耳掃除してあげる





「あれ?臣さん耳、どうかしたんですか?」
 お味噌汁のおわんを右手に持ったまま、きょとりと啓太が見つめるから、苦笑しながら答えた。
「ええ、さっきシャワーを浴びたとき、耳にお湯が入った気が・・。」
 食事の前に慌ててシャワーを浴びてから、食堂にやってきた。
 お湯が入ったような感じがして「嫌だな」と思いながらも、啓太との約束の時間が迫っていたので、なんとなく耳の中が気持ち悪いまま、慌てて来てしまったのだけど、やっぱり気になって、つい触ってしまっていたらしい。
「え?大丈夫ですか?」
「ええ。少し気持ちが悪いですけど。」
「そのままにしてちゃ駄目ですよ。中耳炎になっちゃいますよ。」
 心配そうに啓太が見つめる。形のいい眉を寄せて、僕の好きなちょっと困ったような顔をして見つめる。
「ありがとうございます。後でちゃんとしますから。」
 こんな些細なことでも、啓太の関心を引く・・というのはなんて気持ちがいいんでしょうね。
 そんな事を思いながら、にっこりと笑うと啓太は「かならずですよ?」と小さく言った。
「それよりも今日は宿題は大丈夫ですか?」
「急ぎのはないですけど。週明け提出のがひとつ。」
「じゃあ、食べ終わったら啓太の部屋に行きましょうね。」
「いいんですか?」
「もちろん。」
 啓太の勉強を教える権利は僕のものですからね。当然ですよ。
「ありがとうございます。」
「じゃあ、早くご飯を食べてしまいましょうね。」
「はい。あ、あとでちゃんと耳・・。」
「はいはい。忘れてませんから。」
 にっこり笑う。啓太の前では作り笑いをしなくなった。いつの間にかそうなっていた。
「約束ですよ?」
「ええ。」

**********

「はい、臣さん。」
 部屋に入るなり、啓太は小さな箱を取り出して僕に手渡した。
「なんですか?」
「綿棒です。」
「綿棒・・?ああ。」
 律儀に啓太は僕の耳を心配しているらしい。
「ありがとうございます。」
 その心配が嬉しくて、にこにこしながら箱のふたを開くと、いろんな種類
のものが箱の中に収められていた。
「え?」
 世の中の人はこんなに沢山の種類の綿棒を使いこなすものなのでしょうか?
「なんですか?臣さん。」
「いえ・・一本頂きますね。」
 先が丸くなっている大きなマッチ棒みたいな綿棒を一本もらって、耳の中をくるくるとしながら、啓太に尋ねる。
「啓太?」
 あれ?なんでそんなに離れてるんでしょう?
すこし離れた位置でじいっと見ている。なんだか変な感じですよ。
「はい。」
「これ・・全部使うんですか?」
 使い終わった綿棒をごみ箱に捨てながら尋ねる。
「全部?」
「ええ。こんなに色んな種類・・。」
 初めて見た気がしますよ?綿棒って一種類じゃなかったんですね。
「つかいますよ。この先の丸いのは、水分がとりやすいんです。お風呂の後に使うんです。で、こっちの溝が付いてるのが・・・。」
 指を指しながら説明してくれる。先に粘着剤が付いているもの。溝が付いてるもの。薬をつけて掃除をするためのもの・・。
「ね、使うでしょ?」
 使うでしょって・・・。そんなにこだわるものなんですか?あれ?
「これ・・啓太の耳掃除セットなんですか?」
「ええ。俺、小さい頃中耳炎によくなってて、だから耳に水が入るのって凄く怖くて。
痛いんですよ中耳炎って、なったことありませんか?」
「ないですね。僕はもともと体が丈夫なんですよ。」
「いいなあ。俺もそんな弱いほうじゃないですけど、中耳炎はね、風邪引くとすぐになるんです。」
「大変なんですね。」
「だから耳掃除するの癖になってて。綿棒も見たこと無い種類があるとつい買っちゃうんです。」
 へへへ。と照れながら説明する。その説明は分かるんですが・・・大事なものが入ってないですよね?
「啓太?耳かきは?」
「え?」
「耳かき・・持ってないんですか?」
「あ・・あれ苦手で。」
「苦手?」
「笑いませんか?」
「ええ。」
「俺ね、耳かきが怖いんです。」
「え?」
「小さい頃、近所の友達の家で遊んでて、友達のお父さんが縁側で耳掃除してたんです。」
「はい。」
「そしたらね、洗濯籠を持ったお母さんがその後ろを通りかかって、ちょっとぶつかったんです。お父さん腕に・・ごんっって洗濯籠があたって。」
「ええ。」
「そしたら『ぎゃ!』ってお父さんが叫んで・・あの・・。」
 あれ?震えてませんか?
「耳に・・・あの・・耳かきが刺さって・・。」
「え?」
 耳かきが刺さる?
「それですぐに病院に行ったら、鼓膜が破れてて手術することになって・・。」
 そんな話聞いたことないですよ?
「痛そうな話ですね。」
「凄く凄く痛かったって後から聞いて。俺それから怖いんです。耳かき・・ええと耳掃除が怖くって。でも中耳炎も気になるから・・いつも嫌々やってるんです。」
 成る程、それでさっき離れてたんですね。
「変でしょ?」
「そんな事ありませんよ。目の前でそんな事があったら怖くなって当然です。」
 困ったように笑う啓太の肩を抱きしめながら、優しく髪を撫ぜる。
「臣さん・・。」
「トラウマって奴ですよ。誰にだって一つや二つそういうものはありますよ。」
「そう・・ですか?」
「ええ。でもそのうち平気になりますよ。大丈夫。」
「なるかなあ?お母さんにやってもらうのは平気だったんですけど・・。」
 そうか、小さな頃ってお母さんが耳掃除してくれたりするんですね。僕は経験ないですけど・・。
 お母さんなら平気・・。それは啓太がお母さんを信用しているから・・ですよね。
「ああ、そうだ。試しに僕にさせてくれませんか?」
「え?」
「耳掃除。」
「ええっ??」
「駄目でしょうか?怖いですか?」
 やっぱり母親への信用と、僕への気持ちは違うのでしょうか?
「でも・・・。」
「絶対怖いことしません。僕を信用してくれませんか?」
「・・・・信用・・。」
「ええ。」
「・・・・・・でも・・・・う・・・・・。」
「僕が啓太を傷つける訳ありませんよ。ね。」
 頷いて欲しい。小さな小さなことだけど。受け入れて欲しい。
「は、はい。」
 恐々と啓太がうなずく。泣きそうな顔で・・頷くから、嬉しくなる。
「じゃあ、こっちへ・・」
 ベッドの上に座り、膝をぽんとたたくと、啓太はおとなしくベッドに横になり、僕の膝に頭をのせてきた。
「臣・・さん?」
「大丈夫ですよ。」
 にっこりと笑うと啓太はやっと安心したように「お願いします。」と小さな声で言うから。
 さっきと同じ先の丸い綿棒を一本手に取ると
「始めますよ。」
 と声を掛けた。
「は、はい。」
 頷く啓太の耳にそっとそっと綿棒を入れ、くるくると周囲を拭う。
「大丈夫・・でしょ?」
「はい・・・あの・・・はい。」
「トラウマってね、同じことを怖くないって体が覚えれば怖くなくなるものなんですよ。」
「本当ですか?」
「ええ。」
 口から出任せを、さも本当のように言いながらゆっくりと綿棒を使う。
「はい、反対側も見せてくださいね。」
 僕自身が小さい頃、母にさえされたことの無かった行為を、恋人にしてあげるってなんか変な感じですね。
「はい。」
「大丈夫僕を信用してくださいね。」
 この気持ちはなんていうのだろう。
「はい。」
 膝に乗せられた、啓太の頭の重みが嬉しい。
「臣さん・・・。」
 こんな些細な行為が嬉しい。
「はい。もうちょっとですよ。」
 怖いと言いながら、僕を信用して任せてくれた事が嬉しくてたまらない。
「臣さん・・・なら怖くないです。」
「はい、終わり・・・え?」
 今なんて言いました?
「あ、ありがとうございました。」
 体を起こし、ふにゃりと笑う顔をじっと見つめてしまう。
「啓太?」
「変ですね、自分でやるのもいつも嫌々だったのに、臣さんにやってもらって・・そんなに怖くなかったです。信用してって言ってくれたからかな?」
「・・・。」
 なんでしょう・・・。顔が・・・顔の筋肉が言うことをきかなくなっちゃいましたよ?
「臣さん?」
「啓太?」
「え?」
「そんな事言って、僕を調子に乗せないでください。」
 なんでこんな些細な事が嬉しくて仕方ないのでしょう?
「臣さん?」
 顔の筋肉が勝手にゆるんでしまうじゃないですか。
 作り笑いは得意なのに、ポーカーフェイスも得意なのに。
「あの?俺変なこと言いました?」
「いいえ。なぜですか?」
「だって臣さん笑って・・。」
 不思議そうに啓太が見つめている。
「僕は本当は凄く単純なのかもしれませんね、啓太。」
「え?」
 ふわりと啓太の細い肩を抱きしめながら、耳にささやく。
「こんな小さな信用が嬉しいなんて。僕は単純ですね。」
「小さな信用?・・・え?小さくないですよ!俺にとっては一大決心ですよ!」
「分かってます。怖かったでしょ?」
 他人にとっては些細な行為。でも嫌いな人間にとっては大事なのだ。どんな行為だってそう。
「だから嬉しかったんですよ。啓太。」
 怖がりながらも任せてくれた。そうして怖くなかった・・と言ってくれた。
 それは僕と啓太の間の信用の証だと思う。
「啓太が信用してくれたから、嬉しかったんです。」
 どんどん距離が近づいてくる気がする。小さな小さな行為が積み重なって心が近くなっていく気がする。
「だからね、啓太。また僕に耳掃除させてくださいね。」
「え・・・ううう。はい。」 
 腕の中で小さく啓太がうなずいた。
「約束ですよ。」
「はい。」
 啓太がこくりと頷くから、僕の頬はまた盛大にゆるんでしまった。
『耳掃除してあげる』こんな行為が嬉しいなんてね・・啓太。僕はなんて単純なんでしょう?
 絆が深くなる。どんどん距離が近づいてくる。それがこんなに嬉しいなんて。
 なんて僕は単純なんでしょう。ね、啓太。
 でもいつか・・もっともっと僕たちの絆が深くなったら・・・。
「ね、きっといつか・・。」
 啓太のひざに頭を乗せて、そうして子供のようにされてみたい。
「臣さん?」
「ふふ。啓太大好きですよ。」
 言いながら耳たぶを甘く噛んで、勝手に小さな約束を取り付ける。
 ねえ、啓太いつか僕に耳掃除してくださいね。
                                
                                Fin

耳の鼓膜が云々・・は、実はみのりの実体験です。
目の前で友達のお父さんの耳にブスリ・・と耳かきが刺さったのです。
しかも刺さった角度が悪かったらしく、耳かきの先が中で折れてしまって
手術して取ったのです。その時のお父さんの悲鳴がとてもとても
怖かったのです。
まあ、啓太君のように耳掃除恐怖症にはなってませんが・・。




いずみんから一言

これを読んでいて子供の頃を思い出した。
母親の膝に頭をのせて、耳掃除をしてもらうのが好きだった。
耳掃除恐怖症にならなかったみのりさまは、彼氏の耳掃除を
してあげたのだろうか。
幸せだったときを思い出させてくれる1編である。

それにしてもみのりさまは面白い体験をいろいろしているな……。

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