五月の櫻





 気が付くと俺は桜の中にいた。
 何十本、何百本あるのか分からない桜の園に一人で立っていた。
「‥‥すごいな‥‥。」
 どうやってこの場所に来たのか分からない。けれど不思議と焦りや恐怖は無かった。 
「‥‥夕焼け‥?」
 空が朱に染まっていた。
 ざわざわと風に枝が揺れ、桜の花びらが風に舞い踊る。
「綺麗だな‥。」
 久しぶりに空を見上げた気がした。
 赤く染まった空に、花びらがひらりひらりと舞う。
「‥綺麗だ‥。」
 花びらが舞うのを眺めながら、そういえば俺は桜を見にきたのだと思い出した。
 今年の春はどういう訳か寒い日が長く続いて、関東から北の地域の桜は、開花が遅れていた。
『やっと桜が咲き始めました。』
 テレビに映る桜並木を見ていたら、どうしても見たくなって、仕事の予定を変えて老舗の温泉旅館までやってきた。
 山間の小さな旅館の裏手には、大きな神社があり、そこには御神木とされる桜の大木がある。
古い古い桜、滝桜と称される枝下桜。
 淡い色の花びらを風に揺らし流れる様は、見惚れる程なのだ。
「そうだ、俺は滝桜をみていた‥そして‥。」
 そして、どうしたのだろう?
 大きな古い枝下桜、その淡い色の花が、風に揺れ流れるのを俺はただ見つめてそして‥。
「ただ桜を見つめていただけだ‥。」
 なのに今、俺は知らない場所に立っている。
 何十本、何百本あるのか分からない桜の花の海の中、俺は途方に暮れて立っている。
 途方に暮れて視線を上げれば、赤く染まった空の端から夜が近づいていた。
「何やってるの?和希、時間が過ぎる。」
 ふいに名前を呼ばれ、驚いて振り向いた。
「え?‥け、啓太?」
 振り向いた先に笑顔で立っていたのは啓太だった。
「ど、どうして?あの、どうして‥。」
 柄にもなく焦りながら、啓太を見つめる。
「どうして?何が?」
「何がって‥だってなんで俺の名前‥。」
 分かるはず無い、啓太が覚えてる筈がない。
 あの約束をして別れたのは10年も前の事なのだ。
 なのに、啓太は今、俺の目の前に立って、俺の名前を呼んでいるのだ。
「ああ、この顔の事?くすくす。これはね、君が一番思っている人の顔だよ。
僕の本当の顔じゃない。」
 細い指先で自分の頬に触れながら笑う。にこりと笑って、自分の本当の顔では無いという。
「え?」
 驚く俺を気にもせず、啓太の顔でその人は空を見上げ俺の手首を掴んだ。
「‥‥時が過ぎる。和希急いでこっちだよ。」
「こっちって‥ひっ!」
 手首を掴まれ、その指のあまりの冷たさに俺は思わず声をあげた。
「‥君は‥。」
 氷の様に冷たい手だった。あまりにも冷たくて、冷たすぎて、掴まれた俺の手首が熱を持ったような錯覚に陥ってしまう。
「質問は後で、兎に角急いで。」
 啓太の顔で笑いながら、その人は俺の腕を引いて歩きだした。
「あの!」
「質問は後!時間が無いんだよ。」
 冷たい手に引かれて歩きながら辺りを見渡すと、ぼんやりとした人影が、あちらこちらに見えた。
 ここはどこなんだ、こんな場所に俺はどうやって来たんだ?
 段々不安になって、前を歩く細い背中を無言で見つめながら歩くことすら辛くなって、俺はとうとう立ち止まってしまった。
「和希?」
 動かなくなった俺を訝しげに見ながら、啓太の偽物は俺の腕を引いた。
「どこに連れていこうというんだ?君は何者なんだ。」
「まったく君は相変わらずの頑固者だねえ。融通がきかないというか、こういう時は素直に楽しむもんだって、僕は前にも言ったろ?」
 くすくすと笑いながら、俺の顔を覗き込む。
「知らない!そんな事。」
「くすくす、いいからあそこまで歩いてよ。折角ここまで来たんだ。時間を無駄にしちゃいけないよ。和希。」
 すうっと白い指先で指すのは、ひときわ大きな桜の木だった。朱色の空に浮かび上がる淡い桜色。風に揺れ花びらが、ふわりふわりと空に舞い踊る。
「あれは君の桜。まだ思い出さない?和希。
僕は逢魔ヶ刻の魔物だよ。この桜の園の番人さ。」
「逢魔ヶ刻‥桜の園の番人。」
「さあ、ここが君の桜。幹に触れて御覧。」
 冷たい魔物の手に引かれ、俺は恐る恐る桜の幹に手を触れた。
「‥‥あ。」
 何かが体から抜けていく感覚。そして何かが体の中に入ってくる感覚に、俺は声をあげた。
「‥‥忘れていた‥これは俺の‥。」
 木の幹に腕を回し目を閉じる。
 腕を回しきれない程の太い幹に体を預け、目を閉じる。
「最後の客人が到着した。逢魔ヶ刻の宴が始まる。」
 魔物の声が桜の園に響いた。
 ざわざわと枝が揺れるのを、俺は目を閉じて感じていた。
 血が通っているわけでもないのに、桜のごつごつとした木肌はなぜか暖かかった。
 懐かしい感触、懐かしい温度に浸りながら、俺は人の気配に振り返った。
「これは‥。」
 沢山の桜、その木の幹一本一本に人がいた。同じように両手を広げ、縋り付くように桜の幹に寄り添う。
 数えきれない桜、数えきれない人、人、人。
「ここは、一体‥。」
 茫然と見つめながら、それでも俺は桜の幹から離れられずにいた。
 懐かしい感触、懐かしい温度、それに抗えず俺は再び目を閉じる。
 なぜだろう、この温もりは心を落ち着かせる。
 なのに、なぜだろうこの美しい場所は、酷く悲しい。
「桜、桜、桜の花に思いは乱れ。
乱れる思いは木肌に吸われ、狂い舞い散る花となる。
ふわりふわりと風に舞い、すべて舞い散り土へと還る。」
 魔物の声が響く。
 囁くような声が、高く低く、どこまでも響いていく。
「狂い狂わせ桜の花に、想いを募らせ心は狂う。
舞い散る花のその色は、心の血色で染めた色。」
魔物の声に桜が揺れる。
 ざわざわと枝が鳴り、花びらが風に舞い散り、降り積もる。
 逢魔ヶ刻は魔物の刻、人の世と魔物の世を繋ぐ刻。
 空が赤く染まり、闇を迎え入れる時間。魔物達はひっそりと目を覚まし人の世に降りてくる。
「さあ、和希心を開いて、君の心を開いて、逢魔ヶ刻の宴だよ。
思い出して、ここは心の闇を捨てる場所。」
心の闇?それは、それは何?俺にはそんなもの存在しない。
 俺は強いから、なんだって出来て当然の強い人間だから‥だから‥闇なんてない。
 捨てるものなんか無いよ。
「和希?なにを恐れているの?ここには君を責めるものはなにもない。さあ、思い出して吐き出して御覧。
辛いこと悲しいこと、なんでも構わない。プライドを捨てて楽しめばいい。」
 啓太の顔の魔物が笑う。
「俺は、俺は何も‥。」
木の幹から手を離し魔物を見つめる。
「何も無い?本当に?何もない?無理している事、あきらめてしまった事。」
 魔物の細い指が頬を撫でる。
 冷たい指先が頬を撫でる度に体の奥が震え、俺は耐え切れなくなって地面に膝を付き魔物を見上げた。
「啓太に逢いたい。そうだよね?和希。」
 啓太の顔で微笑みながら、魔物は冷たい腕で俺の頭を抱き寄せる。
「逢いたいよ。啓太に逢いたい。」
 啓太の名前を呼ぶだけで、心の中に灯がともる。
「待つのは辛い?啓太は忘れているよ?きっと、和希の事なんか忘れている。」
 魔物が笑う、冷たい指先で俺の髪を梳きながら、冷たい頬を俺に擦り寄せ笑う。
「忘れてる、そうだね‥啓太はきっと忘れてる。」
 でも俺は忘れたことなんかなかった。大切に大切に思ってきた。いつだって大切に心の奥で思っていた。
 離れて暮らしながら、啓太を思った。啓太に再び逢う時を夢見て生きてきた。
「啓太は変わってるかもしれないよ?和希を忘れて、違う人を選ぶかもしれない。」
「変わってる?啓太が?」
「そう。君の地位や富を目当てに卑しい心で近づく人間、そんな風に変わってるかもよ?」
 その言葉に視線を上げると、魔物はニィッ−と唇の端を上げ笑った。
 啓太の顔なのに、なのに魔物の笑顔は恐かった。能の面の様に、無表情にも泣いているようにも見える笑顔。その顔に俺の背筋は寒くなる。
「卑しい心。」
「どうする?和希‥啓太が変わっていたら、啓太が君を選ばなかったらどうする?」
「啓太が変わっていたら?啓太が俺を選ばなかったら?」
 そしたら俺はどうするのだろう?
「啓太を憎むかい?ずうっと大切に思ってきた相手を憎むかい?」
 魔物が笑う。
「憎む?俺が啓太を?」
「そう、君が啓太を。」
 くすくすと魔物が笑う。
 なにが可笑しいというのだろう?
 冷たい腕に俺の頭を抱いたまま、俺の額に冷たい頬を擦り寄せて笑う。
 啓太の顔で。
「憎んで良いんだよ和希‥君はずぅっと啓太を思ってきた。
君の心はいつだつて啓太を思ってきた。大切に大切に‥思ってきた。
 啓太の誕生日やクリスマスには、プレゼントを心を込めて選んでカードを書いた。渡すことなど出来ないと知りながら‥。
くすくすくす。滑稽だね。」
 笑いながら魔物は冷たい頬を擦り寄せる。冷たい頬が、冷たい指先が触れる度俺の体は冷えていく、心まで冷えていく。
「辛いだろう?報われぬ思いを持ち続けるのは、悲しいだろう?愛しい人に忘れられたまま、君は一人で生きている。」
 待つことは辛かった。啓太が傍に居ない。
 心を込めて選んだプレゼントを渡すこともなく、時折秘書から届く啓太の写真には、楽しそうに生活する啓太の日常が写っていた。
「くすくす。和希がいくら啓太を思っても気持ちは届かない。成長記録のような写真を何枚アルバムに貼ろうと、プレゼントをどれだけ用意しようと啓太には和希の気持ちは届かない。」
 そんな事は分かっていた。ただの自己満足に過ぎないと分かっていた。でも‥。
「啓太にふさわしい人間になりたいと努力して、淋しさに震える心を無視して‥なんて君は健気なんだろうね、和希。」
「‥‥。」
 花びらが散る。音の無い世界で魔物の声だけが響く。
 沢山の人がいるのに、この場所は静かだった。
 ただふわりふわりと風に舞いながら花びらが散るだけ。
「俺は‥。」
 涙が一粒流れた。
 この場所はなぜこんなに悲しいのだろう。心が苦しくなるのだろう。
「君が健気に思い続けても啓太はそれに気付くことは無いんだよ?どこまで行っても二人の世界は交わらない平行線のままだ。」
 魔物の言葉が心に突き刺さる。
 そんなことは分かっていた。離れてから一度も逢っていない。声を聞いてもいない。
 啓太の生きる世界に俺の姿は存在しない。ずっとずっと。
 それでも俺は再び逢える日が来ると信じていた。
 幼い啓太との約束。それだけが俺の心を支えていたのだ。
「君の辛さや悲しみを誰も理解しない。利用することだけを考えて、甘い恩恵を受けることだけを考えて君の傍にいる。‥きっと啓太も同じだよ?きっと啓太は変わってしまったよ。人は変わるからね‥悲しいけれど、変わるからね。」
「そんなこと無い。」
「ふうん?そう言い切れる?今まで君の傍にはそういう人間が何人も居ただろう?鈴菱の名を聞いただけで態度が変わる人間を何人も見てきただろう?」
「それは‥それは‥。」
「だから君は心を閉ざして生きてきた。決して本心を見せずに、啓太の存在だけを心の拠り所として生きてきた。違うかい?」
 魔物の声が、どこか哀れむ様に俺の耳に届いた。
「違うかい?和希。」
「それは‥。」
 なにも言葉を返すことが出来なかった。
 ずっと俺は、他人に心を許さずに、浅く広くどころか上辺だけの付き合いを繰り返し、孤独に負けぬ様、心を凍らせて生きてきた。
 信じて裏切られる事に慣れすぎて、一人で居ることにも慣れすぎて、孤独を友として生きてきたのだ。
 世界に名を馳せる鈴菱の長と成るべくして生まれ育ったのだから、それは当然なのだと理解していた。
 誰にも弱みを見せることは出来なかった。
 辛いと投げ出すことも、弱さを認めることも負けだと教えられていた。
 俺は強いから、だからひとりでも平気なのだ。
 俺は強くて何でも出来るから、だからいつだって余裕なのだと思い込もうとしていた。
「もっと我儘になっていいんだよ。淋しいと認めなよ。自分は弱いと認めてしまえよ。そうすれば楽になる。ここはその想いを受けとめてくれる場所だから。」
「弱い自分?」
「そう、人は弱い生きものだ。辛いことや悲しいことを他人のせいにしなければ生きていけない弱い生きものそれが人間なんだよ。」
「弱い生きもの‥。」
「そう、だからそれを認めてあんなふうに自分の闇を曝け出せばいい。」
 俺から離れて魔物は周囲の桜を指差した。
「これは‥。」
 その光景に俺は言葉を失った。
 泣き叫ぶもの、怒りに我を忘れ暴力を振りかざすもの。小さく体を丸め怯えるもの。
「あれが彼らの心の闇。」
「心の闇‥。」
「君の中にもある。それを吐き出していいんだよ。誰も君だと知らない。
孤独だと叫んでも、自分の弱さを嘆いてもいい。啓太に逢えない悲しみをぶつけてもいい。桜が受けとめてくれるから。」
「桜が?」
 俺の桜を見上げる。周囲のそれよりもひときわ大きな桜。
 朱色に染まる空に浮かび上がる大木はざわざわと風に揺れ花びらを散らしている。
「さあ‥自分の弱さを認めてしまおうよ。啓太に逢えないのは淋しいだろ?ひとりで生きるのは苦しいだろう?
 啓太は和希に思われていることも知らずに楽しく生きているんだよ?和希との約束を忘れて楽しく生きている。酷い話さ。ねえ?啓太への想いを捨ててしまおうよ。すべての責任から一時だけでも逃げてみなよ、そうしたら楽になれるよ。彼らみたいに、自分の心の闇に忠実に、ここでの刻を過ごせばいい。さあ、和希‥さあ‥。」
 魔物の声が甘く響く。
 認めてしまえば楽になれる?啓太への想いを捨てれば楽になれる?
 逢えない悲しみに耐え、苦しまなくていい?
 弱さを認めれば、俺は孤独から救われるのか?

 ヒトリハツライ。
 ケイタニアイタイ。
 サミシイノハイヤダ。
 ヒトヲウタガッテイキルノハ、モウタクサンダ。

 暗い思いが心の中に押し寄せてくる。
 淋しい。苦しい。どうして俺だけがこんなに苦しまなければならない?
 啓太は俺を忘れて生きているのに。
 俺の傍には居ないのに。
 どうして鈴菱の家に生まれたというだけで、こんなに苦しい思いをしなくてはいけないんだ。
 友達が欲しかった。
 自由が欲しかった。
 好きなことをして、同じ年ごろの子供たちと同じように生きてみたかった。
 父や母に甘えたかった。
 啓太と離れたくなかった。
 俺は、俺は、でも、俺は‥。
「さあ和希‥さあ。」
「うるさい。うるさい。うるさいっ!!」
 でも俺は‥俺は‥。
「莫迦にするな!
 俺は、鈴菱の人間だ。
 心の闇なんか認められるものか。確かに人は弱い。富や権力にはすぐ流される。そのせいで変わっていく人達を何人も俺は見てきた。
 その為に何度も裏切られてきた。
 確かに俺は孤独かもしれない。
 淋しい人間かもしれない。だからってそれを他人のせいにしたりしない。
 それを捨てて無かった事にしたりしない。
 俺は逃げたりしない。
 どんなことからも逃げたりしない!!」
 そうだ逃げたりしない。
 鈴菱の名を重く感じる時があろうと、孤独に苦しもうと、それは俺が耐えるべき事だから。
 あの日俺は誓ったんだ。離れるのが嫌だと泣きじゃくる啓太を抱き締めながら、心に誓った。
 啓太を守れる男になると、啓太の笑顔を守れる強い男になると誓ったんだ。
 だから俺は迷わない。挫けたりしない。啓太と再び逢うその日まで、俺は一人で生きていく。
「認めないんだ?」
「当然だ。俺は負けない。心の闇なんかに負けはしない。」
「頑固だよねえ本当に‥。あぁ‥もうすぐ逢魔ヶ刻が終わる。」
 苦笑いしながら魔物が空を見上げる。
 朱色の空に闇が近づいていた。もうすぐ夜が来る。
「逢魔ヶ刻が終わる。後悔は無い?和希。」
「ああ。」
「OK。じゃあ終演だ。」
 ニィッと笑い、どこからか横笛を取り出すと、魔物はゆっくりと息を吸い込んだ。
「‥‥。」
 澄んだ音色が桜の園に響き渡った。
 高く低く‥澄んだ音色が響きそして‥。
「うわっ!!」
 強い風が花びらを飛ばした。
「‥凄い‥。」
 上空高く花びらが舞い、はらはらと落ちてくる。
「雪みたいだ。」
 雪が降るように花びらが落ちてくる。それはやがて地面を覆い、あたり一面桜色へと変わる。
「なんて綺麗なんだ。」
 赤く染まった空から、はらりはらりと落ちてくる。
 雪のように落ちてくる。
 高く低く響く笛の音を聴きながら、降る花びらに魅せられていた。

 はらはらと舞い落ちる。
 そして地面を覆い、桜色に染めていく。美しい花びらの舞いに、俺はただ見とれていた。
「‥‥あれ?」
 ふいに笛の音が止んだ。
「‥‥どうしたの?」
「どうして俺の桜は散らない?」
 周囲の木はほとんど丸坊主に近い状態まで花が散ってしまったというのに、俺の桜の枝には沢山の花が付いたままだった。
「ああ、いまに分かるよ。今年は残ったのが少ないなあ‥。」
「残る?」
「ああ、和希みたいな人間は他にもいるってことさ。年々少なくなっているけどね。」
「?」
 気を付けて辺りを見渡せば、確かに十数本程の木に花が残っていた。
「花の残っているのはどれも大きな木ばかりだ。」
「そう‥同じように残って‥そして自分の子を見守っている。この木が君を見ているように、他の桜達も見守っているんだ。」
「見守る?」
 言葉の意味が分からずに、俺は魔物を見つめ、そして‥。
「え‥桜が消えていく‥。」
 風に吹かれ塵の様に木々が消えていく。
 幻だったのか?あの木々は?
「役目が終わったんだ。」
「役目?」
「そう、人の心の闇をその身に受け浄化する。それがこの地の桜の役目。
闇を吸い込んだ桜は花びらを散らして土へと還る。還る事で浄化が終わる。」
「‥。」
「人の心の闇は、弱いと責めるべきものじゃ無い。
誰だって小さな闇を持って生きている。
そしてその闇が大きくなりすぎた時、人は闇に耐え切れず、罪を犯すんだ。」
「罪を‥。」
「闇が大きくなれば、魔物の呼ぶ声も聞こえなくなる。桜は闇を浄化できず、闇だけがどんどん深くなる。
人はね強くない。だから忘れる。辛い記憶を引きずって人は生きては居られない。
 その為にこの場所はある。
 逢魔ヶ刻の魔の桜は、人の苦しみや悲しみを引き受ける場所なんだ。」
「人の悲しみや苦しみを引き受ける。」
 それが本当なのだとしたら、なんて優しい花なのだろう。
「御覧和希、新しい木だ。」
魔物が指差す。
「‥これは‥。」
 地面に積もった花びらの間から、小さな芽が出ていた。
「再生。桜が生まれた。浄化が終わった印さ。」
「浄化が終わった‥。」
「逢魔ヶ刻の終わりだよ。和希ももう帰らなきゃ。
もうすぐ夜が来る。」
「そうだね‥。」
 小さな小さな芽に俺は勇気づけられていた。
 苦しいことも悲しいことも、耐えていける。そう思った。
「君の桜は大きくてりっぱだ。」
 嬉しそうに魔物が見上げる。
「花を散らそうとしたくせに、なんで嬉しそうなんだ?」
「‥どうしてだろうね。君が小さな頃からずっと見てきたからかな?
何度誘惑しても、君は挫けないんだ。心に闇の種を抱えたままでは苦しいというのに、それぐらい平気だと笑って。」
「‥‥。」
「弱くても、挫けても誰も責めないのにさ。」
 拗ねたような目をして魔物は口を尖らせる。
 そうか、君は俺の心を救いたかったのか‥闇を引き受けようとしてくれていたんだね。
「くすくす。俺は大丈夫。苦しさも悲しみもすべて抱えて生きていく。
俺は鈴菱だから。沢山の人の生活を守る義務がある人間だから、だからそれらを忘れてはいけないんだよ。
忘れて楽な道を選んでばかりいたら、守ることなんか出来ないだろう?」
 頑固者だと笑えば笑え‥だ。
 鈴菱の家に生まれたということはそういう事なのだ。
 俺は守る。辛くても悲しくても、大切なものを守る。たとえ自分が辛くとも、これぐらい余裕さと笑ってみせる。
「いつもながら辛い選択を平気でするね。」
「辛いけど、辛くない。俺には啓太がいる。だから平気だ。
 今は傍にいないけど、啓太の存在が俺を支えてくれているんだ。この世に啓太が居る。そう思うだけで俺は強く居られる。
 だからいつか逢えた時、俺は立派な男でいたいんだ。啓太の前に堂々として立っていられる男になりたいんだよ。」
「全く‥」 
「なに?」
「いいや‥君は莫迦だなあ‥って思ってさ。頑固で融通のきかない大莫迦者だ。」
 冷たい腕が抱き締める。
「見ているから、和希。俺はここからずっと君を見ているから。」
「‥‥。」
「君が辛いとき、僕も辛い、君が悲しいとき、僕も同じように悲しい。
僕は君だ。君の心は僕の心だ。君の心が揺れるとき、僕の心も同じように震える。風に枝を揺らすように‥。」
「君は‥?」
「僕は君が自慢だよ。強くて優しい君。ずっとずっと見ている。ここから‥。」
桜を見上げる。
「君は‥この桜なのか?」
「さあね?どうだろう‥さあ、お帰り和希。もうすぐ夜が来る。魔物の世界に変わる。人には毒だよ。」
 抱き締めていた腕が解かれ、魔物が見つめる。
「お帰り和希人の世に、逢魔ヶ刻はもう終わる。」
「ああ、帰る。俺の世界に。」
 逢魔ヶ刻が終わる。優しい魔の刻が終わる。
「また来年。」
 魔物が言った。
「また来年。」
 俺が答えた。
 魔物の笛が響きだし、俺は軽い目眩を感じて目を閉じた。

 逢魔ヶ刻が終わる。
 新しい年が始まる。

 くらくらと目眩がして、俺は、立っていられなくなる、そして‥そして。
 逢魔ヶ刻は終わった。

××××××

 ふわりふわりと桜が散っていた。
「あれ?俺は‥ここは‥?滝桜‥そうか‥。」
 長い夢でも見ていた様に俺はぼんやりしていた。
「桜に魅せられたかな?綺麗だな‥いつか啓太とここに来られたらいいな。」
 啓太の事を思うだけで心が暖かくなる。
「啓太‥早く逢いたいよ。」
あと一年。あと一年で啓太に逢える。
「少し寒くなってきたな、帰るか。」
 名残惜しげに桜を見上げ、俺はゆっくりと歩きだす。
「さくら、さくら‥‥ん?笛の音?」
どこからか笛の音が響いた気がして振り替える。
「気のせいか、そうだよな。」
 再び歩きだす俺を誰かが見ている気がした。

 また来年逢魔ヶ刻に‥‥それまでずっと和希を見ているよ。−−−声が聞えた気がした。

          Fin

※※※※※※※※※※

真面目で堅物な和希さんと桜の魔物のお話でした。
啓太くんが転校する前の年の話です。
変なもの書いちゃったな‥と反省しつつ‥逃げます!!



2006/04/28(金)〜05/01(月) の日記に掲載。




2006/05/07(Sun) 00:56  (掲示板に書かれた日記より)

暗くて変な話だなあと思いつつ、書いていたのですが、読み直すとやっぱり変かも‥と少々凹んでいるみのりです。

文章ってどうやったら巧くなるんだろうねえ。
思っていることがちゃんと書けなくて泣きたくなります。でもこれが今のみのりの精一杯なので仕方ないとも言えるのです。
キィキィと悲鳴をあげながら、書いている。そんな日常です。

今年は東京で花見が出来なかったのですが、青森の桜が今年は遅くて、連休ちょい前に見頃となり、毎日会社への通勤途中に桜の花を楽しむ事ができました。

『五月の櫻』は連載の方のエピソードのひとつとして考えていたのですが、あまりに長すぎて、そこだけ浮きすぎるかなあ?と思ってやめました。

でもちょっと話的には気に入っていたので、無理矢理書いてしまいました。
昔読んだお伽話、命の蝋燭‥をなんとなく思い出しながら書きました。好きな話しなんですけどタイトルが分かりません。『命の蝋燭というものを一人一人が持っていて、寿命が尽きるときそれを継ぎ足せば長く生きられると聞いた人間がある嵐の夜に森に入り、自分の命の蝋燭を近くにあった他人のそれとすり替えて、家に戻ってくると、それは自分の子供のものだった』という話しなんですけど‥覚えてる方いますか?

ちなみに桜は、きっと中嶋さんのも散らずに残っている事でしょう。
『闇?くだらんな。自分の始末は自分でするものだろう?俺に救いなどいらん。』
とか言って、さっさと帰ってしまいそうです。
魔物の立場がありません。
啓太くんだと逆に魔物の心を癒しそうです。

連載の方では、和希の桜は散る筈でした。
散った桜の新しい芽を見て希望を見いだすのです。啓太くんがいない和希は弱いのです。
弱い和希さんも私は好きなのです。頑張れ和希!と応援したくなります。

話を書いていて気が付いたのですが、私は啓太くんの為に一人で頑張る和希さんが凄く好きみたいです。

啓太くんと再会するまでは、暗いトンネルの中を淋しさに耐えて一人歩くしかなかった和希さんが、啓太を恋人にすることで陽の光の下笑顔で歩く事が出来る様になるのです。そして『昔は辛かったけど、あの時投げ出さずに頑張って良かった。』と思うと良いなあと思うのです。
でもそれを考えると、中啓とかの和希さんは可愛そうだよねえ‥。



2006/05/08(Mon) 11:48 (掲示板に書かれた日記より)

そういえば、妹に「五月の櫻」を読ませたら、「お姉ちゃん?この話気持ち悪いよぉ。鬼の笑い方恐いし‥」と嫌がられました。鬼じゃなくて魔物なんですが‥。好みは別れる話かもしれません。そして無駄に長いし‥‥どうしても短く話をまとめられない私です_| ̄|○





いずみんから一言

「五月の櫻」
五月に桜は咲かない。東京でも、そしてここ神戸でも。
五月の桜を見たのは出張先の青森でだろうか。
確か最初の予定では和希の桜も散る予定だった、と書いておられた記憶がある。
今となっては資料も見つからないが。(見つかったので追加しました)

テーマとなっているのは「浄化と再生」。
これを輪廻と考えれば、この話はみのりさまの魂の叫びだといっていいだろう。
自分自身さえごまかせなくなっている体調を抱え、つるつるにすべる崖の中腹で
必死になって爪をたて、なんとか踏みとどまろうとするみのりさまの心が透けて
見えるような気がしてならない。
検査の結果がようやく出るのは、この数日後のことである。


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