嘘ー約束番外編−





「俺達を信じるんだ。どこまでも逃げてみせる。」
 中嶋さんは俺を抱き締めてそう言った。

 あらしのよるだった。
 季節はずれの台風が来ていて、海の傍に建つ小さな家は、時折吹く大風に揺れ、窓ガラスがガタガタと鳴った。

「中嶋さん。」
 どう答えていいか分からずに、俺は中嶋さんの綺麗な顔を見つめていた。
 部屋の隅には難しい顔をした王様が立っていた。
「俺達と逃げるんだ。そしてどこかの町で暮らそう。
必ずお前を守ってみせる。
必ず。」
「中嶋さん。」
 手を伸ばして、中嶋さんの頬に触れようとして、体がツキンと悲鳴をあげた。
 体中に傷が残っていた。細かい傷、大きな傷。
 俺達は、本庄が付けたこの傷を癒すため、海の傍に建つこの小さな家にやってきた。
 逃げるためでは無く、本庄に従うため、この町に来た。
 傷が癒えたら俺は、東京に戻り、本庄の命ずるままに客を取ることが決まっていた。
 それが本庄から離れ、自由に暮らせる唯一の方法だと、笑いながらあの人は言った。
「中嶋さん?俺は本庄さんの命令通りに、体を売らなきゃいけないんでしょ?
 そうしなければ俺は‥。」
 言いながら、他人の話をしてるみたいだ‥と思った。
 あんな目にあったのは、たった数日前の事なのに、それすら遠い昔の話のようで、体の痛みさえ幻の様に感じた。
「ああ、そうだ。お前があいつの傍から離れるには、従うしか無い。」
 苦しそうに中嶋さんが話すことさえ、俺には他人事に見えた。
 あの日、際限無く繰り返す恐怖や苦しみや痛みが、やっと止んだ瞬間、俺はすべての感情を失ったのだと思う。
 今、俺の中に恐怖は無かった。悲しみも苦しみも無かった。
「俺の父親がそう望んだから?」
 記憶を失った俺には、父という言葉さえ幻の様に感じた。
「‥そうだ。」
 頷く中嶋さんを見上げ、やっぱり他人の話みたいだ‥と思った。
 苦しそうに俺を見つめる王様の瞳も、作り物の様だと思った。
「‥‥そうなんだ‥。」
 伸ばした手を、のろのろと戻して、俺はじっと自分の手を見つめた。

 細い指。白い手のひら。
 細い手首、縛られた跡。

 俺の体の傷は全部本庄が付けたものだった。
 手首に、太ももに、背中に縛られ、鞭打たれた跡がヒリヒリと残り、深い傷は白いガーゼを赤黒く汚した。 
「俺が傷ついて汚れる事が望みなんでしょう?」
 風の音がする。嵐の通り過ぎる音。
 窓ガラスに激しく雨が当たる。風に家が揺れる。
「それが望みなのでしょう?俺の父親の‥。」
 外は嵐だというのに、俺の心は静かだった。
 何も感じなかった。苦しみも、希望もなにも無い。
 俺の父は俺を憎んでいるらしい。
 本当の父ではなかった。母親が浮気して俺が生まれたのだと、俺は本庄から聞いた。
 俺を傷つけること、苦しめること、それが父親の望みなのだと本庄に聞かされた。
「‥‥中嶋さん達は、どうして俺を助けてくれるの?」
 本庄は俺を憎んでいると言った。
 俺を苦しめる為に悪魔になったのだと言った。
「さあな、どうしてだろうな?俺にも分からん。」
 クククと喉を慣らし、中嶋さんが笑う。
「他人なのに、関係ないのに、中嶋さんは俺と逃げてくれるの?」
 不思議だった。
 俺を助けようと必死になる。
 俺を救おうと自分のすべてを捨てようとする、この人が不思議だった。
「ああ、お前が望むなら、地の果てまでも逃げてやる。
 どこまでも逃げてやる、一緒に。二度と奪われたりしない。お前を必ず守ってみせる。」
 そして俺の欲しい言葉をくれる、当然のように、くれる。
「俺が望むなら?」
 どうしてそんな選択をしてくれるの?俺の為に?
「‥‥中嶋さん‥。」
 キリキリと心が痛くなる。失った筈の感情が蘇ってくる。
 苦しくて悲しい。
 俺は人の運命を変えようとしている。悪い方へ。

 キリキリと心が痛くなる。静かだった心の中に風が吹き始め、そして嵐になる。
 俺の為に、この人たちは人生を捨てようとしている‥なんの関係もない俺の為に‥‥。
「中嶋さん‥どうして?」
 どうしてそこまでして俺を助けようとするの?
 中嶋さんは、あの時俺を救うために、本庄を殺そうとした。
 中嶋さんの手は、人を救うための手なのに、その手で他人の命を奪おうとした。
 そして、今俺の為にすべてを捨てて逃げようとしてくれている。
 それが俺の望みだと分かるから、だから関係のない俺の為に、俺の望む言葉をくれる。

 逃げたい。

 逃げて、逃げて、そしてひっそりと暮らす。
 中嶋さんと王様と三人で暮らす。
 小さな家に住んで、狭い庭には花を植えて、平凡な毎日を送るんだ。
 そこには恐怖は無い。痛みも苦しみも無い。
 あるのは、ささやかな希望と幸せ、そして不安。
 逃げて逃げて逃げて、どこまでも逃げて‥‥だけどそれは俺の為だけの暮らし。
 中嶋さんも王様も、俺さえいなければ逃げる必要は無い。逃げて隠れて、そんな生活をする必要はないんだ。
 俺さえいなければ‥。
 だけど、だけど‥。

「中嶋さん‥俺は逃げない。逃げたくない。」
 俺の言葉に、中嶋さんは瞳を見開いた。
「ケイタ?」
 逃げたい、あの恐怖から、すべてのものから逃げて隠れて、ただこ腕に守られて暮らしたい。
 だけどそんな事出来る訳が無い。
 俺の為に二人を逃亡者にする訳にはいかない。

 だから嘘をつく、思いとは逆の言葉を吐く。
「俺は逃げたくない。隠れて生きるなんて嫌。」
 逃げたい。だけど、中嶋さん達に、そんなことさせられない。
 
 光の中で生きる人。俺を闇の中から救ってくれた人。
 俺の大切な人達だから。
「俺は逃げない。それが運命なら受け入れる。だから、だから‥。」
 痛みを堪えて、中嶋さんの手に触れる。
 この手は人を救うための手だ。
 この人は、光の下で堂々と生きる為に生まれた人だ。
「傍にいてくれますか?俺の傍に。」
 この人の傍にいられるなら、俺はきっと汚れたりしない。誰に抱かれても、どんなことをされても、きっと‥耐えていける。
「‥それが望みか?本当に?それでいいのか?」
「はい。」
 頷いてそして、痛みを堪えて笑う。
「二人の傍に居られるなら俺はそれで大丈夫です。中嶋さん?」
 本当は一人で大丈夫だと言わなきゃいけないのに、俺の運命に巻き込んじゃいけないのに、なのに俺の口から出るのはこんなずるい言葉。
「ん?」
「傍に‥いてくれますか?俺の傍にずっと。」
「ああ。」
 俺は弱いから、一人では耐えることが出来ない。
 俺は弱いから、一人で苦しみを背負って生きてはいけない。
 そしてずるいから、頼ってしまう、優しいこの人達に。


 救いという行為は、誰かの犠牲の名のもとにだけ成り立つの?

 恨まれたまま、疎まれたまま、それでも陽の中を生きたいと思うのは身勝手なの?

 俺は生きたい。
 疎まれても憎まれても、それでも生きたい。
 だけど弱いから、だけど力も勇気もないから、だから一人ではたった一晩の嵐さえ、生きることが出来ないのです。
 
「中嶋さん勇気をください。俺に勇気をください。」
 キリキリと痛む心の傷を隠して、ひりひりと痛む体の傷を堪えて俺は笑いながら請う。
 俺と出会ったのが不運の始まりだったと、いつかきっと二人は思うだろう。
 俺に出会いさえしなければ‥いつかきっとそう思うだろう。
 それでも構わないから、今だけ、あらしの夜を耐える勇気を分けてください。

 いつか聞いた祈りの言葉の様に、俺は願う。
 失われた記憶の中の記憶?それとも誰かに教えられたものだろうか。
 この国には八百万の神が住まうという。
 竃の神に不浄の神、天に地に神は居る。すべてのものに神は居て、俺達人を守り慈しんでくださるのだという。
 ならば神様、どうか神様、俺に勇気をください。一人でも生きていける勇気をください。
 そして、この優しい人達をお守りください。
 なんの関係もない俺の為に、この人達が不幸になることが無いように、どうかどうかお守りください。
 
「ケイタ。」
 涙が流れ頬を伝う。
 救われてから初めて、俺は涙を流した。
「俺は二人の傍でなら生きていけます。
 なにがあっても、本庄の望み通りにはならない。
 俺は汚れたりしない、傷ついたりしない。
 二人が傍にいるなら、俺は、俺は‥。」
 俺は負けない、誰も俺を汚したり傷つけたり出来はしない。
「中嶋さん、抱いてください。王様と二人で俺を抱いて?」
 
 そして、俺に勇気をください。
 
 願いを込めて、俺は中嶋さんを見つめた。
「ケイタ。」
「俺は弱いから、一人では生きていけない。だから強い力が欲しいんです。
 中嶋さん力をください。
 王様、力をください。
 俺が負けないように‥強く生きられるように。
 お願いです傍に居てください。
 俺を抱いてください。」
 二人を見つめ、俺は痛みを堪えて願う。
「ケイタ‥。」
「へへへ、俺ずるいですね。」
「無理して笑うんじゃない。莫迦者。」
 髪を撫でる優しい指に俺はうっとりと目を閉じる。
「哲。」
「あぁ。」
 王様が触れる。
「王様、ごめんなさい。」
「謝るな。」
 優しく服を脱がされ、二人の手が、唇が、俺に触れる。
 そして、そして‥。


 激しく窓ガラスを叩く雨が止み、風が止まる頃、俺は二人の腕の中で眠りについた。

 腕の中で目蓋を閉じて、俺は晴れた空を思った。
 晴れた空の下を三人で歩くのだ、いつかきっと笑いながら‥歩くのだ。


 数日後、本庄から東京に戻る日が告げられた。


          Fin

※※※※※※※※※※

え−と‥すみません。
いろんな意味でイタイ話なので、どうしようかと思いつつ書いていました。
そして出来上がったのは、こんな話‥_| ̄|○

ケイタ君が本庄に誘拐された直後の話です。
三人が一番辛い時代の話でした。


(2006/05/08、09 (月、火) の日記に掲載)







いずみんから一言

第25回のコメントで、中嶋氏の一人称で書こうかどうしようかと
迷われていた話じゃないかな、と思う。
ケイタの心のうちは祈りに似たことばで紡がれている。
そしてそれはそのまま、みのりさまの心のうちへとつながっている。
つらかったのは3人ではなく、それはきっとみのりさまの方。
文字の向こうにみのりさまの心の叫びが透けて見えている。


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