伊住的結末 ―― 臣。 ―― はい。 ―― 啓太はお前を映す鏡だ。それだけは絶対に忘れるな。 ―― ……はい。 僕は走った。 まっすぐに、啓太の元へ。 啓太の居場所なんて、今さら地図など必要なかった。迷いもせずに切符を買って電車に乗り、そこから先をまた走った。 親にも理事長にも行く先を告げずに姿を消した啓太。調べて探して。そして見つかったときはとてもうれしかった。これで啓太を迎えにいける。そう思ったのに、僕ときたら地図を見ているうちに怖くなってしまっていた。 今はいい。距離という名のシールドが僕を守ってくれているから。どんなに哀しくても辛くても、元に戻っただけなんだと自分をごまかすことができる。 でも僕と啓太を隔てるのがたった1枚のドアになってしまったとき。もしそれが開かれなかったら、そのときこそ僕は立ち直れなくなってしまうだろう。絶望のあまり、啓太をこの手にかけてしまうかもしれない。 血だらけになった啓太の頭を膝に抱き、これでもう啓太は僕だけのもの。誰にも取られることはない。もう離れることもない。その圧倒的な満足感の中で僕も自らの命を断つ……。 それがあまりにも甘美な夢想だったものだから、僕は啓太を迎えに行けなかった。行ってしまえばそれが現実になってしまいそうだったから。 だから行けない。迎えに行ってはいけない……。 そう自分に言い聞かせていた。 でもそんなのはただの理由にすぎなかった。迎えに行かずにすむ理由を、あとから考えて都合よくくっつけたもの。啓太を行かせてしまったときと同じ、結局はプライドが邪魔をして泣いてすがることができないというだけの話だ。 本当に。何度同じことを繰り返せば懲りるんでしょうね。僕という人間は。 だけど今日は違った。ドアは必ず開かれる。ちゃんと啓太に会えて、話ができて。そして連れて帰ってあげられる。今日の僕にはそんな確信があった。 だからなんだろうか。息が切れるほどあんなに急いで走ってきたのに、啓太のアパートの前に立ったときにはとても安らいだ気分になっていた。ここだ。ここの202号室に啓太はいる。ただ、意外なくらい古びた、汚くてみすぼらしい外観に胸が痛んだ。 何度も何度も地図でたどっていた道がこんなに細い路地だとは思っていなかったし、お風呂すらなさそうなアパートだとは想像もしていなかった。保証人もいない高校生が、わずかなバイト代で借りられる部屋などこの程度のものなのかもしれない。自分の悲しみにばかり気を取られて、そんなことさえ考えようとしていなかった自分の迂闊さが呪わしかった。 僕があの快適な寮で過ごしていた間、啓太はひとりぼっちでこんなほとんど日もあたらず、風も通らないようなアパートにいたなんて。 夏の暑い日を、梅雨のじめじめした日を、たったひとりでどうやって過ごしていたのだろう。啓太を失った悲しみに打ちひしがれていたとしても、それでも僕には心配してくれる郁が傍にいてくれたというのに。甘えたつもりはなくても、その実、たっぷり甘えられる相手がいてくれたというのに。 もっと早く迎えに来なかった僕を責めるかのように、鉄製のさびた階段は、うるさいくらいにカンカンと乾いた音をたてた。 「2」がついているくらいだから、2階の端から2番目の部屋だと見当はついていた。ざっと目を走らせるとこちらから2番目は空き部屋のようだ。それではとばかりに洗濯機と鉄柵に挟まれた狭くて汚い通路を向こうへ進む。ところがそこは205号室だった。 一瞬、居場所を見失ってしまった気がした。それでは啓太は? もうここを引き払ってしまったというのだろうか? 隣の人に聞けば引越先は分るだろうか ―― ? わきあがる不安と焦燥感の中、空き部屋になっている部屋の方に駆け戻る。そして。どうしてここを空き部屋と思ってしまったのかに気がついた。 この部屋の前には洗濯機が置かれていなかったのだ。他の部屋の前にはあるのにこの部屋にだけはそれがない。かわいそうに啓太は洗濯機さえない生活を送っていたのだ。代わりにそこに置かれていたのはいくつもの植木鉢。肩を寄せ合うように植えられた背の低い草には、赤と白の小さい花が咲きはじめていた。 ああ……。と思う僕の口元には、啓太を失ってはじめての、本当の笑みが浮かんでいた。 ノックをした。狭い部屋なのだろう。中で動く気配がした。 「はぁい。吉田さん?」 意外なくらい無造作に、そして無防備にドアが開かれた。まさか僕だとは思ってなかったようだ。ドアのノブを持ったまま僕と眼が合った啓太の姿が、見事なまでにフリーズした。少し痩せてしまった啓太の姿が。ただ、それだけは以前と変わらない大きな目が、さらに大きく広がっていった。 「七条……さん。どうし……て……」 「迎えに来たんですよ」 「そんな……。だって、俺……」 啓太が小さく首を横に振る。閉じられないよう、僕はさりげなくドアに手をかけた。踏み込んで追い詰めることだけはしたくなかった。そんなことをしたら、今は連れ戻せてもまた同じことを繰り返してしまうかもしれない。僕にはそれが怖かった。 「どうしたの? 啓太くん。何かトラブル?」 振り向くとスーパーの袋を両手に下げたオバサンがこっちを見ていた。 「あっ、いえっ。学校の先輩が来てくれただけですっ」 「そうなの? 何かあったら呼びなさいよ」 「はいっ。有難うございます」 それでも不審そうに立っていたオバサンだったが、僕もにっこりと会釈を返すとようやくそこからのいてくれた。だが自分の部屋に入るまで、睨むような目はこちらに向けられたままだった。 「……中に入ってもいいですか? このままだと、また疑われてしまいそうです」 「………………はい……」 ようやく入れてもらった部屋は、外見から想像したとおり、古くて狭い部屋だった。玄関の靴脱ぎの左手に申し訳程度の台所。まるでホテルの備品のように小さい冷蔵庫が置いてある。反対側のドアはトイレだろうか。仕切りのガラス戸が開け放たれた向こうは、4畳半ほどの畳の部屋。テレビはもちろんパソコンもベッドもなく、図書館のラベルの貼られた本だけが部屋の隅にきちんと積まれている。窓にかけられた質素なカーテンの新しさと、すっかり変色してしまった壁や畳とがとても対照的だ。寮の部屋の方が広い。何度目かの胸の痛みとともにそんなことを思った。 「あの……。すみません。紅茶とか買ってなくて……」 「いいえ。おかまいなく」 狭いけれども掃除の行き届いた部屋の真ん中で、僕と啓太は向かい合って座った。何故かふたりともきっちりと正座をしていた。小さなテーブルはたたまれたまま壁に立てかけられていて、僕と啓太の間には遮るものは何もない。手を伸ばせば相手に届いてしまうから。届けば抱きしめずにいられないから。そんなことにならないよう、ふたりとも両手は膝の上に置かれていた。 「玄関先のあの花……」 夢の中で何度も啓太を迎えに行っていたというのに、いざ向かい合ってみると何から切り出せばいいのかわからなかった。わからないまま、僕の意思とは関係なく口から出たのが、先刻眼にしたあの植木鉢だった。 「学園に咲いていたあの花ですね。雨のあとなのに元気に咲いていると、啓太が教えてくれたあの花ですね?」 返事はなかった。でも俯いていた啓太の角度がさらに深くなり、イエスといっているのが分る。そして啓太が僕のことを思いつづけてくれていたことも分った。啓太が僕を見限って姿を消したのなら、あのときと同じ花など育てているはずがなかったから。僕はほっとした気持ちで本題に入った。 「啓太に、ずっと謝ろうと思っていました」 「七条さん……?」 「郁に叱られました。啓太は僕を映す鏡だと」 「……?」 「……僕はずっと不安だったんです。啓太はこんなに素直でいい子なのに。輝く未来が待っているはずなのに。僕なんかと一緒にいたために将来を台無しにしてしまうんじゃないか、って」 「そんな……っ」 「負担になっちゃいけない。啓太のお荷物になっちゃいけない。いつの頃からかそう思うようになっていました」 「……ちが……」 「もともと僕の世界には郁しかいなかった。啓太はそこに間違えて舞い降りてきた天使なんじゃないか。いつか元の世界に帰って行くんじゃないか」 「…………」 「だったら僕はその日に備えて心の準備をしておかなければいけない。いつでも啓太を送り出せるようにしておかなければならない」 「………………」 「ずっと、そう思っていました」 啓太の眼からは涙が溢れ出していた。すっかり細くなった頬を伝った涙が顎の先から滴り落ち、膝の上に揃えた拳をぬらした。 「でも、違っていたんですね……。僕が迷ったから啓太が不安になってしまった。僕が1歩ひこうとしたから、啓太は去らなければならなかった」 「しちじ、……さ。俺……」 「違いますか?」 そうだ。郁のいうとおり。啓太は僕の心を映し出す鏡だったんだ。僕の心を増幅して映し出す魔法の鏡。迷った心のまま啓太に「ともに暮らしましょう」と言っても、伝わるはずなどなかったのだ。 啓太は小さく、そして次第に激しく首を振った。柔らかく跳ねた髪が揺れるのを見て、ああ、昔のままの啓太だ、と思う。毎日のアルバイトのあとこんなみすぼらしい部屋に戻るだけの生活。それを何ヵ月も続けて、それでも尚、啓太は啓太らしさを失っていなかった。それはいっそ奇跡のようで、やっぱり啓太は天使だったんじゃないのかとさえ思った。 「…………俺……」 啓太がようやく口を開いてくれた。可愛らしいくちびるが動くのがうれしかった。綴られることばは何でもいい。啓太の声が聞けるのなら。 「俺……、七条さんが困ってると思ってた……。無理をして俺といてくれてると思ってた……」 「啓太……」 「俺は七条さんが好きだから。……もう、一生、ほかの誰も好きになれないってくらい好きだから……。だから、俺……」 ごめんなさい。そう言って啓太は僕の胸に飛び込んできた。そして僕のシャツを掴みしめながら泣いた。 僕は泣かなかった。腕の中の啓太の体温がうれしくて。撫でてあげる髪の感触が懐かしくて。小さく震える存在がいとおしくて。あやすようにそっと抱きしめていたら、幸せすぎて泣くことなんか忘れていた。 ずっと後になって啓太は、このときの僕の表情を「マリアさまみたいだと思った」と言った。 もう迷わない。不安にもならない。 ふたりが共にあるかぎり、世界はこんなにも光に満ち溢れているから ―― |
いずみんから一言 |
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