始 ま り    そして  古い地図




「坊や一人?」
 不意に声を掛けてきたのは、若い男だった。
「連れが居るように見えるのか?」
 誰が坊やだ。睨み付けながら答えると、男は気にした風も無く笑顔で頷いた。
「勿論居るように見えないから声を掛けたんじゃない?こんな時間に一人で‥あぁ、塾の帰り?」
「あぁそうだ。」
 塾の帰り、家に帰るにはまだ少し時間が早くて、繁華街のハンバーガーショップで適当に時間を潰していただけだった。
「で?俺に何か用?子供は家に早く帰りなさい‥とでも言いたいのか?」
 紙コップのコーヒーを飲み干しながら、目の前の男を見つめる。
 茶色く染めた長めの髪。片方の耳にだけ付けられた金色のピアスに、整えられた眉。綺麗な顔立ちだ、でも好みじゃないな、なんとなくそう思った。
「まさか、そんなの言える立場じゃないしね。なんとなく興味を持っただけ。
ね、君いくつ?中学生?」
「11。それが?」
 春休みに入ったばかり、始業式がくれば学年が変わる。背が高いせいか年令より上に見られることは多かった。年令の判断基準なんてそんなものなのだろう。
 それに自分でもランドセルが似合う外見だとは思ってはいなかった。
「へえ?まだ小学生?てことは?今度6年生?へえ?」
「何が言いたい?」
「ん−?大きく見えるなあって思ってね。」
「大きくってね。あんたは?幾つなんだよ。」
「28」
「ふうん?」
 他人の年なんかどうでも良かった。ただこの男から出されている妙な気配が気になって、相手をしていただけだった。
「で?何か用?」
「そうだなぁ。用というか‥君に興味があるだけと言うか‥。」
 穏やかな笑みを浮かべ、目の前に座りコーヒーを飲む。なにげない仕草になぜか視線が外せなかった。
「もし時間があるなら、少し付き合わない?それとも家族の方、心配しちゃうかな?」
「別に。家で夕食をとるかどうか、その連絡だけすれば何の問題ないけど?」
 実際子供の帰宅時間を煩く言う家では無かった。
 家に居るのは年の離れた姉と手伝いの人間達。親など家に居るほうが珍しい。
「ふうん?放任主義ってこと?」
「さあね。」
 この男は何を考えているのだろう?少しだけ警戒しながら、どうなってもいいか‥。と思う自分がいた。
 退屈な日常。
 平凡な学校生活に、居ても居なくても良いとさえ思える家族。クラスメイトとの上辺だけの会話。すべてに飽き飽きしているのに、子供の自分に出来ることは限られていて、それが余計に自分自身を苛立てていた。
 何かを壊したい。
 その衝動を押さえられなくなりそうな自分がいる。
 その壊したいと思うものが何なのか分からないまま、ただイライラと時を過ごしていたのだ。
「付き合ってもいいけど?あんた名前は?」
 誘拐。一瞬その二文字が頭をよぎって、すぐに打ち消した。この男はそういうタイプの人間じゃない。
「翔。飛翔の翔って書いてショウって読むの。」
「ふん?」
「君は?」
 危険な人間かそうでないかの区別は直感で分かる。
 こいつはそういう人間じゃない。
「俺か?俺は‥中嶋英明。」
 そう、こいつは俺に近い人間。たぶん‥そうだ。
「中嶋くん?ふうん?じゃ行こうか?」
 頷いて立ち上がる。どこに連れていかれるのか分からないまま俺は翔と店を出た。
平凡な日常に飽き飽きしていたから。頷いた理由はただそれだけだった。

「ここよ。このビルの地下。」
 狭い路地を抜け、着いた先は小綺麗なビルだった。
 翔に誘われるまま、狭い階段を降りて、大きなドアの横に飾り付けられた小さなプレート。黒地に金色の文字が浮かぶシンプルなデザインの看板を見つめる俺に、
「こういうお店って来たことある?」
 低く笑い問い掛けながら、翔はそのドアを開いた。
「あんた俺の年きいたばかりだろう?
 子供がこういう店に興味があると思っているのか?」
 半ば呆れて言いながら、店の中へと入り、それでも物珍しさに俺は視線を動かした。
 中央にある円形状のステージ。皮張りのソファーと低いテーブルがそれを囲むように配置されている。そして奥にあるバーカウンター。時間が早いわりにはもう複数の客が席に着いていた。
「でもなんか慣れてる感じがするんだけどね?大人の居る空間に慣れてるとでもいうのかな。違う?」
「さあな。」
 適当に返事を返しながら、今まで連れていかれた事のある店とは違う、独特な雰囲気を肌に感じていた。
「俺の年令でこういう店に来たことあるほうがどうかしてるんじゃないのか?」
 言いながら、父親の事を思い出していた。
 年に数回逢うだけの父親は、ごくたまに俺を酒の席に連れ出すことがあった。大抵は高級と称される会員制のクラブや老舗の料亭。一見さんお断わり等という看板を掲げた店が多かった。
 そんな、父の仕事関係の人間が愛想笑いを浮かべて座る傍で、父と息子の会話が弾む筈もなく、かといって父やその他の男たちのまわりにはべる女達に興味を持つわけでもなく、意味の無い退屈な時間を中嶋家の長男という仮面を張りつけたまま俺は過ごさなくてはならなかった。
 それは退屈で屈辱的な時間でしかなかった。
 まったく意味の無い無駄な時間を、半ば強制的に過ごさなくてはならないのだ。たかだか保護者と云う立場にあるだけで、あの男は俺の都合など関係無しに連れ回す。扶養されている立場の俺はそれに意義を唱える事すら出来はしない。たったそれだけの事がいつも不愉快で堪らなかった。
「どうしたの?」
「何が?」
「怖い顔をしてるから。」
「別に。くだらない事を思い出しただけだ。」
「くだらないねえ?学校の友達と喧嘩でもしたとか?」
 たぶん翔のほうが10センチ程背が高いのだろう。顔を覗き込むようにして翔がクダラナイ事を聞いてくる。
「するわけないだろう?そんなこと。」
「ふうん。喧嘩したりしないんだ。大人だねえ。」
 俺の言葉を聞き流し、くすくすと笑いながら店の奥へと翔は進んでいく。
「ちっ。」
 翔のからかいを含んだ物言いに、俺が少しだけイラツキ始めた時だった。
 店の中に低く流れていた曲が変わり、中央のステージにライトが灯されるとドライアイスの白い煙がその場所を飾り始めた。
「丁度いい時間だ。」
「?」
「ショーが始まる。クク。君は気に入るかな?」
「ショー?」
 聞き返して、隣に立つ翔と、客達の視線を浴びながらステージへと上がってきた2人の男とを交互に見つめ、俺はやっと気が付いたのだ、この店の独特な雰囲気の理由。
 それは‥。
「きっと君なら気に入ると思うよ?君は僕達と同じ匂いがするから。」
 始まったショーを端の席に座り観るように勧めながら、翔の声は興奮に色を増していった。

「同じ匂いだと?」
翔のその言葉を即座に否定出来る程の理由を、俺は見つけることが出来なかった。
 狭いステージの上で行われている淫らな行為。淫靡なライトを浴びながら、ドライアイスの煙にその姿を隠し、小柄な男は細い皮紐で体を拘束され、凌辱され喜んでいた。
 そしてその傍らに立つ日に焼けた男は、自らの行為に恍惚とし、その瞳はさらなる行為と刺激を求め、もはや無慈悲な神への捧げ物となってしまった哀れな男を前に、狂える神と成り果てていた。
 そしてその周りを取り囲むのは興奮し夢想する男達。
 日常とは異なる光景。けれど俺はそれらを嫌悪することもなく当然とばかりに受け入れていた。
 少なくとも、くだらない玩具にうつつを抜かし喜んでいる同級生達の傍に居るよりは100倍居心地が良く理解も出来そうだった。
同じ匂い、同類の気。
 そう、翔と出会った瞬間から気が付いていた。理由も分からずに気が付いていた。こいつは俺と同じものだと気が付いていた。
 俺とこいつは同じ眼をしている。普通に振る舞っていても分かる。平凡な日常生活を喜び受け入れる人間達とは、一線を引いてしか付き合うことなど出来ない境界線を知っている眼。
俺と同じ瞳と気を持つもの。それを俺は当たり前のように受け入れていたのだった。
「君ならどうする?あの獲物を、白い肌に紅い蝋燭を垂らそうか?それとも両足首に鎖を巻き付けそして‥。」
 興奮した瞳で翔は俺を見つめる。
 これは夢でも幻でもない、俺が望んだ現実。
 平凡な暮らしに飽き飽きしていた俺が望んだ非日常。
 級友とのくだらない会話も、当たり障りなく優等生の仮面を付け生きていた自分自身も存在しない世界。
「君はあれに嫌悪したりしはしないでしょ?あの苦痛に歪む顔に嫌悪したりしない筈。それよりも苦痛と恥辱に歓喜するあの顔をもっと見たいと思うでしょう?」
 翔の声が興奮に震えていた。綺麗な顔が悪魔のように残虐な行為を望んで震えていた。
 これは俺の顔だ。
 子供だから‥と見ない振りしていた、気付かない振りをしていた俺の本性。  だが気付いてしまえばもう見て見ぬ振りなど出来はしない。
「嫌悪?」
「そう、嫌悪。」
「嫌悪ね‥。」
 そんなものはどこにも存在していなかった。あるのは体の芯を熱くする何か。それだけだった。
 平凡な暮らし、変わらない日常。自分に都合の良い時にだけ俺の存在を思い出し、親だというだけで勝手気儘に俺を使う父と母。そして、それらすべてに嫌悪しながら優等生の仮面を付け当たり前のように受け入れつづけた俺。
「君なら理解できる筈、彼らの行いが、興奮の理由が分かる筈。君も僕と同じ人種だから。」
「同じもの、俺とお前が‥。」
 否定する理由を見つけることが出来なかった。どうしても出来なかった。
 あの光景、あれを見た瞬間、嫌悪するどころか俺は考えていたのだ、自分ならあの男をどうするだろうか?狂った神のように振る舞うあの男みたいな醜態を晒したりはしない。もっとスマートに、もっと冷酷に攻める。これ以上無いほどの恥辱に肌を震わせ、苦痛に怯え許しを請うだけの瞳を欲情の色に染めてやる。
 いままで知らなかった世界。だがそれをやれる自信があった、出来て当然という意識があった。
「ね?君ならどうする?」 耳元にささやく声が欲望に火をつけようとしていた。
「俺なら?」
 返事をしてしまえば、手を出してしまえば最後だ。今ならまだ引き返せる、今ならまだ戻れる。平凡な毎日に‥だが‥。
「そう、君。」
 だが俺はその毎日に嫌気がさしていた。
「君ならどうする?」
 くだらない子供の相手に飽き飽きしていた。
「俺、俺なら‥。」
 自分勝手な両親が疎ましくてしかたなかった。
「俺なら?なあに?」
 そして何よりそれを嫌悪しながらも、受け入れることしか出来ない子供の自分自身が嫌で嫌でたまらなかった。
「俺ならあんな男は相手にしない。あの程度じゃツマラナイだろう?」
 だけどそんな事はただの言い訳にすぎない。言い訳など必要ない。俺はもう自分が何者なのか気が付いてしまったから、だからもう知らない振りなど出来はしない。
「俺ならお前を相手にする。翔。お前をな。」
 驚き、瞳を見開く翔の顔を俺は睨み付けた。
 平凡な日常、そこへ戻るための道はもう閉ざされてしまった。いいや、戻れたとしてもそこへ戻る気などもうなかった。

「君が僕の相手を?」
「ああ、そうだ。」
 頷きそして見つめる。
 目の前の男。一回り以上も年上の、今日逢ったばかりの男。
「冗談が過ぎるね。さすが子供なだけの事はある。言っていい事と悪い事の区別が付かないらしい。」
 笑いながら翔は右手を軽く挙げ、近くに立っていた蝶ネクタイをした初老の男を呼んだ。
「オーナー?」
「シャンパンとグラスを2つ。」
「かしこまりました。」
 軽く頭を下げ、男は奥へと消えて行った。
「オーナー?お前が?この店の?」
「そう、ここは僕の店。」
「ふうん?」
「お待たせ致しました。」
「ん。一つは君の分だよ。」
「‥。」
 こいつのモラルはどうなってるんだ?
 グラスに注がれ出来た美しい気泡を眺めながら、さすがに戸惑っていた。
 こんな事言えた立場じゃないが、初対面の、しかも子供をこんな店に連れ込んで、酒まで勧めて、非常識にも程がある。
「お酒、飲めない?」
 面白そうに見つめながら翔はグラスをあおる。
「さあな。」
 出来ない?と聞かれ素直に、そうだ。と言える程出来た人間では無かった。そして道徳観念を他人に説く程野暮でもない。
「飲んだことないの?へえ?」
「これでも育ちが良いものでね。」
 実際酒の席で、父親がふざけて勧めるなんて事すらなかった。でもそれは道徳心からというよりは、単に親子間の状態が良いとは言えないだけだったのかもしれない。
 しらけた空気。父と共にいる時感じるのは、いつもそれだった。それ以外無かった。
「子供に素面でこんなもの勧めるなんて良い性格してるな。翔。」
 言いながらグラスに口をつけるとゴクリと飲み込む。アルコールの熱が喉を通り過ぎていくのがわかった。でもそれだけだ。
「くすくす。子供だね、そんな瞳を持っているくせに、なのに君は何の力もない子供。」
「ああ、そうさ。
俺はたった11年生きただけの小生意気なガキでしかない。それが今の俺だ。」
 言いながら見つめる。
 茶色く染めた長い髪。片方だけの金色のピアス。形の良い唇。細く白い顎のライン。綺麗な顔だと思う。街を歩けば、目立つだろう。だが俺の好みの顔では無い。ただ一つ、瞳の強い欲情の光以外は俺の気を引くものさえない。
「子供のくせに僕の相手が勤まるとでも?経験もなにもないガキが僕を満足させられるって?」
「それはお前の方だろう?お前の体はそんな大層なものなのか?もしかしたらあいつ以下かもしれないな。ククク。」
 ステージの上、恥辱に肌を染め官能に我を忘れ悶えるだけの存在となった男を指差す。瞬間、翔の瞳が光を増すのがわかった。こいつは俺と同じもの。それが良くわかった。
「僕は誰の前にも膝まづいたりしない、決して。それは僕がさせるべきことだから、僕の忠実な下僕達にさせるべきことだ。」
「今まではそうだったかもしれないがな、これからは違う。
お前はすぐに俺の前に膝をつき、許しを請うしかなくなる。何の力も持たない子供の俺に‥。」
クククと笑い、俺はグラスの中身を飲み干した。

「大した自信だ。その年でそこまで言い切られちゃ黙っている訳にもいかないかなぁ?」
 くすくすと笑いながら、翔はシャンパンを注いだ。
「君はなんてユニークなんだろう?この僕を膝まづかせる?子供の君が?」
 ユニークだ‥とぼそりと吐いた後、翔はグラスの中身を一気に飲み干して、そしてニヤリと笑ってみせた。愛想の良い笑顔よりこの顔の方が似合っている。これがたぶんこいつの本性なのだろうと気が付いた。
 綺麗なだけの笑顔よりよっぽど良い。そう思った。
「いいよ。やらせてあげる。出来るものならやってみれば良い。」
「その余裕がいつまで続くか見物だな。」
「‥部屋に行こうか。」
「どこへでも。」
 場所なんてどこでも同じだ。あのステージでも。
「楽しみにしてるよ。坊や。」
 ニヤリと翔がまた笑い。俺たちは店を出た。

※※※※※※

 店からそう遠くないマンションの一室が翔の部屋だった。
 シンプルなデザインの家具が配置され、人が住んでいるという気配すらない部屋。それが第一印象だった。
「何か飲む?」
「仲良くおしゃべりするために俺をここに連れてきたのか?」
「それでも良いけどね。君との会話は面白いから。」
 黒い皮張りのソファーに足を組んで座ると、翔はタバコに火を点けた。
「俺を面白いと言う奴は、お前くらいのものさ。」
「そう?」
 煙を吐き出しながら首を傾げる。
 この男は、何も言わず、こうしておとなしくしていれば、十分装飾品としての価値はあるのだと気付いた。
「そう。言っただろう?俺は育ちが良いんだって。
見た目どおり、真面目で堅物の優等生‥なんだよ俺は。」
 見た目はともかく、それが俺のポジションだった。
「似合わないねそれ。」
なのに、いともあっさりとそれを否定されては笑うしかない。
「似合う似合わないは関係ないだろう?」
「関係ない?そう?
君が?その雰囲気で?優等生?‥本当に?」
 不思議なものでも見るように俺の顔を見つめる。
 どうやら本当に疑っているらしい様子に、呆れると同時に怒りのようなものが心の中に現れ始めていた。
「お前人を莫迦にするのも大概に‥。」
「だって‥君みたいな目をした人間が優等生って信じられなくて。」
「目?」
「そう。くすくす。そんな目を持つのはね?狂った人間か、殺人者か、僕と同じ趣向の持ち主か‥。君は同類だとすぐに分かった。人を痛め付ける事で快楽を得る人間。精神的にも肉体的にも痛め付けて傷つけて、恥辱を与えることで快楽を得る。それが君と僕。」
 煙を吐き出しながら、うっとりとつぶやく。
「なのにそんな人間が優等生?大変だね君。ククク。子供は大変だ。」
こいつは俺を怒らせたいのか?挑発している?
「クク。来なよ。坊や。」
 タバコをもみ消し誘う。余裕の顔の中に欲情が見える。
「いいね、その顔ゾクゾクする。僕が奴隷志望の人間だったら即座に落ちるね。『ご主人さま』と崇め奉るかもよ?」
「ふざけるな。」
 翔の顔を睨み付け、力任せにソファーに押し倒す。
「怖い顔して。でも君にはその顔の方が似合うよ。優等生なんて道化は今すぐに止めた方が良い。」
「ご忠告は感謝して拝聴しよう。年寄りの発言は戯言でも尊重しないとな。」
口の端だけを上げ笑いながら、翔を裸にしていく。
白い肌、シャツを引き裂き両腕を縛り上げると不満の声があがった。
「ちょっ。」
「どうした?シャツを破いてくれるな‥とでも言いたいのか?生憎だったな。俺は初心者なんだ。好き勝手にやらせてもらう。」
 言いながらベルトを引き抜き、首に巻き付け金具で固定する。
「なにを?」
「首輪の代わりだ。ペットの躾の基本だろう?自分が何なのか、立場を教え込む。そうやって初めて躾けられる。」
「き、君‥。」
「最初に礼を言わせてもらおうか?翔。俺はな、気が付いてなかった、お前に挑発されるまで。」
「何?」
 白い白すぎる肌。背中から右肩に掛け彫られた蝶のタトゥ。黒地に鮮やかな紅の文様の蝶の羽。
 毒の色だ。そう思った。綺麗だからと手を伸ばし触れたが最後毒に侵される。
 翔の存在自体がそうなのだきっと‥毒の蝶。美しい肢体で男を誘い込み、毒で侵して喰らう。蔑み笑いながら骨の髄までしゃぶりつくす。
「俺は結構気が短いらしい。残念だったな翔。期待に答えてはやれないかもしれない。」
 だが、俺は違う。翔の毒に侵されたりはしない。
「お前を捕らえて、標本箱にでも飾ってやろうか?翔。それとも羽を引き裂いて二度と飛び回れないようにしてやる方がいいか?」
 捕まえた蝶の羽を興味本位で引き裂く、そんな真似はしたことが無かった。力のない弱い生きもの、そんなものには興味さえ無かった。
「え?」
「お前は、俺を怒らせたんだよ。翔。」
 手の中の蝶。鮮やかな模様の羽を持ち、自由自在に飛び回る蝶。
「なかじ‥ひっ。」
「だから遠慮はしない。当然だろう?」
 翔を組み伏せ見つめる。蝶の羽をピンで標本箱に止めるように、翔の両肩を押さえ付け、見つめる。
「中途半端な行為はつまらない。そうだろう?翔。」
 ニヤリと口の端だけをを上げて笑う。始めて翔の瞳に恐怖の色が見えた。

「‥はぁっ。も、もう駄目、これ以上‥おかしくなる‥ひっ!!」
 細い首を仰け反らせながら、翔が悲鳴をあげた。
「もうギブアップか?これ以上は嫌だと?」
 リビングからベッドルームに場所を変え、細い体を責め立てた。
 黒で統一されたベッドルーム。シーツやベッドカバーに至るまで黒一色の部屋。夜の闇のような場所で紅の蝶が足掻き悶えていた。
「クク。これで解放されるなんて思ってるわけじゃないだろうな?翔。
 それじゃあ俺が楽しめない。つまらないとお前も思うだろう?」
 別に何か変わった道具を使ったわけでは無かった。ステージの男が使っていたような蝋燭も鞭も何も使ってはいない。
 ただ手足を拘束し、分からせただけなのだ。どちらの立場が上なのか?という事を‥。そして服従の誓いをたてさせた。それだけだった。
「はぁぁっ。」
 刺激。
 屈辱的な言葉を浴びせられ、怒りに震えながらそれでも従う事しか出来ないという事。苦痛と快楽その二つを同時に感じる事。
 その刺激に翔の体は素直に反応していた。滑稽な程素直な反応だった。
「こんな子供に好きかってに玩具にされて、それでもこんなに感じるのか?翔?
こういうのは淫乱って言うんじゃないのか?」

 焦らして焦らして、そして翔自身が果てそうになる度に動きを止め、耳元にささやく。何度泣かれようがそれをただ繰り返した。
 動きたくても手足を拘束されたままではどうすることも出来ずに、翔はただ体をヒクヒクと震わせ耐えるしかなかった‥。
「う、煩い‥いい加減‥あっ!」
「いい加減‥なんだ?翔。まだこの首輪の意味が分かってないようだな。」
 細い首に巻き付けたベルトに触れる。
「ひっ。」
 短く声をあげ、翔は体を硬直させた。
 いつ止むのか分からない小さな苦痛。虫に刺された程度の弱い感覚の痛みを、目隠しをした状態で繰り返す。些細な痛みも快楽も、執拗に繰り返せばそれは強い刺激と苦痛に変わる。だから俺は、細く白い体を撫で上げ焦らしながら、翔が服従の誓いをたてるまで繰り返したのだ。
「後悔しているだろう?俺をここに連れてきて、こんなひどい目にあって‥。」
 強い刺激は体の芯を疼かせる。ゾクゾクする感覚。だけどそれだけだ。我を忘れ夢中になる程ではなく、どこか冷めた目でそれを観察する俺がいた。
「後悔?‥してない、してないさ。だから、だから‥あっ。あぁっ。」
 哀れな蝶はボロボロになった羽を黒い闇の中ではためかせながら果て、そして意識を手放した。
「‥‥。」
枕元に置かれていた翔のタバコに火をつけ、煙を吐き出す。
 タバコを吸う事も、同性を抱くのも初めてだった。
「何も変わらない‥か。」
変わらない、なにをしても、相手が男でも、女でも。なにも変わらない。
 実験を観察するように、反応を見るだけだ。感動もなにもない。ただ刺激的な行為が加われば少しだけ興奮する。違いはそれだけだった。
「俺はどこか壊れているのかもしれないな。」
 感情の欠如。初めて女を抱いたときも感じた虚しさを、また今感じていた。
 何をしても埋まらない心の中の隙間のようなもの。
 強い刺激は一時だけそれを忘れさせてくれたというだけだ。
「力をつけたら変わるのか?俺が無力な子供じゃ無くなれば‥。」
時折何かを壊したくなる。けれどその何かが分からずに、ただ退屈な日々を受け入れ過ごしていた。
 だけど変わらない、何をしても、どんな事をしても変わりはしなかった。
「くそっ。」
 たばこをもみ消し、裸のまま立ち上がりバスルームへと歩く。
 熱いシャワーを頭から浴びながら俺は、虚しさを、心の穴を埋めるなにかを探し続けていた。
 強い刺激をいくら繰り返しても埋まらない心の隙間。心が無いから虚しいのだ、人形遊びを一人している様なものなのだと、その時の俺は気付きもしなかった。



「少し時間を潰して、このまま塾に行くか。」
 翔の部屋を出て、俺は駅の切符の券売機を目指して歩いていた。
 昼を過ぎたばかりだというのに、なぜか券売機の周辺はかなり混雑していた。
 小さな子供特有の甲高い声が寝不足の頭に響くのを気にしながら、俺は財布の中に増えた一枚のカードをどうしようか‥と考えていた。


『なんだ?これは。』
 遅い朝食を食べ、部屋を出ようとした俺に翔が手渡したのは一枚のカードだった。
 黒地に金色の文字。
 店の看板と同じデザインのカード。書かれているのは店の名前と四桁の数字だけだった。
『うちの店の会員証。これを提示すれば、君一人でもあの店に入れる。勿論君からお金をとったりはしない。』
『今度は何を考えている?』
『何も。ただまた逢いたい。それだけ。』
『可笑しな奴だな。お前。』
笑いながら受け取って、財布にしまい部屋を出た。店に行くことはあっても、この部屋に来ることは二度とないだろう。そう思って部屋を出た。


「まあ、いいか。邪魔にはならんだろう。」
 駅のごみ箱に捨てようか、一瞬立ち止まり考えながら、必要になる日が来るかもしれない、そう思い直して歩きだした、その時だった。
「啓太!走っちゃだめよ!危ないわ。」
「大丈夫−!わっ。」
 女性の声に振り向くと同時に、何かがぶつかってきた。
「おい、大丈夫か?」
 ぶつかった反動で転んだのか、地面にしゃがみこんでいる少年に手を貸し立たせてやると、
「大丈夫‥です。」
 と大きな瞳を潤ませながら答えた。
「怪我でもしたのか?」
 いくつ位なのだろう?2、3年生位だろうか、くせのある明るい色の髪に大きな瞳の小柄な少年だった。
「お尻が痛い。」
「啓太!」
「お母さん。」
「すみません。大丈夫でしたか?啓太、お兄ちゃんにちゃんと謝ったの?」
 優しく服の埃を払ってやりながら、女が啓太を見つめる。
「あ!お兄ちゃんごめんなさい。あの‥痛かった‥えと、ですか?」
「気にするな。それに痛いのはお前だろう?」
 言いながら、腰を屈めてくせの強い髪を撫でる。
「僕は平気!へへ。」
「そうか。これから出かけるのか?」
「うん。お船を見てね。それから肉まん食べるの。大きいのを食べるんだよ。昨日テレビで見たの。」
「船?肉まん?」
「うん。お兄ちゃん食べたことある?おっきいの!木の蓋を開けると沢山並んでるんだよ。」
 ほんの少し前まで涙ぐんでいたのが嘘のように、少年の表情が変わる。
「木の蓋?蒸籠の事か?」
「セイロ?」
 きょとんと首を傾げ、母親を振り替える。
「昨日テレビで中華街を特集しているのを見ていて、どうしても大きな肉まんが食べたいって。ね、啓太。」
「だって−。美味しそうだったんだもん。それに春休みになってからどこにも行ってないんだもん。お母さんとお出かけしたかったんだもん!」
「そうね。」
 頷き笑う親子を不思議な気持ちで眺めていた。そして駅の混雑の理由にやっと気が付いて苦笑した。
 学校が休みだから、親子で出かけよう。そういう連中で混んでいたのだ。自分がそんなことをした記憶が無いから気が付かなかったのだ。
「お兄ちゃん?」
「なんだ?」
「お兄ちゃんも一緒にいこう?一緒に肉まん食べようよ。」
 上着の端を両手で掴んでじっと見上げる大きな瞳に戸惑ってしまった。
「は?」
「駄目?」
 駄目も何も‥そんなものに付き合う義理はないだろう?
「悪いがこれから用事があるんだ。」
「そうなの?どうしても駄目?」
 一言でしゅんとしてしまう。本当に表情のよく変わる子だ。こういうのが近くに居たら退屈はしないだろう。らしく無いことを考えながら、鞄の中からノートを取り出した。
「駄目だ‥その代わり、地図をかいてやる。」
 こいつにしょぼくれた顔は似合わない。どうせなら笑顔のまま別れたい。なぜかそう思った。
「地図?」
「そうだ、お前が言った蒸籠に大きな肉まんが沢山並んでる店だ。観光客相手の店じゃない、小さくて古い店だがな。味は保障する。」
ノートの切れ端に地図を書くと母親に手渡す。
「ありがとうお兄ちゃん。」
 やっと笑顔になった。やっぱりこの顔の方が似合う、そう思いながら髪を撫でた。
「もう走って転ぶなよ。」
「はあい。」
 手を振りそして別れる。束の間の出会い。
 二度と逢うことはないだろう、俺とあの子に接点などは無いのだし、住んでいる場所さえ遠く離れているに違いない。だからもう二度とあの子供に逢うことはない。
 どうしてだか別れるのが辛くて、追い掛けたい衝動を必死で押さえて二人を見送った。
 小さな背中が人混みに消され見えなくなるまで、ずっとその姿を見送っていた。


 啓太と呼ばれたその少年が、何年か後に『俺の心の隙間を埋める何か』になろうとは、この時は思いもしなかった。
(2006/01/30(月)〜2006/02/05(日)の日記に掲載)

           Fin

※※※※※※※※※※※※
中嶋さんの年令が低いのはどうなんでしょう?と話を書く前に悩んだのですが、これ以上年令があがると、この方は自分を無力な子供とは言わない気がするので、仕方ないかな?と思いつつ。よく考えたら変声期前かもしれない‥とちょっと嫌な想像してしまいました。子供の甲高い声でしゃべってたら嫌〜(>_<)きっと中嶋さんは色々発育が早いので、(でないと話自体成り立たないし)声変わりもしてる筈‥と思い直してみた訳なのでした。
中嶋さんの最初の相手は女性かな−?相手は女医さんあたり?と思いながら書いてました。





古い地図

 日曜日の午後、のんびりと昼食を取った後リビングでくつろいでいた。
「英明さん今晩何が食べたいですか?」
 テレビを見ながらメモ用紙になにやら書き込んでいた啓太が突然顔をあげ聞いてきた。
「お前いま昼飯食べたばかりだろう?
それはなんだ?夕食の献立でも書いてたのか?」
 からかいながら見つめると啓太はプッと頬を膨らませこう言った。
「違いますよぉ。いくら俺だって食べたばかりですから、お腹すいてたりしませんよ。これは、後で買い物に行くからそのメモを書いてたんです。」
 ひらひらと右手に紙切れをひらつかせ、じぃっと見つめる。
「なんだ?」
「買い物。沢山あるんです。結構重いかも。」
「わかったわかった。車に乗せていけばいいんだろう?」
「へへ。はい。」
 歩いて5分のところに大きなスーパーがあるというのに、「あそこは品物が好きじゃないんです。」等と言って、休みにマンションからだいぶ離れたところまで買い出しに出掛けようとするから、自然と日曜の午後は車で出かける事が多くなった。
「へへ。あと何かあったかな?あ、そろそろコーヒー豆も買わないといけないかも。英明さん、豆いつものでいいですか?何か違うものにしましょうか?」
「それは明日俺が買ってくるから、今日は良い。」
「じゃあ、お願いしてもいいですか?じゃあ豆は無し、あとは‥。」
 何が楽しいんだか、啓太は嬉しそうに紙に書き込んで、そして突然「あ。」と声を上げた。
「どうした?」
「え?あ、あの‥テレビのあれ見たらちょっと思い出した事が‥。」
「テレビ?」
日曜日の昼間のテレビが面白いものがやっている訳がない。たまたまつけていた番組は、グルメ番組と言われる類のもので、横浜の中華街を映していた。
「なんだ?」
「英明さん中華街詳しいですか?」
「まあ歩くのに困らない程度にはな。」
「俺ね、小学生の頃に母さんと一度行ったことがあるだけなんです。」
「二人で?」
「はい。父さんは妹と家にいたのかな?よく覚えてないんですけど。」
「ふうん?」
「早起きして電車に乗って、中華街で大きな肉まんを買ってもらって、食べながら、母さんに手を引かれて歩いたんです。それで‥あ、ちょっと待ってて下さいね。」
 突然立ち上がり自分の部屋に走っていくと、黄ばんだ紙を持って戻ってきた。
「なんだ?それは。」
「この店にまた行きたいなぁって。」
 見せられたのは、鉛筆書きの簡単な地図だった。
 ノートかなにかを破って書いたのだろう。字がだいぶ薄くなってはいるが読めないことは無かった。
「中華街に行くときに知り合ったお兄さんが書いてくれたものなんです。背の高いお兄さん。高校生位だったのかな?」
「ふうん?」
 啓太の話で昔、そんな事を自分もした事があったのを思い出した。
 あれはいつだっただろう?春休み‥そうだ翔と初めて逢った時だ。
 あいつの部屋からの帰り道に、店の地図を書いてやった。小さな男の子に。
 はっきりと顔は覚えていないが、大きな瞳の、表情がくるくるとよく変わる人懐こい少年と優しそうな母親だった。
「優しいお兄さんで、俺が蒸籠に並んだ肉まん!って騒いだからこの地図を書いてくれたんだよって。あ、これはだいぶ後になってから母さんに聞いたんですけどね。」
「そうか。」
 なんだろう?この感覚は。大事なことを忘れてしまっているようなこの感覚。
 地図。少年。母と子。なにかを思いだせそうで思い出せない。
「でね、この店なんですけど。分かりますか?だいぶ昔の地図だし、目印のお店も変わってるかもしれないけど。」
 啓太が指差した店は、よく知っていた店だった。
「残念だったな。もうこの店なら無い。」
「つぶれたんですか?」
「経営してたのが年寄り夫婦で、だいぶ前に亡くなったんだ。」
 数年前まで家に帰るたびに立ち寄った店だった。気の良い老夫婦が営む小さな店。子供の頃、なにかの折りに立ち寄ってから何度も通った場所だった。
「そうなんだ。そういえば、お婆ちゃんがお店にいたような‥。」
「観光者相手の派手な店とは違って、古くて地味な店だったが、美味いものを作ってたんだがな、仕方がないな。」
 こんな偶然あるのだろうか?路地裏の地味な店。子供に書いてやった地図。
「そうですか。」
 しょんぼりと啓太がうなだれる。
「‥支度しろ。」
「え?」
「あの店ほどじゃないが、美味いところにつれていってやる。」
「え?ええっ?横浜ですか?今から?」
「付いた頃には適当に腹もすいて、飲茶に丁度いいだろう?」
「え?あ、はい。へへ。」
 偶然の一致なのか、それとも啓太が本当にあの時の少年なのか、確かめるすべは無い。
 けれど、
「へへ、嬉しいです。英明さん。」
 今傍らにこの笑顔があるのだから、それで十分だと思う。
「あ、横浜と言えば‥あの−。」
「なんだ?観覧車なら乗らないぞ?」
「なんでわかるんですか−?ちえっ。」
「あんなもの。時間の無駄だ。」
「時間の無駄‥‥。へへ。」
「なんだ?」
 なんで時間の無駄と言われて嬉しそうなんだ?
「英明さん、買い出しに付き合ったり、俺と出かけるのは時間の無駄って思わないんだって思って。
それに、仕事で疲れてるのに面倒だ。とかも言わないですものね。
なんか嬉しくって。」
 そういう事か‥。ったく、こいつは。
「‥思っていいなら出掛けるの止めるぞ。」
「え?駄目です!そんなの嫌です−!すぐに用意しますから−!」
 慌てて部屋に駆け込んでいく啓太を笑いながら、俺は車のキーをポケットに入れた。
(2006/02/06(月) の日記に掲載)

            Fin  

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啓太くんと中嶋さんが小さい頃出会ってたらいいな。と思いついて、この話を書いたのです。二人とも覚えてなくてもいいから、ちょっとだけ偶然の出会いがあったら、すごく縁が深い感じがするよね−(⌒_⌒)と思った訳です。
ですが、これだけだとなにがなにやら‥という気もしたので、「始まり」にこの地図を書いた理由の方を書いてみたのです。


いずみんから一言

それまで、 「 内容 」 という意味ではなく、 「 文章 」 として甘いものしか書かなかった
みのりさまが、この 「 始まり 」 で一転した。
まるで古い衣をかなぐり捨てるような変り方だった。
この人はこんな文章が書ける人だったのか、と、認識を新たにしたのを覚えている。
そういう意味で 「 これはみのりさまのベスト・ワンですね 」 と感想を送ったら
それを覚えていてくださったのか、最後のお手紙で、これをわたしに託された。
大切に預からせていただきたいと思う。

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