんだもの。俳優陣ほとんど総入替状態だ。もちろんトニーもいなかった。日本で見てたのとの間でいったい何があったんだろう。むちゃくちゃ気になる……。 それはさておき。 トニーから「もうすぐ着く」というラインが入ったので、戸締りをしつこいくらい確認して下に降りると、ちょうど彼のおんぼろフォードが寄せてくるところだった。青くてバックミラーが鼻先についていて、ボディがところどころはげたりへこんだりしている。乗り心地は……。うん、まあ動いてるからいいんだよ。中嶋さんに見せたら絶対「乗るな!」って言うレベルだけどね。 助手席に女の子が座ってたのでうしろのドアを開けて乗り込んだ。 「モ〜ニ〜ン」としか聞こえない軽〜い挨拶をしてくれたのはトニーの双子のお姉さんアンナ・サウスウッドだ。現在、同じ大学のロースクールに在籍中。インドに行かずストレートで大学に入ったアンナは、つまり中嶋さんの先輩にあたる。面白いね。大学にはひとつの街くらいの学生がいるのに、姉弟が中嶋さんや俺と同じ学部にいるなんてね。 ふたりは二卵性だから顔はあんまり似てないのにぽっちゃり体型はまったく同じ。俺があげた「道頓堀」のTシャツがはちきれそうだ。トニーと違うきれいなブロンドは、中嶋さんの見立てによると染めているらしい。ただし真偽のほどは不明。 苗字の違うところは中嶋さん曰く「親が離婚して、それぞれに引き取られたんじゃないか」と言うことだったんだけど、離婚したのはなんとアンナの方だった。18で結婚して、半年ほど前に離婚したらしい。たしかに、離婚したって苗字を元に戻さない人はいる。でもこの年齢での結婚と離婚は、さすがの中嶋さんも想定の範囲外だったようだ。 「そういう状況があるというのが、渡米してすぐにわかったというのは収穫だ。おまえの友人関係に感謝するとしよう」 本心なんだか負け惜しみなんだかわからないコメントに、そのあたりがにじみ出ている。 そのアンナはすごい日本趣味があって俺とアニメの話をするのが好きだ。だからトニーが俺をピックアップするクルマに、アンナも乗ってきちゃうって訳だ。俺の見てないアニメの話をして、俺が知らないとわかると「ケイってホントに日本人なの?」と眉を顰めて見せるのが、彼女と会うときのちょっとしたお約束みたいになっている。 でも今日はそうはならなかった。俺がふたりに挨拶を返し、今日提出するレポートのことを聞きかけたとき、電話が鳴ったのだ。中嶋さんかと思ったが違った。成瀬さんだ。でもこんな時間から何だろう。コロラドで強化合宿中っていうのは和希からのメールで聞いてたけど。和希に何か? と、不安がよぎった。 「やあハニー。元気かい?」 「成瀬さん? ご無沙汰です。和希は元気ですか?」 「うん。朝からごめん。こんな時間からで心配させちゃったかな。ばりばり世界を飛び回って、飛び回りすぎちゃってる和希のことは、また夜にでも電話するよ。今は急ぎでお願いごとなんだ」 「お願いごと……ですか?」 「そう。海野先生がそっちですっごく困ってるらしいんだ。啓太の電話番号教えたから力になってあげてくれる?」 「それは……。俺にできることならもちろんかまいませんけど。海野先生ってこっちに来てたんですか?」 「うん。何かのシンポジウムだって。あとは夜にゆっくり話そう? じゃあね」 「シンポジウムって何のです? ねえ成瀬さんってば!」 うーん。なんだか一方的な電話だったなあ。でも成瀬さんもトレーニングが始まる直前だったのかもしれない。そう思うとあの慌ただしさも少しは理解できる気がした。 で、電話をかばんに戻したところで、振り向いてこっちを見てるアンナと目が合ったのだった。しまった、話の途中で電話を取って、ふたりを放りっぱなしみたいにしてしまっていた。 「ごめん。高校時代の友達なんだ」 先輩ってどう言えばいいのかわからなくてそう言ったのは全然どうでもよかったらしい。アンナは日本の漫画やアニメの女の子がよくするみたいに、グーにした両手を口元にあてて、目をきらきらさせている。 「ううん! 日本語の会話って、やっぱりクールだわ!」 「音の流れが独特なんだな。母音が多いからかな。繊細で、とても理知的だ」 「チャーもインドなんか行かずに日本にすればよかったのよ」 「日本の物価の高さは世界一のレベルだぞ? シブヤでメイド喫茶に行ったらもう帰って来なくちゃ」 このふたりが日本に来たとして、うしろからついて歩いたら面白いだろうなあと思う。英語版かけあい漫才だ。彼らと話してるおかげで、俺の英会話は格段にうまくなった。 「クルマにのせてもらってるお礼に、今度、日本のお茶をご馳走するよ」 「マッチャっていうのよね? 大学に教えに来てる日本人に聞いたわ」 「そうじゃなくて、煎茶っていうやつ。だけどその前に、今日のレポートについて教えてくれる? どこに提出すればいいのかよくわからなくて……」 成瀬さんの話ぶりとは裏腹に、海野先生からの電話はすぐにはなかった。かかってきたのはランチタイムになってからで、授業中だといけないからと、先生なりに気を使ってくれた結果らしい。そのとき俺の左右はトニーとアンナががっちり固めていて、朝の電話にあった「シンポジウム」という言葉から、どこで何をやっているのかを調べてきたアンナに話を聞いているところだった。 アンナがテイクアウトしてきたクラムチャウダーを配り、まずはそこにクラッカーを砕いて入れる。アンナ曰く「これが好きになったらボストンっ子」なんだそうだが、来る前から楽しみにしていた中嶋さんは、さしずめ生まれながらのボストンっ子なのかもしれない。 「研究者が集まるようなイベントはいくつかあったわ。どんな条件で絞り込むの?」 「うーんと。専門はわからないけど、高校では生物を教えてた」 「生物ね。だったらたぶんこれ」 クリアファイルからアンナが引き抜いたのは、どこかの財団のホームページをプリントアウトしたものだった。残念ながら辞書をひく余裕がなくて、何財団なのか何のシンポジウムなのかわからなかったけど。英語って日本語みたいに漢字をみたらだいたい意味がわかるってところがないから、こういうときにはちょっと不便。 「会場は……それほど遠くはないわね。困ってるのなら助けに行くことはできる」 「よかった〜。遠いとこだったらどうしようかと思った」 「でもこれ、すごくレベルが高そうよ? その人ホントに高校の先生なの?」 「うーん。でも前に恐竜を甦らせそうな5人の科学者って雑誌の記事で、5人の中に名前があったからなあ」 「それは……すごいわね」 「俺もぜひ会ってみたいからクルマなら出すよ」 「有難う。ふたりとも。助かったよ〜。でもアンナはすごいね。たったこれだけの時間でこんなに調べたんだ。CIAみたいだね」 「違うわ。私はFBI志望なの。入局志望者向けのセミナーにも何度か出てるのよ。今のところは好感触」 ……それはそれは。お見それいたしました。 海野先生からの電話はそれからすぐだった。 先生は「伊藤くん?」と言ったかと思うと、意外な、でも考えてみたらそれしかないかと思うようなことを言った。 「お願い、泊めて! できれば3日。だめなら今夜だけでもいいから〜。ソファがだめならリビングの椅子を並べて寝るから。お願〜い」 「泊めて……って、どうしたんですか!」 「僕、ボストンでやってる生物学のシンポジウムでパネルディスカッションに参加するんだけど」 「はい」 「ホテルが取れてなかったんだ。どこかで失敗しちゃったみたい……」 ああ……、と思った。舌の先をちょっと出して困った顔をしながら笑う海野先生の顔がありありと浮かんだ。海野先生らしいと言えば本当に先生らしい失敗だった。 「早朝の到着便で着いて、荷物預かってもらうのにホテルに行ったら予約が入ってないって言うんだ。満室ですって言われても納得できなくて。予約のプリントアウト見せたら、じゃあこのあとでキャンセルしたんだね、って」 「……まさかと思いますが、ホントにキャンセルしたわけじゃ……ないですよね?」 「しないよ〜」 「ですよね……(タメイキ)」 「それにね、本当だったら僕の出るのは明日の午前中のはずだったんだ。なのに来てみたら順番が入れ替わった、とかで明後日の夕方になってるし。帰国便の変更しようとしたら、日本行きの夜便設定のない日で、もう1泊追加になっちゃった」 「だったら最初の予約が取れてても最終日のホテルはなかったんじゃないんですか」 「……あ。そっかあ」 「……って、そこは考えてなかったんですね」 「うん。でも今日明日で帰っちゃう人もいると思うから」 たしかに。明日になったらほかの出席者さんとのコネでなんとかなるかもしれないし。それより今日寝るところがないっていうのは、すごい衝撃かもしれない。最悪、会場のロビーで寝るってことを考えても、セキュリティの関係で追い出されそうだ。 「今ちょうどそのシンポジウムと、地球温暖化の国際会議と、ジャグリングの世界大会とがあって、近隣都市含めてもうホテルの部屋なんてないらしいんだ。困っちゃって理事長に相談したら、成瀬くんが電話くれて、それで」 ああ、海野先生、ホントに変わってないなあ。そう思うとなんだかほっとした。学園に途中入学したころから考えると俺はすごく変わってしまってると思うから、海野先生のその変わらなさが心地いい。それによその国でぽつんとしてて、まだ自分で大学にも行けない俺が、ここにいるというだけで誰かの役に立てるというのは、逆にとても有難い思いがした。中嶋さんの傍にいる以外の理由をもらえた、みたいな。 「中嶋さん、今留守なんです。俺のベッドで良かったらゆっくり泊まっていって下さい。こっちの授業が終わった時間に合わせてもらえるなら、迎えにも行けますけど。どうします?」 この話にはもうひとつオチがある。 成瀬さんから電話をもらったあと、とりあえずメールだけ入れておいた中嶋さんに詳細を知らせておこうとした俺は、ちょっとした、でもすごく大きな失敗をやらかしてしまった。向こうが電話を取ったとたんに「あ、中嶋さん? 啓太です」と言ってしまったのだ。中嶋さんはそれに返事をしてくれなくて。理由に気づくまで、俺は何度「もしもし? 中嶋さん?」と繰り返しただろう。 ふと気がつき、言い方を変えてみる。 「もしもし、英明さん」 「どうした。何かあったか」 さっきと違ってすぐに返事が返ってきた。ぶっきらぼうな口調なのに温かく、そして優しい。耳元で紡がれる言葉の甘さときたら、まるで抱きすくめられでもしているかのようだ。見なくても分かる。中嶋さんは今、すごく優しい顔をしてくれている。そう。これが正しい呼びかけなんだ。「中嶋さん」なんて言っちゃいけなかったんだ。 「海野先生がホテルなくって困ってるらしいんです。今夜から泊まってもらいますね」 「海野先生が!?」 今度はすごく驚いた声をしてる。こんな声はじめて聞いた。どんな顔してるんだろう。これは見たかったなあ。 会いたいよ、中嶋さん。会って、顔を見て、それで「もういい、わかったから。うるさい」って言われるまで「英明さん」って呼びたい。電話の向こうで中嶋さんが海野先生のことを話してる。でも会いたい、英明さんと呼びたい、そんな気持ちが膨れ上がってしまって耳をふさいでしまったようだ。中嶋さんの声がただの音の塊として、耳の外側を通り過ぎていっている感じがする。膨らんで膨らんで、膨らんだ気持ちが一気に破裂したみたいな感覚に襲われ……、気づいたときには中嶋さんの話を遮っていた。 「会いたいです、英明さん。一緒にいられなくてすごく寂しい……」 「ああ……。俺もだ」 「こんなに寂しいのに我慢してるんですから、全開MAX300%で講義を聞いてきてください」 「ああ」 「きれいなお姉さんに誘われても、うんって言わないで下さいよ」 「ああ」 「でも、だからって窓の外見て、俺のことなんか思い出したら駄目なんですからね! 講義のことだけ考えてください。それから……」 「わかった。そろそろ講義がはじまるな。切るぞ」 「あ、はい」 「それから。啓太」 「はい?」 「……有難う。おまえがいなかったらこの講義は聞けなかった」 「……うん……」 「ちゃんとやっておきましたよ」 その連絡があったのは現地時間の当日未明。ぎりぎりではあったが、準備期間がほとんどんなかったことを考慮に入れるとこれは上出来の部類に入るだろう。それを待っていた彼は、相手が起きる時間を見計らって別の誰かにまた電話をかけた。こちらの返事は待つほどもなく返ってきた。 「やっておいたよ」 そして彼は最後の電話をかける。短く。一言だけ。 「やっておきましたよ」、と。 受けた男は礼は言ったが「何をしてくれたか」は聞かなかった。もちろんかけた方も「何をした」とは言わない。だが聞かなくてもできうるかぎり最上のことをしてくれたことは分かっていた。なぜなら誰もが啓太を大事に思っていることを知っているからである。 「手間をかけたな。礼を言う」 そうして何人もの手を経てきた作業のすべてがこれで終了したのだった。 |
いずみんから一言。 ボストンで生物学のシンポジウムがあるのを知った和希が、逢えたら啓太が喜ぶだろうという程度の軽い気持ちで海野先生の派遣。 そしたら中嶋が「自分が留守の間、啓太を一人にしたくない」と言ってきたので、石塚さんに命じて鈴菱がスポンサーしてパネルディスカッションをいくつか追加。初日のに海野先生を出させるよう画策したわけです。 招待状が発送されたところで今度は七条クンにホテルへのハッキングを依頼。海野先生の予約をキャンセルさせたり、周りのホテルが予約で一杯に見えるよう手を加えさせたりしました。それが全部できたので成瀬さんから啓太に電話をするように頼んだ、と。なんで和希が自分でしなかったのかは時差の関係になります。 以上、補足でした。 |
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