ありがとうの水





 真夜中、啓太の部屋の冷蔵庫からミネラルの瓶を取り出した。
「和希〜。俺も水飲みたい。」
 ベッドの中で、毛布に包まりながら、啓太が少し掠れた声で言うから、ついつい笑ってベッドに戻る。
「何笑ってんだよ。」
「いいや。」
 土曜日の夜。仕事も無くて、ゆっくりと二人っきりの夜。
「和希、服何か着れば?」
「いーの。あとでシャワー浴びるから。」
 毛布の中に戻って、啓太のまだ熱い身体を抱き寄せながら笑う。
「水。頂戴。」
 啓太は大人しく腕の中に納まりながら、ミネラルを取ろうとする。
「じゃ、お望みどおり。」
 笑いながら口に含んで、啓太に。
「・・・・コクン・・・・・・。」
「美味しい?啓太?」
 飲み切れなかった水を、ぺろりと舐めながら見つめると、啓太の頬が赤く染まっていた。
「口移しの必要はどこにあるのかなあ?和希?」
 なんだか照れたようにプンと膨れながら、啓太が言うから、俺はクスクスと笑ってしまう。
「あるよ。理由はあるよちゃんと。」
 キスしたいっていう理由がね。あるんだよちゃんと。
「無いと思うけどなあ。和希がエッチってだけだろ?それにしてもぉ。身体がだるい。疲れたよお、和希ぃ。」
 身体の力を抜いて、啓太が寄りかかってくるのが嬉しくて、ぎゅっと抱き締めてしまう。啓太に甘えられるの大好きなんだ。本当に大好き。
「ふふ・・・啓太。」
「和希・・へへ。あったかい。」
 甘えっこだよな。
 いつもは強がり言ったり、俺のこと『おやじ』ってからかったりしてるくせに、たまにこうやって全身で甘えてくれるのが、何より嬉しいって、啓太は知らないだろうな。
「ん〜、冷たい。」
 ゴクゴクと喉をならし、飲み込んで、そうしてふと気が付いた、ボトルに書かれた文字。
「ありがとう?」
 啓太の文字だ。油性ペンで『ありがとう』って書いてある。
「なにこれ。」
「え?・・・・あの・・・笑わない?」
「笑う?」
「なんか、家で、いつもそれが書いてあってさ・・。」
「ミネラルに?」
「うん、水にも、麦茶にも、ジュースにもだからつい書いちゃうんだ俺。なんか無いと淋しいって言うか・・。」
「ありがとうって?なんで?」
「よく知らない。ありがとうって言葉が良いのよって母さんは言ってたけど。俺は意味がよく分かってないんだ。」
「水に良いって事?」
「うん、綺麗な水になるんだって。」
「ああ、そう云うことか。」
 意味がやっと分かった。
「啓太のお母さん面白い事知ってるね。」
「え?和希も知ってる話なの?」
「うん。」
「どんな話?」
「水はね、周りのことばに敏感なんだって話。簡単に言うとね。」
 啓太の腰を抱き寄せて、癖の強い髪を優しく撫ぜながら話す。
「え?」
「ありがとうって綺麗な言葉だと思わない?」
「そりゃ・・・感謝の言葉だし。」
「じゃあ、バカヤロウ・・は?コロス。ウザイはどう思う?」
「・・・?」
「ある実験をしました。一方のミネラルの瓶には、ありがとう。もう一つの瓶には、ばかやろうと書いた紙を貼りました。さてどうなったでしょう?啓太わかる?」
「え?色が変わったとか?」
「水だからね、そんなのは流石にないよ。」
「じゃ、なに?」
「結晶が出来たんだ。ありがとうの方は、とっても綺麗な雪の結晶みたいなものがね、出来た。」
 不思議な話。
 科学がこれだけ発達した世の中でも解明できない不思議な話が世の中にはまだまだたくさんある。
「へえ?そうなんだ。母さんそれ知ってたのかなあ?」
「そうかもね。」
「へえ、じゃあ俺っていつも綺麗な水を飲んでるんだ。」
「そうなるかな?」
「へえ・・知らなかった。水って不思議なんだね。」
 そういいながら、ボトルを見つめる啓太の瞳が、小さな子供みたいにキラキラしていて、思わず、ぎゅっと抱き締めてしまった。
「和希?」
「ね、啓太。しってる?」
「え?」
「ばかやろうって書いた水はどうなったのか。」
「・・・・。」
「結晶にならないんだよ。とっても歪んだ形になる。」
 まだ、小さい頃連れて行かれた研究室で、それらを見せられた。
 ありがとう。愛してる。大好き。
 そう書かれた瓶の中の水の結晶は、とてもキラキラと輝いて綺麗だったのに、ばかやろう、死んでしまえ等の言葉の水の方は、淀んで歪みさえ生じた醜い塊に見えた。
 小さな俺は、それを見て涙が出た。
 なんだかとても恐くて、哀しくて、涙が止まらなかったんだ。
「・・・どうして?」
「解らない。だけどね、ばかやろうと同じ、歪んだ形の結晶になる人の名前があるんだ。」
「え?」
「ヒットラー」
「・・ってあの?ユダヤの?」
「そう、彼の名前を貼った水は、同じように形を歪めた。」
「恐い名前って事?」
 ビクンと啓太が震えるから、俺は安心させるように背中を撫でてやる。
「そうなのかな?水がどうしてそれを判断するのか不思議だけどね、ありがとう、好き。愛してる。ありがとう。」
 大気汚染が進んで、地球環境がどんどん破壊されていく、それに歯止めをかけるための研究のひとつとして、それらを調べていたのだ。
 言葉の違い。『ありがとう』『謝謝』『Thank you』、意味は同じありがとうなのに、出来る結晶は異なる。
 それは不思議な現象だった。
 そして気がついた現実。
 水は全ての生物の中にもある。人間にも動物にも植物にも。汚い言葉を浴び続けた水はどうなる?どう変化する?
 調べていくうちに分かった事、それは汚い言葉を人が使うたび、対象物の細胞が歪んでいく・・・という事。
 汚い言葉を浴び続けた人間の細胞は、変化する。醜く変化する。
 世界が荒れる。醜い言葉のために。歪んだ細胞はさらに歪みを生み、そして悲しみを産んでいくのではないのか?
 ヒットラーの名で、水の結晶が歪むように。
 いつか、歪んだ人間が、更なる恐怖の世界を作るかもしれない。
 
「和希?」
「ん?何?」
「何か嫌な事、思い出した?」
 不安そうに、啓太が見つめる。
「いいや?どうして?」
「なんか、哀しそうな顔してたから。」
「・・・・大丈夫だよ。なんでもないから。」
人間や全ての生物は、海から生まれたのだ。
 大気汚染、自然破壊。
 増えていく犯罪。増えていく悲しい事件。
 将来子供を安全な世界で育てる為の課題は、尽きる事がない。
 絶滅に近い動物達。チンパンジーがあと一世紀持たずに消えてしまうだろう・・という厳しい現実。
 人間のエゴで消えていく動物達。人間のエゴで汚れていく地球という星。
 組織が大きくなればなる程、その課題に真剣に取り組まなければならないという現実。俺の手にあまるだろうその課題は、でも眼をつぶって、無かったことに出来る事じゃない。
 鈴菱の家に生まれ、その恩恵を受けて育ったという事は、その恩恵以上の事を世の中に返す・・という事なのだ。
 その事を、あの研究室で祖父に教えられた。
『この歪んだ結晶を忘れてはいけないよ、和希。全ての人間の未来が、この地球の未来がこうならないように、守って育てていく。それが鈴菱の次の課題なのだから。人間も動物も自然もすべて守り育てていく。それが出来なければ、鈴菱の未来もない。いいかい?和希。このことを忘れてはいけないよ。生物は皆水が無ければ生きていけない。歪んだ結晶の水は、その生物を歪ませる。お前が鈴菱を継ぐということは、この歪みを作らない・・という事なのだと。しっかり覚えておくんだ。いいね。』
 小さい俺に、祖父はそう言い聞かせた。
 歪んだ結晶をみて、怯える俺に、祖父はそう繰り返したのだ。
 恐怖に泣き出して、頷けずにいる俺に、そう繰り返したのだ。
 
「ねえ、和希?」
「ん?どうした?」
「愛してるって言葉も水を綺麗にしてくれんだ。」
「ああ、ありがとう、とはまた違った、とっても綺麗な結晶になる。」
「じゃあ、俺の身体って、いま綺麗な結晶が一杯かもよ。」
「え?」
「だって、和希に一杯一杯言われただろ?愛してるって。」
「そう言えば。」
 確かに、さっきそう言って啓太を抱いていた。
「ふふ、言ってた。だって大好きだし、愛してるし。啓太はとっても可愛し。幾らだって言っちゃうよ。」
 ぎゅっと抱き締めて、頬ずりしてしまう。
「くすぐったいよ。」
「啓太。愛してる。」
「俺も、愛してる。」
 ちゅっと唇を吸って、そしてぎゅっと抱き締める。
「啓太が傍にいてくれるほうが、ありがとうより効果あるかもね。」
 愛し合えばいいのだと思う。
 人が人を愛するように、親が子供を愛するように。
 人間が地球を愛せばいいのだ。
 愛してるから、人は相手に優しくなる。
 好きだから、大切にしようと思う。
 誰が、大切な物を傷つけようと思う?
 誰が、愛しいものを壊そうと思う?
 難しい事だけど、きっとそれが答えなのだと、今の俺には分かる。
 愛すればいい、人も自然も、すべてを愛すればいい。
 だけど、それが一番難しい事なのだという事も知っている。
 
 鈴菱和希として、生きていく意味。
 それが簡単な事では無い・・と知っている。
 でも、俺は生きていく。鈴菱の人間として。生きていく。
 だから・・・・。
「ねえ、啓太?俺とずっと生きてくれる?」
「え?」
「俺が、強くいられるように。俺が歪んだ方へ進まないように。」
「俺が?和希と一緒に?」
「うん、大学卒業したら、俺の傍で働いてくれる?」
「和希の傍で?」
「うん。俺の秘書として、俺の片腕として。」
「俺莫迦だよ?」
「これから頑張って勉強してよ。」
「・・・・。」
「嫌?」
「嫌じゃないよ。俺でいいなら、頑張る。沢山沢山勉強して、和希が良い仕事できるように、和希を支えられるようになるから。俺、和希とずっと歩いていく。一生。」
 まっすぐな瞳で、迷いの無い瞳で、啓太が頷いた。
「ありがとう、啓太。」 
 
 きっと今なら、頷ける。
 祖父の言葉に、今ならきっと、啓太と同じように、迷いの無い瞳をして頷ける。
『忘れないよ決して。俺は忘れない。鈴菱和希として、将来の鈴菱を統べる人間として覚えている。世界を守る為の努力をする。諦めずに、投げ出さずにするよ。必ず。』
「一生啓太と生きていく。歩いていく。」
「うん。」
 誓い。言葉には意味がある。理由がある。
「愛してる啓太。」
「なんだかプロポーズみたいだ。」
 ちゃかして啓太が笑う。
「プロポーズだってば。」
 つられて笑いながら、啓太を抱き締める。
「プロポーズ受けてよ、啓太。」
「う・・・・。」
 耳まで朱に染めて、瞳を潤ませてしまう。
「受けてよ、啓太。」
「はい。」
 だけど頷いて、そしてしがみついてきた。
「莫迦和希〜!!急に言われたら、そんな事言われたら俺・・。」
「益々俺のこと好きになっちゃった?」
 顔を覗き込みながら、意地の悪い事を言ってみる。
「・・・ううう・・。」
「ね?啓太?」
「好きなんて、これ以上なれないくらいなってるから!!もう無理!」
「・・・・くす。」
「笑うな!」
「俺の身体の中も綺麗な結晶で一杯かも。」
「・・・・。」
「大好きだよ。啓太。」
 啓太と出逢えて本当に良かった。

              

ちょっと真面目なお話?あれ?ちょっと宗教チックですか?
web拍手のお礼にしようと書いてたのですが、あまりに長くてこっちの部屋にUPしました。
昔昔に読んだ某健康雑誌に載っていた、不思議な水の話があんまりにも印象に強くて、みのりのキャラクターには何人か<、水のボトルに「ありがとう」を書いているという設定の人間がいます。
そして、実生活でみのりもやっていたりします・・・。
この水の話は科学的に証明されたものなのか、定かではないのですが、それでも、本当だったら良いなあと思うのです。
いつもは、変態な和希も、大人で真面目な企業人だってところもあるっていうお話でした。




いずみんから一言

とてもみのりさまらしい作品だと思う。
彼女の基本姿勢がこれ1作で分かるとでもいうような。
「これが好き」という方は多いと思います。
実生活でも「ありがとう」と書いてらっしゃるとのことなので、
身体の中が綺麗すぎて神様に愛でられてしまったのかと
そんなことを思ったりしました。

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