もうひとつの何か




  電気を消しても部屋の中が薄く見えるのは、目が慣れたわけではなく外が明るいからだ。周囲こそ古い民家やアパートの類いでごちゃごちゃしているが、その向こう側にある国道沿いには終夜営業のファミレス、深夜営業のラーメンハウス、ドラッグストア、さらには葬祭会館までが建ち並び、低い民家の頭上を越えてきた光が、この部屋の中にまで届いているのだ。路面に駐車場、その上が店舗という飲食店は今までに何度も利用していたが、この形態がここまで民家に影響を与えていたとは思いもしていなかった。
 届いているのは灯りだけではない。もう流行っていないのか、それとも単にルートから外れているだけか。いわゆる暴走族たちの派手なだけの爆音こそないが、日付を大きく越えたこの時間はトラックやトレーラーらしき重たげな音が、ひっきりなしにと言ってもいいくらいに聞こえて来ていた。
 それなりに高級な住宅地だった生家や森林公園に面した自宅マンションはもちろんのこと、学園の寮や旅先でさえあまりこういう経験はなく、無意識のうちに自分は閑静な空間を好んでいたのだと、今さらのように中嶋は思った。たかが3カ月の研修期間中くらいどこで寝ても同じ。職場の端に寝袋を持ち込んでもやっていける程度の日数でしかない。ならば部屋を探すだけ時間の無駄で、研修先から紹介してくれるならそこでいい。そう思ってここに決めた中嶋だったが、こうした瞬間に、ここが利便性だけを考えて建てられたマンスリーマンションにすぎないのだと思い知らされるのだった。決してヤワに育ってきたつもりはないが、たまにこうして座りの悪さを感じてしまうのは、やはり自分の育ちからくるのだろうと思う。
 だがこんな環境も悪いことばかりではないようだ。外からの灯りに、中嶋の膝に頭と左手をもたせかけて眠る啓太の顔が浮かび上がっている。人にもモノにも執着をみせない中嶋が、唯一手に入れたいと願い、その後の年月を共に過ごして尚、厭きることなく大切にしてきた存在の顔が。ほんの1時間前、この顔が歓喜の涙に濡れるのを中嶋は見た。それがどれほどの満足感を与えてくれたことだろう。さらに今、横顔を見せて眠る姿に、中嶋はたまらないまでに癒されていた。
 いつまで見ていても見飽きない。だがそろそろ寝ようとしたとき。どうやら手が啓太に触れたらしい。ごそごそと身動いだかとおもうと「明日」と小さく呟く声がした。完全に寝ぼけた声だったので寝言かと思ったが、「もうひとつ」と続けてくる。それで少し興味を惹かれて「もうひとつ、どうした?」と耳元で甘く囁いてやる。
「もうひとつ、プレゼント」
「明日?」
「うん、でも……」
 どうにかこうにか「でもプレゼントなのかなぁ……」までは聞き取れたものの、あとはもうむにゃむにゃ言うばかりである。どうせ明日になればわかると聞き取る努力を放棄した中嶋は、今度こそ眠るために布団の中に身を沈ませた。そして胸まで啓太を引き上げる。啓太の健康そのものの寝息が聞こえ、やがてトラックの走行音は聞こえなくなった。

 国道を行く救急車のサイレンで目をさました中嶋は、啓太を起こさないようにそっとベッドを抜け出した。初冬といえども外はすでに明るく、見るともなく目をやった時計は7時37分を指していた。今日は休日だというだけでなく、中嶋の手で何度も何度も啼かされた啓太はまだまだ起きてこないだろう。どうやら中嶋は中途半端な時間に目覚めてしまったようだ。もう一度啓太のところに戻るか――もう一度眠るか、ではなく、あくまで啓太のところに戻る、である――このまま起きておくか。ほんの数秒考えて、中嶋はこのまま起きておく方を選択した。啓太と暮らすようになってからかなり変わったと自分でも思いはするものの、基本的に中嶋は時間貧乏性である。5分あればあれが、10分あればこれができると考えてしまうのだ。傍らに啓太がいればともかく、まだ起きてこない今の時間は何にでも使える。やることなどいくらでも思いつけた。
 こんなマンスリーマンションは外壁が建築基準ぎりぎりのぺろっぺろであるらしく、暖房を入れていない部屋はかなりひんやりしている。それでも中嶋には朝の空気が心地よかった。少し寒いくらいの方が目も覚めるというものだ。昨夜のまま残っていたワイングラスや皿などを洗って片づけているうちに、起きてすぐセットしたコーヒーメーカーから心地の良い香りが立ち上ってくる。この豆は啓太がこの近くのスーパーに入っている店で買ってきたものだ。「朝に飲むのにいい感じにブレンドして下さい」という、中嶋には思いもつかない買い方をしているらしい。だが香りも味も悪くないので興味を惹かれた中嶋が一度啓太の買い物に同行したことがあったが、そこは『専門店』とは名ばかりの日本茶もあれば急須や茶筅も扱っていて、なんと『名物』が濃厚チョコソフトというなんでもありの店だった。啓太が何を思ってこんな店でコーヒー豆をブレンドしてもらおうと思ったのか。それは中嶋には永遠の謎であるに違いない。
『謎』といえばもうひとつあった。昨夜の――といってもほんの数時間前のことだ――眠り際、啓太はこう言ったのだ。「もうひとつプレゼント」と。寝言に近いようなものでかなりむにゃむにゃしていたが、確かにそう言っていた。あれは何だったのだろうか。
 ぼんやりとそんなことを考えながら、温めたマグカップにコーヒーを注ぎ、新聞を広げてみる。政治家の家族が経営する会社の問題やら時効ぎりぎりで逮捕された殺人犯やら。この程度の記事が一面を飾るようなら日本は平和であるらしい。今は見出しをさっと見るだけにして国際面を開くと、こちらでは某国リゾートで起こったテロ未遂が紙面の大半を占めていた。いつか啓太を連れて行こうと思っていたビーチの名前が中嶋の目を惹いた。コーヒーを一口含み、じっくり本文を読もうとしたところで中嶋は、眉間にシワを寄せながら眼鏡をはずした。うまく本文が頭に入ってこないのだ。字はちゃんと見えているし単語の意味もわかるのだが、啓太のことばが気になって、何度も何度も同じ場所ばかり読んでしまっている。今までは見出しを拾っていたからわからなかったが、それなりの長さのある本文では無理だったらしい。
 それにしてもプレゼントが気になってほかのことが手につかないなど、いったいどこのお子さまなのか。こんな感覚はこどもの頃からあまり覚えがなく、どう対処すればいいものか見当さえつけられない。困った中嶋は思わず部屋の中を見回していた。
 それでなくてもごちゃごちゃするのが嫌いな中嶋である。仮住まいのマンスリーマンションにモノをそれほど置いておくはずもない。だからちょっと片付けをしていれば、わざわざ探さなくてもプレゼントなど見つけてしまうに違いない。そうだ。これは掃除だ。プレゼントを探している訳ではない。丹羽あたりが聞いたら「めんどくせー野郎だな」と呆れるだろう言い訳を自分にしながら散らかってもいない部屋を片付けた中嶋だったが、目論みがはずれたらしく、それらしいものは見つからなかった。ただ啓太が『でもプレゼントと言えるのかなあ』とも言っていたので、もしかして米やバターの類いを最高級品にしたかと思ったが、いつも中嶋が買っているものが置いてあるだけである。啓太の眠るベッド周りを除けばもう探せる場所がなく、中嶋はお手上げとなった。なるほど。焦らす作戦に出たか。そう考えた中嶋はテーブルに戻って新聞を広げなおした。向こうが焦らすつもりなら、こちらは気にもしないでおくのが一番効果的だからだ。それにしても、と中嶋は思う。この中嶋英明を焦らそうなどとよく考えついたものだ。今夜はたっぷりとお仕置きをしてやらねばなるまい。だがにやりと笑ったつもりの眼鏡の奥は、とても愛しげに緩められていた。

 さて。中嶋が今夜のお仕置きの内容を考えているとも知らずに眠りつづけた啓太は、それから2時間近く経ってから起き出してきた。かなりよろよろしてはいるものの、中嶋の手も借りずに起きて動けるあたり、啓太もずいぶん鍛えられたものである。いちいち抱いてトイレに連れて行っていた頃を考えると隔世の感があった。ただでさえ収まりの悪い髪をさらにくしゃくしゃにして、両手で持ったカフェオレカップをぼーっとした表情ですすっている姿からは、昨夜の嬌態など想像すべくもないのだが。よく男の理想などで『昼は聖女・夜は娼婦』と言われるが、啓太の場合は『昼はお子ちゃま・夜は娼婦』だ。その中でも中嶋の誕生日は特別で、昨夜など啓太を1から仕込んできた中嶋でさえ驚かせられる一面を見せてくれた。その第2ラウンドをどうするか。この様子ではすぐに朝食はとれないだろうからこのままベッドに戻るか。それとも何処かへランチにでも行くか。今『もうひとつプレゼント』を出してきたらお仕置きがてら前者となるが……。
 あれこれと考えているうちに、ついまじまじと見てしまっていたらしい。視線を感じたのかカップを持ったままの啓太が上目遣いに中嶋を見返していた。
「もうベッドには戻んないですからねっ」
 啼きすぎてかすれきった声では迫力も説得力もありはしないが、それでも中嶋相手に大した決意表明ではある。面白がった中嶋が「じゃあここでやるか」と茶化すように ―― でも半分以上本気で ―― 言ってもあとに退こうとしなかった。
「何故だ。うん? ベッドには戻らないじゃないか。だったら……」
「だめったらだめなんです!」
「そうか? ちゃちなテーブルだがお前の体重くらい大丈夫だと思うぞ?」
「だからそういうことじゃなくて、えーっと、あと……最低6時間はだめですからねっ!!」
「なるほど。つまり6時間経てばここでいいんだな」
「あ……(汗)」
「テーブルはライトの真下に移動した方がいいな。スタンドも持ってきてスポットライトにするか」
「あ、あの……。ちょっと寒くなってるし、俺としてはベッドの方がいいかなー、とか(汗)」
 今までの元気はどこへやら。真っ赤に力が入っていた啓太の顔は、今や焦りであたふたしてしまっている。リクエストとあらばすぐにでも応じるつもりのあった中嶋だったが、半分はからかっていただけである。啓太の顔に困惑の表情が混ざりはじめたのに気がついてすぐに話題を変えた。
 中嶋は自他共に認めるS系人間である。最近こそ高校時代に出入りしていたような秘密クラブにはご無沙汰だが、昨夜も録画していれば驚くほどの高値がつきそうなプレイで啓太をさんざんいたぶっている。中嶋の誕生日だからと恥ずかしさに耐えて応えようとする啓太の涙に濡れた顔は、なんと中嶋の心をそそったことだろう。なのに中嶋は今、啓太の困った顔に心が揺らいでしまったのだ。泣かせるのは好きでも困らせるのは本意ではない、といったところか。男心はいろいろ複雑なようである。
「まあそれは6時間後の楽しみに置いておいてやるが」
 露骨にほっとした啓太の顔に自身もほっとしながら中嶋は、その6時間に何をしたいのかを問いかけた。啓太は『夜まで』ではなく『6時間』と言ったのだ。この具体的な数字には何か根拠があると思うのが当然というものだ。
「えーっと。ちょっとお出かけして、ちょっとごはん食べて、ちょっとコーヒー飲む時間?」
「なんだ。意外に普通だったな」
「普通のことでも今日は緊張したり、いろいろ大変なんですぅ」
 啓太のことばを昨夜の影響と受け取った中嶋は「早く慣れることだな」と返したが、コーヒーのおかわりを取りに席を立ってしまっていたので、啓太の目が驚いたように見開かれたのに気づかなかった。

 のろのろとしか動けなかった啓太がようやく出かけるための着替えをはじめたのは、新聞に載っていた数独とクロスワードパズルを解き、原語で放送しているアメリカの弁護士ドラマを中嶋と見終わってからのことだった。やれやれやっとかとばかりにクルマのキィに手を延ばしかけた中嶋は、啓太の「あっ!! だめっ!!」という声に阻まれた。
「中嶋さんはここで待っててくださいっ!」
 待てと言うなら待つが、キィをポケットに入れるくらいかまわないはずだ。だが振り向いて見た啓太は、どんな反論も受け付けないぞとばかりに手をグーに握りしめていた。
「ちょっと出てきますから、出かけるのはそのあとなんです!」
「出かけるついでにそこに寄るのはだめなんだな?」
「もちろんですっ!!」
 啓太はときどき驚くほどがんこになり、そしてことばをはしょる癖がある。それではわからないと何度も言ったがどうも改まらない。今日はそれがダブルで出たようで、結局中嶋は訳のわからないまま30分ほど待たされる羽目になった。同じような状況でも昨夜はレジさえ見なければ良かったのに、今は何が違うというのだろう?
 だが待った甲斐らしきものはあったようだ。電話をもらって外へ出た中嶋を迎えたのは、初心者マークをつけたコンパクトカーから降りてくる啓太の姿だった。

「えへへ〜。驚かせようと思ってこっそり教習所に通ってたんです」
 いつの間に。問いかけというよりは思わず漏らしてしまった中嶋のことばに、啓太は堰を切ったように話しはじめた。もともとが隠し事のできない性格である。その啓太が免許を取るまで中嶋に気づきもさせなかったのだ。言いたかったこと、話したかったことが山のようにたまっていたのに違いなかった。
「どうしても中嶋さんのお誕生日に間に合わせたかったから、教習所で相談して入校日を決めたんです。余裕たっぷりだったはずなのに、いろいろ予定も狂って来ちゃって。最後は結構タイトになっちゃったりもして焦ったんですけど、学校もサボらずに何とか行けちゃいました」
「まだ慣れてないから中嶋さんのクルマ運転してぶつけたらだめでしょ? だからレンタカー借りて来たんです。6時間パックですから、ちょっと遠いくらいなら行けますよ」
「ホントは教習所で乗ってたクラウンのコンフォートにしたかったんです。慣れてるから。だけど料金高いし、中嶋さん乗せるにはちょっとダサい? 気がして。そしたら成瀬さんがコンパクトカー乗ってるの思い出して。成瀬さんって和希と一緒のときは和希のクルマなんだけど、自分のは国産のコンパクトカーなんです。ちっちゃいけど成瀬さんが乗るとおしゃれなんですよね〜」
 生活費用の啓太の口座を作ったとき、足りなくなっても出してやらないが残った分は好きにすればいいと言った。今は啓太の独り暮らしみたいなものなので中嶋がいるときほどの出費はないかもしれない。だが1人と2人でそれほど大きく変わる訳でもない。高校生だった啓太が夏休みに中嶋の元で暮らしたとき、『1人増えたんだな』と実感したのはトイレットペーパーの減りかたの早さくらいのものだった。今は中嶋が別に暮らしているが、生活費は食費でわずかにマイナスになった程度だろう。中嶋のもとを訪れるための交通費にしたってまとまれば馬鹿にならない。それでよく教習所の費用が捻出できたものだと思う。一言いえば教習費用くらい出してくれる人間は周りに何人かいるが、それを頼る啓太ではない。
 いや。『捻出』というなら時間の捻出の方が大変だったはずだ。中嶋と過ごすために週末を利用することはできない。平日は授業にバイト。友人との付き合いだってあったはずだ。友人を大切にする啓太が誘いのすべてを断れるとも思わなかった。
「よくがんばったな。おまえに運転は無理だと思っていた」
啓太はうれしそうに「えへへ」と笑い、信じられないほどの衝撃とともに赤信号で停止したあとで中嶋に向かってこう言った。
「これで、食事に行っても中嶋さんにお酒を我慢してもらわなくてもよくなりますよね。帰りは俺が運転しますから、これからは好きなだけお酒を飲んでくださいね」
「俺が?」
「だって……。ずっと気になってたんです。せっかくフランス料理とか食べに行っても、俺とふたりだといつも一緒にミネラルウォーター飲んでるじゃないですか。俺が免許さえ持ってたら、こんなときに我慢なんてせずにワインが飲めるのに、って」
 それは別に啓太とふたりのときばかりではない。丹羽や篠宮と一緒のときでも同じことだ。
 だが。と中嶋は思う。啓太の言っているのは、きっとそんなことではないのだろう。それが何なのかは正直なところ中嶋にはよくわからないけれども。ただ啓太が自分のためを思って免許を取りに行ったことだけがわかれば、それだけで十分だった。
「出張のときなんか、俺が空港まで送って行ってあげますから安心してください」
「そうだな」
「中嶋さんが忘れ物をした時でも俺が届けてあげられますね」
「それはないな」
 急停車したり急発進したり。寿命が縮むような車線変更をしたりはしていたが、概ねスムーズにクルマは走っていく。先刻啓太が「今日はいろいろ緊張する」と言っていたのはこのドライブのことだったのだろう。あきれるほど肩に力が入り、ハンドルを握った手は白くなっている。制限速度ぎりぎりの走り方では紅葉の見られるところまでまだ行けていないが、フロントガラスの向こうはどこまでも青い空が続いている。
 赤信号でブレーキを踏んだ啓太の髪を、中嶋がひとつくしゃりと撫でた。
 





いずみんから一言。

このあと中嶋氏はけいたんに、夜や高速道路での運転を禁止してしまいました。
どうやらこの日のドライブがよほど怖かったようです(笑)。
時間軸をいい加減にしたまま書き始めてしまったら、入れられるところが1か所
しかなく、前後との整合性をとるのに時間がかかってしまいました。
レンタカーが若葉マークにも貸してくれるのかはわかりません。
まあ、貸してくれたということにしておいてください(汗)。


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