もう歩けない



 

 暗い道を歩いていた。

 パチンと乾いた音がして、頬が熱くなった。
 驚いて見上げたら、冷たい眼が俺を見ていた。
『・・・・・俺だって怒るんですから、俺だって、・・莫迦!!』
 大声上げて、泣きながら飛び出した。
 たぶん、これははじめての喧嘩なのだと思う。

 いつもは俺が拗ねて、一人で大騒ぎするだけだったから、本気の喧嘩、なんてしたことなかった。(それに俺が拗ねてても、面白がって見てるだけで、とりあってくれないから喧嘩にならないし。)
 だけど、今日は本気の喧嘩だ。多分はじめての喧嘩。
 ぶたれた頬が、ヒリヒリと痛む。だけどそれよりも心が痛かった。
「怒ってるよね。きっと。」
 とぼとぼと人気のない暗い道を一人うつむきながら歩く。
 きっと怒ってる。
 夜遅くに疲れて帰ってきて、それなのに、俺が勝手に怒って、勝手に大騒ぎして、そして勝手に部屋を飛び出したんだから、怒ってるに決まってる。
「雨降りそうだな。」
 街灯がボンヤリ灯るだけの道ばたに座り込む。足が疲れてしまってもう歩けそうに無かった。
「お腹すいた。」
 本当なら今頃は、ふたりでゆっくりご飯を食べて、のんびりしてる時間だった筈だ。
 今日の夕ご飯のメニューはビーフシチュー。和希が海外出張のお土産ってくれたワインに合わせて作ったんだ。母さんの特製レシピを見ながら、途中分からなくなって家に電話しながらコトコトコトコト煮込んだシチュー。我ながら美味しく出来てさ、嬉しくなってサラダとか色々作って帰りを待っていた。
『美味いじゃないか、お前の料理の腕上がったな。』もしかしたら褒めてくれるかも。そんな風に期待しながら、帰りを待っていた。
 二人でご飯をゆっくり食べて、ワインも飲んで・・・。あ、俺は弱いから一口味見するだけにしよ・・なんて思ってたのに。
 それなのに、現実はなんでこうなんだろう。
「・・・・怒ってるよきっと。」
 膝を抱えうつむく。涙が溢れそうだった。
「俺莫迦みたい。もうきっと許してくれない。」
 今部屋に帰っても、「何しに戻ってきた?」と冷たく言われるだけだ。そしてドアを閉ざされてしまう。
 俺、本気で怒らせてしまった。きっと。
「・・・冷たい。」
 ポツンと冷たいしずくが首筋に当たった。
「雨?」
 ポツンポツンと雨のしずくが落ちてくる。
「・・・・。」
 ゆっくりと、だけど確実に身体を濡らし雨が降る。
 だけど俺は立ち上がる気になれなかった。
 冷たい雨が、シャツを濡らし、髪を濡らしてもそれでも俺は動けなかった。もう歩けない。だってどこにも行くところ無い。
「・・・さん。」
 聞こえるはず無いのに、小さく名前を呼んで、そして思う。
 行くところが無い訳じゃない、帰りたいところはちゃんとあるんだ、でも帰れない。
 もしも本当に、拒絶されたら?本当に目の前でドアを閉められてしまったら?もしも、もしも・・・。
 もしも・・が恐くて、俺はここから動けなかった。
 本気で拒絶されるくらいなら、ここに朝までいたほうがどれだけましだろう。
 ヒリヒリと頬が痛む。そして心が痛む。

 ぶたれたのは初めてのことだった。
 何年も一緒に居てだった。つまりそれだけ本気で怒ったって事だ。
 割と攻撃的な正確だとは思うし、平気で敵を作る人だけど、でもあの人は、暴力で人を従わせようってタイプじゃない。
 今までも何度も(俺が意識しないうちに)怒らせてお仕置きされたりしてたけど、でもぶたれたのは初めてだった。
 そりゃ真性のサディストだと自分で言い切るくらい、性格は凄いけど、だから中嶋さんの機嫌を損ねた夜は、結構死にそうな目にあってたりするけど。それとコレは話がまるで違う。お仕置きと称して色々される行為は暴力とは違うって俺はちゃんと分かってる。たとえ他人が見たら、驚くような事だとしても、でもそれが中嶋さんの愛し方なんだって分かってるから、だから俺は十分幸せだった。
 愛されてるってちゃんとわかってるから、幸せだった。
 だけど、だけど・・・。
「きっともう許してくれない。」
 何年も一緒にいて、俺は今日、始めて本気で怒らせてしまったのだと思う。あんな冷たい眼のあの人を俺は見たことがなかった。
「ごめんなさい、俺、俺・・。」
 冷静になってみたら、怒るほどのことじゃなかった。どうしてあんなに哀しかったんだろう。どうしてあんなに嫌だったんだろう。
 ぶたれた時にすぐに謝れば良かったんだ。
 大声出して、部屋を飛び出すなんて莫迦なことしないで、ちゃんと謝って・・・そして・・。
 なのに、それなのに・・・。後悔してもきっともう遅い。
「ごめんなさい・・。」
 冷たい雨、だけど俺は動けない。もう歩く事なんかできなかった。
 雨が降る、暗い道を一人で歩くなんてもう出来ない。
 だって、帰れない。帰りたいのに・・帰る事が出来ない。
 膝を抱え、ただ泣く事しかできなかった。

「・・・まったく。」
 どれくらい此処に座っていたのか分からなかった。靴の中までずぶぬれになる位雨に濡れて、身体はすっかり冷えてしまっていた。
「まったく。お前みたいな莫迦今まで見たことないぞ。」
 そんな風に言われるまで、目の前に人が立ってることすら気が付かなかった。
「・・・?」
 聞きなれた声がした気がして顔を上げると、不機嫌そうに眉根を寄せ、息を弾ませた英明さんが立っていた。そして、
「いつまでそうしてるつもりだ?ん?」
 イライラとした声に、俺はビクンと身体を震わせると、ピンッと額を弾かれた。
「まだ強情はるつもりか?啓太?」
 しゃがみこみ、じいっと見つめる瞳は冷たくなんかなかった。
「だって・・。」
 探しに来てくれた?嘘・・・。
「だって?だってなんだ?言いたい事があるなら最後まで言えといつもいっているだろう?まだ覚えないのか?」
「だって、だって英明さん・・・怒ってるでしょ?」
 息を弾ませて、額に汗まで浮かべて、俺を探してくれてたの?
 ずっと、探してくれてたの?
「当たり前だ。」
「ごめんなさい。」
 言いながらそれでも立ち上がることが出来なかった。
 喉が詰まって上手く声が出せなかった。
「あれぐらいで、拗ねるんじゃない。莫迦者。お前何年俺と暮らしてると思ってるんだ?いい加減俺の思考パターン位把握しろ。」
 呆れたように溜息を付くから、つい意地を張ってしまう。
「三年七ヶ月と二週間です。」
「は?」
「だから、三年七ヶ月と二週間一緒に暮らしてます。」
「お前、まだ喧嘩売りたいのか?」
「喧嘩なんか売ってません。」
 売ってないけど、でも、でも・・。
「なら、ただの莫迦だなやっぱり。」
「酷いです。」
「酷いのはお前だろう?疲れて帰ってきて?飯も食わずに雨の中迎えに来た人間に向ってその態度なんてな。」
「・・迎え?」
 迎えって言った?聞き違いじゃない?
「鍵も何も持たずに飛び出して、どうするつもりだった?こんなところに座りこんで、誰に拾ってもらうつもりだったんだ?」
「そんなつもりありません。俺英明さんだけのものですから、誰かに拾ってもらったりしません。」
「ふうん?なら立て。」
「・・・。」
「どうした?」
「俺、怒ってるんですよ?」
 意地を張って言ってみる。本当に迎えに来た・・の?
「わかったわかった。」
 なのに、英明さんは機嫌良さそうに立ち上がると、唇の端を上げて笑う。
「なんで笑うんですか?」
「ふん、お前が莫迦だからに決まってるだろう?」
「莫迦、莫迦言わないで下さい。」
 どうせ莫迦だよ。そんな事言われなくたって分かってる!
「一度しか言わない。帰る気があるなら、立て。」
 その一言で、反射的に立ち上がってしまう。
「ククク。ほら、やっぱり莫迦だろ?お前は。」
「酷いです!」
 何年一緒に暮らしたって変わらない。英明さんはやっぱり意地悪だ。凄く凄く意地悪だ。
「そんなにびしょ濡れになって、熱出したって看病しないからな?」
「熱なんか出しません。」
「どうだか。ほら来い。」
 なりゆきで、一本の傘に入り歩き出す。
「英明さん。怒ってないんですか?」
「怒ってると言っているだろう?聞いてなかったのか?」
「でも、笑ってるから。」
 しかもこの笑い方って、機嫌の良いときの笑い方だ。鈍い俺だって何年も傍にいるんだから流石にその区別は付く。
「笑ってても、怒ってるぞ。」
「・・・怒らないで下さい。俺、英明さんに捨てられたら生きていけません。莫迦って言っても良いですから。嫌いにならないで。」
「そういうところが莫迦だっていうんだ。」
「え?」
「お前の指にあるそれは何のためのものだ?ん?ただの飾りか?それは何のための物なんだ?」
「結婚指輪です。ずっと一緒って約束の・・物です。」
「で?」
「だから、ずっと一緒なんです。俺離れませんから。」
「ふうん?」
 くしゃりと濡れた髪をかき混ぜて、そしてまたククッと笑う。
 なんか悔しいけど、それだけで幸せな気持ちになってしまう。
 なのに。
「だがな啓太?約束はあくまでも約束でしかない。」
 幸せな気持ちを踏みつけるかの様に、そんな事を言う。
「え?」
「離れるのは簡単だ。大声上げて出て行かなくても。それを外して俺に手渡せば良い。そしたらお前は俺から離れられるぞ。」
「・・・・追いかけてくれないんですか?」
 どうしてそんな酷い事、今言うんですか・・。
「しない。追う必要はないからな。」
 そんな・・。
「お前がそうした瞬間、俺はお前を殺してるだろうからな。」
「え?」
「お前が俺から離れる方法はただ一つだってことだ。」
 それって俺が死ぬ時って事?それがただ一つの方法?
「英明さんが先に死んじゃったら?」
「その時は、お前も連れて行く。」
「拒否権は?」
「あるわけなかろう?籍も入ってるんだ、墓の中まで一緒だ。」
「・・・・。」
 どうしよう俺、今凄く嬉しいかも。
「英明さん。腕組んで良いですか?」
「お前自分がびしょ濡れだって分かってるのか?駄目だ。」
「でも組んじゃいます!」
 むりやり腕にしがみつく。
「おい!駄目だって言っただろう?」
 って言いながら、そのままにしてくれてるから、俺は腕にしがみついたまま歩き出す。
「英明さん。俺死んでもあなたの傍に居ます。ずっとずっと。」
「当たり前だ。」
 当たり前・・・へへへ。嬉しい。
「へへへ。はい。・・くしゅん。」
「看病しないからな。」
「大丈夫です。はあ、お腹すきましたね。」
「・・・俺は食べたぞ。」
「え?」
「嘘だ。」
「も〜。」
 どうしよう顔が弛む。嬉しくってしかたない。
「英明さん。迎えに来てくれて嬉しかったです。」
「・・・・ふん。」
 ずっと一緒の約束、結婚の誓いをもう一度したみたいだ。
「・・・・・・。」
 じっと見つめられて首を傾げる。なんだろう、なんか嫌そうな顔してる?一瞬何かを言いかけて、やめてしまった。
「?どうしたんですか?」
「・・・・痛いか?」
 頬に触れ聞く。・・・え?
「え?」
「・・・・悪かった。」
 え?今なんて言ったの?あれ?
「ぶったりして、悪かったと言ってるんだ。」
 謝った?英明さんが・・・・。
「ええっ!!」
 思わず立ち止まり、大声を上げてしまう。
「なんなんだ。」
「だってだって、英明さんが謝ったりするから!!」
 そんなの出会ってから今まで一度だってなかった。
 今俺、幻の声を聞いた?え?本当に謝ったの???
「お前・・・・・。」
 はっ。まずい。
「だってだって・・悪いのは俺だし。俺ぶたれても仕方ない事したし、それにそれに・・・。」
 謝るなんて・・・喧嘩した事より、ぶたれた事よりショックかも。
「だから俺が謝ってるのは、暴力に対してだけだ。基本的に俺は悪くないからな。」
「・・・はい。」
「帰るぞ。」
「はい。」
 ああ、俺この人を好きになって本当に良かった。
 今更だけどそう思う。
「英明さん。」
「なんだ?」
「お墓の中まで俺、離れませんから。覚悟してて下さいね。」
 ずっと一緒に歩いていく。絶対に弱音なんか吐かない。
 心の中で誓い、英明さんの顔を見上げる。
「はん。覚悟が必要なのはお前の方だ。」
 にやりと笑って俺を置いてさっさと歩き出してしまった。
「英明さん!置いてかないで下さい。」
 慌てて追いかけ、また腕にしがみつく。
「置いていかれたくなかったら、しっかり付いて来い。」
「・・・はい。」
 一生付いていく。俺は覚悟を決めてうなずいた。

 その後、俺はしっかりと熱をだし、英明さんに怒られた。
「やっぱりお前は莫迦だな。」
 あの時、看病なんか絶対しないって言ってたのに、そんな嫌味を言いながら、英明さんはちゃんと面倒を見てくれた。
「英明さん優しいんだよ。」和希にこの話をしたら「優しいって云うのとは違うんじゃないか?」って苦笑いしていた

                                Fin
            
            
      なんだかなあ・・って感じになってしまいましたが。
      二人は一緒に暮らしてます。籍も入ってます。(養子縁組って奴ですね。)
      二人の中で暴力とSMは違うとちゃんと認識してるらしいです。             
      『初めて縛られてしたときより、さっきぶたれたほうがショックだった』って
      言葉を入れようかどうしようか悩んだのですが、あんまりなので止めました(^_^;)






いずみんから一言

あんまりなのでやめたという1行。入れても良かったのに、と思う。
でもやめてしまうところがみのりさまの持ち味なのだろう。

けんかをして啓太が飛び出して、中嶋氏が探しに行く。
あちこちでよく見るパターンなんだけど、何故か啓太の行き先は公園か
和希のところと決まっている。
でも汗をかくほど走り回ってくれたというのは、私はこのお話しか知らない。
みのりさまの中嶋氏はこんなにも啓太を大切にしている。

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